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2022/8
8/17-26 忙しすぎた(笑)/ラルクさんのドラムスタイルの違い/何で父親が生理的にあかんかったのか
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あと土日~!
そーすればこの夏の仕事どーん! が終わってまた週1、2に戻る日々が!
特に今週は合間の日は夜普通に寝たとしても昼まで寝ててそれからも暑くてなかなか動けなかったり睡魔が襲ってきたりだったしー。
ということでこの日記的なやつも10日近く空いてしまったじゃないか(笑)。
そんでドレスの方も160センチ少々の小さい人が出だしたことでモデルの(笑)動いているのとか口調とかどうだったかなー、というので見たら「何ですかこの楽しいPVは」ということで「Don't be Afraid」を通常版と英語版と両方DLしてしまったじゃないですか(笑)。つかこれとかグラマラススカイなんかは英語版の方が好きだなあ。
PVは逆回転スローモーション戦闘ものだったけど、いやーもう4~5年前の「最新」シングルだったのね。
今更の様に音楽業界に興味失ってたというのが!
ええまあ某キャラはお察しの様にモデルはH氏ですし、そもそもまともに動かせる男性キャラってのが彼モデルしか居ないという事実がなあ(笑)。何せ25年前にはこれでもかとばかりに見て聞いて頭に声と動きと表情をインプットしたからなー。
素顔に近い方は確かに経年しているようですがメイク+衣装の時のこのひとはホントに歳は一体、でなあ。
素地とガタイがとても自分と同じくらいの歳とは思えねえわ全く。
あと過去曲の歌い方、変わっても某R氏の様な丸くなり方ではないので安心したわ……
ということでぶっちゃけラルクを(笑)久しぶりに楽しくYouTubeで聴いていていたんだけど、過去曲がなかなかプレイされなかった+滅多にやらないのがやられて感動! ってのがあったのはドラムのサウンドの違いがあるからなんだろーけどね。
sakuraとYukihiroのプレイスタイルで一番違うのはスネアにどうスティックを叩きつけるか、だとごく近年やっと気付いたんだよなあ。
たぶんスネア自体の張り+音自体はそう変わらないとしても、Yukihiroはチップだけ出叩いていると思うしそれが普通なんだと思うんだけど、sakuraはチップ+シャフト両方打ち下ろしてる様な感じがするんだよな。リムをカンカン叩くこともZIGZOの曲のテクの中にも結構入れていた気もするしなあ。重かったりゆったりしているとかそういう部分が出てるのもそういうとこかなと思ったり。
三年間の吹奏楽部経験でスネア叩くことに関しては延々基礎練でやらされてきたんだけど、まず何より右スティックを振り下ろすことから叩き込まれたんだよな。左は一月くらい空中でスティック挟んでひたすら腕伸ばして下ろさない様にして親指と人差し指の間にはさんで100回垂直になるまで動かして~ってのやってからよーやく机(笑)叩くの許されたわ。
まーよくも悪くもレギュラーグリップで習ったんで、マッチドグリップで叩く方がいいだろうドラムスだの、ワタシが担当だった木琴鉄琴なキーボードパーカッションには不利だったわなあ。
初心者はマッチドグリップの方がええどす。
違いはこんなん参照。https://www.suganami.com/info/42671
とまあ話が逸れたけど、よーすんにタメの効いた自由度の高い感情的なドラミング(客を選ぶ)が過去曲+Hさんの歌い方と合っていたので、ユッキーのスタイル(普通に滅茶苦茶上手いし正確)とはちょい合わないというのは仕方ねーことなんだわな。
……ええ、だから2018年のクリスマスライヴで「静かの海で」をやったというのにびっくりしましてな。
sakuraは曲作ること滅多になくてInner Coreとこの静かの原案っちゅーか、しか無い訳で。
まあさすがにと思ったのでびっくら。ということで聞き比べしたいので中古ポチりましたよ! ええい。ラインナップ的には今一つアレなんですが、どんびーあふれいども入ってるからちょうどいいかと。
*
んで。
まあこれはまた溜めておくともやもやするので出しておこう、という死んだ人の件。
愚痴なんで嫌な人はスルー推奨。
母親に関しても延々「何で常に気を許してはいけない存在」と思っていたのか? というのは散々考えたんだけど、父親に関してはこれだろなー。
前提としてうちはともかく「好きなことを家の中ではしていた」んですよ。
母親もそうですが、父親は特に。
で、母親はそれに何もおかしいことないとばかりに対応していたんですね。
今になって記憶をそーとーひっくり返して「それはどうよ」な件。
ちょっと気付いたのが「え? マザコン男?」な件。
これは実の母親、ワタシの祖母に対してどうの、というのではなくて、父親が妻に対して母親的役割を要求していたのではないか、ということなんですね。
掲示板ネタ拾いに動画よく見るんですが、「たおぱんぱ」っーのがあります。風呂に入る時にタオルパンツパジャマを揃えておくのが常識だ、という夫に冷めた、という例ですね。
はっきり言ってキショイです。幼児語ですな。
……要するにそれに近いことがあった訳ですな。
ワタシがガキの時分ですから、昭和50年代ですか。
当時家に風呂があった訳ではなく、我々は常に公衆浴場に行ってました。
この時には父親は石鹸とタオルくらいしか持っていかない。まあ当時としてはよくある光景です。
じゃあ下着はいつ替えるのか? 朝です。
そこで「替えパン」一言が出る訳です。……お前の目の前のたんすは一体何なんだ案件ですね。
我々ガキには自分で出す様にと一応。ですが父親に関してはそれをやっていたんですね。
ワタシはあれがまずイラっと来ていたんだと思います。
パンツ一丁(ブリーフ)でうろうろするのはまあ昭和ですからある程度仕方無いです。トランクスだったらまだよかったのに、というのは夏になると短パンで仕事している人に要求しても仕方無いですし。そもそも下着とかは母親が購入してくるのが当然だったし。地方の衣料品店ではグンゼしかないでしょうし。
次に苛々したのが昼寝~ひどいいびきの後に絶対「グーグー言った?」と聞くということ。
いやそれしたに決まってるだろうに何で聞く? と毎度思うのに毎度聞く。
ガキの頃、皆同じ部屋で寝るとこのいびきが酷く、まあ何というか自分の部屋ができるまではなー……
この二点がまず「きもちわるい」の原点だったと思います。
あと小学校に入ってPTA行事で父親も参加していた時に、他の父親達と「何か違う」。微妙に悪目立ちしていた訳ですよ。
まあ今となれば自分と似ている訳だから分かるんですよ。自分のこだわり第一で他者の目を気にしていなさすぎだったんです。
明らかに浮いた言動も、周囲の「大人」達が「あの人は本好きの頭いい人だから」と許容していたから部分がありました。だけどガキからしてみれば「恥ずかしい」対象ですね。特に工場勤めの父親ばかりが居る様な田舎としては。
うちの父親は農家の末っ子に産まれて、父親をガンで亡くしてます。
ワタシが生まれた時には父方の祖父は既に亡かったので祖父のイメージというのは母方のそれしか無いです。こちらは「鍛冶屋」でした。ほとんど接触無かったです。これは自分に責任ありますが。
うちの父はその自分の父親がどんどん顔面が腫瘍に冒されていく様に根本的な恐怖を覚えたらしいです。
彼が自分の青春時代を描いた「小説」にはそういうこともありました。
あ、ちなみに自然主義かぶれ+人に読ませる意識が無いのでワタシからしたら「若い頃こんな遊んでてモテたんだぞ、したいこと格別無かったけどともかく仕事もらったからやるしかない、でもブラジルに移民にしてみたかったけど母に泣きつかれてやめた」という、本人を知るにはいいのですが、小説としてはただただ気持ち悪かったです。
少なくとも「娘に」読ませる内容じゃありません。
このデリカシーの無さは、施設に行ってから部屋の始末をする際に隠し扉の中に入ってるものを(AVとか)わざわざ見させたり、結婚前の交換日記(母ではない)を読まれて嬉しがる辺りもありますな。
母が何処か潔癖症になったのはその辺りもあったのではないかと思いますわ。まあそんな母が怖くてこっそり隠しておいたんでしょうが。
話ずれました。
ともかくどうも自分の父親の死に方には相当がつんときた様です。
だからまあ、父に数年前から肺がんがあったことは当人には隠してました。進行は遅いだろうと分かっていたし、当人が知ったところで鬱が激しくなるだけでしょうから。
死因は結局そのがんの流れだったんでしょうが、対応は間違ってなかったと思います。そもそも当人が生きる意思をもう施設に入る前から無くしていたし。
それと「小説」の方にあった色んな鬱屈に関しては、当時の進学事情もあったと思われます。
当人は文学かぶれの、市内一番の高校に行けた学力はあった様です。
ですが「農家の末っ子」が昭和20年代後半に行かせてもらえたのは通える範囲である農業高校の定時制だけでした。四年制です。
ちなみに母もその辺りの鬱屈があった様で。彼女もまた市内一番の女子校に行けた頭があったんですが、行かせてもらえず、一番近場の高校に。ただそこが合わずに一年で退学し、ドレスメーキング系の洋裁学校に通った後に豊橋の会社に住み込みで働いていたようですが。
まあこっちの家系はやんちゃが入っていた様で、彼女も時代が緩かったとはいえ、無免許原チャリで豊橋から浜松の実家まで帰ってきたこともあったとか何とか。まあ彼女の方はおそらく嫌だったら嫌ということで別進路で金を稼げる方向にした様です。
父親の方は後々になって通信教育で法学とかも習っていた様ですが、……現実的は何にもなってませんでしたが……
青年団活動には熱心だったようです。
当時はまだうちの町、実に繁栄しておりまして。
まだ浜名湖を渡る橋ができてなかったので、船で対岸から様々なものが送られてきてました。
だからそれこそご町内で全部揃ったし、昭和30年代の糸へん景気の時代には九州から出稼ぎの娘達もやってきていたくらいです。
ちなみにウチに浜木綿だのあるのはその頃の名残だそうで。
この娘達を当時の若者であった父達は入れ食い状態だったということです。
そーいう時代でしたから、公民館もでかく、ホールになってました。残っていたらいい感じの小ぶりな近代建築じゃないかと思います。
昔そこで映画を見た記憶もありますが、木の長椅子が沢山ありました。
そこでクリスマス劇だのプレゼント交換だのやったそうです。劇の脚本を書いてたどうの、というのはご町内の「昔を知ってる親戚筋」から聞いた話です。
だからそういう人々からは確かに好かれていたんだと思います。
ですが父親としては別なんですよね。
もの凄く小さな、記憶にない時代にはそれなりに接触があったのかもしれませんが、ワタシの記憶にある父親というのは、その上記の件と、「他の父親と何か違う」と、「何処かに食事に行く時には会社のトラックを借りてった」と、「中国の記事のスクラップを異様に丁寧にやっていた」ことでしょうかね。
このスクラップ作業というのは、中共と国交が始まった辺りから朝日新聞(静岡新聞と中日新聞が大半の町内では異質)の記事を神経質なまでに綺麗に切り取っては、スクラッブブックにぴったり貼り込んでいく作業でした。
ワタシはこの作業にはうんざりしていた記憶があります。
というのも、この作業の時にはテーブルを揺らしてはいけないんですね。
幼稚園から小学校低学年の子供にそれはなかなか、なんですがマジで怒ったんですね。
まあ夏はいいんですよそれでも。テーブルが広い座卓でしたから。
ですが炬燵の時は使える範囲がですね……
小学三年辺りで増築した時に廊下の端を机のスペースに貰って、作りかけの二階(天井も畳も無し)で貰ったマンガ読みふける様になったり、ラジオも使える様になってからはもっぱら一人で籠もってましたね。
前々から書いてますが、ウチはマンガは自由、というか率先してそもそも父親が読んでました。
つげ義春好きで、……トラウマものでしたね。
まあおかげでワタシはオタクとして当然に成長した訳ですが。
この「子供に邪魔されると不機嫌になる」も遠ざかる原因だったと思います。
あとはまあ、今ワタシの小銭稼ぎになってますが、PLAYBOYとプレイボーイと平凡パンチを週刊朝日と一緒に欠かさず買っていてそれをまた隠さなかったことですかね。そしてやたらに物持ちがいい。
雑誌の物持ちがいい、というのはまあいいんですよ。おかげで暮しの手帖を一世紀から読んでましたからワタシ。
まあ花森イズムが好きだったようです。今となってはあかんねえ、ですが。
兄は何か怒られることがちょいちょいあった様です。ワタシはどうもその辺りを見て「怒られない様に」できるだけ離れていた訳ですが。
ただ「叱って」いたという感じはしないんですね。「怒って」はいた様ですが。
うちの両親はたぶん「しつけ」には失敗してます。
母親に関しては、性格のせいでしょうな。子供に洗濯物畳みとかさせるこたなく自分でさっさとやってしまう方でした。
世話した方が教育して待つより楽だった、というタイプです。
ワタシはそんな彼女に対しては取り込まれるという恐怖があった様で、それこそ小学生の時からガードはってました。
今でも似ているタイプの同僚には警戒しきりです。
というか、小学五年にダイエットはあきまへん。今の母親だったらまあ、その前に太らせないでしょうが、昭和ですから。「肥満児教室」なんて小学校でさせる時代ですから。
だったらその前に食事時に「ん」でおかわりをする父親のしつけをしろ、という話です。
それを見ていた自分は母方親戚のとこに泊まりに行った際にいちいち「お代わり下さい」と言う従姉妹達にびっくりして身を振り返ったものですよ。
箸も自覚はしていたんですが、わざわざ矯正させようともしない母親に反抗して、こっそり自分で矯正しておき、直っていないフリをしていました。そーいう地味な反抗をしてましたね。
まあだから、母親には反抗していたんですね。
一方父親は「無視」してました。
触れないどころじゃないですよ。「視界に入ってほしくない」でした。思春期だったので気持ち悪さが絶頂期だった訳です。
これが延々続いて、ワタシは生きている間、握手も気持ち悪くてできませんでした。
母親に関しても小さな頃はは肩もみともかしていたんですが、途中から駄目になりましたね。
「普通の家庭」の姿にたぶんワタシはかなり憧れていたんだと思います。
休日に外に出かけて楽しむ様な。普通に周囲と同じものを買ってくれる様な。
ですがそれは無理でした。
買ってくれるものに関しても「子供が楽しむもの」じゃなく親の都合か美感にあったんではないかと。
ワタシね根っこにはたとえ昭和40年代であったとしても「皆が同じ赤のぴかぴかバッグだったのに自分だけ紺の大人の合皮バッグに何故かリアルチューリップ刺繍」なバッグで幼稚園に行っていたことがあります。
まあ二年しか使わないものに、というのがあったんでしょうが。でもな、その色は無いだろう、という。
もうこの時点で「同じものは持たせてもらえないんだ」というあきらめが生まれた様な。
小学五年の裁縫箱も周囲が一斉に買うクリーム色にクロスステッチイラストの厚手のものではなく、兄貴のお下がりの緑のスケルトンだったというのも然り。
違うことはいいことだ、に頭はシフトチェンジしないとやっていけない訳ですよ。
そんで家族イベント。これも何かあかんかったですね。
何か出かけると「退屈」になってしまうんですわ。
遊園地に行った記憶はガキの頃は一度しか無いですね。少なくとも遊園地の乗り物に乗った記憶が無い。
代わりにフラワーパークに行っていたんですが、……まあ途中から退屈になりますなあ。
芝生広場でお弁当を食べるはいいけど後は父親は昼寝だし、ワタシと兄貴はどうしていいのか状態ですよ。
旅行も「家族四人で」行ったのは「寸又峡温泉」一回だけ。行くまでが楽しかったような。
あとは町内の婦人会か何かで行った伊勢・志摩行きや大阪の中国博~高野山だけですか。前者は日帰りだったし、後者は家族というより集団だったし。でもその集団が誰なのかさっぱり分からなかったので楽しむのも難しく、仏教絵本を後で楽しんだという記憶くらいですかねー。
奥山にジンギスカン料理(豚肉ですが)は毎年夏に行きましたが、途中で父親が昼寝に入ってしまったりして暇になったり。結局五百羅漢を歩いた後のミルクかき氷が目当てだった気がします。
兄とは彼が中学に入るまではその物理的距離のせいかよくボードゲームをしてましたね。そして一度も勝てませんでしたし…… 近年でもオセロで負けますよ……
まあともかく皆それぞれやりたいことがあって、それを無しにした家族で動くというのは面倒だという気性だった訳です。
家族麻雀が続いたのは、あれがゲームを通していることだったことですね。しかもあれは運が左右したからさほどに腕を必要としなかった。皆心理を読むというレベルでは無かったですから。
まあね、今だったら分かりますわ。
皆発達障害(勉強的な頭は良いので分かりづらい)をそれぞれ持っていて、「普通の家庭」のロールモデルが示せていない。
父親は字のみみずぶりからして、「他人に読ませる」ということを考えずに熱心に町内の体育振興会とか図書の会報をガリ版で作ってましたがね。ワタシはあの字が気持ち悪かったんですよ。
後にワープロを母親が打つ様になってもあくまで手書きにこだわってましたね。読んでもらいたいならそっちの方が良いのですが。
その上「したいことをするのに熱中する」のが一番という手本を見せてくれてしまっていましたな。
皆それぞれ自分の作業部屋持つ様になってからは、テレビを見るという理由が無い限りはお茶の間に居ませんでしたわ。
それに「夫婦」の姿もワタシには分からないままだった。ともかく親父のエロ本好きを母親が嫌っていたのは確かでしたが。でもそれ以上のものが「読めない」ワタシにはさっぱりだったし。
おそらくそれは兄にも同様だったと思います。
彼は18で家から離れて滅多に帰らず。
二十年くらい彼とは疎遠だったんですが、母の葬式以来は仲良いです。どっちもそれぞれ勝手に大人になったからですが、片方は三回結婚し、一方は異性とつきあったことも無い。
共通しているのは「人の親になるには向いていない」。
少なくとも「きもちわるい」と思わせる父だったのは本人及びそれを許した母を結構恨みたいです。
彼女は「子供に与える影響」よりおそらく面倒だから言われるままに色々やってやったのだと思うし。
父親は機械類が本当に駄目だったからその一方で母親がパンク修理もしていたし。
時代と育ちからして、肥汲みができるというのは凄いことだとは思いますが、だからと言って機械類操作を拒否していたというのはな。
そういうとこに頑固にこだわらなければ施設でももう少し退屈しなくて良かったと思うのに、ですよ。
携帯も買って数年、向こうからかけてきたのが二度ですよ。たった二度!
何かしら残してくれた感謝はできても、愛情は持てない。
夫婦のロールモデルの根底に彼等があることはやっぱりでかい。
結婚はしたくないというのはもう小学生の時からあって、ずっと言い続けてきたけど、それでも言ってくる人々にそういう感情が無いんた、と言っても通じなくて困りましたよ。
まあ遺伝と環境ってでかいよね、という――で〆ますわ。
そーすればこの夏の仕事どーん! が終わってまた週1、2に戻る日々が!
特に今週は合間の日は夜普通に寝たとしても昼まで寝ててそれからも暑くてなかなか動けなかったり睡魔が襲ってきたりだったしー。
ということでこの日記的なやつも10日近く空いてしまったじゃないか(笑)。
そんでドレスの方も160センチ少々の小さい人が出だしたことでモデルの(笑)動いているのとか口調とかどうだったかなー、というので見たら「何ですかこの楽しいPVは」ということで「Don't be Afraid」を通常版と英語版と両方DLしてしまったじゃないですか(笑)。つかこれとかグラマラススカイなんかは英語版の方が好きだなあ。
PVは逆回転スローモーション戦闘ものだったけど、いやーもう4~5年前の「最新」シングルだったのね。
今更の様に音楽業界に興味失ってたというのが!
ええまあ某キャラはお察しの様にモデルはH氏ですし、そもそもまともに動かせる男性キャラってのが彼モデルしか居ないという事実がなあ(笑)。何せ25年前にはこれでもかとばかりに見て聞いて頭に声と動きと表情をインプットしたからなー。
素顔に近い方は確かに経年しているようですがメイク+衣装の時のこのひとはホントに歳は一体、でなあ。
素地とガタイがとても自分と同じくらいの歳とは思えねえわ全く。
あと過去曲の歌い方、変わっても某R氏の様な丸くなり方ではないので安心したわ……
ということでぶっちゃけラルクを(笑)久しぶりに楽しくYouTubeで聴いていていたんだけど、過去曲がなかなかプレイされなかった+滅多にやらないのがやられて感動! ってのがあったのはドラムのサウンドの違いがあるからなんだろーけどね。
sakuraとYukihiroのプレイスタイルで一番違うのはスネアにどうスティックを叩きつけるか、だとごく近年やっと気付いたんだよなあ。
たぶんスネア自体の張り+音自体はそう変わらないとしても、Yukihiroはチップだけ出叩いていると思うしそれが普通なんだと思うんだけど、sakuraはチップ+シャフト両方打ち下ろしてる様な感じがするんだよな。リムをカンカン叩くこともZIGZOの曲のテクの中にも結構入れていた気もするしなあ。重かったりゆったりしているとかそういう部分が出てるのもそういうとこかなと思ったり。
三年間の吹奏楽部経験でスネア叩くことに関しては延々基礎練でやらされてきたんだけど、まず何より右スティックを振り下ろすことから叩き込まれたんだよな。左は一月くらい空中でスティック挟んでひたすら腕伸ばして下ろさない様にして親指と人差し指の間にはさんで100回垂直になるまで動かして~ってのやってからよーやく机(笑)叩くの許されたわ。
まーよくも悪くもレギュラーグリップで習ったんで、マッチドグリップで叩く方がいいだろうドラムスだの、ワタシが担当だった木琴鉄琴なキーボードパーカッションには不利だったわなあ。
初心者はマッチドグリップの方がええどす。
違いはこんなん参照。https://www.suganami.com/info/42671
とまあ話が逸れたけど、よーすんにタメの効いた自由度の高い感情的なドラミング(客を選ぶ)が過去曲+Hさんの歌い方と合っていたので、ユッキーのスタイル(普通に滅茶苦茶上手いし正確)とはちょい合わないというのは仕方ねーことなんだわな。
……ええ、だから2018年のクリスマスライヴで「静かの海で」をやったというのにびっくりしましてな。
sakuraは曲作ること滅多になくてInner Coreとこの静かの原案っちゅーか、しか無い訳で。
まあさすがにと思ったのでびっくら。ということで聞き比べしたいので中古ポチりましたよ! ええい。ラインナップ的には今一つアレなんですが、どんびーあふれいども入ってるからちょうどいいかと。
*
んで。
まあこれはまた溜めておくともやもやするので出しておこう、という死んだ人の件。
愚痴なんで嫌な人はスルー推奨。
母親に関しても延々「何で常に気を許してはいけない存在」と思っていたのか? というのは散々考えたんだけど、父親に関してはこれだろなー。
前提としてうちはともかく「好きなことを家の中ではしていた」んですよ。
母親もそうですが、父親は特に。
で、母親はそれに何もおかしいことないとばかりに対応していたんですね。
今になって記憶をそーとーひっくり返して「それはどうよ」な件。
ちょっと気付いたのが「え? マザコン男?」な件。
これは実の母親、ワタシの祖母に対してどうの、というのではなくて、父親が妻に対して母親的役割を要求していたのではないか、ということなんですね。
掲示板ネタ拾いに動画よく見るんですが、「たおぱんぱ」っーのがあります。風呂に入る時にタオルパンツパジャマを揃えておくのが常識だ、という夫に冷めた、という例ですね。
はっきり言ってキショイです。幼児語ですな。
……要するにそれに近いことがあった訳ですな。
ワタシがガキの時分ですから、昭和50年代ですか。
当時家に風呂があった訳ではなく、我々は常に公衆浴場に行ってました。
この時には父親は石鹸とタオルくらいしか持っていかない。まあ当時としてはよくある光景です。
じゃあ下着はいつ替えるのか? 朝です。
そこで「替えパン」一言が出る訳です。……お前の目の前のたんすは一体何なんだ案件ですね。
我々ガキには自分で出す様にと一応。ですが父親に関してはそれをやっていたんですね。
ワタシはあれがまずイラっと来ていたんだと思います。
パンツ一丁(ブリーフ)でうろうろするのはまあ昭和ですからある程度仕方無いです。トランクスだったらまだよかったのに、というのは夏になると短パンで仕事している人に要求しても仕方無いですし。そもそも下着とかは母親が購入してくるのが当然だったし。地方の衣料品店ではグンゼしかないでしょうし。
次に苛々したのが昼寝~ひどいいびきの後に絶対「グーグー言った?」と聞くということ。
いやそれしたに決まってるだろうに何で聞く? と毎度思うのに毎度聞く。
ガキの頃、皆同じ部屋で寝るとこのいびきが酷く、まあ何というか自分の部屋ができるまではなー……
この二点がまず「きもちわるい」の原点だったと思います。
あと小学校に入ってPTA行事で父親も参加していた時に、他の父親達と「何か違う」。微妙に悪目立ちしていた訳ですよ。
まあ今となれば自分と似ている訳だから分かるんですよ。自分のこだわり第一で他者の目を気にしていなさすぎだったんです。
明らかに浮いた言動も、周囲の「大人」達が「あの人は本好きの頭いい人だから」と許容していたから部分がありました。だけどガキからしてみれば「恥ずかしい」対象ですね。特に工場勤めの父親ばかりが居る様な田舎としては。
うちの父親は農家の末っ子に産まれて、父親をガンで亡くしてます。
ワタシが生まれた時には父方の祖父は既に亡かったので祖父のイメージというのは母方のそれしか無いです。こちらは「鍛冶屋」でした。ほとんど接触無かったです。これは自分に責任ありますが。
うちの父はその自分の父親がどんどん顔面が腫瘍に冒されていく様に根本的な恐怖を覚えたらしいです。
彼が自分の青春時代を描いた「小説」にはそういうこともありました。
あ、ちなみに自然主義かぶれ+人に読ませる意識が無いのでワタシからしたら「若い頃こんな遊んでてモテたんだぞ、したいこと格別無かったけどともかく仕事もらったからやるしかない、でもブラジルに移民にしてみたかったけど母に泣きつかれてやめた」という、本人を知るにはいいのですが、小説としてはただただ気持ち悪かったです。
少なくとも「娘に」読ませる内容じゃありません。
このデリカシーの無さは、施設に行ってから部屋の始末をする際に隠し扉の中に入ってるものを(AVとか)わざわざ見させたり、結婚前の交換日記(母ではない)を読まれて嬉しがる辺りもありますな。
母が何処か潔癖症になったのはその辺りもあったのではないかと思いますわ。まあそんな母が怖くてこっそり隠しておいたんでしょうが。
話ずれました。
ともかくどうも自分の父親の死に方には相当がつんときた様です。
だからまあ、父に数年前から肺がんがあったことは当人には隠してました。進行は遅いだろうと分かっていたし、当人が知ったところで鬱が激しくなるだけでしょうから。
死因は結局そのがんの流れだったんでしょうが、対応は間違ってなかったと思います。そもそも当人が生きる意思をもう施設に入る前から無くしていたし。
それと「小説」の方にあった色んな鬱屈に関しては、当時の進学事情もあったと思われます。
当人は文学かぶれの、市内一番の高校に行けた学力はあった様です。
ですが「農家の末っ子」が昭和20年代後半に行かせてもらえたのは通える範囲である農業高校の定時制だけでした。四年制です。
ちなみに母もその辺りの鬱屈があった様で。彼女もまた市内一番の女子校に行けた頭があったんですが、行かせてもらえず、一番近場の高校に。ただそこが合わずに一年で退学し、ドレスメーキング系の洋裁学校に通った後に豊橋の会社に住み込みで働いていたようですが。
まあこっちの家系はやんちゃが入っていた様で、彼女も時代が緩かったとはいえ、無免許原チャリで豊橋から浜松の実家まで帰ってきたこともあったとか何とか。まあ彼女の方はおそらく嫌だったら嫌ということで別進路で金を稼げる方向にした様です。
父親の方は後々になって通信教育で法学とかも習っていた様ですが、……現実的は何にもなってませんでしたが……
青年団活動には熱心だったようです。
当時はまだうちの町、実に繁栄しておりまして。
まだ浜名湖を渡る橋ができてなかったので、船で対岸から様々なものが送られてきてました。
だからそれこそご町内で全部揃ったし、昭和30年代の糸へん景気の時代には九州から出稼ぎの娘達もやってきていたくらいです。
ちなみにウチに浜木綿だのあるのはその頃の名残だそうで。
この娘達を当時の若者であった父達は入れ食い状態だったということです。
そーいう時代でしたから、公民館もでかく、ホールになってました。残っていたらいい感じの小ぶりな近代建築じゃないかと思います。
昔そこで映画を見た記憶もありますが、木の長椅子が沢山ありました。
そこでクリスマス劇だのプレゼント交換だのやったそうです。劇の脚本を書いてたどうの、というのはご町内の「昔を知ってる親戚筋」から聞いた話です。
だからそういう人々からは確かに好かれていたんだと思います。
ですが父親としては別なんですよね。
もの凄く小さな、記憶にない時代にはそれなりに接触があったのかもしれませんが、ワタシの記憶にある父親というのは、その上記の件と、「他の父親と何か違う」と、「何処かに食事に行く時には会社のトラックを借りてった」と、「中国の記事のスクラップを異様に丁寧にやっていた」ことでしょうかね。
このスクラップ作業というのは、中共と国交が始まった辺りから朝日新聞(静岡新聞と中日新聞が大半の町内では異質)の記事を神経質なまでに綺麗に切り取っては、スクラッブブックにぴったり貼り込んでいく作業でした。
ワタシはこの作業にはうんざりしていた記憶があります。
というのも、この作業の時にはテーブルを揺らしてはいけないんですね。
幼稚園から小学校低学年の子供にそれはなかなか、なんですがマジで怒ったんですね。
まあ夏はいいんですよそれでも。テーブルが広い座卓でしたから。
ですが炬燵の時は使える範囲がですね……
小学三年辺りで増築した時に廊下の端を机のスペースに貰って、作りかけの二階(天井も畳も無し)で貰ったマンガ読みふける様になったり、ラジオも使える様になってからはもっぱら一人で籠もってましたね。
前々から書いてますが、ウチはマンガは自由、というか率先してそもそも父親が読んでました。
つげ義春好きで、……トラウマものでしたね。
まあおかげでワタシはオタクとして当然に成長した訳ですが。
この「子供に邪魔されると不機嫌になる」も遠ざかる原因だったと思います。
あとはまあ、今ワタシの小銭稼ぎになってますが、PLAYBOYとプレイボーイと平凡パンチを週刊朝日と一緒に欠かさず買っていてそれをまた隠さなかったことですかね。そしてやたらに物持ちがいい。
雑誌の物持ちがいい、というのはまあいいんですよ。おかげで暮しの手帖を一世紀から読んでましたからワタシ。
まあ花森イズムが好きだったようです。今となってはあかんねえ、ですが。
兄は何か怒られることがちょいちょいあった様です。ワタシはどうもその辺りを見て「怒られない様に」できるだけ離れていた訳ですが。
ただ「叱って」いたという感じはしないんですね。「怒って」はいた様ですが。
うちの両親はたぶん「しつけ」には失敗してます。
母親に関しては、性格のせいでしょうな。子供に洗濯物畳みとかさせるこたなく自分でさっさとやってしまう方でした。
世話した方が教育して待つより楽だった、というタイプです。
ワタシはそんな彼女に対しては取り込まれるという恐怖があった様で、それこそ小学生の時からガードはってました。
今でも似ているタイプの同僚には警戒しきりです。
というか、小学五年にダイエットはあきまへん。今の母親だったらまあ、その前に太らせないでしょうが、昭和ですから。「肥満児教室」なんて小学校でさせる時代ですから。
だったらその前に食事時に「ん」でおかわりをする父親のしつけをしろ、という話です。
それを見ていた自分は母方親戚のとこに泊まりに行った際にいちいち「お代わり下さい」と言う従姉妹達にびっくりして身を振り返ったものですよ。
箸も自覚はしていたんですが、わざわざ矯正させようともしない母親に反抗して、こっそり自分で矯正しておき、直っていないフリをしていました。そーいう地味な反抗をしてましたね。
まあだから、母親には反抗していたんですね。
一方父親は「無視」してました。
触れないどころじゃないですよ。「視界に入ってほしくない」でした。思春期だったので気持ち悪さが絶頂期だった訳です。
これが延々続いて、ワタシは生きている間、握手も気持ち悪くてできませんでした。
母親に関しても小さな頃はは肩もみともかしていたんですが、途中から駄目になりましたね。
「普通の家庭」の姿にたぶんワタシはかなり憧れていたんだと思います。
休日に外に出かけて楽しむ様な。普通に周囲と同じものを買ってくれる様な。
ですがそれは無理でした。
買ってくれるものに関しても「子供が楽しむもの」じゃなく親の都合か美感にあったんではないかと。
ワタシね根っこにはたとえ昭和40年代であったとしても「皆が同じ赤のぴかぴかバッグだったのに自分だけ紺の大人の合皮バッグに何故かリアルチューリップ刺繍」なバッグで幼稚園に行っていたことがあります。
まあ二年しか使わないものに、というのがあったんでしょうが。でもな、その色は無いだろう、という。
もうこの時点で「同じものは持たせてもらえないんだ」というあきらめが生まれた様な。
小学五年の裁縫箱も周囲が一斉に買うクリーム色にクロスステッチイラストの厚手のものではなく、兄貴のお下がりの緑のスケルトンだったというのも然り。
違うことはいいことだ、に頭はシフトチェンジしないとやっていけない訳ですよ。
そんで家族イベント。これも何かあかんかったですね。
何か出かけると「退屈」になってしまうんですわ。
遊園地に行った記憶はガキの頃は一度しか無いですね。少なくとも遊園地の乗り物に乗った記憶が無い。
代わりにフラワーパークに行っていたんですが、……まあ途中から退屈になりますなあ。
芝生広場でお弁当を食べるはいいけど後は父親は昼寝だし、ワタシと兄貴はどうしていいのか状態ですよ。
旅行も「家族四人で」行ったのは「寸又峡温泉」一回だけ。行くまでが楽しかったような。
あとは町内の婦人会か何かで行った伊勢・志摩行きや大阪の中国博~高野山だけですか。前者は日帰りだったし、後者は家族というより集団だったし。でもその集団が誰なのかさっぱり分からなかったので楽しむのも難しく、仏教絵本を後で楽しんだという記憶くらいですかねー。
奥山にジンギスカン料理(豚肉ですが)は毎年夏に行きましたが、途中で父親が昼寝に入ってしまったりして暇になったり。結局五百羅漢を歩いた後のミルクかき氷が目当てだった気がします。
兄とは彼が中学に入るまではその物理的距離のせいかよくボードゲームをしてましたね。そして一度も勝てませんでしたし…… 近年でもオセロで負けますよ……
まあともかく皆それぞれやりたいことがあって、それを無しにした家族で動くというのは面倒だという気性だった訳です。
家族麻雀が続いたのは、あれがゲームを通していることだったことですね。しかもあれは運が左右したからさほどに腕を必要としなかった。皆心理を読むというレベルでは無かったですから。
まあね、今だったら分かりますわ。
皆発達障害(勉強的な頭は良いので分かりづらい)をそれぞれ持っていて、「普通の家庭」のロールモデルが示せていない。
父親は字のみみずぶりからして、「他人に読ませる」ということを考えずに熱心に町内の体育振興会とか図書の会報をガリ版で作ってましたがね。ワタシはあの字が気持ち悪かったんですよ。
後にワープロを母親が打つ様になってもあくまで手書きにこだわってましたね。読んでもらいたいならそっちの方が良いのですが。
その上「したいことをするのに熱中する」のが一番という手本を見せてくれてしまっていましたな。
皆それぞれ自分の作業部屋持つ様になってからは、テレビを見るという理由が無い限りはお茶の間に居ませんでしたわ。
それに「夫婦」の姿もワタシには分からないままだった。ともかく親父のエロ本好きを母親が嫌っていたのは確かでしたが。でもそれ以上のものが「読めない」ワタシにはさっぱりだったし。
おそらくそれは兄にも同様だったと思います。
彼は18で家から離れて滅多に帰らず。
二十年くらい彼とは疎遠だったんですが、母の葬式以来は仲良いです。どっちもそれぞれ勝手に大人になったからですが、片方は三回結婚し、一方は異性とつきあったことも無い。
共通しているのは「人の親になるには向いていない」。
少なくとも「きもちわるい」と思わせる父だったのは本人及びそれを許した母を結構恨みたいです。
彼女は「子供に与える影響」よりおそらく面倒だから言われるままに色々やってやったのだと思うし。
父親は機械類が本当に駄目だったからその一方で母親がパンク修理もしていたし。
時代と育ちからして、肥汲みができるというのは凄いことだとは思いますが、だからと言って機械類操作を拒否していたというのはな。
そういうとこに頑固にこだわらなければ施設でももう少し退屈しなくて良かったと思うのに、ですよ。
携帯も買って数年、向こうからかけてきたのが二度ですよ。たった二度!
何かしら残してくれた感謝はできても、愛情は持てない。
夫婦のロールモデルの根底に彼等があることはやっぱりでかい。
結婚はしたくないというのはもう小学生の時からあって、ずっと言い続けてきたけど、それでも言ってくる人々にそういう感情が無いんた、と言っても通じなくて困りましたよ。
まあ遺伝と環境ってでかいよね、という――で〆ますわ。
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