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62.告白

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 今になって思えば、あれは、明らかに挑発だった、と朱明は思う。
 耳には今でも残っている。それまで一度として耳にしたことのない声。似たものはステージの上で何度となく耳にした。だけどそれとは違う。
 ステージの上での、誰に向けてでもない、もしくは自分以外の全てに発した声とは違う。
 それが本当であるかそうでないかはともかくとして、確かにその時のHALの声は、朱明一人に向けたものだった。
 周波数の微妙にずれた。
 ずれていないその声を聞いたことがあるだろう相手を朱明は知っている。ほんの少し、自分の中に嫉妬に似た痛みが走るのに気付いた。
 情けねえ、と彼は自嘲する。
 そして時々、HALはそうやって朱明を挑発する。昔の悪気の無い悪戯ではない。明らかに挑発である。本気の時はそのままそうするし、フリの時は、言葉だけを宙に浮かせたまま、するりと逃げていく。
 自分は間違えたのではないか、とよく彼は思う。そこで決して挑発に乗ってはいかなかったのではないか、と。
 だが仮定は仮定であることを彼はよく知っていた。
 起こってしまったことは起こってしまったことで、それは決して戻るものではないのだ。間違えたなら、間違えたなりに前には進まなくてはならないのだ。
 なのに。

「―――ああ、布由が必要だから、十年間黙っていた訳じゃない」

 彼はつぶやく様に言う。表情は変わらない。だがいつもとは違う。

「じゃあ何だよ」

 こんなに言い辛そうな彼を朱明は初めて見た。
 その様子につられるように、彼はHALに接近した。どうしていつもこの部屋は暗いのだろう、と今頃気付いた自分に驚く。月明かりだけでは、表情の変化が読みとれない。
 朱明はひざを抱えるHALの、その横に手をつく。
 ふと頬に何か当たるのに朱明は気付く。彼の右手が朱明に触れていた。焦点の合った、だけどやはりぼんやりとした目が見つめている。
 何かが違う。
 慌てて朱明は彼の両腕を掴んだ。逃げるな、と内心叫ぶ。だが彼は逃げなかった。

「そうだよ」

 HALは灰色の羽毛で撫でたような声を立てた。それは今までの重力の無いものとは違っていた。ひどく重かった。

「確かに奴が必要なんだ。奴の声が、必要なんだ。『彼女』を起こして、この都市を元に戻すためには。そうしたら奴は『彼女』と一緒にもあの『川』に呑み込まれて、二度と帰ることができない」

 朱明は驚く。それは、初耳だった。
 いや、違う。それは考えれば考えられることだった。
 何かが、自分の思考の流れをそこで止めていたのだ、と彼はその時初めて気付いた。

「ちょっと待て」
「でも奴の声で空間を戻す前に、空間を切らなくちゃならない。だから俺も…」
「おいHAL、それって…」
「それはそれでいいかな、とも思ってたんだ。あの時は」

 不意に、HALはぱっと顔を上げた。そして朱明はその瞬間、ぞくりと背筋に寒気が走るのを感じた。
 月明かりにも判る程に、HALは、その顔に、これ以上はないのではなかろうか、と思われるくらいの笑みを浮かべていた。

「ねえ朱明、人間は変わるんだよ? 知ってた?」

 それはそうだ、と彼はうなづく。

「変わらないものなんてない」
「だけどお前は例外だ、お前は全然変わらない。この原始人。駄目人間。何も変わりやしない。変わればいい。良かったのに」
「俺は…」
「俺は変わったよ。俺の外見は全然変わらないけれど、俺は変わったんだよ。お前の知っている俺なんかより、お前がそう思いこもうとしている俺より、ずっとひどい人なんだよ?」

 HALは一息にそれだけの言葉を放った。
 大きな目が、朱明を真っ直ぐ見ている。じっと、絶対にその視線を外させまいとするかのように真っ直ぐ。

「ねえ朱明?」

 声のトーンが上がっている。
 こんなひきつれ方に朱明は聞き覚えがあった。
 あれは、最初に彼を見たステージ。語尾がうわずる。

「俺はね、別に、それでもいい、と思ってたんだよ。布由が必要。それで布由が俺がどうなっても、別にそれはそれでいいと思ってたんだよ。奴と一緒に、『川』の中に沈んで、それはそれで構わない、とずっと思ってたんだよ。ねえそうだろ、それってある種の理想境じゃない。時間も何もなくて、ただ奴と二人だけで、ずっと、そういうの、それでいいって思ってたんだよ」
「…」
「それだけじゃない。そうじゃなかったにしたって、別にそれで俺がこの世界の何処からも消えてしまったとしても、別に構わなかったんだ。俺は構わなかったよ。俺の死体の上に花が咲くならいいんだ。あの花はそうだよ。ああいう白くて綺麗な花が咲くならいいと思ってたんだ。だからあれは未来の俺へ投げてたんだよ、花の死体を!」

 腕いっぱいに抱えた、白い花が、こぼれる。

「俺なんてどうなったっていいんだ。それで………が笑って後の残りの人生を生きてくれるなら、それでいいと思ってたよ?そう思ってたんだよ。本当に、ずっと!」

 誰が? 一瞬その音が耳に届かなかったことに彼は気付く。

「思って、た?」
「そうだよ過去形だよ。過去形なんだよ。人間変わるんだ。長く生きてりゃ、感情も何もかも、変わるんだ。仕方ないんだ。俺は変わったよ!俺は惜しんだんだ。こうやって馬鹿みたいに過ごす時間を!」

 朱明は息を呑んだ。

「俺は知ってたよ、最初から。何が必要だったか。ずっとずっとずっとずっと… 俺と奴の身体を苗床に花が咲くんだ。それが必要って知ってたんだ、最初から! お前らが忙しく働いている時にも、俺や『彼女』の関わりに何の関係もない普通の人々が『川』に落とされている時にも、その知り合いが悲しんでようが何だろうが、知らん顔して、でも知ってたんだよ!」
「…」
「はっきり言おうか朱明、もし奴の身体だけが必要だっていうんなら、俺は今すぐにだってそうするよ。奴を喜んで差し出すよ? どんな手段を使ってだってそうするよ?」
「お前…」
「俺は俺の身体を、惜しんでるんだ。そんなことずっと考えたことも、なかったのにだよ? 信じられない。冗談じゃない。信じられない。俺は、ここに居たい。ここに居たいんだよ?! その時間が惜しくて惜しくて、たまらないんだよ! どういう目で見てた朱明? 俺はそういう奴なんだよ?」
「…」
「だけど…」

 朱明は馬鹿ではない。その言葉が本当か嘘かくらいは見抜ける。そして、その言葉の裏の意味も。

「本当に…」
「…」
「本当に、お前が、必要なのか?」

 黙ってHALはぶんぶん、と首を縦に振る。
 再び向けられた満面の笑み。
 だが。
 その笑顔の上に、全く無関係のように涙が流れていた。
 止める気も――― 流れていることすら気付いていないようだった。
 流れるにまかせた涙は、彼の頬を伝って床にぽつりぽつりと落ちていく。
 たまらなくなって朱明は、一気にその身体を抱きしめた。
 くぐもった笑い声が胸の中で聞こえる。相手は腕を回すと、ずいぶんな力で抱きしめ返してくる。

「どうして最初から、お前じゃなかったんだろう?」

 ひきつったような笑い声の合間に、聞こえるか聞こえないか程度に、そんな声が聞こえた。

「どうして俺、間違えたんだろう?」
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