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109.永遠に眠るだろう自分のために花を投げていたのだ。

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 ―――そこが何処であるか、彼は一瞬判らなかった。
 見覚えがある、とはいまいち言い難い。何しろ自分が本当に「見て」いるのかさえおぼつかなくなるような感覚が朱明にはあったのだ。
 そこは、明るかった。そして、白かった。
 何が、白いのだろう、と彼は思った。そして、その中に居る自分の黒さが無性に目立つような気がした。
 ふと足を持ち上げると、何かが黒い靴の上からぽろぽろと落ちた。何だったろう?彼はそれに見覚えがあった。

 ……見覚えは、ある!

 彼は思わずその白いぽろぽろとしたものを手に取った。
 それは小さな、白い花だった。
 ああそうだ。彼は思い出す。これは、あの頃、よく見た……昼の夢だ。
 だとしたら。
 花を蹴散らす趣味はない。だが、花が何をしてくれるというのだろう?
 彼は自分の影も見えない、ただただ白い空間を、花を踏みしめて歩いていく。

 どれだけの花が、一体ここには敷き詰められているのだろう?

 彼はふと思う。
 
 HALはどれだけの花を投げていたのだろう?

 今となっては朱明にも判る。
 彼は、ここに花を投げていたのだ。
 そこで永遠に眠るだろう自分のために。それはさぞ綺麗な光景だろうな、と朱明は思う。だが、だからと言って、それを傍観できる訳ではないのだ。
 そしてその綺麗な光景が、目に入る。
 花に埋もれて、HALが眠っている。
 「起こさないで」と歌ったのはいつのことだったろう?
 全てのことから遠く離れて、甘やかな眠りの中に閉じこもってしまいたいと歌ったのは。
 朱明はその光景を、見おろす。
 身体全体を力無く投げだし、白い花に埋もれている。
 だが朱明はそれを軽く蹴った。その足先からも、小さな花がぽろぽろと落ちる。

「……起きろよ」

 さすがにそれだけでは何の反応もない。朱明はかがみ込み、花の中から彼の身体を引きずり出した。そして力いっぱい揺さぶり、叫ぶ。

「おいHAL! 目を覚ませよ!」

 それは、あの時も叫んだ言葉だった。公会堂の、ステージの上、何もできなかった自分が、動かなくなった彼の身体を抱えて叫んだ言葉だった。
 だが今度は違う。ここが何処であるのか朱明も予想がついていた。勢いよく手を振り上げて、一番大切なはずの相手の顔を二回三回と叩く。
 そしてようやくうっすらと目を開けた。

「……何で、お前、ここに居るの?」
「連れ戻しに来た」
「連れ戻し? 何か凄い馬鹿なこと言ってるじゃない」

 この後に及んでも、減らず口は直らないらしい。

「無駄だよ。ここまで来て。お前こそ早く帰りな……」
「嫌だ」
「朱明!」
「俺はな、同じ間違いを二度するのはもの凄く嫌いなんだ」

 ぐい、と引き寄せる。花が、全身からぽろぽろと落ちる。

「……だけど駄目だ。今回だけは、もう、お前が何言おうと、どうしようと、駄目なんだ」
「何でそう思う?」
「この身体自体が声の封印になっているんだ。だからもう、俺の身体はもとの空間に戻れないんだ。戻ろうと思っても……」

 ああ何を言ってるんだこの屁理屈野郎は。朱明は苛立つ自分を感じる。俺はそんな戻れない理由をくどくど聞きたいんじゃねえんだ!

「だったら身体なんか置いていけ」

 どすの効いた声で、朱明は言い放った。

「そんな無茶な……」
「俺は今から戻る。どうやって戻ったらいいかなんて俺は知らん! だけど俺は戻る。戻らなくちゃならねえんだ!」

 そう言って彼はHALをかつぎ上げた。

「無理だ!」
「本当に無理なのか、試してみなきゃ判んねえだろうが!」

 そしてそのまま走り出した。

 どのくらいそうしていたのか、彼には判らなかった。

 ああそうだろうな。

 朱明は時間が存在しないんだ、と以前聞いたことを思い出す。
 花は枯れない。人は歳を取らない。それも悪くないだろう。だけどそこに、誰もいなかったら。

 俺はそんなところにはいたくない。

 足元がすっと抜ける、気がした。

 落ちていく。

 何処へ?
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