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第38話 DBの家の事情③
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そう口にしながら、彼の心臓は次第に鼓動を早めつつあった。静まれ、と彼は自分自身に命ずる。だが気持ちの冷静さに比べ、身体は正直だった。
「私に答えられることなら何でも」
「……権利の放棄、ってどうすればいいんですか?」
君、と鳥留氏は弾かれた様に彼の方を向いた。
「……ふざけるのは止したまえ、大介君」
「ふざけている、とお思いですか?」
彼はまっすぐ、弁護士氏の方を向いた。ううむ、と相手は眉を軽く寄せた。
「無論、方法を知らない訳ではないが、そういうことは、軽々しく言うものではないよ」
初めから馬鹿なことを、と言わないあたり、このひとには脈がある。彼はそう感じていた。
「僕は」
彼は年長者の意見を受け流し、口を開く。心臓の鼓動はどんどん早く、大きくなっていく。大事なことだ。これは自分にとって、大切なことなのだ。
どうしても答えが欲しい、大事なことなのだ。
「兄は…… あのひとは、僕を自分の片腕にしようと思っているのでしょうか」
「当然それは考えられるね。何しろ現在、あの一朗君にとって、最も近しい肉親は君だけなのだから。たとえ母親が異なったとしても、同じ父親の血を引くものとしてね」
「そうかもしれません。でも」
一度彼は、そこで言葉を切る。
「僕と彼は、違うんです」
「そりゃあ、人間皆違う」
「しかしあのひとは、自分と僕を混同しています。僕はあのひとのように、あの会社や…… そういった中で、上に立つ人間としてやっていく才能は無いです」
「自分でそうやって言い切ってしまうのかい?」
「はい」
「それは逃げじゃないのかい?」
彼は一瞬詰まる。だがそこで踏みとどまらなくてはならないのだ。
「……鳥留さんは、どうして弁護士になろうと思いましたか?」
質問をした側は苦笑する。
された側は、何をいきなり、と目を大きく広げる。そしてあの感じのいい口元だけの笑みを浮かべた。
「さあ、もう遠い昔のことだから忘れたよ」
「でも、自分がやったから、できたから、ってきょうだいにまで、同じ職業を選べ、とは言わなかったんではないですか?」
「……私には、きょうだいは無いんだよ、大介君」
ははは、と鳥留氏は笑った。彼はあ、と言って口を押さえる。決めつけているのは自分も同じじゃないか。
「いや、でもまあ、君の言いたいことは判るよ。そう、きょうだいは居ない。だが娘と息子が一人ずつ居る。確かに、どちらも弁護士どころか、文系とは縁の無いことをしているな」
その言葉を聞いて、彼は少しだけほっとする。
「だがそれは、二人とも、その分野にしたいことがあったからだ。私がそれならあれこれ口出すことでもないだろう。だが君は、何かその、会社に関わるのが嫌だというのなら、他にしたいことがあるのかい?」
彼は詰まった。つまりはそれが自分のネックなのだ。
人にこうと主張できる程の強い肯定的な「何か」が無い。
「嫌だから」という消極的な理由だけでは、あまりにも理由としては弱すぎるのだ。たとえそれが、自分にとって最も大きな理由であったとしても!
だから彼はいいえ、と答えた。
「だったら、もう少し続けてみたまえ。その中で、自分に向いたものがあるのかもしれない」
あるのだろうか。ぽん、と置かれた鳥留氏の手は大きくて暖かい。少しはそれを信じてみてもいいのかもしれない、と彼は思った。
だが。
*
「どういうつもりだ?」
あああの目だ、と彼は思った。頬が痛い。どうして自分が床に転がっているのか、彼にはすぐには理解できなかった。
ああそうだ、自分は「兄」に殴られたのだ。
その勢いが強すぎて、大したウエートもない自分は吹っ飛ばされてしまったのだ。
「……何の、ことですか?」
「空とぼけるんじゃない」
彼は床でこすれた頬を撫でる。擦り傷までは行っていないが、それでもひりひりと痛む。
「お前、鳥留に何を言った」
「何を、とは」
「権利を放棄したい、と言ったそうだな」
鳥留氏が言ったのだろうか。彼は考える。いや、どうだろう。
「鳥留さんが…… 言われたのですか?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
なるほど。
彼は奇妙に冷静な頭で納得した。
鳥留氏が言った訳ではない。おそらく、この家の中の誰かが、自分達の会話を聞いていたのだ。
それが誰であるかはどうでもいいことだ。問題は、誰かしらが自分達の会話が聞こえる所に居た、ということだ。
「冗談にしても程がある」
「兄」は吐き捨てる様に言った。
「……冗談ではないです」
彼はぼそ、と言った。だがその言葉は果たして届いたのかどうか。
「今度そんなことを口にしてみろ。お前を今の学校から転校させる」
そんな無茶な、と彼は思った。既に三年も半分まで行ったというのに。そんな時期に転校する馬鹿も転校させる馬鹿もいないだろう。
だがそんなことが、きっとできるのだ。出来なければこの男はそれを口にはしないだろう。
わかりました、と彼は乾いた声で答えた。判ったならいい、と「兄」は言った。
「今日のうちに、身の回りの荷物をまとめておけ。明日から、離れではなく、お前は本宅の方に移れ」
はい、と彼は答えた。そしてその晩、彼は身の回りの荷物をまとめた。
だがそれは、本宅に移るためではなかった。
「私に答えられることなら何でも」
「……権利の放棄、ってどうすればいいんですか?」
君、と鳥留氏は弾かれた様に彼の方を向いた。
「……ふざけるのは止したまえ、大介君」
「ふざけている、とお思いですか?」
彼はまっすぐ、弁護士氏の方を向いた。ううむ、と相手は眉を軽く寄せた。
「無論、方法を知らない訳ではないが、そういうことは、軽々しく言うものではないよ」
初めから馬鹿なことを、と言わないあたり、このひとには脈がある。彼はそう感じていた。
「僕は」
彼は年長者の意見を受け流し、口を開く。心臓の鼓動はどんどん早く、大きくなっていく。大事なことだ。これは自分にとって、大切なことなのだ。
どうしても答えが欲しい、大事なことなのだ。
「兄は…… あのひとは、僕を自分の片腕にしようと思っているのでしょうか」
「当然それは考えられるね。何しろ現在、あの一朗君にとって、最も近しい肉親は君だけなのだから。たとえ母親が異なったとしても、同じ父親の血を引くものとしてね」
「そうかもしれません。でも」
一度彼は、そこで言葉を切る。
「僕と彼は、違うんです」
「そりゃあ、人間皆違う」
「しかしあのひとは、自分と僕を混同しています。僕はあのひとのように、あの会社や…… そういった中で、上に立つ人間としてやっていく才能は無いです」
「自分でそうやって言い切ってしまうのかい?」
「はい」
「それは逃げじゃないのかい?」
彼は一瞬詰まる。だがそこで踏みとどまらなくてはならないのだ。
「……鳥留さんは、どうして弁護士になろうと思いましたか?」
質問をした側は苦笑する。
された側は、何をいきなり、と目を大きく広げる。そしてあの感じのいい口元だけの笑みを浮かべた。
「さあ、もう遠い昔のことだから忘れたよ」
「でも、自分がやったから、できたから、ってきょうだいにまで、同じ職業を選べ、とは言わなかったんではないですか?」
「……私には、きょうだいは無いんだよ、大介君」
ははは、と鳥留氏は笑った。彼はあ、と言って口を押さえる。決めつけているのは自分も同じじゃないか。
「いや、でもまあ、君の言いたいことは判るよ。そう、きょうだいは居ない。だが娘と息子が一人ずつ居る。確かに、どちらも弁護士どころか、文系とは縁の無いことをしているな」
その言葉を聞いて、彼は少しだけほっとする。
「だがそれは、二人とも、その分野にしたいことがあったからだ。私がそれならあれこれ口出すことでもないだろう。だが君は、何かその、会社に関わるのが嫌だというのなら、他にしたいことがあるのかい?」
彼は詰まった。つまりはそれが自分のネックなのだ。
人にこうと主張できる程の強い肯定的な「何か」が無い。
「嫌だから」という消極的な理由だけでは、あまりにも理由としては弱すぎるのだ。たとえそれが、自分にとって最も大きな理由であったとしても!
だから彼はいいえ、と答えた。
「だったら、もう少し続けてみたまえ。その中で、自分に向いたものがあるのかもしれない」
あるのだろうか。ぽん、と置かれた鳥留氏の手は大きくて暖かい。少しはそれを信じてみてもいいのかもしれない、と彼は思った。
だが。
*
「どういうつもりだ?」
あああの目だ、と彼は思った。頬が痛い。どうして自分が床に転がっているのか、彼にはすぐには理解できなかった。
ああそうだ、自分は「兄」に殴られたのだ。
その勢いが強すぎて、大したウエートもない自分は吹っ飛ばされてしまったのだ。
「……何の、ことですか?」
「空とぼけるんじゃない」
彼は床でこすれた頬を撫でる。擦り傷までは行っていないが、それでもひりひりと痛む。
「お前、鳥留に何を言った」
「何を、とは」
「権利を放棄したい、と言ったそうだな」
鳥留氏が言ったのだろうか。彼は考える。いや、どうだろう。
「鳥留さんが…… 言われたのですか?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
なるほど。
彼は奇妙に冷静な頭で納得した。
鳥留氏が言った訳ではない。おそらく、この家の中の誰かが、自分達の会話を聞いていたのだ。
それが誰であるかはどうでもいいことだ。問題は、誰かしらが自分達の会話が聞こえる所に居た、ということだ。
「冗談にしても程がある」
「兄」は吐き捨てる様に言った。
「……冗談ではないです」
彼はぼそ、と言った。だがその言葉は果たして届いたのかどうか。
「今度そんなことを口にしてみろ。お前を今の学校から転校させる」
そんな無茶な、と彼は思った。既に三年も半分まで行ったというのに。そんな時期に転校する馬鹿も転校させる馬鹿もいないだろう。
だがそんなことが、きっとできるのだ。出来なければこの男はそれを口にはしないだろう。
わかりました、と彼は乾いた声で答えた。判ったならいい、と「兄」は言った。
「今日のうちに、身の回りの荷物をまとめておけ。明日から、離れではなく、お前は本宅の方に移れ」
はい、と彼は答えた。そしてその晩、彼は身の回りの荷物をまとめた。
だがそれは、本宅に移るためではなかった。
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