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5話目 朝のコーヒーを初体験。
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翌朝、アーランは自分が何処にいるのか、すぐには判らなかった。
カーテンの合間から差し込む光の広さからふと、昔住んでいた二十人部屋ではないか、とまで考えてしまった。
だが違った。どれだけ大きな部屋でも、天井の高さ、飾り棚、カーテンの材質にしても、まるで異なっていた。
同居人も。
「あ、おはよう」
そう、目覚めたのは水の音だった。身支度をする姿。同居人は寝坊と無縁だった。
アーランはかなりそれに動揺した。
―――貴族さまさまなんて、夜遊びに一生懸命で、朝に弱くって召使いに急かされなくちゃ起きることもできないんだわ。
そう思っていたのである。実際、第八中等学校の寮舎で見た貴族の少女達は、実に寝起きが悪かった。習慣として朝寝が身についてしまっていた。
アーラン自身は。
まず、施設では自分のことを自分でするのに加え、年少の子達の世話をする必要があった。故に寝坊など遠い世界の話だった。
眠たがる小さな子達を揺さぶり、時には叩き飛ばしてまでも、時間以内に朝食のテーブルにつかせなくてはならなかった。
その習慣はすっかりアーランの身体に染み込んでいて、同じ位の長さの時間を怠惰に無為に過ごさせなくては、ぬぐい去ることもできそうにはなかった。
だがこの二人はそんなやむを得ない環境ではないし。所詮貴族のお嬢さんじゃないの!
時計の針はまだ六時だった。初夏風月である。日は昇ってはいるが、寮舎の起床時間よりも一時間も早かった。
水の音、顔を洗っていたのはカラシュだった。前夜、ミシュガ夫人から受け取った、この紅中私塾の制服を既に身につけて。
制服の地の色は紺だった。形はカエンの持ってきている第一中等の制服と良く似ていた。
ただ、第一中等のそれが白の襟に白のタイ、黒の上着に黒のスカートであるのに対し、この学校は紺とえんじが基調らしい。黒の代わりに紺、白の代わりにえんじ色が使われていた。
どうやら学長自身が好きな色をキーポイントに使ったのではなかろうか? アーランにはそんな気がしてしまう。
「……ああよく寝た」
大きく伸びをしてカエンが目を覚ます。アーランよりは遅いとはいえ、まだが着替えてもいないのだから、彼女も早い。
量のある黒髪があちこちに跳ね、落ち着いている時の倍の大きさにふくれあがり、前も背も判らないくらいだった。
前が見えるのか判らぬまま、カエンはのそのそとベッドから這い出す。そして殆ど無意識のように、部屋の隅に据えられた小さな台所へ行き、アルコールランプを点けて湯沸かしをかける。棚から、昨日見た茶缶とは別の茶色の筒を取り出した。
何をやらかすんだろう、と、アーランは着替えを始めながらも目が離せなくなる。
缶には黒い小さな粒状のものが半分以上あった。それをスプーンで何杯か適当にすくう。ざらりと取っ手のついた小さな道具の中に入れ、やがてその取っ手をぐるぐると回し始める。ごりごり、と何かを削るような音。
カエンはやがて手を止め、道具の底についている引き出しを開けた。何か粉状のものが入っていた。そして中身を、また別に用意いていたののか、持ち手のついた厚手の布袋に入れた。
その頃既に、湯沸かしがもう充分だ、と勢いよく蒸気を吹き出していた。カエンは布袋を別の大きなポットの上に置き、そろそろと沸騰している湯を注ぎ始めた。
うすぼんやりと漂っていた香りは、一気にその場に広がった。
何だろう。アーランは思った。初めての香り。鼻をくすぐるそれをどう表現たものか。何かを焦がしたか。いや。
悪いものではない、とすぐに気持ちは切り換わった。すっと頭に入り込み、寝起きでぼんやりした思考をはっきりさせてくれるような気がした。
「……入ったよカラシュ…… アーラン」
ぶるん、と頭を一度振り、カエンは身近にあった薄い白い布で長い髪を一つにくくった。長さが足りずに、落ちてくる前髪がややうるさそうだが、先刻までよりはましだった。
髪の間からようやく見えた目は、まだ半分寝ていた。だが、布袋を置いていたポットをテーブルまで運ぶには充分な様だった。いつの間にかカラシュが、昨日のお茶とは違った厚手の大きめのカップを並べていた。
カエンは首を回しながら上がりきらない高さの声で言う。
「……あーだる…… 寝違えちまった」
「カエン、あなた遅くまでまた本読んでたでしょう? 変な姿勢で。そのせいよ。医者の不養生って言葉知らない?」
「んー」
やや呆れたような顔をしながら、カラシュはポットの中身をコップに注ぐ。途端、アーランは目を丸くした。出てきたのは真っ黒な液体だった。
何だこれは。
カップとカラシュを交互に見比べる。するとカラシュは目敏く、
「あ、コーヒーよ」
「コーヒー?」
「……青海南の方で呑まれてるんだ…… 親父がよく買ってきてくれるんで…… ワタシも小さい頃から好きで……」
眠気がまだ半分支配しているというのに、律儀にカエンは答える。アーランは別に彼女に質問していた訳ではないのだが。
コーヒーを栽培しているという青海南管区は、「帝国」の東南の区域である。
この大陸の東半分を占める帝国は十の管区に分かれている。
青海南というのは、その中でも最も東南にあたる区域である。
「青海」と呼ばれる海に面していて、その中でも一番南にあるから青海南管区。分かりやすい。
ちなみにアーラン達が今居る「松芽枝《マツガエ》」市は、帝都直轄区と呼ばれる所にある。その名の通り、首都近辺の管区である。
「帝国」の首都である帝都は、「松芽枝」や、「萩野衣」のような、昔からある通称を持たない。政治特区だった。
十六歳未満の子供は足を踏み入れることができない。それは皇女ですら例外ではない。皇帝の夫人達も皇女が十六になるまでは帝都を離れる。
ただ例外も存在する。皇太子だけは別である。
ではその帝都に職を持つ、政治に参加する方々の子供及び家族は何処に住むのか。―――副帝都である。そこに家族は住む。皇帝の夫人と皇女方も住む。時には皇太子も行き来する。子供が大人ばかりの中で育つのは教育上よろしくないとのこと。
副帝都は帝国最大の都市である。「文化の首都」とも言われている。
お偉方の家族が住む。そこには自然、店が増える。
「何たって、彼らは裕福ですから」
裕福な人々のもとには商人が群がるのは当然だ、とアーランは思う。そして副帝都は帝国最大の消費都市になった。表向き。
そして表があれば裏もある。副帝都が「表向き」の政府高官の方々の家族の居場所とするなら、現在彼女達が居る「松芽枝」は「裏」の家族の居場所だ、と噂されている。
すなわち、高官や豪商に囲われている女性、その子供が暮らしていることが多い「らしい」。あくまで噂だが。
トゥルメイ侯爵家は、裏が存在するかはともかく、表の家族は副帝都に住んでいる。商業と文化の中心である副帝都なら珍しいものが手に入っても全くおかしくはないな、とアーランは短い時間で納得する。
「えーと、……そのままだとすごく苦いんだけど」
カラシュは苦笑する。
そんなものかな、と勧められるままにアーランは口をつけた。
衝撃で眠気がさめた。だが吹き出す訳にもいかないので、一気に呑み込む。口を押さえてつぶやく。
「……にが……」
「そうなの。そこであたしもミルクと砂糖が要るひとなんだけど…… この人ときたら」
苦笑しながらはい、とカラシュはアーランにミルク瓶と砂糖壷を渡す。
カップの半分くらいミルクは入れた方がいいからね、と。砂糖も言われる通り、軽く二杯入れる。そしてよくかきまわしてから口をつけた。
「あ、おいし」
「でしょ?」
アーランは半分くらい呑んでから、斜め前に座るカエンと彼女のカップを眺める。真っ黒のままだった。
不意にカエンはそれを掴むと、ぐっと一気に呑んだ。うわ、とアーランは思わず声を立てていた。
「に、にがくないの?」
「……苦いが…… こんなものだろう?」
そして落ちてくる髪をかきあげると、まだ眠そうな目を何度かしばたたかせる。半分閉じていた瞳が開く。
瞳。大きくはないが、顔全体の中でのバランスは悪くない。決して派手ではないが、派手でこの態度だったら見ていられないだろう。カエンは態度と外見が一致している。
だがこの年頃の女の子のする仕草ではない、とアーランは思わざるを得ない。
カーテンの合間から差し込む光の広さからふと、昔住んでいた二十人部屋ではないか、とまで考えてしまった。
だが違った。どれだけ大きな部屋でも、天井の高さ、飾り棚、カーテンの材質にしても、まるで異なっていた。
同居人も。
「あ、おはよう」
そう、目覚めたのは水の音だった。身支度をする姿。同居人は寝坊と無縁だった。
アーランはかなりそれに動揺した。
―――貴族さまさまなんて、夜遊びに一生懸命で、朝に弱くって召使いに急かされなくちゃ起きることもできないんだわ。
そう思っていたのである。実際、第八中等学校の寮舎で見た貴族の少女達は、実に寝起きが悪かった。習慣として朝寝が身についてしまっていた。
アーラン自身は。
まず、施設では自分のことを自分でするのに加え、年少の子達の世話をする必要があった。故に寝坊など遠い世界の話だった。
眠たがる小さな子達を揺さぶり、時には叩き飛ばしてまでも、時間以内に朝食のテーブルにつかせなくてはならなかった。
その習慣はすっかりアーランの身体に染み込んでいて、同じ位の長さの時間を怠惰に無為に過ごさせなくては、ぬぐい去ることもできそうにはなかった。
だがこの二人はそんなやむを得ない環境ではないし。所詮貴族のお嬢さんじゃないの!
時計の針はまだ六時だった。初夏風月である。日は昇ってはいるが、寮舎の起床時間よりも一時間も早かった。
水の音、顔を洗っていたのはカラシュだった。前夜、ミシュガ夫人から受け取った、この紅中私塾の制服を既に身につけて。
制服の地の色は紺だった。形はカエンの持ってきている第一中等の制服と良く似ていた。
ただ、第一中等のそれが白の襟に白のタイ、黒の上着に黒のスカートであるのに対し、この学校は紺とえんじが基調らしい。黒の代わりに紺、白の代わりにえんじ色が使われていた。
どうやら学長自身が好きな色をキーポイントに使ったのではなかろうか? アーランにはそんな気がしてしまう。
「……ああよく寝た」
大きく伸びをしてカエンが目を覚ます。アーランよりは遅いとはいえ、まだが着替えてもいないのだから、彼女も早い。
量のある黒髪があちこちに跳ね、落ち着いている時の倍の大きさにふくれあがり、前も背も判らないくらいだった。
前が見えるのか判らぬまま、カエンはのそのそとベッドから這い出す。そして殆ど無意識のように、部屋の隅に据えられた小さな台所へ行き、アルコールランプを点けて湯沸かしをかける。棚から、昨日見た茶缶とは別の茶色の筒を取り出した。
何をやらかすんだろう、と、アーランは着替えを始めながらも目が離せなくなる。
缶には黒い小さな粒状のものが半分以上あった。それをスプーンで何杯か適当にすくう。ざらりと取っ手のついた小さな道具の中に入れ、やがてその取っ手をぐるぐると回し始める。ごりごり、と何かを削るような音。
カエンはやがて手を止め、道具の底についている引き出しを開けた。何か粉状のものが入っていた。そして中身を、また別に用意いていたののか、持ち手のついた厚手の布袋に入れた。
その頃既に、湯沸かしがもう充分だ、と勢いよく蒸気を吹き出していた。カエンは布袋を別の大きなポットの上に置き、そろそろと沸騰している湯を注ぎ始めた。
うすぼんやりと漂っていた香りは、一気にその場に広がった。
何だろう。アーランは思った。初めての香り。鼻をくすぐるそれをどう表現たものか。何かを焦がしたか。いや。
悪いものではない、とすぐに気持ちは切り換わった。すっと頭に入り込み、寝起きでぼんやりした思考をはっきりさせてくれるような気がした。
「……入ったよカラシュ…… アーラン」
ぶるん、と頭を一度振り、カエンは身近にあった薄い白い布で長い髪を一つにくくった。長さが足りずに、落ちてくる前髪がややうるさそうだが、先刻までよりはましだった。
髪の間からようやく見えた目は、まだ半分寝ていた。だが、布袋を置いていたポットをテーブルまで運ぶには充分な様だった。いつの間にかカラシュが、昨日のお茶とは違った厚手の大きめのカップを並べていた。
カエンは首を回しながら上がりきらない高さの声で言う。
「……あーだる…… 寝違えちまった」
「カエン、あなた遅くまでまた本読んでたでしょう? 変な姿勢で。そのせいよ。医者の不養生って言葉知らない?」
「んー」
やや呆れたような顔をしながら、カラシュはポットの中身をコップに注ぐ。途端、アーランは目を丸くした。出てきたのは真っ黒な液体だった。
何だこれは。
カップとカラシュを交互に見比べる。するとカラシュは目敏く、
「あ、コーヒーよ」
「コーヒー?」
「……青海南の方で呑まれてるんだ…… 親父がよく買ってきてくれるんで…… ワタシも小さい頃から好きで……」
眠気がまだ半分支配しているというのに、律儀にカエンは答える。アーランは別に彼女に質問していた訳ではないのだが。
コーヒーを栽培しているという青海南管区は、「帝国」の東南の区域である。
この大陸の東半分を占める帝国は十の管区に分かれている。
青海南というのは、その中でも最も東南にあたる区域である。
「青海」と呼ばれる海に面していて、その中でも一番南にあるから青海南管区。分かりやすい。
ちなみにアーラン達が今居る「松芽枝《マツガエ》」市は、帝都直轄区と呼ばれる所にある。その名の通り、首都近辺の管区である。
「帝国」の首都である帝都は、「松芽枝」や、「萩野衣」のような、昔からある通称を持たない。政治特区だった。
十六歳未満の子供は足を踏み入れることができない。それは皇女ですら例外ではない。皇帝の夫人達も皇女が十六になるまでは帝都を離れる。
ただ例外も存在する。皇太子だけは別である。
ではその帝都に職を持つ、政治に参加する方々の子供及び家族は何処に住むのか。―――副帝都である。そこに家族は住む。皇帝の夫人と皇女方も住む。時には皇太子も行き来する。子供が大人ばかりの中で育つのは教育上よろしくないとのこと。
副帝都は帝国最大の都市である。「文化の首都」とも言われている。
お偉方の家族が住む。そこには自然、店が増える。
「何たって、彼らは裕福ですから」
裕福な人々のもとには商人が群がるのは当然だ、とアーランは思う。そして副帝都は帝国最大の消費都市になった。表向き。
そして表があれば裏もある。副帝都が「表向き」の政府高官の方々の家族の居場所とするなら、現在彼女達が居る「松芽枝」は「裏」の家族の居場所だ、と噂されている。
すなわち、高官や豪商に囲われている女性、その子供が暮らしていることが多い「らしい」。あくまで噂だが。
トゥルメイ侯爵家は、裏が存在するかはともかく、表の家族は副帝都に住んでいる。商業と文化の中心である副帝都なら珍しいものが手に入っても全くおかしくはないな、とアーランは短い時間で納得する。
「えーと、……そのままだとすごく苦いんだけど」
カラシュは苦笑する。
そんなものかな、と勧められるままにアーランは口をつけた。
衝撃で眠気がさめた。だが吹き出す訳にもいかないので、一気に呑み込む。口を押さえてつぶやく。
「……にが……」
「そうなの。そこであたしもミルクと砂糖が要るひとなんだけど…… この人ときたら」
苦笑しながらはい、とカラシュはアーランにミルク瓶と砂糖壷を渡す。
カップの半分くらいミルクは入れた方がいいからね、と。砂糖も言われる通り、軽く二杯入れる。そしてよくかきまわしてから口をつけた。
「あ、おいし」
「でしょ?」
アーランは半分くらい呑んでから、斜め前に座るカエンと彼女のカップを眺める。真っ黒のままだった。
不意にカエンはそれを掴むと、ぐっと一気に呑んだ。うわ、とアーランは思わず声を立てていた。
「に、にがくないの?」
「……苦いが…… こんなものだろう?」
そして落ちてくる髪をかきあげると、まだ眠そうな目を何度かしばたたかせる。半分閉じていた瞳が開く。
瞳。大きくはないが、顔全体の中でのバランスは悪くない。決して派手ではないが、派手でこの態度だったら見ていられないだろう。カエンは態度と外見が一致している。
だがこの年頃の女の子のする仕草ではない、とアーランは思わざるを得ない。
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