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第64話 楽じゃない。だけど、楽しいはずだ。
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春先のある週末、私は新幹線に乗って、実家へ向かった。目的は、サラダが事故にあった原因と同じだ。
私は両親に金を借りに行ったのだ。
必要な金額には、あと百万から二百万は必要だった。それだけあれば、会社を辞めて、今まで考えてきた計画をスタートさせることができる。私とサラダの貯めたお金、そして兄貴をはじめとするRINGERのメンツから出資してもらったお金。カナイ君やマキノ君にまで、十万づつ出させたのだ。実家に居るとは言え、何かと物いりな彼らにまで。
それでももう少し足りない。
―――ここからだけは、絶対に借りたくはなかったのだが。
一年、まるまる帰っていなかった。私もサラダも、ゴールデンウイークも盆も正月も返上して働いていたのだ。さすがに少し敷居が高かった。
そして更に。
話を切りだした時、母親は「面白そうな話ね」と言った。だがそれが本気だ、ということが判ると、いきなり血相を変えて、冗談は止しなさい、ときた。
冗談で二人で一年で二百万の貯金はできません、おかーさま。私達はほんとうにしがないOLとフリーターだったんです。
私は何か言おうとすると母親は遮ろうとする。人の話を聞いてよ、と何度繰り返したことだろう。
「とにかく聞いて、あなた達は一体、私の話を本当に聞いたことがあるの」
とうとう私は叫んでしまった。言ってしまってから、はっとした。
「それでは」
親父どのは、その時ようやく口を開いた。それまで私と母親のやりとりをじっと聞いていただけだったのに。
「お前の本当の望み、っていうのは何だったというんだ? 本気で言ったことは無いだろう?」
さすがにそう言われると痛いものがあった。
「お前は本気なものは無いように思えたから、せめて楽な道を、と考えるのは親としては当然じゃないか」
「そうよ」
絞り出すようにして私は言った。
「そうよ、ずっと何も無かったわよ。兄貴のように、この家も何もかもどうでもいい何か、って奴は無かったわ。確かにそんな兄貴を見てて、そんな奴になりたくはない、と思ったのも確かだけど、それ以上に、あたしには何もしたいことなんて無かったわよ」
「それが今はある、というのか? 今更。お前幾つだと思っているんだ?」
「二十六よ」
言ってから、ああもうそんな歳なんだ、と思った。四捨五入すれば、兄貴と同じだ。三十路に差し掛かってしまう。
「だから、なのよ。今の会社に居たところで、先は見えてるのよ。どんなに優秀で熱心なひとだって、昇進はできない。別に昇進したい訳じゃあないけれど、でも、そういうとこなのよ。親父どのは、それが当然だと思うかもしれないけれど、あたし達は」
「誰かが一緒なのか?」
「美咲あんた結婚はしないつもり?」
二人の違う言葉が同時に降りかかる。
「結婚は、しないわ」
きっぱりと言う。
「大事なひとは居るけれど、それはそういうひとじゃないの。一緒に店をやりたいと思えたたった一人の、友達なのよ。そのひととずっと一緒に居たいから、結婚は、しない」
「何を馬鹿なこと言ってるの。あんたもう二十六なのよ?」
「だから」
サラダに対する感情は、恋愛ではないのは自分でもよく判っていた。
のよりさんにそうしたようには、サラダにはできなかった。
彼女もそうしなかったし、そういう雰囲気には、私達はどう転んでもなれなかった。
そういう相手ではない、と思った。
そういうことがしたかったら、別に調達すればいい、と思った。
それでも、私達は、一緒に居たかったのだ。それの何処がいけない?
「いつか何処かで子供の一人くらい作るかもしれない。けれど、結婚はしないわ。子供作ったとしても、そのひとが一番じゃあないもの」
母親は黙って頭を横に振った。理解しがたい、と言った表情だ。それはそうだろう。彼らは兄貴の性癖は知らないだろうが、知ったところで理解はやっぱりできないだろう。そして私に関しても。
「そのために、この一年びっしり働いてきたわ。必要になるだろう資本の1/3は何とか稼いだのよ。早く始めないと、店をオープンさせるタイミングも失いかねないから。勉強もしたわ。暇ができたら、色んな店のリサーチもした。兄貴はそれを知ってたから、バンドの人たちと一緒に、1/3を出資してくれたわ」
「ノリアキがか?」
親父どののその時の顔ときたら。
「あいつの何処にそんな金があったんだ!」
そう思うのは仕方ないと思うけど。ただ私は気づいていた。放り出してあった新聞の、TV・ラジオ欄に赤鉛筆で丸がついている。ローカルなFMラジオ局の、夕方の番組だ。
何でそんなところに、と思ったら、その番組のゲストはRINGERだったのだ。
RINGERはこのところ、メディア出まくり期間らしかった。ライヴが終わったら、今度は二人組になってあちこちのローカルラジオ局にシングルのプロモーションに出ていた。兄貴は「営業」と言ったが、その通りだろう。
そして、その時の組み合わせが、兄貴とオズさん、カナイ君とマキノ君であるあたりが、実に「仕事」である。プライヴェイト交えていたら、確実に兄貴はカナイ君と組むだろうし、オズさんはマキノ君と組んでいるだろう。
そんな番組に、彼らは丸をつけているのだ。何だかんだ言って、このひと達は、息子のことが大好きなのだ。その事実に胸が痛まない訳ではないが、そんなことを考えている暇は無い。
「あいつがなあ」
親父どのは感心半分、信じられない半分、という顔で、腕を組み、何度も繰り返す。
「バンドの皆も出した、か」
「だけど兄貴が半分もったわ」
「半分」
「アマチュアの頃から、ずっと貯金してた分を、あたしに回してくれたのよ」
ああ、と母親はうなづいた。そういう所がお兄ちゃんはあったわね、とつぶやく。どんな所なのか、私には判らない。
「お年玉を結構ちゃんとお兄ちゃんは取っておく子だったからね」
初耳だ。そんな話、聞いたことが無い。私も結構取っておくほうだったが…… いや、この人に没収されたんだ。貯金するから、と。……あれ?
「おい、美咲の通帳は、どれだけ貯まってる?」
「あたしの通帳?」
初耳だ。
母親は立ち上がると、戸棚から通帳を出してきた。ずいぶん古いものだ。ATMがまだ使えないタイプだ。そうしょっちゅうお金の出入りが無いのだろう。
「見てみろ」
親父どのは、それを私の方へと突き出した。言われるままに、私は開く。そしてぎょっとする。
「な」
んですか、この桁数は。
「お前の嫁入り道具用に作っておいた通帳だ」
「ってもしかして、昔没収されたお年玉とかも、ここに入っている?」
「当然でしょう」
きっぱりと母親は言った。
しかしこのあたりの嫁入り道具の量のとんでもなさは、有名な話である。
無論その通説通りにこの家がやるとは思えないが、それでも、娘には嫁入り道具を十分持たせて嫁がせる、という気持ちがあったのだろう。
通帳には、今の段階で186万あった。
「持っていけ」
「お父さん」
母親が、慌てて口を挟む。
「お前は、結婚するつもりは無いんだろう?」
「無いわ」
私はきっぱりと言う。
「お父さんお母さんには悪いと思うけど…… そういうことに、昔っからあたしは、全然魅力を感じなかったし、今でも感じてない。好きな男も居ないし、これから先、男を好きになるかどうかも判らない」
「だけど美咲、会ってみなくちゃ判らないでしょう」
「おかーさん……」
私は苦笑する。
「ごめんなさい。どうしても、結婚する対象として、ずっと一緒に暮らしてったり生きてく相手として、男は、考えられない」
「ノリアキだってもう三十になるっていうのに、そういう話一つ聞かないっていうのに」
「それは仕方ないだろう、母さん」
親父どのはぼそっと言った。
「だけど楽じゃないぞ」
「判ってる」
兄貴を見てれば、好きなことを貫き通すことの、困難さはよく判る。楽なんかじゃ、絶対にない。
楽じゃない。だけど、楽しいはずだ。
「だったら、これを好きに使えばいい。そのかわり、もし結婚したくなったとしても、うちからは何もしてやれないぞ」
そんなこと。初めから期待していない。私はありがとう、と言いながら苦笑した。
謝らない。
私達はお互いがお互いに期待していた。
自分のこう思うだろう、親とか娘の姿を。
だけどそれをもう、終わらせよう、と。
私は両親に金を借りに行ったのだ。
必要な金額には、あと百万から二百万は必要だった。それだけあれば、会社を辞めて、今まで考えてきた計画をスタートさせることができる。私とサラダの貯めたお金、そして兄貴をはじめとするRINGERのメンツから出資してもらったお金。カナイ君やマキノ君にまで、十万づつ出させたのだ。実家に居るとは言え、何かと物いりな彼らにまで。
それでももう少し足りない。
―――ここからだけは、絶対に借りたくはなかったのだが。
一年、まるまる帰っていなかった。私もサラダも、ゴールデンウイークも盆も正月も返上して働いていたのだ。さすがに少し敷居が高かった。
そして更に。
話を切りだした時、母親は「面白そうな話ね」と言った。だがそれが本気だ、ということが判ると、いきなり血相を変えて、冗談は止しなさい、ときた。
冗談で二人で一年で二百万の貯金はできません、おかーさま。私達はほんとうにしがないOLとフリーターだったんです。
私は何か言おうとすると母親は遮ろうとする。人の話を聞いてよ、と何度繰り返したことだろう。
「とにかく聞いて、あなた達は一体、私の話を本当に聞いたことがあるの」
とうとう私は叫んでしまった。言ってしまってから、はっとした。
「それでは」
親父どのは、その時ようやく口を開いた。それまで私と母親のやりとりをじっと聞いていただけだったのに。
「お前の本当の望み、っていうのは何だったというんだ? 本気で言ったことは無いだろう?」
さすがにそう言われると痛いものがあった。
「お前は本気なものは無いように思えたから、せめて楽な道を、と考えるのは親としては当然じゃないか」
「そうよ」
絞り出すようにして私は言った。
「そうよ、ずっと何も無かったわよ。兄貴のように、この家も何もかもどうでもいい何か、って奴は無かったわ。確かにそんな兄貴を見てて、そんな奴になりたくはない、と思ったのも確かだけど、それ以上に、あたしには何もしたいことなんて無かったわよ」
「それが今はある、というのか? 今更。お前幾つだと思っているんだ?」
「二十六よ」
言ってから、ああもうそんな歳なんだ、と思った。四捨五入すれば、兄貴と同じだ。三十路に差し掛かってしまう。
「だから、なのよ。今の会社に居たところで、先は見えてるのよ。どんなに優秀で熱心なひとだって、昇進はできない。別に昇進したい訳じゃあないけれど、でも、そういうとこなのよ。親父どのは、それが当然だと思うかもしれないけれど、あたし達は」
「誰かが一緒なのか?」
「美咲あんた結婚はしないつもり?」
二人の違う言葉が同時に降りかかる。
「結婚は、しないわ」
きっぱりと言う。
「大事なひとは居るけれど、それはそういうひとじゃないの。一緒に店をやりたいと思えたたった一人の、友達なのよ。そのひととずっと一緒に居たいから、結婚は、しない」
「何を馬鹿なこと言ってるの。あんたもう二十六なのよ?」
「だから」
サラダに対する感情は、恋愛ではないのは自分でもよく判っていた。
のよりさんにそうしたようには、サラダにはできなかった。
彼女もそうしなかったし、そういう雰囲気には、私達はどう転んでもなれなかった。
そういう相手ではない、と思った。
そういうことがしたかったら、別に調達すればいい、と思った。
それでも、私達は、一緒に居たかったのだ。それの何処がいけない?
「いつか何処かで子供の一人くらい作るかもしれない。けれど、結婚はしないわ。子供作ったとしても、そのひとが一番じゃあないもの」
母親は黙って頭を横に振った。理解しがたい、と言った表情だ。それはそうだろう。彼らは兄貴の性癖は知らないだろうが、知ったところで理解はやっぱりできないだろう。そして私に関しても。
「そのために、この一年びっしり働いてきたわ。必要になるだろう資本の1/3は何とか稼いだのよ。早く始めないと、店をオープンさせるタイミングも失いかねないから。勉強もしたわ。暇ができたら、色んな店のリサーチもした。兄貴はそれを知ってたから、バンドの人たちと一緒に、1/3を出資してくれたわ」
「ノリアキがか?」
親父どののその時の顔ときたら。
「あいつの何処にそんな金があったんだ!」
そう思うのは仕方ないと思うけど。ただ私は気づいていた。放り出してあった新聞の、TV・ラジオ欄に赤鉛筆で丸がついている。ローカルなFMラジオ局の、夕方の番組だ。
何でそんなところに、と思ったら、その番組のゲストはRINGERだったのだ。
RINGERはこのところ、メディア出まくり期間らしかった。ライヴが終わったら、今度は二人組になってあちこちのローカルラジオ局にシングルのプロモーションに出ていた。兄貴は「営業」と言ったが、その通りだろう。
そして、その時の組み合わせが、兄貴とオズさん、カナイ君とマキノ君であるあたりが、実に「仕事」である。プライヴェイト交えていたら、確実に兄貴はカナイ君と組むだろうし、オズさんはマキノ君と組んでいるだろう。
そんな番組に、彼らは丸をつけているのだ。何だかんだ言って、このひと達は、息子のことが大好きなのだ。その事実に胸が痛まない訳ではないが、そんなことを考えている暇は無い。
「あいつがなあ」
親父どのは感心半分、信じられない半分、という顔で、腕を組み、何度も繰り返す。
「バンドの皆も出した、か」
「だけど兄貴が半分もったわ」
「半分」
「アマチュアの頃から、ずっと貯金してた分を、あたしに回してくれたのよ」
ああ、と母親はうなづいた。そういう所がお兄ちゃんはあったわね、とつぶやく。どんな所なのか、私には判らない。
「お年玉を結構ちゃんとお兄ちゃんは取っておく子だったからね」
初耳だ。そんな話、聞いたことが無い。私も結構取っておくほうだったが…… いや、この人に没収されたんだ。貯金するから、と。……あれ?
「おい、美咲の通帳は、どれだけ貯まってる?」
「あたしの通帳?」
初耳だ。
母親は立ち上がると、戸棚から通帳を出してきた。ずいぶん古いものだ。ATMがまだ使えないタイプだ。そうしょっちゅうお金の出入りが無いのだろう。
「見てみろ」
親父どのは、それを私の方へと突き出した。言われるままに、私は開く。そしてぎょっとする。
「な」
んですか、この桁数は。
「お前の嫁入り道具用に作っておいた通帳だ」
「ってもしかして、昔没収されたお年玉とかも、ここに入っている?」
「当然でしょう」
きっぱりと母親は言った。
しかしこのあたりの嫁入り道具の量のとんでもなさは、有名な話である。
無論その通説通りにこの家がやるとは思えないが、それでも、娘には嫁入り道具を十分持たせて嫁がせる、という気持ちがあったのだろう。
通帳には、今の段階で186万あった。
「持っていけ」
「お父さん」
母親が、慌てて口を挟む。
「お前は、結婚するつもりは無いんだろう?」
「無いわ」
私はきっぱりと言う。
「お父さんお母さんには悪いと思うけど…… そういうことに、昔っからあたしは、全然魅力を感じなかったし、今でも感じてない。好きな男も居ないし、これから先、男を好きになるかどうかも判らない」
「だけど美咲、会ってみなくちゃ判らないでしょう」
「おかーさん……」
私は苦笑する。
「ごめんなさい。どうしても、結婚する対象として、ずっと一緒に暮らしてったり生きてく相手として、男は、考えられない」
「ノリアキだってもう三十になるっていうのに、そういう話一つ聞かないっていうのに」
「それは仕方ないだろう、母さん」
親父どのはぼそっと言った。
「だけど楽じゃないぞ」
「判ってる」
兄貴を見てれば、好きなことを貫き通すことの、困難さはよく判る。楽なんかじゃ、絶対にない。
楽じゃない。だけど、楽しいはずだ。
「だったら、これを好きに使えばいい。そのかわり、もし結婚したくなったとしても、うちからは何もしてやれないぞ」
そんなこと。初めから期待していない。私はありがとう、と言いながら苦笑した。
謝らない。
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