どうせなら日々のごはんは貴女と一緒に

江戸川ばた散歩

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67 「それじゃあ、駄目なんだ」

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「お帰りなさい」

 と扉を開けた彼に、私は言った。
 あれから会社に行って、だけど定時で帰ってきた。
 買い物をして、食事を作って。
 待っていたという訳ではない。ない、と思う。

「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」
「まあね」

 私は苦笑した。

「休んだの?」
「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」
「ごめんなさい」

 めぐみ君は軽くうなだれた。
 彼は私が結構いつも残業していることを知っている。
 別に残業が好きだとは思っていないだろうが、定時で帰るのが厄介な場所だ、ということは判っているのかもしれない。

「まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」

 私は立ち上がり、温めるだけにしていた料理に手を出す。
 コーヒーメーカーをセットする。

「美咲さん」
「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」
「美咲さん!」

 引き止めるような声。
 私はゆっくりと振り向いた。
 でも今は、それ以上言わせたくはない。

「いーい? とにかく、食事なのよ」

 私はそう言うと、何度かレンジを鳴らした。
 彼はテーブルの脇に立って、私の様子を眺めている。背を向けていても、それは判る。
 私は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、彼の前にカフェオレを置いた。彼は黙ってしばらくそれをすすっていた。
 今日は和食だ。
 ひじきの煮物に、魚の西京焼き。
 みそ汁はやっぱり赤だしに限る。
 赤だしの香りとカフェオレの香りが混じると、奇妙なことは奇妙だ。

「出てくって言うんでしょ?」

 不意に私は言ってみた。
 彼ははっと顔を上げた。
 不意打ちくらい食らわせたっていいじゃないか。
 私の手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。
 だけど彼はうん、と即座に返していた。

「そんな気はしていたけど」
「そう?」
「そう。帰ってきた時、そう思った」
「何で?」
「何でだろ? 声が」
「声が?」
「声が、弾んでいたからかな」

 彼は首を傾げた。

「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」
「出る?」
「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」
「……そう……  だったの?」

 やっぱり気付いていなかったか。

「そう」

 だから私はあえて断定した。
 食事を終えた私は茶碗や皿をまとめた。
 そしてキッチンでミルクティを入れて、また彼のもとに戻る。
 ミルクは入れない。
 そういう気分ではないのだ。

「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」

 私は目を伏せた。
 あまり真っ直ぐ彼の顔を見られない。
 めぐみ君はつぶやいた。

「あなたのこと、好きだったよ」
「ありがと」
「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。暖かくて、気持ちよかった」

 どうして。

「気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」

 どうして、それでは駄目なのだろう。

「でもそれは駄目なんだ」

 彼はカフェオレのカップを置いた。
 聞きたくない言葉が近づいて来るのを私は感じた。

「それじゃあ、駄目なんだ」

 彼は繰り返す。
 顔を上げた私の視界に入ったのは、それまでとは違う視線だった。

「学校に、ちゃんと行き直すよ。……思い出したんだ」

 思い出した? 
 ああそうか。彼はもともとデザインをやりたくて上京してきたんだ。
 兄貴のせいで、遠回りしてしまったけれど、軌道を戻そうとするんだ。
 彼はバッグを引き寄せると、中から一枚のCDジャケットをとりだした。
 テーブルの上に乗せ、私の前に押し出した。
 綺麗な、写真を加工したデザインだ。

「これ、あなたが持ってて欲しいんだ。前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」

 彼は言葉を探しているようだった。
 私もその言葉を待った。
 待つしか無かった。

「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…… かもしれないから」

 はっ、とする。そこにあるもので。
 そういう方法で。人の作ったものを利用して、置き換えて、並び替えて、その並び替えという作業そのもので、自分を表現する、ということもあったのか。
 私はそのCDジャケットを手に取る。

「めぐみちゃんが、作ったの?」
「うん。これが僕の、今の精一杯」

 彼は微かに笑った。

「別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」
「もういいわ」

 ひらひら、と私は手を振った。
 ……聞きたくない、と思った。
 だけど顔は、あえて笑顔を作ろうとする。
 顔がこわばっているかもしれない。
 のよりさんの時よりずっと。
 あのひとの時は、私がそれでも甘えることができた。
 だけど彼の場合は。

「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」
「美咲さん」
「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」

 そう言って、にっ、と口元を上げた。
 大げさなまでに。

「兄貴に、渡してもいいの?」
「どちらでも。美咲さんの思うように」

 その言葉で、既に彼が、兄貴のことが過去になりつつあるのに気付いた。
 彼は知っているのだ。
 兄貴はこれを見ても別段自分を追わないだろうということを。
 既に他人なのだ、と。

「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」
「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…… でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して」

 ああ、現実的な問題まで考えてるんだ。

 考えに沈み込みそうな彼の前に、私はとん、とグラスを置いた。
 冷蔵庫から、イタリアのワインを取り出す。
 サラダが来た時に時々出すのだ。
 そうだねあんたの言った通りだ。
 この子はこうやって、私の手の中から飛び立って行ってしまう。
 それがいいことだ、と判っていても。
 私は軽く酔ったふりをして、彼にこう言った。

「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」
「そうですね」

 彼はふっと笑った。

「僕は、美咲さん、好きだったよ」
「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」

 でも知ってる。
 この子はそういう言葉を安売りはしない。
 そして好きだとしても。それでもその「好き」は、あくまで、それだけなのだ。
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