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63.胸に走るのは、すり傷の痛みにやや似ている。

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「土岐居るかっ」
「居るよっ」

 実に単純明快に土岐は奥から声を張り上げる。ああ朱夏だ。彼の顔に笑いが浮かぶ。

「ひどく暇なんだ。こっちに居てもいいか?」
「暇? うん、いいよ」
「朱夏ちゃん! 忙しいのよ彼らは……」

 スタッフの大隅嬢が後ろから追いかけてきて、朱夏を困った顔で捕まえる。彼女はこの唐突な訪問者の面倒を頼まれていた。

「……ああ大隅、いいよ。この子はそう俺には邪魔にならないから」
「そうやって土岐さんが甘やかすから……」

 小柄な女性スタッフは懸命に抗議する。彼女にとってこの訪問者は実に厄介な存在だった。現在BBは新しいアルバムのレコーディング期間である。ミュージシャンにとってそれがどれだけ大切な期間か彼女はよく知っている。
 だがそんなことはどうやらこの訪問者には関係がないらしい。その態度が大隅嬢をまた苛立たせる。
 それに、この訪問者は最初からあの二人を呼び捨てにしている。おまけにそれをBBの二人とも容認している。腹立たしい。

「私だって忙しいんだ。忙しいというのではないのかもしれないが、やらなくてはならないことがあるんだ」

 朱夏は表情を変えることなくそう大隅嬢に言い立てる。

「だけどあなたはここで預かられてる身なのよ、それを忘れないで……」

 ひらひら、と優しげな笑みを浮かべながら、土岐は手を振る。

「ねえ大隅、ちょっとこの件については俺達のプライヴェイトに関わるんだ」
「土岐さん……」
「もうしばらく放っておいてくれない? 大丈夫レコーディングには全然差し障り無くするから」
「当然でしょう! ……これで遅れるようなことが起きたら承知しないわよ!」

 そして大隅嬢はやや大きめの音を立ててドアを閉めた。何なんだ、と言いたげにドアを眺めている朱夏に土岐は苦笑する。

「暇なの? 朱夏」

 ん、と彼女はくるりと土岐の方を向く。

「暇だ。どうしてこっちはどうもこうもいろいろややこしいのだ?」
「そんなややこしいかなあ」

 次の曲で使う楽器を手に取りながら、彼は朱夏の問いに答える。

「ややこしい。向こうだったらすぐに行動に移せたのに」
「そりゃあ規模が違うからね。君の居た都市より、この国はずいぶん広いから。関わる人だって多い」
「それは判る」

 朱夏は納得したようにうなづく。

「こんなに人間が居てどうするんだ、と思った」
「それと朱夏、その人間をモノ扱いする口調だけは気をつけて」

 苦笑しながら土岐は言う。

「どうして?」
「君がレプリカントということが知れると厄介だ」
「厄介?」
「君の居た都市ではどうだったか知らない。だけどこっちでは、レプリカはあまりいい目で見られていないし、……だいたい『規則』が入っていないレプリカは基本的にはない……ないことになっているんだ」
「それは聞いている。東風から聞いた。だけどそれがそんなに」

 時々出てくるこの東風だの夏南子だの安岐だのの固有名詞も、土岐は既に知っている。話す時間だけはいろいろあったのだ。

「うん。法律に絡んでくる。そうするとさらに面倒だし、だいたいそんなことに関わっていたら、君の目的だって達成できないかもしれない」
「できないかもしれない、じゃなくてできねえ、だろ?」

 よく響く、ねっとりとした特徴のある声が二人の耳に届く。扉が開いて、布由が入って来た。布由は土岐に向かって指を立てる。

「土岐、コダマさんが呼んでる。どのテイク使うかいまいち判断しにくいからって」
「ああ、判りました。布由さんじゃちょっと頼みますね」
「頼むって……」
「朱夏暇なんですって。布由さんの今日の分はOKなんでしょ?」

 それはそうだが、とやや厚すぎるくらいの下唇をとがらせて布由は答える。よろしく、とさらりと言って土岐は布由の横をすり抜けて行った。

「仕事は終わったのか? 布由」
「終わった…… まあな、今日しようと思った分程度は」

 彼もまだこの口調には慣れない。  
 朱夏は相手が誰であっても、敬語を使うことは全くない。その調子にはさすがに二人とも当初面食らった。
 だが土岐は慣れるのが早かった。彼は二時間もかからずに、焦らず騒がず淡々と、彼女に向かって返事を返すようになった。もともとそういう順応しやすい性格らしい。「そうでなかったら、あのFEWと十年もやってないわよ」と大隅嬢は呆れたように言っている。

「土岐はベーシストなのか?」

 朱夏は部屋に残された楽器を見て、やや驚いたように言う。

「何だお前、知らなかったのか?」

 布由はあからさまに不機嫌そうな顔になる。朱夏はそんな布由には構わず、平然と答える。

「ああ。BBのことだって最近聞いたんだ。それも安岐が疑問に思わなかったら聞かなかった」
「最近ねえ…… 俺達も見くびられたもんだなあ。BBがヴォーカルとベーシストの組み合わせっていう珍しいロックユニットってのは全国的に有名だと思ってたがな、俺は」
「あいにく私の都市では、あまり聞いたことがないんだ」
「へえ。それはそれは」

 布由は腰に手を当ててつかつかと朱夏の近くにまで歩み寄る。

「それじゃあ、向こうのFM局に特集でも組ませようか」
「そんなことできるものか」
「やってみなきゃ判らないだろ」

 いかんな、と布由はまた買い言葉をしてしまったことに気付く。
 何故かこのレプリカントには、愛想笑いもお世辞もできない。何やら昔、インディの頃や、メジャーのステップアップ期によく周囲に見せた「大人げない」自分が顔を出してしまうのが判る。
 この外見のせいだ。理由はよく判っている。
 ここへやってきてから一度も笑いもしない、この顔は、彼の知り合いにあまりにもよく似ていた。くっきりした眉、大きな目、同じ視線の位置、同じ肩幅……
 そのたびに胸に走るのは、すり傷の痛みにやや似ている。
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