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28.侵入者の重力の無い言葉

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 え、と壱岐イキはその時問い返した。

「だから、どっかで聞いたことある名だなと思いまして。副長、心当たりないですか?」

 忘れ物を取りに来た、と「会社」に戻ってきた津島は、やはり残っていた壱岐に訊ねた。

「『東風とんぷぅ』だろう? そりゃまあ知ってはいるが」
「人ですか? それとも組織の名?」
「人じゃないかな? 俺はそれしか知らないが」
「じゃあ、どういう人なんですか?」

 壱岐は会計ソフトを叩く手を休める。

「こちら側では有名な、レプリカのチューナーだが…… だけど津島、いきなり何だ? そういうのはお前全然縁ないじゃないか」

 壱岐は穏やかに笑う。だが内心やや騒いでいた。津島はもちろんそんな彼の動揺など気付かない。軽くひらひらと手を振ると、軽く答えた。

「いや別に俺は関係ないですけど」
「じゃあ誰だ?」
「安岐ですよ」
「安岐? 何かあったのか?」
「割と浮いた話題ですけど」
「言ってみろ」

 ああまたか、と津島は苦笑する。この安岐の元保護者は結構過保護なところがあるのだ。何でも安岐の兄の友人だったらしい、と津島は聞いている。

「最近あいつ女の子と付き合ってるんですけどね」
「それは初耳だな」
「いや、だって壱岐さん、本当最近ですから。こないだ俺と奴で、B・B行ったでしょ? その時ギタリストやってた子に惚れちゃって」
「ギタリスト? 何か似合わないな」
「でしょう? でも何かもう首ったけって感じで。今日もね、だから俺と、夕方のミーティングの後約束したのに、いつの間にか彼女と会ってるんですよ」
「それはいいが、津島、その子と『東風』が何か関係があるのか?」
「あるのかどうなのか」

 津島は明るい色の髪の毛を引っかき回す。

「ただ言葉の端々に、そういう名が出てきたんですよ。名としちゃ珍しい類でしょ? 呼び名でしかありえないじゃあないですか。その子も何か妙といえば妙だったし。だから何かあるのかなあって思いまして」
「そうか……」
「あ、安岐には俺が言ったって言わないで下さいね~ 奴に後で何くせつけられるの嫌ですから……」
「ああ……」

 津島はそれだけ言うと、忘れ物を持って出て行った。誰もいなくなった「会社」には、蛍光灯のうなりだけが残った。
 壱岐は途中まで入力したデータをとりあえず保存する。
 そして明かりをつけたまま、小銭だけをポケットに入れて外へ出た。
 「会社」の部屋は結構な高さがあるし、このビルのエレベーターは動かない。だから大抵は、一度入ったら出なくて済むように、仕事が長引きそうな時には、飲物や食料を来る途中のコンビニで買っておくことが多い。
 無論この時も買って、パソコンをとりあえず乗せている大きなテーブルの片隅に置いてはあったのである。
 気付かなかった訳ではない。ただ、彼は動かずにはいられなかたのだ。
 何故今頃?
 その言葉が彼の中でうごめいている。
 偶然か? 必然か? それとも……
 歩き出すと思考は回り出す。彼は歩きたかった。歩いて考えをまとめたかった。
 階段をゆっくり降りる。五、六階分の階段は実に降りでも上りでもある。
 ビルを出ると、コンビニまでは三、四百メートル歩かなくてはならない。好都合。活気のあるオフィス街だった昔はともかく、今この「会社」の入っている地区には店も少ない。

 それは好都合……

 二十分後。がさがさと音を立てる袋を手に、壱岐は「会社」ビルへと戻ってきた。袋の中には数本の緑茶とビールがマリー・ビスケットと一緒に入っている。
 五階分の階段をゆっくり、だけど休まずに昇る。やっぱり歩くのはいいな、と彼は思う。気が落ち着く。
 それと同時に彼は気付く。十年近い時間が経っているのに、未だにその一言にびくつく自分の心に。
 情けないな、と自分につぶやく。
 登り切った時、ふと違和感があった。

 あれ?

 妙に、廊下が暗い。

 おかしいな、電気は点けてあったはずなのに。

 壱岐は訝しく思いながらも、いつもより暗い廊下を歩く。他の「会社」はもう閉めているので、廊下の電気も切ってある。わざわざ点けるのはエネルギーの無駄である。
 だが「会社」には点けておいたはずだった。壱岐は扉の前で身体を硬くする。
 ドアのノブに触れる。手応えがない。鍵を掛けて出たはずなのに。社長が来ているのか?いやそんな筈はない。合い鍵を持っているのは彼だが、来ているなら電気がついている筈だ。
 そっと、音を立てないように壱岐はノブを回す。
 まだ満ちてはいない月の明かりが、窓から差し込んでいる。その床に落ちた月の影を目でたどるうち、彼の心臓は躍り上がった。

 誰か居る。

 窓際に、誰かが座っていた。

「誰…… だ」

 壱岐は自分の声が震えているのに気付いていた。

「遅かったじゃない」

 乾いた低音の声が、人のいない部屋に響いた。小柄な侵入者は、月の逆光で判らないが、長い髪をしている。だけどその声は女じゃない。

「誰だ!」
「おや、ご存知ない?」

 ひょい、と侵入者は窓から降りる。壱岐は入り口の照明のスイッチを手探りで探し当てる。悠長なことを言うこの侵入者の顔を見てやりたいと思ったのだ。
 ぱちん、と手に感触がある。数秒で、蛍光灯が全部点く筈だった。ところが。

「?」

 電気はまるで反応しない。停電か、と彼は一瞬思った。

「停電じゃあないよ。俺が止めてんの」
「お前、誰だ?!」
「誰だっていいじゃない」

 楽しそうに侵入者は言う。

「それよりねえ、頼みがあるんだけど?」
「頼み?」
「次の取引の日にね、ちょっといけないモノが入るんだけど、それを抜き出してくれない?」
「何を言ってるんだ!」

 壱岐はやっと慣れてきた目で、侵入者の位置を確認する。男かもしれないけれど、こんな小柄な奴なら取り押さえることができるだろう。タイミングを推しはかって、飛びかかろうとした。ところが。

「駄目だってば」

 そう相手が言った。大きくも強くもない声で、ただはっきりと。
 言っただけだった。なのに。
 動けない。
 壱岐は飛びかかろうとした不安定な体勢のまま、前のめりに転びもしない自分に驚いた。そして恐怖した。見えない力が、自分の胸だの腹だの…… 前半身を支えている。

「……」

 なんじゃこりゃあ! と言いたいところなのに、声が出せない。叫べば多少こんな理不尽な現実に対して反旗を翻せるが、どうやらそれすらも封じ込まれている。
 凍り付いた彼に、侵入者は一歩一歩近付いてくる。すらりとした小柄な身体が、音も立てずに近寄ってくる。壱岐の背中に一気に悪寒が走った。
 侵入者は、前に突き出した形になっている壱岐のあごを片手で捕らえると、顔を寄せて囁く。閉じることの出来ない瞳に映ったのは、夜目にも端正な顔だった。

「大人しくしてれば、手荒なことはしないよ。ただ俺は頼みがあると言っただけだよ。それだけのことじゃないの」

 それだけのために、こういうことをするのか!

 反論したいが、全身が全く動かない。金縛りとはこういうことを言うのか、と壱岐は今更のように思い知った。

「とにかく君にはやってもらわなくちゃね。君がどう思おうが、俺には何も関係はないんだから」

 侵入者は軽く言い放つ。その重力の無さに壱岐は再び悪寒が走るのを覚えた。

「ね?」

 そこで彼の意識と記憶は途切れた。
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