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第7話 アルコールなどなくとも人間は酔える
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猫みたいだと。
それは、ごくごくありふれた週末の、ライヴ後の食事を済ませた後だった。
五月の半ば。
俺はライヴ前に拉致されると、そのまま食事にまでひきずられて行くことが多かった。
だから、その日も、ごくありふれたそんな日だと思っていたのだ。
だいたい彼らがよく行っていた店は、11時には閉まる。
彼らは「閉店を告げられるまでは居る!」をポリシーにしているのだが、たまたまその日は「いつもの店」が休みだった。
そこで近くの別の店へ行ったのだが、やはり勝手が違う。そこが深夜二時までやっているということに誰も全く気付かなかったのだ。
そしてまず、最初に時計を見て騒いだのはヴォーカルの能勢《ノセ》さんだった。あの妙に存在感のあるいい声で叫んだ。
「おおっ! やばいみんな、もうこんな時間だ!」
おっ、と慌てて他の者も、ポケットに入れた時計(ステージに上がる際には時計は外しておくらしい)を取り出してみて、ヴォーカリストと似たかよったかの悲鳴を上げた。
「終電…… 行っちゃったな」
と奈島《ナシマ》さんは力無い目で俺の方を見た。ふう、と俺も肩で息を大きくついた。
どうしたものやら。何やらずいぶん眠いなと思ったら身体は正直だ。やっぱり遅かったのか。
「じゃ、俺のとこ来る?」
穏やかな声の方を向くと、視線の向こうには、煙草に火を点けかけたトモさんが居た。
俺は即座にうなづいていた。
実際、終電を逃すと始発まで行き場所はなかったので、困っていたのだ。
*
初めて訪れた彼の部屋は、決して広くはなかったが、かと言って、とんでもなく狭くもなかった。彼の態度や物腰同様、そこは実に穏やかで、落ち着いた空間だった。
不自然でない程度に、同じ系統の色でまとめられている。清潔感はあるが、何処もかしこも整っているという訳でもない。雑誌なんかが所々に置かれて、時にはページが広げっぱなしになっているものもあった。
適当に座って、と言われたので、俺は部屋の真ん中に置かれた黒いテーブルの近くにあった、大きなマーブルのクッションにもたれた。それは下手すると、子供の布団じゃあないか、と思えてしまうくらいの大きさだった。
「何ですかこりゃ」
上半身を埋めつつも、さすがにあきれて俺は彼に訊ねた。
「あ、これ? 友達が誕生日にくれたんだよ」
「誕生日に?」
「そう。学生の頃さ、友達と、お互いの誕生日にはどれだけ相手を驚かせることができるか、ってことをしてて」
「驚いたんですか?」
「まあ一応。だってなマキノ、学校から帰ってきたら、いきなり母親があんた一体何これ、だよ? 何だと思ったら」
「はあ…… ちなみにその時トモさんはその人に何あげたんですか?」
「ん? 高校の卒業旅行の時にアエロフロートからパクってきた食器セット」
何ですかそれは、と俺は乾いた笑いを立てた。
その大きなマーブルのクッションに身体を預けながら、俺は何となしに、出しっぱなしになっていた大きなグラフ誌を手にした。
すると不思議とそれが、俺が知りたがっていた情報がよく載っているものだったりする。偶然と言えば偶然なのだが、何となくその偶然が妙に嬉しかった。
「何か面白い記事でも載ってる?」
彼は片手にコーヒーのポット、片手にカップを二つ持って、隣にあるそう大きくもないキッチンから戻ってきた。うん、と俺はうなづいた。
「あまりこういう雑誌って見たことがなかったから」
「そう?」
「うん。俺の住んでたとこって田舎だから」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。だってトモさん、ずっと東京でしょ?」
まあね、と彼はうなづいた。
「田舎って損だよ。そこにいるだけでペナルティあるって思うもん」
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも田舎はのんびりしていいと思うけどな」
ぶんぶん、と俺は手を振る。
「田舎には田舎のせせこましさってのあるよ。だってさ、俺ピアノやってたでしょ? そうすると、俺がどういうレッスンやって、どういうコンクールにどういうふうに行って、どういう結果だったか、っての、結構一日で町中広がっちゃうんだよ」
「へえ? ピアノ」
「あ、俺言わなかったっけ?」
「初耳」
「やってたんだ。今もやってるよ。一応音大志望だもん。……でね、だけどさ、そういう噂広がるんだけど、結局、俺が誰の何の曲弾いたか、なんて誰も知らないんだから。片手落ちだよね」
「なるほどね。今度聴かせてくれよ」
うん、と俺は即座にうなづいた。
初夏の夜は、何故かそれから眠くならなかった。
それまでは確かに眠かったのだ。ところが、俺の中の何かがマヒしてしまったのだろうか? この部屋に入ってから、全然眠くなくなってしまったのだ。
週末という安心感もあったのだろう。俺と彼は、とりとめの無い話をそれからも延々としていた。
それでも三時を越える頃には、俺も頭の中が次第に朦朧としてきていた。
眠いとは決して思っていないのに、だ。妙に陽気になる。そして口の方も。勝手にべらべら回る。深く考えずに言葉を出してしまうものらしい。
「……そう言えば、あん時って、すごく偶然だったですよねー」
「あん時?」
眠気は起こらなかった。起こっていると考えられなかった。コーヒーのせいかな、とも思った。眠くはないのだ。
だが、思考はおかしくなってくる。考えがとりとめなくなり、あっちこっちへと飛び始める。
「俺がトモさん達と、ベルファストの皆さんと初めて会ったとき。もしあん時、ちょうどベルファストさん達が出てこなかったら、俺どーなってたかわかんないし」
「ベルファストじゃなくて」
トモさんは全く平気なようだった。さすがに大人はこういう夜に慣れているんだか。だけど俺は基本的に昼型のただの高校生なのだ。それもど田舎出身の。
「はいはいベルファーストでしょ? あん時も言われましたもん、よく知ってますよ」
「マキノ…… お前酔ってない?」
「酔ってませんよ。だってトモさんは俺に飲ませないじゃないですか。どーして俺酔えるんですか」
そして俺は彼に詰め寄った。それは半分嘘である。言っておくが、アルコールなどなくとも人間は酔えるのだ。状況というものに。
頭の表面だけが妙にかりかりとせわしなく動いているような感触があった。半ば座った目で、俺は彼に近付くと、平然としている穏やかな顔を上目づかいに見据えた。
「だから、あん時俺が無事だったのは、ベルファストのおかげでトモさんのおかげなんですからあ」
「ベルファストじゃなくて」
「どっちだっていーですよ」
どうしてそう言っているのか、俺は自分でもよく判らなくなっていた。
「確かにあの時通りかからなかったら、大変だったね」
「そーですよ。俺絶対にこまされてたもん」
「……」
さすがに彼は言葉を失った。そして逆に俺は言葉を飛ばす。
「本当ですって。だってあの連中言ってたもの。聞こえたもん。野郎でも綺麗さんだからいいって。ねえトモさん、俺綺麗さんですかねえ」
「綺麗だと思うよ」
「本当に?」
「うん。猫みたいで、可愛い」
「じゃあトモさんも、俺をそぉしたいと思う?」
俺は手を伸ばした。彼の顔を下からのぞきこむ。視線が絡む。
「おい」
何を言っているのか俺はよく判らなかった。そして自分が何をしたがっているのか、何をさせたがっているのか。理性の俺はもうすっかり眠っていた。
そして俺は知っていた。理性が眠っている時に勝手に出る言葉は。
「好きなんです」
どうしてそんなことを言ってしまったのか、さっぱり判らないのだけど。
「嫌いですか?」
距離という奴は。
そして成り行きという奴は。
ものごとは、紙一重なのだ。
それは、ごくごくありふれた週末の、ライヴ後の食事を済ませた後だった。
五月の半ば。
俺はライヴ前に拉致されると、そのまま食事にまでひきずられて行くことが多かった。
だから、その日も、ごくありふれたそんな日だと思っていたのだ。
だいたい彼らがよく行っていた店は、11時には閉まる。
彼らは「閉店を告げられるまでは居る!」をポリシーにしているのだが、たまたまその日は「いつもの店」が休みだった。
そこで近くの別の店へ行ったのだが、やはり勝手が違う。そこが深夜二時までやっているということに誰も全く気付かなかったのだ。
そしてまず、最初に時計を見て騒いだのはヴォーカルの能勢《ノセ》さんだった。あの妙に存在感のあるいい声で叫んだ。
「おおっ! やばいみんな、もうこんな時間だ!」
おっ、と慌てて他の者も、ポケットに入れた時計(ステージに上がる際には時計は外しておくらしい)を取り出してみて、ヴォーカリストと似たかよったかの悲鳴を上げた。
「終電…… 行っちゃったな」
と奈島《ナシマ》さんは力無い目で俺の方を見た。ふう、と俺も肩で息を大きくついた。
どうしたものやら。何やらずいぶん眠いなと思ったら身体は正直だ。やっぱり遅かったのか。
「じゃ、俺のとこ来る?」
穏やかな声の方を向くと、視線の向こうには、煙草に火を点けかけたトモさんが居た。
俺は即座にうなづいていた。
実際、終電を逃すと始発まで行き場所はなかったので、困っていたのだ。
*
初めて訪れた彼の部屋は、決して広くはなかったが、かと言って、とんでもなく狭くもなかった。彼の態度や物腰同様、そこは実に穏やかで、落ち着いた空間だった。
不自然でない程度に、同じ系統の色でまとめられている。清潔感はあるが、何処もかしこも整っているという訳でもない。雑誌なんかが所々に置かれて、時にはページが広げっぱなしになっているものもあった。
適当に座って、と言われたので、俺は部屋の真ん中に置かれた黒いテーブルの近くにあった、大きなマーブルのクッションにもたれた。それは下手すると、子供の布団じゃあないか、と思えてしまうくらいの大きさだった。
「何ですかこりゃ」
上半身を埋めつつも、さすがにあきれて俺は彼に訊ねた。
「あ、これ? 友達が誕生日にくれたんだよ」
「誕生日に?」
「そう。学生の頃さ、友達と、お互いの誕生日にはどれだけ相手を驚かせることができるか、ってことをしてて」
「驚いたんですか?」
「まあ一応。だってなマキノ、学校から帰ってきたら、いきなり母親があんた一体何これ、だよ? 何だと思ったら」
「はあ…… ちなみにその時トモさんはその人に何あげたんですか?」
「ん? 高校の卒業旅行の時にアエロフロートからパクってきた食器セット」
何ですかそれは、と俺は乾いた笑いを立てた。
その大きなマーブルのクッションに身体を預けながら、俺は何となしに、出しっぱなしになっていた大きなグラフ誌を手にした。
すると不思議とそれが、俺が知りたがっていた情報がよく載っているものだったりする。偶然と言えば偶然なのだが、何となくその偶然が妙に嬉しかった。
「何か面白い記事でも載ってる?」
彼は片手にコーヒーのポット、片手にカップを二つ持って、隣にあるそう大きくもないキッチンから戻ってきた。うん、と俺はうなづいた。
「あまりこういう雑誌って見たことがなかったから」
「そう?」
「うん。俺の住んでたとこって田舎だから」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。だってトモさん、ずっと東京でしょ?」
まあね、と彼はうなづいた。
「田舎って損だよ。そこにいるだけでペナルティあるって思うもん」
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも田舎はのんびりしていいと思うけどな」
ぶんぶん、と俺は手を振る。
「田舎には田舎のせせこましさってのあるよ。だってさ、俺ピアノやってたでしょ? そうすると、俺がどういうレッスンやって、どういうコンクールにどういうふうに行って、どういう結果だったか、っての、結構一日で町中広がっちゃうんだよ」
「へえ? ピアノ」
「あ、俺言わなかったっけ?」
「初耳」
「やってたんだ。今もやってるよ。一応音大志望だもん。……でね、だけどさ、そういう噂広がるんだけど、結局、俺が誰の何の曲弾いたか、なんて誰も知らないんだから。片手落ちだよね」
「なるほどね。今度聴かせてくれよ」
うん、と俺は即座にうなづいた。
初夏の夜は、何故かそれから眠くならなかった。
それまでは確かに眠かったのだ。ところが、俺の中の何かがマヒしてしまったのだろうか? この部屋に入ってから、全然眠くなくなってしまったのだ。
週末という安心感もあったのだろう。俺と彼は、とりとめの無い話をそれからも延々としていた。
それでも三時を越える頃には、俺も頭の中が次第に朦朧としてきていた。
眠いとは決して思っていないのに、だ。妙に陽気になる。そして口の方も。勝手にべらべら回る。深く考えずに言葉を出してしまうものらしい。
「……そう言えば、あん時って、すごく偶然だったですよねー」
「あん時?」
眠気は起こらなかった。起こっていると考えられなかった。コーヒーのせいかな、とも思った。眠くはないのだ。
だが、思考はおかしくなってくる。考えがとりとめなくなり、あっちこっちへと飛び始める。
「俺がトモさん達と、ベルファストの皆さんと初めて会ったとき。もしあん時、ちょうどベルファストさん達が出てこなかったら、俺どーなってたかわかんないし」
「ベルファストじゃなくて」
トモさんは全く平気なようだった。さすがに大人はこういう夜に慣れているんだか。だけど俺は基本的に昼型のただの高校生なのだ。それもど田舎出身の。
「はいはいベルファーストでしょ? あん時も言われましたもん、よく知ってますよ」
「マキノ…… お前酔ってない?」
「酔ってませんよ。だってトモさんは俺に飲ませないじゃないですか。どーして俺酔えるんですか」
そして俺は彼に詰め寄った。それは半分嘘である。言っておくが、アルコールなどなくとも人間は酔えるのだ。状況というものに。
頭の表面だけが妙にかりかりとせわしなく動いているような感触があった。半ば座った目で、俺は彼に近付くと、平然としている穏やかな顔を上目づかいに見据えた。
「だから、あん時俺が無事だったのは、ベルファストのおかげでトモさんのおかげなんですからあ」
「ベルファストじゃなくて」
「どっちだっていーですよ」
どうしてそう言っているのか、俺は自分でもよく判らなくなっていた。
「確かにあの時通りかからなかったら、大変だったね」
「そーですよ。俺絶対にこまされてたもん」
「……」
さすがに彼は言葉を失った。そして逆に俺は言葉を飛ばす。
「本当ですって。だってあの連中言ってたもの。聞こえたもん。野郎でも綺麗さんだからいいって。ねえトモさん、俺綺麗さんですかねえ」
「綺麗だと思うよ」
「本当に?」
「うん。猫みたいで、可愛い」
「じゃあトモさんも、俺をそぉしたいと思う?」
俺は手を伸ばした。彼の顔を下からのぞきこむ。視線が絡む。
「おい」
何を言っているのか俺はよく判らなかった。そして自分が何をしたがっているのか、何をさせたがっているのか。理性の俺はもうすっかり眠っていた。
そして俺は知っていた。理性が眠っている時に勝手に出る言葉は。
「好きなんです」
どうしてそんなことを言ってしまったのか、さっぱり判らないのだけど。
「嫌いですか?」
距離という奴は。
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