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第4話その2 上野宮の娘、孫王の君の苦労、また苦労
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「何やら今宮さまのところの女房がずいぶんとここのところ忙しないわね」
兵衛の君はふう、と扇をばたばたと振る。
自分の局に入ると、ようやく楽になったとばかりに蒸し暑い胸元を開き、風をあてる。五月ともなると、夕刻でも風が生ぬるい。
「みたいね」
同僚の孫王の君もそう言うと、衣服を緩める。
「今宮さまのところの人達は何かと噂話ばかり聞きつけてくるのが好きだから」
「今、あて宮さまの御前には誰が居るの?」
「中納言さんと木工さんじゃなかったかしら」
「木工さんかぁ。あのひとは確か実忠さま贔屓だったわね」
仕事の合間を縫って、あて宮の女房達はうわさ話に花を咲かせる。
何と言っても現在の権勢家の、そのまた懸想人数多ある美姫に仕えている身である。話すことは、話したいことは山程ある。
「あら、兵衛さんこそあの方贔屓じゃあないの?」
「うーん……」
はい、と何処からか水菓子を持った籠を取り出し、孫王の君は同僚の言葉をうながす。
「贔屓って言うか…… 熱心よね」
「それだけは認めざるを得ないのよねえ」
はい、と籠から一つ水菓子を取り出し、兵衛の君に渡す。ありがとう、と彼女は小さなそれを口に入れると酸っぱそうに顔をしかめる。
「あら、まだ酸っぱかった?」
「ううん、ちょっと疲れているからちょうどいいわ。ちなみに孫王さんはどなたがご贔屓?」
「贔屓という訳ではないけど、仲忠さまは素敵よね」
「ふふふ、実は私、この間、あなたの局から仲忠さまがお出でになるとこ、見ちゃったんだぁ」
ぱっ、と孫王の君は頬に手を当てる。
「見間違いじゃあないの?」
「いいじゃない、隠さなくたって。だいたい孫王さん、元々何処かの皇子の姫なんでしょ? 孫王なんだし」
だから嫌なのだ、と孫王の君は思う。その話題を出されるのは。
「兵衛さん、あなた聞いていないの?」
「何を」
「私がどの皇子の娘かって」
「いや、そこまでは」
「上野宮さまよ」
むっとした顔で孫王の君は水菓子をぱく、と口に入れる。思わず兵衛の君の目が見開かれる。
「そうだったの?」
「まあ、ね。あなたのそういうとこが好きだけどねえ。隠していた訳でもないし」
「だって上野宮さまって言ったら『あの』上野宮さまでしょ」
「そうよ『あの』上野宮さまよ。年甲斐もなく、うちの姫様に求婚なさって、しかも偽物掴まされて気付かない大呆け親父様」
「そこまで言う?」
「言うわよ。って言うか、父上だから余計に嫌なのよねえ。まあ姫って言ったって、私と妹二人は召人腹だから、そうそうあのひとに大事にされてた訳でもないし、母様もそういう父上だから早々に見限って受領の後妻に入ったし」
喋りながらも、ぽんぽんと孫王の君は水菓子を口に放り込む。
へえ、と今知ったばかりの情報に兵衛の君は開いた口が塞がらない。
*
「全く、あなたがあの上野宮の娘だなんて、未だに信じられない」
あの夜も、仲忠はそう言った。
彼は孫王の君の宿下がりや、正頼宅に用事があった折を見て、彼女のところへやって来る。
当初、からかわれているのかと孫王の君は思った。
当然だ。彼は現在最も時めいている公達の一人である。自分達女房にとっては憧れの的であるが、実際に相手になってくれるとは考えもしない人だった。
だから彼女は、仲忠が最初に忍んで来た時、あて宮の情報が目当てなのだろう、と思った。
いや、それは間違いではなかった。彼は確かに会話の端々であて宮のことを知りたがっている。
だがその時、彼の手は孫王の君の身体を器用にまさぐっているのだ。
「真面目な方だと思っていましたのに」
最初の時、彼女は涙ぐんだ。からかうにも程があると思った。
無論、一度他人の家に仕えたからには、その可能性はあった。だが分相応の男とそれで縁が持てるならそれはそれでいい、と思っていた。
だが相手が悪かった。あまりにも今の自分とかけ離れていすぎた。
「おからかいになるなら、これっきりになさって下さいませ」
「僕は真面目だよ。別にからかっちゃいないよ」
無邪気な声が答えた。
「あて宮さまに懸想なさっている方が何をおっしゃいます」
「それは確かにそうだけど。でも」
仲忠はその時、言葉を濁した。
「それはそれとして、あなたの声がとても素敵だったから」
「声ですか」
「うん、声。綺麗な声がしたから。そしたらちょっと袖から見えた手が綺麗だったし」
「何をおっしゃいます。節くれ立った手ですわ」
そう、それは孫王の君の気にしていることだった。
母と妹達と共に上野宮の元を出た後、居着いた母の実家では、雑用や縫い物をずいぶんとさせられた。
食わせてやっているのだから、姫君面しないで働いてくれ、と母の姉は言ったものだった。
母も妹達も、何処か不器用だったので、仕事はどうしても彼女の手に多く回ってきた。
気が付いたら、彼女の指や腕は、妹達よりも、ずいぶんと逞しくなってしまっていた。
「とてもこれでは良い殿方の来ては無いわ」
そう母は嘆いたものだった。
そんな母の姿を見ているのが次第に疲れた彼女は、伯母からの、左大将邸への女房勤めの話に飛びついた。
正頼も大宮も、彼女が上野宮の娘だということは充分知っていた。それだけに当初は何かやらかすのではないか、とはらはらしていた。
だが彼女の実直な働きは正当に評価された。
やがて「その他大勢」の女房から、「あて宮づき」へと移されたのである。彼女は嬉しかった。
そのうち母がある国の受領と再婚した、と伝えられた。そのまま夫と共に下向するという。
「私達は都に残りたいわ」
妹達はそう言った。だが伯母の家にそのまま置いて行くことも今更嫌だった。
彼女は自分の宿下がり用の小さな家を用意し、いずれ勤め先を探すから、自分のことは自分でできる様になれ、と妹達に命じた。彼女達は渋々ながらも応じた。
その様子を聞いた大宮は「あなたも苦労が耐えないことね」と心配してくれた。何処かいい仕え先を探しておこう、と約束してくれた。
感謝は限りない。自分はずっとここでやって行こうと思った。
*
そんな折の出来事である。
上野宮がいきなり当時の本妻と離婚したのである。
「どういうことかしらお姉様」
妹から文が来た。どういうことかと聞きたいのは自分の方だった。
やがて正頼が彼女に苦い顔で言ってきた。
「どうもそなたの父君は、うちの娘の誰かを欲しいようなのだよ」
「それはなりません」
即座に彼女は返していた。
冗談じゃない、と思った。あの父親が、うちのお姫様方をなんて。
「わしもそう思っている。そなたの父を悪く言うのは何だが」
「言われて当然の方です」
「そう言ってくれるとこちらも気が楽だ。ともかくあの宮は、何かと屋敷内に得体の知れない輩を集めている。血筋はともかく、そんなところに我が姫は誰一人としてやりたくはない」
彼女はうなづいた。確かにそうだった。
父宮の屋敷には、自分達家族の他、得体の知れない者――― 陰陽師、覡、博打打ち、無頼の若者達、何をしているか判らない翁や媼、そんな者がうろうろしていて、住んで居た頃は、季節の庭をそぞろ歩くのも怖いくらいだった。
そんな屋敷でも、知り合いは居ない訳ではない。こっそりと使いをやり、状況を知らせる様に頼んだ。
やがて知り合いから返事の文が来た。
そこに書かれていたことは驚くべきことだった。
*
「宮様は、屋敷の様々な輩にどうしたら姫君を得ることができるか問い掛けました。
するとまず、惣持院の十禅師、宗慶がこう言ったのです。
『比叡の根本中堂に常燈を奉り下さい。
また、奈良、長谷の観音が人の願いを叶えて下さります。
竜門、坂本、壺坂、東大寺も同様、全て仏と名のつくもの、土をまるめてこれが仏というならば、その仏にも灯明を奉り、神という名がついていたなら、天竺の神でも御幣をお捧げ下さいませ。
数限り無い神や仏にそこまですれば、仏は仏で、神は神で、あなた様にお力添えをして下さるでしょう。
まして現世の人ならば、国王と申し上げる様な方でも、あなた様の願いをお聞き届けなさらないことは無いでしょう。
また山々や寺々に、食べるものや着るもの等無かった行人を供養して下さいませ』
そう言うと、宮様は、
『おお、何と尊いことか。どのくらいすれば良いだろう』
そうあっさりおっしゃりまして。
『みあかしの油を一寺に一合供養するとしても、比叡山は四十九院ですから、一ヶ月合計一石四斗七升です。
お寺の大小は関係ありません。それぞれに御灯明として毎日油一合づつ供養なさったら、まあとんでもないことだとはお思いでしょうが、仏に物を奉ることは無駄ではございません。来世や未来の功徳となりましょう』
宗慶が続けると、宮様はたいそう喜んで、
『よく判りました。成就したならば、それはあなたの徳のおかげでしょう』
そう言って、立って礼拝立って礼拝、を七度も繰り返しましたのよ。
そんな宮様に宗慶は、
『ご心配なさいますな。あて宮のことはずいぶんと心に深くお感じの様ですね。お志に叶う様致しましょう。
もし宿世というものがなければ、この様に思い詰めたりもなさらないでしょう。男女の仲は、縁のままですから』
とまあ、そんな訳で、宮様は、この宗慶の言う通りにしてしまったのです。
で、次です。
貧しくなかなか学問が進まない学生達が言いました。
『漢文の書によりますと、才あるけど貧乏な人々を助ければ良い、とあります。
才能のある人が取り立てられず、そんなものの無い男でも出世する、そんな世の中の不満が解消されたなら、宮様の嘆きも無くなり、思うことが叶うだろうと』
仏様とかならまだ判るのですが、何処がどう関係あるのかしら、と思いつつ聞いていたのですが、宮様、これも聞き入れてしまいました。
職の無い才人を朝廷に取りなし、博士達にお話になって取り立てさせるやら、住むところも食べるものも無い人々のために、銭や絹や米を車に積んで出し、『当然官位につくべきような能力のある人』が『見いだされることなよく不遇でいる』のを探させて、見つけたら惜しげもなくお持ちの土地を分けておあげになるのですよ!
いや、それ自体は立派なことだとは思うのですが…
いやいやそれで驚いていてはけいけません。それだけでは無いのです。今度は無頼の若者達が言ったのです。
『そりゃ宮様、簡単なことですぜ。俺の仲間が東西合わせて六百人ばかり居るんですがね、
またそれとは別の双六仲間が同じくらい居まして。そいつ等をひとっ走りさせて、屋敷に攻め込ませたら一発ですわ』
すると今度は博打打ちが言いました。
『あはははは。やっぱりこわっぱの考えることだ。三条大宮のあのお屋敷がどれだけ広くややこしい造りになっていて、沢山の者に守られているのか知っているのかい』
何を、とそこで喧嘩が始まりそうな勢いだったのを、博打打ちの一人が『まあまあ』と諫めました。私はほっとしたのですが、それも束の間でした。
『それじゃこうしようや。宮様、東山にある道隆寺の塔の供養をするということにしましょうや』
『供養は良いが……それでどうするのだ』
『さてそこですわ。こいつ等の仲間も沢山居るから、そいつ等にあちこちで計画を話しておき、使うんですよ』
若者の頭は少しばかり渋い顔をしました。
『何でえそんな顔をするなよ。ちゃんと計画の成功のあかつきには、宮様から皆に何かしらあるんだろ? そうでしょう?』
『まあそうだが…』
『そこで、今度の供養、これほどの見物はない、ちょっと見るのは難しいくらいだ、という評判をそいつ等に立てさせるんですよ。
そうすれば、左大将一家の物見好きは有名ですからね、出てきたところを我々が集まって、あて宮を奪い取る。これしかないですぜ』
兵衛の君はふう、と扇をばたばたと振る。
自分の局に入ると、ようやく楽になったとばかりに蒸し暑い胸元を開き、風をあてる。五月ともなると、夕刻でも風が生ぬるい。
「みたいね」
同僚の孫王の君もそう言うと、衣服を緩める。
「今宮さまのところの人達は何かと噂話ばかり聞きつけてくるのが好きだから」
「今、あて宮さまの御前には誰が居るの?」
「中納言さんと木工さんじゃなかったかしら」
「木工さんかぁ。あのひとは確か実忠さま贔屓だったわね」
仕事の合間を縫って、あて宮の女房達はうわさ話に花を咲かせる。
何と言っても現在の権勢家の、そのまた懸想人数多ある美姫に仕えている身である。話すことは、話したいことは山程ある。
「あら、兵衛さんこそあの方贔屓じゃあないの?」
「うーん……」
はい、と何処からか水菓子を持った籠を取り出し、孫王の君は同僚の言葉をうながす。
「贔屓って言うか…… 熱心よね」
「それだけは認めざるを得ないのよねえ」
はい、と籠から一つ水菓子を取り出し、兵衛の君に渡す。ありがとう、と彼女は小さなそれを口に入れると酸っぱそうに顔をしかめる。
「あら、まだ酸っぱかった?」
「ううん、ちょっと疲れているからちょうどいいわ。ちなみに孫王さんはどなたがご贔屓?」
「贔屓という訳ではないけど、仲忠さまは素敵よね」
「ふふふ、実は私、この間、あなたの局から仲忠さまがお出でになるとこ、見ちゃったんだぁ」
ぱっ、と孫王の君は頬に手を当てる。
「見間違いじゃあないの?」
「いいじゃない、隠さなくたって。だいたい孫王さん、元々何処かの皇子の姫なんでしょ? 孫王なんだし」
だから嫌なのだ、と孫王の君は思う。その話題を出されるのは。
「兵衛さん、あなた聞いていないの?」
「何を」
「私がどの皇子の娘かって」
「いや、そこまでは」
「上野宮さまよ」
むっとした顔で孫王の君は水菓子をぱく、と口に入れる。思わず兵衛の君の目が見開かれる。
「そうだったの?」
「まあ、ね。あなたのそういうとこが好きだけどねえ。隠していた訳でもないし」
「だって上野宮さまって言ったら『あの』上野宮さまでしょ」
「そうよ『あの』上野宮さまよ。年甲斐もなく、うちの姫様に求婚なさって、しかも偽物掴まされて気付かない大呆け親父様」
「そこまで言う?」
「言うわよ。って言うか、父上だから余計に嫌なのよねえ。まあ姫って言ったって、私と妹二人は召人腹だから、そうそうあのひとに大事にされてた訳でもないし、母様もそういう父上だから早々に見限って受領の後妻に入ったし」
喋りながらも、ぽんぽんと孫王の君は水菓子を口に放り込む。
へえ、と今知ったばかりの情報に兵衛の君は開いた口が塞がらない。
*
「全く、あなたがあの上野宮の娘だなんて、未だに信じられない」
あの夜も、仲忠はそう言った。
彼は孫王の君の宿下がりや、正頼宅に用事があった折を見て、彼女のところへやって来る。
当初、からかわれているのかと孫王の君は思った。
当然だ。彼は現在最も時めいている公達の一人である。自分達女房にとっては憧れの的であるが、実際に相手になってくれるとは考えもしない人だった。
だから彼女は、仲忠が最初に忍んで来た時、あて宮の情報が目当てなのだろう、と思った。
いや、それは間違いではなかった。彼は確かに会話の端々であて宮のことを知りたがっている。
だがその時、彼の手は孫王の君の身体を器用にまさぐっているのだ。
「真面目な方だと思っていましたのに」
最初の時、彼女は涙ぐんだ。からかうにも程があると思った。
無論、一度他人の家に仕えたからには、その可能性はあった。だが分相応の男とそれで縁が持てるならそれはそれでいい、と思っていた。
だが相手が悪かった。あまりにも今の自分とかけ離れていすぎた。
「おからかいになるなら、これっきりになさって下さいませ」
「僕は真面目だよ。別にからかっちゃいないよ」
無邪気な声が答えた。
「あて宮さまに懸想なさっている方が何をおっしゃいます」
「それは確かにそうだけど。でも」
仲忠はその時、言葉を濁した。
「それはそれとして、あなたの声がとても素敵だったから」
「声ですか」
「うん、声。綺麗な声がしたから。そしたらちょっと袖から見えた手が綺麗だったし」
「何をおっしゃいます。節くれ立った手ですわ」
そう、それは孫王の君の気にしていることだった。
母と妹達と共に上野宮の元を出た後、居着いた母の実家では、雑用や縫い物をずいぶんとさせられた。
食わせてやっているのだから、姫君面しないで働いてくれ、と母の姉は言ったものだった。
母も妹達も、何処か不器用だったので、仕事はどうしても彼女の手に多く回ってきた。
気が付いたら、彼女の指や腕は、妹達よりも、ずいぶんと逞しくなってしまっていた。
「とてもこれでは良い殿方の来ては無いわ」
そう母は嘆いたものだった。
そんな母の姿を見ているのが次第に疲れた彼女は、伯母からの、左大将邸への女房勤めの話に飛びついた。
正頼も大宮も、彼女が上野宮の娘だということは充分知っていた。それだけに当初は何かやらかすのではないか、とはらはらしていた。
だが彼女の実直な働きは正当に評価された。
やがて「その他大勢」の女房から、「あて宮づき」へと移されたのである。彼女は嬉しかった。
そのうち母がある国の受領と再婚した、と伝えられた。そのまま夫と共に下向するという。
「私達は都に残りたいわ」
妹達はそう言った。だが伯母の家にそのまま置いて行くことも今更嫌だった。
彼女は自分の宿下がり用の小さな家を用意し、いずれ勤め先を探すから、自分のことは自分でできる様になれ、と妹達に命じた。彼女達は渋々ながらも応じた。
その様子を聞いた大宮は「あなたも苦労が耐えないことね」と心配してくれた。何処かいい仕え先を探しておこう、と約束してくれた。
感謝は限りない。自分はずっとここでやって行こうと思った。
*
そんな折の出来事である。
上野宮がいきなり当時の本妻と離婚したのである。
「どういうことかしらお姉様」
妹から文が来た。どういうことかと聞きたいのは自分の方だった。
やがて正頼が彼女に苦い顔で言ってきた。
「どうもそなたの父君は、うちの娘の誰かを欲しいようなのだよ」
「それはなりません」
即座に彼女は返していた。
冗談じゃない、と思った。あの父親が、うちのお姫様方をなんて。
「わしもそう思っている。そなたの父を悪く言うのは何だが」
「言われて当然の方です」
「そう言ってくれるとこちらも気が楽だ。ともかくあの宮は、何かと屋敷内に得体の知れない輩を集めている。血筋はともかく、そんなところに我が姫は誰一人としてやりたくはない」
彼女はうなづいた。確かにそうだった。
父宮の屋敷には、自分達家族の他、得体の知れない者――― 陰陽師、覡、博打打ち、無頼の若者達、何をしているか判らない翁や媼、そんな者がうろうろしていて、住んで居た頃は、季節の庭をそぞろ歩くのも怖いくらいだった。
そんな屋敷でも、知り合いは居ない訳ではない。こっそりと使いをやり、状況を知らせる様に頼んだ。
やがて知り合いから返事の文が来た。
そこに書かれていたことは驚くべきことだった。
*
「宮様は、屋敷の様々な輩にどうしたら姫君を得ることができるか問い掛けました。
するとまず、惣持院の十禅師、宗慶がこう言ったのです。
『比叡の根本中堂に常燈を奉り下さい。
また、奈良、長谷の観音が人の願いを叶えて下さります。
竜門、坂本、壺坂、東大寺も同様、全て仏と名のつくもの、土をまるめてこれが仏というならば、その仏にも灯明を奉り、神という名がついていたなら、天竺の神でも御幣をお捧げ下さいませ。
数限り無い神や仏にそこまですれば、仏は仏で、神は神で、あなた様にお力添えをして下さるでしょう。
まして現世の人ならば、国王と申し上げる様な方でも、あなた様の願いをお聞き届けなさらないことは無いでしょう。
また山々や寺々に、食べるものや着るもの等無かった行人を供養して下さいませ』
そう言うと、宮様は、
『おお、何と尊いことか。どのくらいすれば良いだろう』
そうあっさりおっしゃりまして。
『みあかしの油を一寺に一合供養するとしても、比叡山は四十九院ですから、一ヶ月合計一石四斗七升です。
お寺の大小は関係ありません。それぞれに御灯明として毎日油一合づつ供養なさったら、まあとんでもないことだとはお思いでしょうが、仏に物を奉ることは無駄ではございません。来世や未来の功徳となりましょう』
宗慶が続けると、宮様はたいそう喜んで、
『よく判りました。成就したならば、それはあなたの徳のおかげでしょう』
そう言って、立って礼拝立って礼拝、を七度も繰り返しましたのよ。
そんな宮様に宗慶は、
『ご心配なさいますな。あて宮のことはずいぶんと心に深くお感じの様ですね。お志に叶う様致しましょう。
もし宿世というものがなければ、この様に思い詰めたりもなさらないでしょう。男女の仲は、縁のままですから』
とまあ、そんな訳で、宮様は、この宗慶の言う通りにしてしまったのです。
で、次です。
貧しくなかなか学問が進まない学生達が言いました。
『漢文の書によりますと、才あるけど貧乏な人々を助ければ良い、とあります。
才能のある人が取り立てられず、そんなものの無い男でも出世する、そんな世の中の不満が解消されたなら、宮様の嘆きも無くなり、思うことが叶うだろうと』
仏様とかならまだ判るのですが、何処がどう関係あるのかしら、と思いつつ聞いていたのですが、宮様、これも聞き入れてしまいました。
職の無い才人を朝廷に取りなし、博士達にお話になって取り立てさせるやら、住むところも食べるものも無い人々のために、銭や絹や米を車に積んで出し、『当然官位につくべきような能力のある人』が『見いだされることなよく不遇でいる』のを探させて、見つけたら惜しげもなくお持ちの土地を分けておあげになるのですよ!
いや、それ自体は立派なことだとは思うのですが…
いやいやそれで驚いていてはけいけません。それだけでは無いのです。今度は無頼の若者達が言ったのです。
『そりゃ宮様、簡単なことですぜ。俺の仲間が東西合わせて六百人ばかり居るんですがね、
またそれとは別の双六仲間が同じくらい居まして。そいつ等をひとっ走りさせて、屋敷に攻め込ませたら一発ですわ』
すると今度は博打打ちが言いました。
『あはははは。やっぱりこわっぱの考えることだ。三条大宮のあのお屋敷がどれだけ広くややこしい造りになっていて、沢山の者に守られているのか知っているのかい』
何を、とそこで喧嘩が始まりそうな勢いだったのを、博打打ちの一人が『まあまあ』と諫めました。私はほっとしたのですが、それも束の間でした。
『それじゃこうしようや。宮様、東山にある道隆寺の塔の供養をするということにしましょうや』
『供養は良いが……それでどうするのだ』
『さてそこですわ。こいつ等の仲間も沢山居るから、そいつ等にあちこちで計画を話しておき、使うんですよ』
若者の頭は少しばかり渋い顔をしました。
『何でえそんな顔をするなよ。ちゃんと計画の成功のあかつきには、宮様から皆に何かしらあるんだろ? そうでしょう?』
『まあそうだが…』
『そこで、今度の供養、これほどの見物はない、ちょっと見るのは難しいくらいだ、という評判をそいつ等に立てさせるんですよ。
そうすれば、左大将一家の物見好きは有名ですからね、出てきたところを我々が集まって、あて宮を奪い取る。これしかないですぜ』
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その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。
宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。
だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く!
備考
宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助)
父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。
本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
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