どうせなら日々のごはんは貴女と一緒に

江戸川ばた散歩

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36 恋愛は戦争だと彼女は言う

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 ひょい、と彼女は顔を上げた。

「何処で聞いたの?」
「ファンの子達が、噂してた」

 やだやだ、と低い声で彼女はつぶやいた。

「でも仕方ないのよね。前に出ようなんて思ってしまったんだから、そんな目は、仕方ないと思ってたの。思ってるわ。でもケンショーは、あたしが苛立ってることすら、気付かないのよ。だから怒って、先に帰ってしまったの」
「何に苛立ってたの?」

 至近距離の目が、ふっと細められる。

「全部」

 ぜんぶ、と私は繰り返す。
 そう全部、と彼女は念を押す様に言った。

「一番嫌なのはね、それなのに、あたしがまだ、彼のことが好きだ、ってことなのよ。あたしの声を選んで、これでもかとばかりに誉めて持ち上げて、歌ってる時の姿が綺麗だ綺麗だと誉めて、キスしたり抱いてくれた彼が、腹が立つくらい好きだ、ってことなのよ」
「どうして?」
「誰かを好きになったこと、無い? 美咲ちゃん」

 私は黙った。
 好きになったこと。付き合ったひとは居ても、それは好きだったのかどうか、と言えば怪しい。
 これだけは言える。
 少なくとも、彼女の言うような、そんな「好き」は無い。

「すごく腹が立つのよ。何でそんな奴を、ずっとずっと好きでいなくちゃならないの、って。だけどどうしようもないんだもの。そういうの、無い?」

 ごめんなさい、と私はつぶやいた。
 判りたくても、そんな気持ちは私には無い。
 無かったはずだ。
 どうしてこうなんだろう、と時々思うのだ。
 兄貴のような、そんな大事な「何か」を持つ訳でもなく、誰かを強烈に好きになる訳でもなく、私は一体何をしてるんだろう。
 それじゃあ兄貴のような「何か」を探せばいいのか、と言えば、それは探してどうにかなるようなものではないような気がする。
 天から降ってくるようなものだ。
 私は「それ」はそういうものであって欲しい、と思っている。
 けど、それが違っている、ということなんだろうか?

「謝らなくてもいいわ。ごめんね美咲ちゃん。泣き言よ、所詮。だってそうよ。恋愛は戦争だわ」
「そんな物騒な」
「だってそうよ。より多く惚れてしまった方が、負けなのよ」

 そしてあたしは負けたの、と彼女はつぶやいた。
 彼女が私の背に回す手に込める力は変わらない。
 むしろ強くなっているように感じられた。

「ハコザキ君は」
「何であいつの名が出てくるの?」
「知っていた?」

 唐突に、聞きたくなっていた。

「兄貴が、ハコザキ君ともそういう仲だったこと」
「知ってたわ」

 手が、背中をだんだん上がってくる。

「気付いて、取り返そうと思って、打ち上げの二次会まで、珍しく行ったのよ。そしたら取り返すも何も、ケンショーはあたしの声の方が好きになってしまった。そういう奴なのよ、美咲ちゃんのおにーさんは」
「知ってる」
「それで逃げたハコザキを全く追ったりもしないのよ。可哀相な奴」
「可哀相?」
「可哀相よ。ハコザキは気付いたから逃げたのよ。ケンショーはそれを聞いたら言ったわ。ああそうまたか、って。そういうことを言ってしまう奴って、すごく可哀相よね」

 可哀相――― なのだろうか。

「誰も、彼をずっとずっと長く好きで居続けられるなんてできないわ。ケンショーは、彼を好きになった誰かの何かを、確実に、奪ってく。そして奪われたものは、二度と戻ってこないのよ」

 首筋に、暖かい手が触れた。

「のよりさん」
「やっぱり似てる。ねえ美咲ちゃん、キスしていい?」  
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