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87.十年前の七月二十三日⑤
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むき出しの腕にぷつぷつと鳥肌が立っているのを朱明は感じた。
何だ?
特に頭の方は鳥肌が立つようなことは感じとっていない。だが朱明は自分の動物的勘という奴を重要視していた。先ほど開いて、自分が閉めた扉を再び開ける。
部屋の中には椅子がまだ転がっていた。
「……あれ、朱明? どうしたの?」
「どうしたのってお前……」
やだね椅子が壊れるじゃないか、と言いながらHALはのんきそうに答えている。
朱明は何か言おう、と思う。だが、何を言えばいいというのだろう?明らかにおかしい。どうしたのも何もない。今さっき自分に布由を逃がしてと叫んだのはHAL自身のはずなのに。
「……いや、何でもねえ。もう少ししたら、全体リハだから……」
「ああそう、判った」
HALの顔をした「都市」はにっこりと笑った。見事な程に。
*
「それで…… あんたは都市にのっとられたというの?」
安岐は訊ねる。
「結局は俺の方がのっとりかえした、というか」
「何ですかそれは」
*
暗転。
ライヴの始まることを告げる派手派手で「彼らにしては」悪趣味な音楽が流れる。
派手派手と言っても、昔なつかし「レビュー」的なもので、それを判ってパロディ的に使っている限り、本当の悪趣味には聞こえない。
歓声が大きくなる。
四人は行くよ、と互いにパシ、と音がする位に手を合わせる。
それぞれがそれぞれの好きなステージ衣装を着ていて、知らない人が一人づつ見たら、決して同じバンドのメンバー同士には見ないだろう。
汗止めと髪止めを兼ねた黒のターバンをハチマキのようにぎゅっと締めながら朱明はHALをちら、と見る。
あの後のHALは実に平静だった。本当に何ごともなかったかのようだった。
と、いきなりHALがあたりをきょろきょろとした。そして朱明の姿を認めると、ぎゅっといきなり近づき、その腕を掴んだ。
「……何だよ」
「何で、今、ここに俺、居るの」
「え?」
朱明は耳を疑った。それは、それまで普通に話していた相手のいう台詞ではない。
「ステージの袖? ……ああそうか。あいつは歌を知らないから……」
「おいHAL!」
「……朱明ごめん、俺、今から何が起きるか想像ができない……」
西のイントネーションだった。
掴む手の力が強い。何かを必死でこらえているように伝わる。
「何が起こるかなんて俺だって知らんさ」
ぽん、と背を叩く。
「そういう意味じゃなくて……」
HALは朱明の肩をもう一度掴み、何か言いたげな目で見上げる。
心臓がどくん、と大きく鳴るのを朱明は感じていたが、タイミングが悪かった。何と言ってももうそれは開演前なのだ。
行って下さい、とスタッフの声がする。朱明は元気づける意味で、彼の背を押した。
動き回るステージの光が、一瞬彼の表情を朱明に見せた。
朱明はこんどこそ心臓が止まるかと思った。それは泣き顔に近かった。
だが自分の役目は役目、と彼はドラム台に上がる。朱明は自分が、ドラマーということを重視していた。
そして次の瞬間。光が一斉に開いた。
歓声が頂点に達する。朱明はオープンのハイハットを勢いよく叩く。ステージ前の特効の花火が一斉に上がる。
明るいギターの音が跳ねる。裏メロディを奏でるベースが動き回る。
そして声が、入る。
何だ、大丈夫じゃないか。朱明は軽やかな足どりで跳ね回りながら歌うHALの背中を見ながら思う。
先程のことは気にはなる。だけど、それは全てライヴが終わってからでいいんだよな。
朱明はドラムを叩き続ける。一曲目、明るい曲…… 二曲目、ややハードな、変わったメロディの……
三曲一気に通したところで、一息ついたHALがマイクを取る。
「……」
朱明は自分に彼の声が返ってくる筈の、モニターを思わず振り返る。正面には、やや横向きの彼の顔が見える。唇が動いている。だが声が届かない。
やがてHAL自身、それに気付いたらしく、唇を噛みしめている。観客もざわざわとしている。声が届いていない。
大きく深呼吸すると、HALは苦しそうな顔で、曲のタイトルを告げた。
そしてそれは、はっきりと、朱明の耳にも届いた。ややスローなナンバーだった。
HALにかなり近い所にいた藍地には、それでもHALの肉声は届いた。そして彼もまた、耳を疑ったのだ。
HALはこう言ったのだ。
「皆さん、逃げて下さい」
そしてもちろん、HALが懸念した通り、その言葉はHAL自身と藍地以外の誰にも聞こえていなかった。
歪んだギターの音色から始まる曲は切ないメロディが散りばめられていた。音楽が始まってしまえば、アーティストはその中から出られない。
殆ど動かずにHALはスタンドマイクに歌いかける。きらきらしたクリーントーンのギターの音がそこに絡まる。
サビのメロディが。朱明は一瞬あの鳥肌を呼び起こしたものが通り過ぎるのを感じた。二回目のBメロから、再びサビへ。
……行かないで……
あ?
むき出しの両腕が次第にぷつぷつと泡だってくる。
通り抜ける。あれは。
朱明は、手は動かしながらも身体が勝手に感じとっている変化に注意を向ける。
……行かないで…… 一人にしないで……
絶叫のような彼の声。
シンバルがその時一斉に鳴り響いた。 そこにあった全部の楽器が、一斉に、勝手に音を立てていた。
朱明はスティックを持ったままその場に硬直していた。
自分の周りの全てのシンバルが、スネアが、タムがティンパニが銅鑼が勝手に。
藍地は自分のスペアの楽器が勝手に振動しているのを見た。
決して同じ音ではないけれど、似た低音が、一斉に、ワイヤレスのスイッチを入れてもないのに、アンプとつながっていないのにスピーカーから音を出していた。
わあああ、と叫んで慌ててヘッドフォンを外す、耳を塞ぐスタッフ。
触れもしないのに、全てのスピーカーの音量は勝手に最大になった。
―――そして、地面が揺れた。
*
カーステレオが、何やらぶつぶつとつぶやいている。先程まで野球中継だったはずなのに、急に何やら難しい、真面目な声のアナウンサーに変わっていた。
布由の頭はまだぼんやりとしている。無意識のうちに、対向車に気をつけ、速度を気にし、きちんと運転しながら時々そんなことを考える。
自分はいったい何処へ向かっているのだろう。
走っている時に考えることではない。だが布由にしてみれば真剣だった。何故自分がここを走っているのか、よく判らないのだ。
青の標識板がふと目に入る。
……ああここか。じゃあ俺、うちへ向かっていたんだな。
実家のある地には目と鼻の先だった。どうやら、昔の習慣がそのまま無意識のうちに出てしまったらしい。
しばらくして、実家のある街までたどりつく。……確か相棒も帰っている筈……家の前の道に車をとめて、チャイムを押す。
珍しく勢い良く出てきた土岐は、血相を変えて布由に飛びついた。このいつも冷静な相棒にしては、ひどく珍しいことだった。
「布由さんっ!良かった! あの都市には行かなかったんですねっ!」
何のことだか、判らなかった。
*
揺れはしばらく続いて、やがて治まった。しかし、会場の混乱は続いていた。二千人収容のホールから一斉に避難するのはなかなか難しい。
そして慌てて降ろした幕の内側でも、また別の混乱が起きていた。
「……おいHAL! HAL! 目を覚ませってば!」
朱明は泣きそうな顔で呼び続ける。
ぐったりと力が抜けたようにその場に倒れたヴォーカリストは、決して目を開けなかった。
「おい! 今入った情報だと……」
震えて叫ぶその声に、藍地と芳紫はそちらへ耳を傾けた。
何だ?
特に頭の方は鳥肌が立つようなことは感じとっていない。だが朱明は自分の動物的勘という奴を重要視していた。先ほど開いて、自分が閉めた扉を再び開ける。
部屋の中には椅子がまだ転がっていた。
「……あれ、朱明? どうしたの?」
「どうしたのってお前……」
やだね椅子が壊れるじゃないか、と言いながらHALはのんきそうに答えている。
朱明は何か言おう、と思う。だが、何を言えばいいというのだろう?明らかにおかしい。どうしたのも何もない。今さっき自分に布由を逃がしてと叫んだのはHAL自身のはずなのに。
「……いや、何でもねえ。もう少ししたら、全体リハだから……」
「ああそう、判った」
HALの顔をした「都市」はにっこりと笑った。見事な程に。
*
「それで…… あんたは都市にのっとられたというの?」
安岐は訊ねる。
「結局は俺の方がのっとりかえした、というか」
「何ですかそれは」
*
暗転。
ライヴの始まることを告げる派手派手で「彼らにしては」悪趣味な音楽が流れる。
派手派手と言っても、昔なつかし「レビュー」的なもので、それを判ってパロディ的に使っている限り、本当の悪趣味には聞こえない。
歓声が大きくなる。
四人は行くよ、と互いにパシ、と音がする位に手を合わせる。
それぞれがそれぞれの好きなステージ衣装を着ていて、知らない人が一人づつ見たら、決して同じバンドのメンバー同士には見ないだろう。
汗止めと髪止めを兼ねた黒のターバンをハチマキのようにぎゅっと締めながら朱明はHALをちら、と見る。
あの後のHALは実に平静だった。本当に何ごともなかったかのようだった。
と、いきなりHALがあたりをきょろきょろとした。そして朱明の姿を認めると、ぎゅっといきなり近づき、その腕を掴んだ。
「……何だよ」
「何で、今、ここに俺、居るの」
「え?」
朱明は耳を疑った。それは、それまで普通に話していた相手のいう台詞ではない。
「ステージの袖? ……ああそうか。あいつは歌を知らないから……」
「おいHAL!」
「……朱明ごめん、俺、今から何が起きるか想像ができない……」
西のイントネーションだった。
掴む手の力が強い。何かを必死でこらえているように伝わる。
「何が起こるかなんて俺だって知らんさ」
ぽん、と背を叩く。
「そういう意味じゃなくて……」
HALは朱明の肩をもう一度掴み、何か言いたげな目で見上げる。
心臓がどくん、と大きく鳴るのを朱明は感じていたが、タイミングが悪かった。何と言ってももうそれは開演前なのだ。
行って下さい、とスタッフの声がする。朱明は元気づける意味で、彼の背を押した。
動き回るステージの光が、一瞬彼の表情を朱明に見せた。
朱明はこんどこそ心臓が止まるかと思った。それは泣き顔に近かった。
だが自分の役目は役目、と彼はドラム台に上がる。朱明は自分が、ドラマーということを重視していた。
そして次の瞬間。光が一斉に開いた。
歓声が頂点に達する。朱明はオープンのハイハットを勢いよく叩く。ステージ前の特効の花火が一斉に上がる。
明るいギターの音が跳ねる。裏メロディを奏でるベースが動き回る。
そして声が、入る。
何だ、大丈夫じゃないか。朱明は軽やかな足どりで跳ね回りながら歌うHALの背中を見ながら思う。
先程のことは気にはなる。だけど、それは全てライヴが終わってからでいいんだよな。
朱明はドラムを叩き続ける。一曲目、明るい曲…… 二曲目、ややハードな、変わったメロディの……
三曲一気に通したところで、一息ついたHALがマイクを取る。
「……」
朱明は自分に彼の声が返ってくる筈の、モニターを思わず振り返る。正面には、やや横向きの彼の顔が見える。唇が動いている。だが声が届かない。
やがてHAL自身、それに気付いたらしく、唇を噛みしめている。観客もざわざわとしている。声が届いていない。
大きく深呼吸すると、HALは苦しそうな顔で、曲のタイトルを告げた。
そしてそれは、はっきりと、朱明の耳にも届いた。ややスローなナンバーだった。
HALにかなり近い所にいた藍地には、それでもHALの肉声は届いた。そして彼もまた、耳を疑ったのだ。
HALはこう言ったのだ。
「皆さん、逃げて下さい」
そしてもちろん、HALが懸念した通り、その言葉はHAL自身と藍地以外の誰にも聞こえていなかった。
歪んだギターの音色から始まる曲は切ないメロディが散りばめられていた。音楽が始まってしまえば、アーティストはその中から出られない。
殆ど動かずにHALはスタンドマイクに歌いかける。きらきらしたクリーントーンのギターの音がそこに絡まる。
サビのメロディが。朱明は一瞬あの鳥肌を呼び起こしたものが通り過ぎるのを感じた。二回目のBメロから、再びサビへ。
……行かないで……
あ?
むき出しの両腕が次第にぷつぷつと泡だってくる。
通り抜ける。あれは。
朱明は、手は動かしながらも身体が勝手に感じとっている変化に注意を向ける。
……行かないで…… 一人にしないで……
絶叫のような彼の声。
シンバルがその時一斉に鳴り響いた。 そこにあった全部の楽器が、一斉に、勝手に音を立てていた。
朱明はスティックを持ったままその場に硬直していた。
自分の周りの全てのシンバルが、スネアが、タムがティンパニが銅鑼が勝手に。
藍地は自分のスペアの楽器が勝手に振動しているのを見た。
決して同じ音ではないけれど、似た低音が、一斉に、ワイヤレスのスイッチを入れてもないのに、アンプとつながっていないのにスピーカーから音を出していた。
わあああ、と叫んで慌ててヘッドフォンを外す、耳を塞ぐスタッフ。
触れもしないのに、全てのスピーカーの音量は勝手に最大になった。
―――そして、地面が揺れた。
*
カーステレオが、何やらぶつぶつとつぶやいている。先程まで野球中継だったはずなのに、急に何やら難しい、真面目な声のアナウンサーに変わっていた。
布由の頭はまだぼんやりとしている。無意識のうちに、対向車に気をつけ、速度を気にし、きちんと運転しながら時々そんなことを考える。
自分はいったい何処へ向かっているのだろう。
走っている時に考えることではない。だが布由にしてみれば真剣だった。何故自分がここを走っているのか、よく判らないのだ。
青の標識板がふと目に入る。
……ああここか。じゃあ俺、うちへ向かっていたんだな。
実家のある地には目と鼻の先だった。どうやら、昔の習慣がそのまま無意識のうちに出てしまったらしい。
しばらくして、実家のある街までたどりつく。……確か相棒も帰っている筈……家の前の道に車をとめて、チャイムを押す。
珍しく勢い良く出てきた土岐は、血相を変えて布由に飛びついた。このいつも冷静な相棒にしては、ひどく珍しいことだった。
「布由さんっ!良かった! あの都市には行かなかったんですねっ!」
何のことだか、判らなかった。
*
揺れはしばらく続いて、やがて治まった。しかし、会場の混乱は続いていた。二千人収容のホールから一斉に避難するのはなかなか難しい。
そして慌てて降ろした幕の内側でも、また別の混乱が起きていた。
「……おいHAL! HAL! 目を覚ませってば!」
朱明は泣きそうな顔で呼び続ける。
ぐったりと力が抜けたようにその場に倒れたヴォーカリストは、決して目を開けなかった。
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