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61.「そう。俺は敏感だよ。知ってたよ」

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「俺はさ、一族の中の同じ世代の中じゃ一番下だったんだ」

 がさがさと音を立てる袋からはスナック菓子の袋が次々に現れる。高いなとぶつくさ言いながら、経費で落ちるからいいや、と朱明は次々と備え付けの冷蔵庫の中のビールに手を伸ばす。
 TVから流れていたAVは別のものに代わっていた。ずいぶんと古いフィルムだ、と朱明は思う。色が変わっている。どぎついシーンも無い。
 何となく見てはいるが、特にどうということはない。目は二人ともそちらへ行っているが、顔は冷静そのものだった。

「何かぼんぼんだったってお前言ってたよなあ」
「俺? 見るからにそういう感じじゃん。見えねえ?」
 
 すると結構食えない「永遠に隣のガキ」は断言した。投げ出された長い足を持て余すように折り曲げている。

「一見見えないけどさ、判るよ」
「何で」
「だってな、朱明お前、何だかんだ言っても、結構雑じゃん」
「まあね」
「別にそれで良かったんでしょ? それが許されたってことでしょ?」

 確かにそうだった。裏表がないと言いつつ、そんなことをあっさりと言ってしまうあたりがこの友人は以外と油断ならないのだ。

「だからさ、一番下だったから、同世代の一番上の連中の、その上とかの葬式がよくあった訳よ。いかされた訳」
「そりゃそりゃ」

 良いとも悪いともつかない感想を友人はもらす。 

「けどさ、だいたい俺判るのよ」
「何が」
「もうじき葬式があるな、っての」
「へえ?」

 小さな頃、目の前を影がよぎった。
 誰かが死ぬんだ、と彼は母親に言った。何の根拠もないけど、そんな気がしたのだ。
 母親は眉をひそめて、そんな不吉なこと言っちゃいけません、と言った。
 その晩、電話が親戚の一人の死を告げた。

「同じことが何度か続けば、あああれはそおかな、って思う訳よ」
「理詰めの朱明さんにしちゃあ、結構科学的じゃあないもん信じるんだね」
「科学的ってのは、まだ解明されていないことは、とりあえず不思議、という所に入れて、後できちんと解明しようと努力することで、解明されてないことを科学的ではない、とくくって切り捨てることじゃねえぜ」

 ああごめん、と芳紫は即座に謝った。

「で、最近はどおなの?」
「最近?」
「もうそういうものは見ない?」

 朱明は黙って首を横に振った。
 見ない訳ではないのだ。

   *

 そして、どうしてそこで気がつかなかったのか、と。

 朱明は初めて後悔する。

   *

 その時朱明は自分の目が信じられなかった。

「何してんのこのダメ人間」

 見下ろす視線。この口調。彼は慌てて目を覆っていた黒の公安の帽子を取って起きあがる。
 目の前には、居る筈のない奴の顔があった。一年前の夏に、眠りについた筈の友人。端正な顔、長い髪、大きな目、華奢な身体、…そしてその声。

「お前…」
「わざわざ俺さまが様子見にやってきたというのにさ」

 重力のない、この容赦ない言葉。

「HAL」

 名を呼んでみる。まだ彼はこれが現実と信じられない。何、とその名の主は冷たく彼を見据えたまま言葉を投げる。

「何で… 起きたのか? 何でお前がここに居るんだ?」
「いちゃ悪い? もちろん起きてなんかいない。そんな訳ないだろ? 藍地や芳ちゃんに聞かなかった? 俺が起きたらこの都市全体が今度は完全に向こうの空間に呑み込まれるよ。だから俺は起きてない。あのまんま」
「じゃここに居るお前は何なんだ」
「これは容れ物」
「容れ物?」

 朱明は手を伸ばす。そしてぴったりしたニットに包まれたその腕に触れる。

「触っただけで判る訳なんかないよ。お前のような鈍感には」
「じゃあ何なんだ」

 やや苛立ちを隠せずに朱明は問いかける。

「本当に鈍感だねえ」

 辛辣さに輪がかかった気がする。HALは自分の胸にそっと手を当てる。

「この身体はつくりもの。レプリカントぐらい知ってるだろ?」
「…ああ」
「あれに俺が入り込んでるの。判った?」
「入り込んで」
「取りついて、とでも言った方が駄目人間には分かりやすい?」

 ああそうか、とようやく朱明は納得する。

「前々から、夢を通して藍地に頼んでおいたからね。動ける身体が欲しいからって。やっと何とかなった。それで来てやったのに何?その対応」
「器用なことができるようになったんだな」

 だが彼も夢で会ったことがない訳ではない。「川」の正体もそれで知ったのだ。

「さあ。別に他にできることもないしね。歌うこともできない」
「……」
「もちろんこの声は周波数をずらしてあるけどね。それでもやらないにこしたことはない」

 HALは対面の、シーツも毛布も敷かれていないベッドに腰かける。
 ちら、と彼は扉の方を盗み見た。微かに開いている。どこからか風が吹いたのか、扉は自然に閉まった。
 朱明は歌えないHAL、というものを想像したことがなかった。
 HALは彼にとって「歌うもの」だった。歌う彼だからこそ自分は惹かれたのだろう、とそれまで思っていたのだ。
 ところがこの目の前にいるHALは、自分は歌えないと言う。
 昔何処かのラジオで受けたインタビューをふと思い出す。
 その時はHALだけだった。
 ラジオにはあるまじき、ひどくゆっくりしたテンポで流されるそのインタビューは、特に目新しいことは言っていなかった。
 その当時頻繁に行われた雑誌インタビューの内容と基本的には変わらなかった。
 だが、最後だけが妙にひっかかった。
 インタビュアはHALに、自分と歌とはどういう関係なのか、と訊ねていた。
 難しい質問だ、と朱明は聞いていて思った。
 訊く方は簡単だ。だが答える方にはひどく難しい質問である。自分だってそうだ、と彼は思う。自分とドラムの関係なぞ、当時、一口で言い表せはしなかった。強気の彼はよく、そんな難しい質問は答えられない、と言っていたものである。
 だがHALは朱明ではなかったから、ゆっくり、だがきちんと答えていた。
 今でも覚えている。

「身体の一部みたいなものですよ」

 確かにそうだろう、と朱明はその時思った。

「別に歌うこと自体、楽しいと思ったことはないけど… でもそれ無くしては俺は生きていけない。生きてはいけるかもしれないけれど、ひどく辛くなってしまうんだろうなと思うんですよ」

 ああこれは真実だ。朱明は訳もなくそう感じていた。
 HALは本当のことを隠すために、言葉に重力をなくしたり嘘を散りばめたりすることは当時からあった。だが、その中に真実が全くなかった訳ではない。
 メンバーには決してそんなことを口に出さないくせに、こういった公の場でぽんと本音をのぞかせたりする。
 もしかしたら彼にはそんな意識がないのかもしれない、と思うこともあった。インタビュアは完全に他人だ。だから隠す必要がないと思っているのかもしれない。
 彼が本音を隠したがるのは、ある程度以上親密になった人間だけである。それ以下ならそもそも、必要以上のことを話しもしたくないかのようだった。どちらでもいいのだ、と。
 そのインタビューはこう締めくくっていた。

「歌っている自分は決して強いとは思わない。だけど歌うことは俺にはいつもくっついて、決して離れないものですよ」

 その彼が、歌えない、と自分の口でそう言っているのだ。信じがたかった。
 朱明は前年の秋から冬を思い出す。
 「黒の公安」をやることを彼は自分で申し出た。市民のために動く赤や黄色と違い、黒は明らかに憎まれ役である。
 そもそも大して知識分野では変わらない三人だった。芳紫も藍地も、公平に決めよう、と役割について言った。だがそれは嫌だった。
 その時彼は、とにかく忙しくしていたかったのだ。
 忙しくするには「黒の公安」はいい仕事だった。無論脱出者を阻止するからと言って、人に危害を加えるのにいい気持ちはしない。
 「川」へ突き落とすのは、実際には落とされた人間に実害がないとしても、だ。
 朱明はその当時、芳紫や藍地が本気で心配する程働いていた。
 夜と昼は完全に逆転していた。脱出を試みる者は、夜に動く。満月に備えてその付近に準備をする。それを事前に察知して阻止する。逮捕する。
 制服の黒と、行動の強引さと、もともと彼の持っていた迫力が相まって、「黒の公安」が恐れられるのに時間はかからなかった。
 おかげで彼は、ベッドばかりがたくさんある仮眠室の常連だった。
 公安部内に彼らはそれぞれ自分の部屋を持ってはいた。だがその部屋を一番使わなかったのは、当時も今も朱明だった。
 藍地はその間、いつも「工房」と呼ばれていた開発室に篭もって何かしら作業をしていた。芳紫は都市全体の様子を把握し、それを上手く動かすのに忙しかった。
 お互いがお互い、何故そこでそういう仕事をしているのか、知らなかった。
 こんなことは初めてだった。そしてお互いから音楽が消えたことも。

「ああもうずいぶん手が変わってしまったな」

 気がつくと、左手をHALが取っていた。

「ドラムは長い間やらないでいて大丈夫な楽器じゃあないよな、身体資本だし」
「歌わないお前よりマシじゃねえか?」
「……」

 ふっと手を見つめていた視線が上がる。無機質な目が朱明をじっと見据えた。その視線が外れないまま、自分の手が動かさせるのを朱明は感じる。そして。

 かり、と。
 指先を、かじられる。

「何するんだ」
「遊んでるの」
「悪い冗談だ」
「だってお前、俺のこと好きだろ?」

 朱明の左の頬がぴくり、と動く。

「知らないと思っていた?」
「あいにく俺は鈍感でな」
「そう。俺は敏感だよ。知ってたよ」

 何を考えているんだ。朱明は内心つぶやく。

「でも俺そんなにお前が我慢強いなんて知らなかったな。だってお前、野生児とか言ってたじゃない。文明とは縁の無い原始人。それなのにじっと我慢していたなんてさ」
「どういうつもりだ?」
「別に。だけど我慢することなんてなかったのにさ。そうして悠長にあれこれ考えてるから取り返しがつかなくなるんだ。馬鹿みたい」

 さすがにそうまで言われると朱明も頭に血が上った。
 対面のベッドに腰掛け、両手は後ろに置いて足をぶらぶらさせているHALに勢いよく飛びかかった。
 反り返る彼の、やはり細い肩をベッドに押しつける。驚いて見開くことも、おびえて細められることもない無機質の目が、同じ大きさのまま、じっと彼を見据えている。
 見るな、と朱明は左の手でその目を塞いだ。
 そして。

 いつのまにか部屋の電気は全部消えていた。
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