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36.「あんたが、眠り男なのか?」

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 その部屋は暗い光に満ちていた。
 暗い光というのは妙な言い方だが、安岐には少なくともそう思えた。
 そしてその光にしても、変と言えば変なのである。
 光源が何処にもないのだ。空気の流れがないのだから、おそらくここは屋内なのであろう。
 だがそのわりには天井と呼べるものが見えない。壁があるのは判る。だがその壁の端から端が見えない。床があるのは判る。だが床から光がにじみ出ている訳でもない。
 もちろん窓もない。
 だがそこは、何かがそこにはある、と認識できる程度の光が満ちていた。
 彼らはゆっくりとその光の中を歩いていく。
 どのくらい歩いただろうか。正面に「何か」があった。置かれていた。
 そしてその上に誰かが居た。暗い光の中、その誰か、のアウトラインがぼんやりと見える。
 安岐はその誰か、に心当たりがあった。
 誰か、はひらひらと彼に手を振った。安岐は、はあぁぁぁ、と大きく深くため息をついた。

「HALさん」

 何故自分がここに居るのか、何故彼がここに居るのか、それはさっぱり安岐には判らない。
 だが確かに目の前に居るのは、最近意味もなく自分の目の前に姿を表す正体不明の美人だった。 
 そしてその美人は何かの上に座ったまま、形の良い唇を開けてこう言った。だが表情までは見えない。そして髪は…… 長い。長くて真っ直ぐで適当に結って…… 最初に橋の上で見た彼と同じだった。

「ご苦労様」 
「何がご苦労様なの!」
「ああごめんね。ちょうどいいタイミングだったから、君達を連れてきてしまったんだ」
「連れてきて?」

 彼はよ、と声を立てると、何か、の上から飛び降りた。
 よく見ると、彼が乗っていたのは、降りた時ちょうど彼の腰くらいの位置にある…… ガラスのショウケースのようなものだった。
 ショウケースには何かが入っているらしい。だがそれが何だか安岐の目にはまだ届かない。やや距離があった。    

「M線列車を三両ほどちょっと借りてね、ここの在る空間につなげたの。そうでもしないとここにそう簡単に人間は連れて来れないからね」

 は? と安岐は問い返した。何やら理解するには遠い単語を聞いた気がする。

「そっちが君の可愛い彼女?」

 ぎゅ、と朱夏が腕を掴む力を強くしたのを安岐は感じた。彼女は明らかに何かに戸惑っている。安岐は肩を引き寄せる力を強くする。

「ああ別に危害を加えようとかそういうのじゃないから安心して」
「あんたがしたのか?」
「そうだよ」

 ショウケースにもたれかかったまま、あっさりと彼は答えた。

「何で」
「君達に頼みがあるから」
「頼み?」

 安岐は訝しげにHALを眺める。次第に目も慣れてきて、ショウケースの中身がゆっくりと意識の中に形をなしてくる。
 そして安岐は目を疑った。

「誰か――― 人間?」

 ん、とHALはちらりと後ろを向く。そしてそうだよ、と軽く答える。だがその答えはそれで終わらなかった。

「それは、俺だよ」

 矛盾した答えだ、と安岐は思った。少なくともそれは目の前で話している人間の放つ台詞ではない。

「見てみる?」

 見たい、と思った。だがその半面見たくない、とも彼は思った。
 だがいずれにせよ、身体が意志とは関係なく、そのショウケースの方へ近付いていくのが判る。朱夏をくっつけたまま、安岐はHALがうながすまま、ショウケースの前に立った。
 そこには、確かに人間が入っていた。眠っている様だった。
 だが眠る人間のためには、それはあまりにも棺めいていた。ガラスの蓋は閉ざされ、その中の大気は全く動いていないように見える。生きていないのだろう、と思う方が間違いないと思われた。
 だが、それは確かに目の前のHALそのものだった。

「あんた――― まさか」

 HALは首を軽く傾げる。

「あんたが、眠り男なのか?」

 そうだよ、とHALは重力の無い言葉で答えた。 
 「眠り男」の噂は安岐も聞いていた。だがそれはあくまで噂であって、本当にそんなものが居るとは考えてもいなかったのだ。

「何で」

 どんなに不条理に見えることでも、目の前に現実がある場合、それは信じなくてはならない。
 安岐はその切り換えは早かった。単純と言えば単純であるが、そうでなくては、この街で立て続けに起こった不条理に適応はできなかった。

「やっぱり安岐は珍しいよね。だってこっちがニセモノってことも考えられるんじゃない?」
「ニセモノ?」
「ここにいる俺は本物で、こっちに眠っているように見えるのはレプリカとか」
「そうなのか?」
「いーや」

 ふるふると彼は首を横に振る。そして喋っている自分の胸に手を当てる。

「こっちがレプリカ。寝てるのが本体」
「でも『眠り男』は十年前から眠っているって」
「そうだよ。十年前から眠っているの。時間が止まっているんだ。ここでは」

 少なくとも君よりは上だよ。HALが歳のことを聞かれた時のことを思い出す。

「ねえ朱夏、『音』はうるさくない?」

 安岐は自分にかじりついている朱夏がびくっと身体を震わせたのに気付く。

「うるさいが…… お前は何だ? お前…… 見覚えがある!」
「そりゃあそうだろうね。君は俺に見覚えがあるはずだ。ねえ朱夏、『音』を消したくない?」
「消せるのか?!」
「どうだろう。消せるかもしれないよ」

 朱夏はぐい、と身体を乗り出す。

「そんなに嫌? あの声が」
「あの声が、じゃなく、延々同じ音がめぐり巡ってみろ! 誰だって壊れそうになるじゃないか!」
「そうだね。俺は壊したかったんだから」
「ちょっと待って」

 安岐は口をはさむ。

「それって、あんたがまるで彼女に『音』を仕掛けたみたいじゃないか?」
「まあそういうことだね。俺が作った訳じゃあないけど、俺が頼んだことだから」
「何で」
「この都市を元に戻すために」
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