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81.「朱夏の質問はうちの子供みたいだ」

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「どうしたのだ!」

 開口一番、朱夏はそう言った。

「あ、驚かせてごめん。ちょっと休ませてくれない?」

 さすがに土岐も疲れていた。意識を無くした布由をずっと支えているのだから。

「……判った。とにかく、入れ」
「サンキュ」

 朱夏は意外に手回しよくさっさ、と空いていたベッドの上に置いていた服を除けると、その上にあった畳まれた毛布を広げる。土岐はその上に布由を寝かせると、衣服を緩め、靴を脱がせた。
 ここはBBがよく使うホテルで、ここしばらく、朱夏はこのホテルの一室に住まわされていた。朝になるとマネージャーの大隅嬢が迎えに来て、BBの行動半径内に閉じこめられる。

「何かあったのか?」
「……さあ、判らない。呑んでたらいきなり気分悪そうになって」

 それを聞くと朱夏は布由の手を取る。そしてしばらく彼を観察していたと思うと、

「……気分悪そうには見えんぞ。呼吸も体温も正常だ。……ただ多少心拍数が落ちてるが」

 そう断言した。

「は?」
「眠っている、といった方が分かりやすいな」
「眠って?いきなり?」
「どうもそのようにしか見えない」

 土岐は改めて相棒の姿を眺める。言われてみると、確かにそうだった。先ほどまで額をびっしょり濡らしていた脂汗もすっきりと消えている。呼吸もゆっくりと落ち着いている。
 ふう、と彼はカウチの上に身体を投げ出す。

「疲れてるようたせな、土岐」
「疲れもするさ…… ここまで連れてきたんだから」
「その服はこっちでいいのか?」
「ん、頼む」

 入り口近くのクローゼットに布由の服を掛けて入れる。意外に気がつくな、と土岐はそんな彼女の様子を見ながら思った。靴も靴で、きちんとベッドサイドに揃えている。

「お前も疲れている。何か飲むか?」
「ん、でもコーヒーでいいよ」
「判った」

 朱夏は備え付けの小さな電気ポットに、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを入れ、電源を入れる。

「別に水道の水でいいよ」
「冗談じゃない。ここの水はまずいんだ」

 とぷとぷとぷ、とボトルから注ぐ音が土岐の耳に届く。

「へ?」
「そりゃ私の『都市』だってすごくいいという訳じゃないが、何だここのは。ひどすぎるぞ」
「ま、それはそうだろうね」
「土岐もそう思うだろう? 以前はあの都市に居たと聞いたぞ」 
「あ?」
「『SK』の店で、お前らがあの都市出身って聞いたんだ」
「『SK』で? 朱夏それって、結構オネエ言葉のウェイターがやってるところじゃない?」
「オネエ言葉?」
「男なのに、妙に女の人みたいな言葉をつかう人」
「ああ、いたいた」

 ぽん、と彼女は手を叩く。

「残念がってたぞ。お前らがロブスターでやらないからって」
「へえ」
「あそこのお茶は美味しかった」
「うん、それは俺も思う。だから昔はよく行ったよ、俺も」
「へえ」

 ああそうだ、と彼は思う。急にその頃のことが頭をよぎる。

「家族もじゃあ、向こうに居るのか?」
「あ、いや、それは違う。俺も布由さんも、出身は隣の県だよ。あの都市より冬が結構寒い所でね」
「……ああ、じゃあ安岐と一緒か」
「そうなの?」
「隣の県で、北側だって言っていた」
「それは奇遇。……じゃあ家族とかは」
「まだ向こうに居るんだと思う。だからもう十年会っていないらしい」

 それは結構辛いな、と土岐は思う。

「それにしても土岐、布由はどうしたのだ?」
「判らない」
「判らない?」
「呑んでる時に気分悪くなるような人じゃないんだが」
「珍しいことか」

 ああ、と土岐はうなづく。すると朱夏はやや怪訝そうな顔になり、訊ねる。

「だが何故ここへ運び込むんだ? 布由にも家があるんじゃないか?」
「家は、あるけどちょっとここいらからじゃ遠いし、それに誰か世話してくれる人がいる訳でもないし」
「誰か一緒に住んでいるひとはいないのか? そうじゃなかったら、呼んだらすぐ来てくれるような……」

 土岐は首を横に振る。

「いないんだ」
「どうして?」
「何度か、それに近いことはあったんだけどね、……そういう人がいる時もあったんだけどね、だけどどうしても、そこまで深く付き合うひとがいないんだ」
「土岐は? お前にはいないのか?」
「まあそれはおいといて」
「ごまかすんじゃない」

 仕方ないな、と言うように土岐は笑う。

「俺は結婚してます。ちゃんとそういう人います。ただ奥さんは世間に出さないようにしてるから」
「何で?」
「うちの奥さんは、ごくごく普通のひとだからね。音楽聴かない人じゃあないけれど、この業界とは全く関係ない。だから結婚する時に約束したんだよ。……俺はずいぶん迷ったんだ」
「どうして?」
「朱夏の質問はうちの子供みたいだ」

 くす、と彼は笑う。
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