大正時代、彼女と彼女は出会ってしまった。

江戸川ばた散歩

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前編・千代さん、友人のしげりさんから吉屋信子というひとの話を聞く。

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「ねえ千代ちゃん、聞いてる?」

 弾かれた様に私は顔を上げた。
 小さな部屋。中心には普段書き物もする卓。既に冷めた茶碗の向こう、不機嫌そうな友の顔があった。
 ああしまった。またやってしまった。

「ごめんなさい」
「いいけどさ。慣れてるし。今度は何処のところ?」
 は、とため息をつくと、しげりさんはぐい、と私の方に身を乗り出してきた。
「代数」
「あーあれは私も嫌いだった」
「そういう子が麹町でもやっぱり多くてね、それでいて私がまた説明が下手だから」
「そりゃあんたは、自分が良くできるからね」
「そうなのよ。私正直、その辺りがいつも困りものなの。私の担当する級の進みが遅いって嫌味言われちゃったから」
「だから北大目指す方がいいって、前から言ってるんだけどなあ」

 私は黙って苦笑する。
 確かに東北帝国大学で学び、研究するのは確かに私にとっては夢だ。
 だが私は長女だ。下に弟妹が沢山居る。お金のかからない高等師範だったからこそ、私は通うことができた。それ以上のことを望んでは罰が当たりそうな気がする。
 いつか、という思いが全く無い訳ではない。とりあえずは、現在勤務している麹町女学校の少女達にせっせと数学の楽しさを教えるのが精一杯だ。
 だが麹町の少女達は、私の通っていた官立とはまるで雰囲気が違っていた。
 とてもいい子達であるのは分かる。だが勉学の水準は、というと……
 そこで悩む。
 自慢になってしまうが、私は第二高女でもお茶の水高等師範でも、数学は良くできた。
 だからこそしげりさんは私を未だに東北帝大へと誘うのだが―― それが教師としてはあだになっている。
 一応高等師範では、女学校での教え方を学んだ。だがそれだけでは上手くいかない。何せ、私は彼女達が教科書の何処が何が分からないのか、理解できないのだ。
 結果、始終頭の中でこうでもないああでもないと、とある問題の解法の説明を考えるということになる。

「そっか。まあそれで頭が一杯だったと。でもね、今は私と話してたんだよ。いきなり何処かに飛んで行かれちゃたまんない」
「……ごめんなさい」
「いやいや、あんただから許すんだよ、千代ちゃん。他の誰でもそうする訳じゃあないね」

 さすがに彼女にそう言われると嬉しく、面映ゆい。
 彼女―― しげりさんとは、第二高女で出会い、そのままお茶の水で彼女が中退するまで一緒だった。
 私は、自分にとっての彼女は親友だ、と思っている。彼女も恐らくそうだろう。そうあってほしいと思う。口に出して聞いたことはないが。

「ありがと。……で、何の話だったかしら」
「はいはい。じゃあこの太郎冠者《たろうかじゃ》が説明してしんぜよう」

 戯けた調子で彼女は茶碗を掲げた。

「ほら、私ここのところ、あの人の所、よく遊びに行くんだけど」
「あの人?」
「あの人よ。吉屋さん」
「ああ……」

 私は大きくうなづいた。
 この時私はまだ吉屋さん、という人について殆ど知らなかった。
 作家だということは知っていた。
 だが作品を読んだことは殆ど無かった。
 生徒達が持っている『花物語』や、東京朝日新聞に連載していた「海の極みまで」ならちらと見たことがある程度だ。何やらきらきらした文章の人だなあ、と感じたことがある。
 しげりさんは何でも、その吉屋さんと、徳富蘇峰先生――彼女の勤める民友社の社長――が姪御さんのために開いた外遊壮行会で知り合ったという。
 以来、しげりさんは吉屋さんの自宅をよく訪れる様になったという。
 大体においてこの人は何事も待ってはいない。何か興味があるものには自分から出向いて行くのだ。
 記者になったのもそうだが、婦人の権利に関する運動についても、実に精力的に動いている、らしい。
 その「らしい」という辺りが私の意識の程度とも言えるが。

「で、この間吉屋さんと、女の友情はあるか否か、という話になった訳」
「あるでしょ」
「私もそう思うよ。だけどあのひと言う訳さ。『ありえない』って」
「へ?」

 目を瞬かせた。

「だって、『花物語』の作者さんでしょ?」
「そうだよ、あの『花物語』のさ」

 『少女画報』や『令女界』といった雑誌にあちこち書かれる、花をモチーフにした一連の少女向け短篇小説群。その人気は少女達の中では凄まじいものがある。私の生徒達も言わずもがな。
 あ、そうそう。

「そう言えば、この間、『睡蓮』って話が、悲しかったって生徒が言ってたわ」
「『睡蓮』? ああ、あれ」

 ひゅっ、としげりさんは口を歪めた。

「あれだけ女同士がひっつき合っている話を書いてるひとが、いきなり裏切り話か、と思ったね。まあ、裏切りって言うか、『所詮そんな人だったのか』だね」
「『花物語』にはそういう話って、今まで無かったかしら」
「あー…… 話多いからね。けなげな子の話とか、相手のために身を引くとか、結婚を強いられて海で行方不明、とか、色々あるけど…… あーそうそう、確か、クラスでノートを回す話が、それに近かったんじゃなかったかなあ。まああれに関してもちょっと私的には言いたいことはあるんだけど」
「何?」

 私は首を傾げた。何やらかゆいものに手が届かないといったような表情でしげりさんは続けた。

「いや、その話…… 竜胆《りんどう》だったかなあ? 何かうろ覚えなんだけど、クラスの人に回すノートにさ、誰か書かれてるのか一発で分かる様な人の行動と、自分がその人に陰で嘲笑われていたこと、それを見てしまったこと、だけど花を見て『そんなことは忘れる』決意するなんてこと書くなんて、私からしたら『ありえない』よ」

 まあねえ、と私はうなづいた。

「だって現実問題、そんなこと書く子、私だったら嫌だね」

 私も麹町の少女で考えてみる。

「確かにそれでまた、嫌がらせされてもおかしくはないわね。あの年の女の子達って、残酷だもの」
「そうだね。まあそれでクラスの人達が反省してくれる、っていうのを書きたかったんだとは思うのさ。で、書いたみそっかすの子は謝られる、って展開に読ませたい」
「現実感は無いわね」
「きらきらした『おはなし』ならそれでいいさ。まあそれに比べれば、睡蓮の話の方が、辻褄はあってるね」
「睡蓮」
「仲が良かった画家志望の子達も、片方が賞を取った途端、隠してた手の不具を言いつらう、っていう方が、確かにリアリティはあるな」
「でもいい気分じゃないわ」
「さすがにそこんとこは、考えたんだろね。不具だけど才能がある子は、身を引いて人知れず、それでも少しでも絵に関わりのある仕事をしている、ええと、土産ものの人形を作ってた、と思うけど。先生に見つけられて、またそこからも姿を消す、っていうから、綺麗は綺麗さ」

 ふうん、と私は肩をすくめた。そしてついこうつぶやいてしまう。

「不毛ね」

 合理的じゃあない。全くもって。 

「うん、不毛だね。何でそこで引き下がってしまうんだ、って私だったら思うよ」
「でもそのへんが、うちの生徒達には大人気なのよね、たぶん」

 先生読んでみて、と勧めてくる子もいる。可愛いものだ。
 だけど正直、途中で読み進めるのは無理だと悟った。
 文体もそうなのだが、この人生に対するやる気の無さが蔓延している感、霞を食って生きているのか感がたまらない。嫌だ。
 でもさ、としげりさんは続けた。 

「私さあ、あのひと本人は面白いと思うんだ。って言うか、変わってるよ」
「変わってる?」
「うーん、何って言うのかな。時々何というか、行動に、理解できない部分はあるんだよね」

 彼女が理解できない部分。想像がつきにくい。

「そうそう、自分の文章けなされると、一応従順に聞いているんだけど、実際のとこ、もの凄く顔に出るんだよね。あなた何も判ってない、って言いたいのに言い返す言葉が出て来ないっていうか」
「へえ」
「ああそう、『屋根裏』を途中で投げ出したって言ったら、もの凄く嫌な顔されたな」

 「屋根裏の二処女」のことか、私は読んだことが無いが、生徒達の中でもどっちかというと、こっそり回されている印象が強い。

「投げ出したの?」
「うん。降参。勘弁してくれって感じで最後まで読めなかったって、正直に言ったんだけどね」

 思わず私は引いた。

「そんなこと言っていいの」
「……いやだって千代ちゃん、何って言うか…… もう屋根裏の描写一つのくどくどしさと自虐性満載で参ったよ。そこでお手上げ」

 あらまあ、と私は呆れた。

「だからこそ、本人は面白いよ。何せ本気で書いてたって言うし。あちらこちらに彼女が常に口にしている美的感覚とかも出てきたし。というか、そもそも設定が彼女そのものだし」

 本気ということは。嗚呼。

「私小説ってこと?」
「みたいなものかな。聞いてたYWCAの時の生活とか、だぶるし」
「それを投げ出したわけ。そりゃ怒るでしょ」
「だって無理は無理だよ。甘いお菓子が美味しかったとしても、それをご飯にはできない」

 きっぱりと彼女は言う。
 何やら私の中に疑問が湧き上がった。

「幾つ? 吉屋さんって」
「二十五…… 六? ああ、もうじき誕生日って言ってたな」
「はああああ?! 私より上じゃないの!」

 今度こそ信じられない、と内心私は嘆息した。
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