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34.どんなものにも永遠はない

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「来てたの」

 鍵を渡していたから、確かに来る可能性はあった。朱夏はぼんやりと窓の外を眺めていた。

「お帰り安岐」
「ただいま」
「人が帰ってきたときには『お帰り』だろう?」
「うん。何か、嬉しいな」
「そうか?」

 そのまま窓へ近付く。五階にある安岐の部屋からはSKの地上の街を歩く人の群れが見える。金曜日。夕方。
 仕事を終えて、休日の始まりに、浮かれ出す人々。電波塔から、所々に設置されているFMのスピーカーへ音楽が流れる。あまり大きくはない。あまり小さくもない。街の喧噪には流れてしまう程度の大きさで、声の無い音楽が延々流れている。
 通りの街灯が次第に光を灯し始める。街路樹の緑が光を反射して薄闇に浮かび上がる。空が暗くなるにつれて、鮮やかに。
 屋台のベビーカステラの香りが甘く漂う。新聞スタンドと花屋が立ち並ぶ。笑い声。何処かでぽろぽろとかき鳴らされるアコースティックギター。生の声。練習する場所がないから、とコンクリートの花壇の枠をスティックで叩く少年、だけど花には決して当てないで音だけを跳ねさせる。

「何かあったのか?」
「まあね」
「大丈夫か?」
「あまり大丈夫じゃない」

 朱夏はゆっくりと振り向く。確かに元気がない、と彼女は感じる。
 手を伸ばす。触れた頬が冷たい。立ち上がる。抱きしめる。ゆっくりとキスをする。相手も手を回すのが判る。抱きしめられる。強く。

「でも、大丈夫」
「答が矛盾してるぞ、安岐」
「大丈夫にならなくちゃ」
「言ってるうちは大丈夫じゃないぞ」
「うん」
「判ってるのか?」
「判ってる」

 それでも。

「あのさ朱夏、デートしない?」

 安岐は唐突に言い出す。

「でーと?」
「考えてみたらさ、俺たち、いつもどっかで出会って、結局ここへ来てそれだけじゃない。何処か行こう。ただ遊ぼう」
「そうだな…… それもいいな」

   *

「ソフトの横取り?」

 安岐は目を大きく広げた。会合の後、安岐は一人、壱岐に呼ばれた。
 ちょうどいい、と思った。今回の「仕事」からいきなり外されたことの説明を聞きたいとも思っていたところだった。ところが、言われたのは別の「仕事」だった。

「そういう言い方をするな、人聞きが悪い」
「そりゃそうですけど、壱岐、それは出どころが判らない情報の筈で、下手すると公安の」
「それだからお前に頼むんだよ」

 奇妙だな、と安岐は思った。彼のもと保護者は、こういう頼み方をする方ではない。確かに石橋は叩けば渡るタイプではあるが、壊れそうな橋まで渡るタイプではない。

「それに、これはあくまで俺個人のことで、社長とは関係ないから」
「いいんですか?」
「いつものだってそんなものさ。お前を『橋』の偵察に行かせるのにいちいち許可は取らなかったろ?」

 でもそれとこれとはやや違う、と安岐は思う。
 それにそれだけで済めばまだ良かった。

「壱岐さんに、言うぞ」

 まるで小学生が「先生に言いつけるぞ」とでも言う時の口調で、壁に身体を預けた津島は壱岐のところから出てきた安岐に言葉を投げた。

「何を」
「お前があの人形の彼女と出ていこうとしてるって」

 人形。その言葉は安岐の神経を逆撫でた。

「彼女のことを人形だなんて言うな」

 すると津島はハ、と呆れたように一言笑った。

「レプリカなんて所詮人形じゃないか! 何が面白いっていうんだよ!」
「黙れ!」
「騙されてるんだよお前! 彼女? その持ち主に!」
「持ち主? 東風のことか?」
「お前何にも知らないんだ! そうだよな、壱岐さん甘いから、お前には、話さなかったんだ!」
「何を?」
「鹿島さんや生野さんは知ってたよ。あの人たちは壱岐さんともずいぶん長いからな。あの人達安岐が知らないって言って驚いてたぜ」

 津島は「会社」の古株達の名を出す。じれったい、とばかりに安岐は怒鳴る。

「だから何を俺が知らないって言うんだよ!」

 だん、と安岐は津島をはさんで壁に両手をつく。切れ長の津島の目が壁の衝撃に片方細められた。

「東風のことさ。レプリカ・チューナーの。あの彼女の持ち主の! 壱岐さんは昔、あいつと仲良かったんだ。友達だったんだ。この都市が閉じる前から」
「え」

 初耳だった。

「本当に、お前、知らなかったのか?」
「知らない」

 本当に。
 誰か、が居たとは思っていたけれど。あの時。脱出に失敗した時。兄が「川」に落とされた時。そこに居たのは、壱岐と、自分と―――

 誰かが居た。

「お前」
「俺は、知らない…… 俺は、あの辺りの記憶がひどく少ないから」
「壱岐さんは、都市を脱出するのに失敗した時から、奴には会っていないというぜ。会いたくないんだろ。きっと何かあったんだ。もう何年も、こんな狭い都市の中で、顔を会わせたくない訳がさ!」

 津島は津島で、絞り出すように言う。彼も安岐のそんな顔を見ることになるとは思っていなかったろう。

「そんな情けない顔、するなよ!」

 津島は自分をはさんでいる腕を下からぐっと持ち上げ、思いきり蹴りと一緒に突き上げた。
 ぐっ、と安岐はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。
 砂だらけのビニルタイルの廊下は、むき出しの腕にかすり傷を作るにはいい環境である。倒れ込んだ左の腕は、血まで出ないにせよ、ひどくすれて赤くなっていた。

「何するんだよ!」
「俺は怒ってるんだよ安岐!」
「だから何を怒ってるんだって!」
「お前がすげえ馬鹿だから怒ってるんだろーが!」
「馬鹿? 何が馬鹿だよっ!」
「今更都市から出たいなんて言う奴、馬鹿以外の何だって言うんだよ!」

 黙れ、と再び安岐は津島に飛びかかった。
 もちろん今度は津島も黙って壁に貼り付けられてはいない。最初から組んでかかった。二人は対して力も違わない。やや津島の方が華奢ではあったが、ケンカの経験値は二人とも同じくらいなのである。

「どうせあの彼女が出よう、なんて言ったんだろ。それが東風が彼女にやらせたとか思ったことないのかよ!」
「そんなことする理由があんのかよこのボケ!」
「お前が壱岐さんの秘蔵っ子だってのは、この界隈じゃ知れてることじゃねーか! 壱岐さんと仲違いしてるんだろそいつは!」
「だからって!」
「壱岐さんはお前にダメージがくる方が、自分自身やられるよりきついんだ! お前に!」
「おい津島」

 ずる、と組み合っていた手が崩れる。津島はそのままずるずると床にへばり込んだ。そして両腕で膝を抱くと、そのままその中に顔を埋めた。

「畜生なんだって、お前、ここで満足しないんだよ」
「満足ってお前」
「俺はここ好きだよ…… そりゃ毎日何かと忙しいし、結構危険なこともあるけどさ…… 時々ギターも弾けて…… 皆いい人だし……」

 くぐもった声。泣いてるんじゃないか、と安岐は驚く。そしてしゃがみこんで、少しでも視線を近くしようとする。だが埋もれた顔は、全くその表情の変化を彼には見せない。 

「外へ出て何があるって言うんだよ」

 ぼそっと津島は言う。

「え? だってそうだろ? 外だって都市だってそうじゃないか。俺達は結局は仕事見つけて、毎日毎日働いて食ってくしかないじゃないか。生きてくには。生きてくしかないんだから。そりゃ外には、もっとたくさんの面白いものがあるかもしれないさ。音楽だってもっとあるのかもしれないさ。だけど」
「津島」

 そうじゃないのだ、と安岐は思う。

「俺、お前がそう思ってるなんて知らなかった」
「そーだろよ。結局俺だってお前のこと全然知らなかったんだ」
「泣くなよ」
「泣いてねーよ!」

 津島はうつむいたまま首を横に振る。そのたびに明るい色の髪をさらさらと彼の服の袖口の上を動いた。
 その髪に触れようとした。と。
 手を払われる。一瞬視線が絡む。
 津島は立ち上がった。安岐が止めようとする間もなかった。彼は音を立てて、階段を駆け下りていく。途中で転ぶのではないか、と心配せずにはいられない程の勢いで。
 どうしたものかな、と安岐は思う。
 そうではないのだ。別に朱夏が言ったとかどうとかという問題ではないのだ。
 安岐はここで安住してしまいそうな自分が怖かった。
 彼はいつも思っていた。どうしてこの状態がずっと続くと誰もが思っているのだろう、と。
 どんなものにも永遠はない、と彼は思っている。
 十年前、その都市の人間は、「都市が切り離される」ことなど考えもしなかった。それと同じように、都市が今いきなり元に戻ることだって考えられるのだ。
 確かに十年、この都市で生きてきているのだ。良かれ悪しかれ、慣れてきた。慣れなくてはならなかった。おそらく元に戻ったとしても慣れることはできるだろう。

 だが。

 考え出すと止まらない。最近は特にそうである。考えまいとしていたことが、封印を開けて飛びだしてきたような気がするのである。
 そしてその封印を解いたのが朱夏。
 彼女はごく当たり前のことのように、「捜さなくてはならない」と言った。だがその相手は、明らかに「外」の人間なのだ。おそらく彼女はこれから都市を出ることを本気で考え始めるだろう。それが当然という顔で。
 だが自分にとっては。

 ―――壱岐の部屋がずいぶん静かだったのが妙に気になった。
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