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70.「あんたが目を塞いでるだけですよ」

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「あんたは忘れっぽい人ですよ」

 相棒は辛辣に言った。
 自分にはどうやら忘れていることがたくさんあるらしい。
 その晩、その件についてみっちり話をしたくて、久しぶりに布由は土岐を呑みに誘った。
 それも芸能人御用達の店ではなく、ごくごくありふれたチェーン店飲み屋である。ごくごくありふれすぎているので、彼らの姿は案外簡単に周囲に紛れ込んでしまう。

「よく昔はこういう店で呑みましたよねえ」

 イカの姿焼きをつつきながら土岐はぐるりと辺りを見渡す。

「そーだよな。まだ俺達があの街に居た頃だ」
「もう十年、帰ってないってことになりますよね。それにあの県にも」
「まーな」
「布由さん徹底的に、あそこ避けてましたよね」
「ん? お前にはそう見えた?」
「見えました」

 熱、と言いながらも土岐はイカを口に放り込んではふはふと冷ましながら断言する。

「その代わりといっちゃなんですけど、絶対その周囲の県ではこまめに回ったでしょ。**市民会館、とか**県民会館、とか結構普通のロックの人達が無視するような所。その県の人達が絶対行けるように」
「お前って鋭いのかボケてんのか、時々わからねーな」
「何言ってるんですか。俺は基本的にはボケてんですよ。その方が楽ではないですか」
「へいへい」

 もちろん本気で言ってるのではないことは布由にもよく判っている。布由も自分の前に置かれたエビチリに箸をつける。

「こういう所の料理ってさ、全然味とか変わんねえんだよな、昔っから」
「マニュアルの世界ですからねえ」
「よく昔、インディの頃、言われたよな、たまには打ち上げ出ろって」
「ああ言われましたよねえ」
「でも結構逃げてたよなあ。つきあいとか面倒だったし」
「そう言えばあのバンドもそうだったじゃないですか」
「ん?」

 土岐はHALのバンドの名を出す。

「そう言えば、そうだったな。あそこは朱明以外、酒に弱かったし……」
「朱明さんですか。あの人も結局あれでそのままあそこにいるんですよね」

 ああそうだ、と思い出した。一度はメンバーにしたかった奴。それだけの腕と上昇指向を持っていた奴。

「正直言って、俺は朱明さん入れたかったですよ。あそこで入れていれば、ウチもずっとギタリスト居たかもしれませんよね」
「ま、過去は過去さ」
「そうですけれど。あん時、結構あいまいなまんまでしたでしょ」
「あん時」
「何ヶ所かサポートで出てもらったじゃないですか。俺あん時、結構演ってて気持ちよかったですからねえ」
「リズム隊として?」
「あれ以上の人がいなかったから、結局ウチは、専門にやってもらうことを選んじゃったじゃないですか」
「ああ、そうだったよな」

 布由は運ばれてきたビールをコップに注ぐ。
 土岐は空揚げに手を伸ばす。

「……美味い手羽先。みそおでん。どて煮。味噌煮込みうどん。串カツ…… 全くいろいろありましたよねえ、あの都市には」
「うるさいっ。話が先っ」
「ああそう言えば、あの都市の会場って、何処でも布由さんの声、よく通りましたよね」
「そう言えばそうだったな」

 一杯目が空になったのを見て、土岐は布由のコップに二杯目のビールを注ぐ。

「最初のB・Bからそうでしたよ。すごく俺、不思議だった」
「? 何で」
「だって、何処でもそうなんですよ。B・Bのようなすげえ小さいライヴハウスでも、アメジストホールのような大きいライヴハウスでも、ワーカーズ・ホールでも、市民会館でも、公会堂でも、厚生年金会館でも。……さすがに総合体育館は知りませんがね」
「あ、それともう一つあったぞ、制覇してない会場。国際会議場」
「あそこは今はその機能は果たしてないようですね。ロブスターだって、本当にただの総合体育館としか使われてないようです」
「お前詳しいな」

 ちら、と土岐は相棒をのぞき見る。

「あんたが目を塞いでるだけですよ」

 かたん、と音がする。それが自分の箸の落ちた音と気付くのにやや時間がかかった。

「だいたいあんた、だいたいのことについて前向きなのに、あそこのことだけは目を塞いでて、しかも気付いてないんですから」
「気がついてない?」
「そうですよ。俺はいつ気がつくかと思ってました」
「お前はいつから気がついてた?」
「あの後の最初のツアーの時からですね」
「そんな頃からかい」
「ちょうど俺達売れ出して、結構、中都市とか回れるようになりましたよね。地方都市って奴。だからあの都市に行けなければ、あの県の第二の都市に行くのが筋でしょ」
「まあそうだよな」
「なのにあんた、もうあの都市のある、あの県がないかのような回り方をさせたじゃないですか」
「そうだったっけ」
「社長に聞いたら、あんたが主張したって。確かに気になるのは判りますけど、そんなに無視するほど傷が深かったのかな、って」

 そういうことは、そんな、空揚げを食べながら言うセリフではない、と布由は思う。
 心臓がどきどきする。
 酔いが回った?
 そんな筈がない。たかがビールじゃないか。それもまださほど呑んでない。そして相棒の言葉は容赦ない。

「何か、あったんですか? あの頃、HALと」
「……何も……」
「何もなくて、あんたがそういう風になる訳ないでしょう?ね、俺はこう踏んだんですよ。あんたとの何か、で、HALはすごくショックを受けて、そこで声が暴走して、空間が歪んだ」
「SFじゃないか、それじゃ」
「SFですよ」

 あっさりと土岐は言った。

「だって、あの都市そのものがソレですよ。そうなったモノが目の前にあったら、誰が反論できるんですか。それに、そうでなかったら、彼の声を都市から閉め出す理由が判りませんよ」

 確かにそうだ。土岐の箸は次に肉じゃがに向かう。身体のわりによく食う奴だ。

「……で、空間がどーの、というのは俺の頭じゃ理解できませんが、空間と声がどうの、ということについては、気になることがあるんですよ」
「何だよ」
「さっき言いましたよね。あんたの声があの都市では何処でも通る、って」
「ああ」
「逆の事があの人達のバンドには言えたんですよ」
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