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24.長保三年、秋。

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 白い紙があれば、それだけで幸せ――
 そう思っていた時期もあった。
 今はそれだけではない、と梛は知っている。
 それでも目も覚める様な白い紙があれば、それなりに気は晴れる。
 そこへ一文字一文字、梛は丁寧に文章を綴って行く。今までに書いた「歌枕の種」。数多の過去の物事の書き付けを。
 同じ内容のものをそれぞれ山にして積み上げる。山の一つを再び広げて頭の中でまとめる。
 まとめた文章を反古に書き付け。
 その反古を見ながら、間違えない様に、一文字一文字。
 作業をしているうちは、一心不乱、全ての意識をそこに集中させておける。嫌なことは忘れてしまう。
 あの輝かしい日々。中関白家の人々と共に笑いさざめいた瞬間の風景。
 決して戻らないからこそ、美しいあの日々。帰らないあの日々。
 長保三年、秋。父が遺してくれた家で、梛は一人、日々をそうやって過ごしている。
 先の年の末、皇后定子が三人目の御産によって亡くなった。
 中関白家の人々の嘆きは限りなかった。ずっと仕えてきた人々もまた然り。
 この時生まれた女二宮―― 媄子内親王は東三条院詮子の元に引き取られた。
 一宮と女一宮は妹の御匣殿がしばらくは世話をしていた。その内、一宮・敦康親王は秋の初めから、中宮彰子を母代としていた。
 そう、道長の大姫である彰子が一昨年の冬、とうとう入内したのだ。父親が贅を尽くして用意した局は現在「輝く藤壺」と呼ばれている。
 彼女自身の気持ちはどうあれ、彰子は「后」中宮の位についた。そして元々居た中宮である定子は「皇后」と称されることとなった。一人の帝に二人の后、というこれまでにない状況が発生したのである。
 彼女は一条帝にとって、新鮮な存在だった。それまでの年上の妻とは違う少女。そして道長の血を濃く引くせいだろうか、一見おっとりしているが、内面強情なものを持つ性格。定子とは違う意味で彼は新しい后を受け入れたのだ。
 梛自身は定子の葬儀が済み次第、中関白家から身を退いた。
 それ以来、宮中で起こることに関しては仲の良い源経房や藤原行成からの文で知る程度である。
 彼等は基本的に道長側の人間ではあるのだが、梛の個人的な友人だった。彼女が居なくなって淋しい、できれば帰ってきて欲しい等と多少の恨み言を連ねつつも、様々な内情を伝えてくれる。梛にとってはありがたい相手だった。



 この年、辛いのは梛ばかりではなかった。
 梛の長い文通相手である、香にとってもこの年は最悪だったと言えよう。春夏と流行した疫病によって、彼女の夫である藤原宣孝がこの世から連れ去られてしまったのだ。
 幸い、一昨年生まれた一人娘には大事なかった様だが、香自身の独自な憔悴ぶりは女房同士のつながりから伝わって来る。
 梛の乳母子の松野は何とも言えない表情で話してくる。

「向こうの野依さんはもう、本当に香さまの頭がどうかしてしまったかと思ったそうです」

 香自身からの文はそんな時には来ないので、女房間の情報が頼りだった。文章のまとめや清書に一息入れる時に彼女は白湯や水菓子を差し入れながら伝えてくれる。
 白湯を口にしながら、梛は問いかける。
「どうかしたってどうしたの?」
「書き物をなさる方ってのは皆あんなものですかね」
「だからどうしたって言うのよ、松野。じらさないで」
「梛さまは、それでもこうやって時々休憩なさるでしょう?」
 それはそうだ、と梛は思い、うなづく。休息の一つも入れないことには集中する作業は続かない。
「ですが香さまの場合、野依さんがいつその合いの手を入れていいのか判らない位なのですって」
「もう少し具体的に言ってちょうだい」
 どう言ったものだか、と松野は少し考える。
「梛さまは勿論ご存じの通り、最近では香さまは都中で評判の物語の作り手です」
 そうよね、と梛は思い起こす。



 香は結婚した年、とうとう「光君」の背景となる話―― 「うつほ」の「俊陰」に当たるものを書き上げた。
 彼を生んだ父母の恋愛と死、少年時代や、憧れの人などを美しく、事細かに描いた物語「桐壺」である。
 これが一番最初の話だ、と香はまとめた草子につけた文に書いてよこした。ここから長い長い光君の物語が始まるのだ、と。
 梛はその作品を読んで驚いた。正直、これ程彼女が完成度の高い話を書き上げるとは想像していなかったのだ。
 無論それまで習作は読んだことがある。だがそれとはまるで違う出来なのだ。
 光君の母、桐壺の更衣の身分が少し低い故の悲しい顛末。祖母の嘆き。彼の置かれている政治的位置。
 そして「光君」の憧れである「輝く日の宮」藤壺の女御。母に良く似ていると父帝に常々言われ、元服するまでは御簾の中に入ることも許され、その姿を目の当たりにしてきた女性。
 彼は左大臣の娘、非の打ち所の無い姫君を妻としながらも、藤壺の女御のことが忘れられない……
 最初に梛がこの話を読み終わった時、まず思ったのは「続き! 続きはどうなるの!」だった。叫び出さなかっただけ上等だったかもしれない。
 慌てて松野を呼び、片手に草子、空いた手で彼女の肩を揺さぶって「これこれこれ、読んでみなさいよ!」とやって驚かせた。
 「何ですか一体」と当初は渋っていた松野だが、文字を目で追っているうちに、祖母君の切々と命婦に訴える場面ではぽろぽろと涙をこぼしていた。
 滴が草子に落ちそうになったので梛は慌ててそれを松野自身の袖で拭った。ここで文字をにじませたら大変だった。
 その後二人で慌てて筆写し、物語「桐壺」を物語好きの仲間に回覧した。
 その反響たるものや。

「梛さま、誰ですかこの物語を書いたのは!」
「切ないお話ですわ、しかも深いですわ!」
「ご存じの方なんでしょ? 続きを、とぜひお促し下さい!」

 ちなみに梛は作者の正体を仲間内には話してなかった。
 香は仲間内には決して評判が良くない。下手な先入観を持たれても困る。作品そのものをまず見て欲しかったのだ。
 回覧され、最終的に梛の元に戻ってきた時には多数の感想と次作への期待の文が付けられていた。松野を通してそれらは香の元へ届けられ、翌日にはまた、野依を通して喜び満載の長い文がやってきた。既に続きに取りかかっている、という意味のことが、浮かれきった調子で書かれている。
 そしてその続きがしばらくしたらやってきた。無論文つきだった。

「ここ一月ほど夫から『顔がおかしい』と言われ続けてきました。ずっと顔がほころびっぱなしです。
 梛さま本当に皆様からのご感想ありがとうございました。凄く嬉しいです。こんなに嬉しかったこと、生まれて初めてじゃないでしょうか。
 もっとも夫にそう言ったら、自分と結婚したことはそうじゃないのか、と言われましたけど。無論彼はそれとこれとは違うことくらいは判ってくれているのですけどね」

 そんな幸せ満載の文と共に来た新作は。

「今度の話は『輝く日の宮』という題名をつけました。
 この間の『桐壺』が短い名前で、少し物足りないかな、と思ったのです。
 その辺りに関してはどなたも格別ご意見おっしゃって下さる様子も無いので、次は梛さま、その辺りのことも皆様にお訊ね下さいませんでしょうか」
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