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17.朱夏との出会い

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 三年前のことである。
 雨が降っていた。

「タカトウ君、傘持ってきなさいよ!」
「『KM』駅すぐ近くだから、いいよ!」

 紺色の制服にストライプのプラウスの、同僚の女の子が彼に呼びかける。彼は、表の仕事の家電屋から部屋へ帰ろうとしていた所だった。
 その日は、満月のはずの夜だった。満月の晩だけ、「橋」はつながる。取引の要の日である。彼が居る家電屋も例外ではない。
 だが彼は表向き、実に無能な店員だったので、その日も店のほうで待機する番だった。
 店は『OS』の電化街の中でもなかなか大きなものであったが、残されていたのは数名の女の子と、何やら以前に脱出を試みて失敗し、左腕が利かない主任と、彼だけだった。
 いつものように、大騒ぎして帰ってくるのを待つと、帰るのは終電ぎりぎりになるはずだった。
 ところが、雨が降ってきた。
 電話で同僚が、中止をを怒っていた。主任はそれを聞くと、彼と女の子達に、今日は待っていなくてもいいよ、と告げた。無能な社員の彼はあっさりと、じゃあ失礼します、と言って出てきた。
 女の子にああ言ったはいいが、雨はひどくなってきていた。アーケードのうちはいいが、それを抜けると大変である。彼は軒先を渡り走った。

 と。

 軒先に、何かがあった。
 電化街も、一歩裏へ入ると薄暗い所が多い。なのでそれが何なのか、彼は一瞬迷った。

 ……子供?

 ―――にしては大きかった。そして衣服がぼろぼろになっていた。横座りのそれは、ぐったりと身体を戸口にもたれさせていた。長い、ウェーヴのかかった髪が雨に濡れて身体中に絡み付いていた。

「……君」

 それは声に反応して、吊り上げられるように顔を上げる。この反応には彼は見覚えがあった。

 レプリカントだ。

 東風はそのレプリカントと同じくらいの目線になるようにしゃがみ込むと、こっちを向いて、と優しく命じた。
 そして簡単な検査の時にする指示の言葉を二つ三つ、投げかける。どうやら壊れてはいないらしい、と彼は判断した。
 それにしてもその姿はひどかった。
 ひどく綺麗な顔なのに、所々が傷つけられている。傷をつけられれば、疑似血液が流れるのだが、それももう止まっている。雨に流されている。ただ何かで切りつけられたらしい跡が、つるんとした卵型の顔にすっぱりと大きく付けられている。
 夜目にも出来のいい顔だった。
 傷を付けたのは、よっぽど目が悪いか、綺麗なものが嫌いな者だろう、と彼は思った。
 濡れたウェーヴの髪をかき上げると、ぼんやりとした視線が彼を捕らえた。そしてそれは彼に問いかけた。

「あなたも私を傷つけるのですか?」

 彼はその言葉に顔を歪めた。そんなことはしない、と答えた。

「だったら私を拾って下さい。私は壊れそうなのです」
「壊れそう?」
「私の中で音が鳴り響いて止まらないのです。このままでは私は何をするか判らない。だけど壊されたくない。あなたはチューナーでしょう?」

 質問のパターンで気付いたのだろう。そうだ、と彼は答えた。

「私を助けて下さい」

 結局地下鉄には乗らずに部屋に戻った。
 そのレプリカントが動けない訳ではないが、ぼろぼろになった衣服――― 明らかに複数の人間に乱暴をされたということが判るその格好では、地下鉄には乗せたくなかったのだ。



 無能な社員は、それから一週間、雨に濡れて風邪を引いたと嘘をついて店を休んだ。
 乾かした猫は、ふわふわの髪の毛を持った極上品だった。大きな目が際だつ整った顔、華奢な体つき、そしてやや低めの声。
 しかも珍しい無性型《セクスレス》。どちらかというとやや少年的なものだったが。
 レプリカントの用途はそれぞれだが、基本的に金持ちの持ち物であることが多い彼らは、持ち主の要望に応じて性別をつけられる。手軽で人気があるのはやはり、性別がくっきりしたタイプだった。量産されるのはそういうタイプだ。
 セクスレスとなるとそうもいかない。注文品ということになる。しかも注文品なら、東風は何かと見知っている筈なのだ。「外」のものならともかく、都市内のものなら数は知れている。
 彼は、その顔に何処かで見覚えがあるような気がした。だがそれが何だったか、全く思い出せなかった。
 確かに昔、見たことがあるのに、その部分だけに薄く紗がかかっているような気がする。
 とはいえ、そんなことを考えている余裕はなかった。その拾った猫は、何処かのねじが一本飛んでいた。
 本人もその事には気付いていた。

 音がうるさいと言う。

 だがそんな音は、東風にはもちろん聞こえない。それにそれだけではなかった。反応を調べていくうちに、その猫の回路設定に矛盾があることに気付いたのだ。
 それは問題だった。東風にとっても、猫にとっても。



 第一回路《ファースト》と第二回路《セカンド》、というのは、深層意識と表層意識の関係に近い。もしくは本能と理性。種の記憶と個人の記憶。

 第一回路は、レプリカントが「人間もどき」として生活していく上に必要な基本的条件を組んだものである。それは直接HLMにつながり、生産時以外、まず手をつけられることはない。下手に手を出すと、HLM自体が破壊される恐れがあるのだ。
 一方の第二回路は、生まれてから体験したことを積み重ねている学習回路とでもいうものである。そのレプリカントが独自に歩んできたそれまでの記憶がそこにはおさめられる。
 だが、その第一回路と第二回路に矛盾がある。
 というよりも、このレプリカントの第一回路自体が通常のチューニングではないのだ。
 古典的SFにおけるロボットの原則のように、レプリカントには、基本的に人間の奴隷として使われるための規則が組み込まれている。「人間を傷つけてはならない」「人間に逆らってはならない」等々。
 だがどうもこのレプリカントにはそれが組み込まれていない。
 それなのに、第二回路には、その規則が「教育」されている。
 第二回路は確かに後天的なものではあるが、それでも一度「教育」された規則はこのレプリカを締め付けているかのようだった。
 そしての言うところの「音」。
 それもまたどうやら第一回路に組み込まれているらしく、それがまた「規則」とは決して相いれないものらしく、どうもその両方に揺さぶられて疲れ切っているように見えたのだ。
 とは言え、意志を持っているものに対して、無断でやっていいことと悪いことがあると東風は思っていた。

 だから彼はに訊ねた。

「君は俺に助けて欲しいと言った」
「ええ」
「それはここで、この都市で生きていきたいという意味?」
「はい。私は私の身体を破壊する訳にはいかないのです」 
「だけどそのためには君の第二回路をチューニングし直さなくてはならない。つまり、君の第二回路を一度消去しなくてはならないんだ」

 それは一瞬黙った。だが迷っているようには見えなかった。やがてそれはうなづいた。軽く笑みさえ浮かべて。

「仕方ないですね」

 もちろんそれで「音」が消える訳ではない。だが、「音」と付き合って生きていくことができれば、と東風は思ったのだ。
 結局それは、自分が何処の、何のためにつくられたレプリカントか、ということは一切話さなかった。
 東風も訊く気はなかった。
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