68 / 88
67 「それじゃあ、駄目なんだ」
しおりを挟む
「お帰りなさい」
と扉を開けた彼に、私は言った。
あれから会社に行って、だけど定時で帰ってきた。
買い物をして、食事を作って。
待っていたという訳ではない。ない、と思う。
「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」
「まあね」
私は苦笑した。
「休んだの?」
「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」
「ごめんなさい」
めぐみ君は軽くうなだれた。
彼は私が結構いつも残業していることを知っている。
別に残業が好きだとは思っていないだろうが、定時で帰るのが厄介な場所だ、ということは判っているのかもしれない。
「まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」
私は立ち上がり、温めるだけにしていた料理に手を出す。
コーヒーメーカーをセットする。
「美咲さん」
「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」
「美咲さん!」
引き止めるような声。
私はゆっくりと振り向いた。
でも今は、それ以上言わせたくはない。
「いーい? とにかく、食事なのよ」
私はそう言うと、何度かレンジを鳴らした。
彼はテーブルの脇に立って、私の様子を眺めている。背を向けていても、それは判る。
私は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、彼の前にカフェオレを置いた。彼は黙ってしばらくそれをすすっていた。
今日は和食だ。
ひじきの煮物に、魚の西京焼き。
みそ汁はやっぱり赤だしに限る。
赤だしの香りとカフェオレの香りが混じると、奇妙なことは奇妙だ。
「出てくって言うんでしょ?」
不意に私は言ってみた。
彼ははっと顔を上げた。
不意打ちくらい食らわせたっていいじゃないか。
私の手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。
だけど彼はうん、と即座に返していた。
「そんな気はしていたけど」
「そう?」
「そう。帰ってきた時、そう思った」
「何で?」
「何でだろ? 声が」
「声が?」
「声が、弾んでいたからかな」
彼は首を傾げた。
「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」
「出る?」
「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」
「……そう…… だったの?」
やっぱり気付いていなかったか。
「そう」
だから私はあえて断定した。
食事を終えた私は茶碗や皿をまとめた。
そしてキッチンでミルクティを入れて、また彼のもとに戻る。
ミルクは入れない。
そういう気分ではないのだ。
「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」
私は目を伏せた。
あまり真っ直ぐ彼の顔を見られない。
めぐみ君はつぶやいた。
「あなたのこと、好きだったよ」
「ありがと」
「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。暖かくて、気持ちよかった」
どうして。
「気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」
どうして、それでは駄目なのだろう。
「でもそれは駄目なんだ」
彼はカフェオレのカップを置いた。
聞きたくない言葉が近づいて来るのを私は感じた。
「それじゃあ、駄目なんだ」
彼は繰り返す。
顔を上げた私の視界に入ったのは、それまでとは違う視線だった。
「学校に、ちゃんと行き直すよ。……思い出したんだ」
思い出した?
ああそうか。彼はもともとデザインをやりたくて上京してきたんだ。
兄貴のせいで、遠回りしてしまったけれど、軌道を戻そうとするんだ。
彼はバッグを引き寄せると、中から一枚のCDジャケットをとりだした。
テーブルの上に乗せ、私の前に押し出した。
綺麗な、写真を加工したデザインだ。
「これ、あなたが持ってて欲しいんだ。前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」
彼は言葉を探しているようだった。
私もその言葉を待った。
待つしか無かった。
「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…… かもしれないから」
はっ、とする。そこにあるもので。
そういう方法で。人の作ったものを利用して、置き換えて、並び替えて、その並び替えという作業そのもので、自分を表現する、ということもあったのか。
私はそのCDジャケットを手に取る。
「めぐみちゃんが、作ったの?」
「うん。これが僕の、今の精一杯」
彼は微かに笑った。
「別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」
「もういいわ」
ひらひら、と私は手を振った。
……聞きたくない、と思った。
だけど顔は、あえて笑顔を作ろうとする。
顔がこわばっているかもしれない。
のよりさんの時よりずっと。
あのひとの時は、私がそれでも甘えることができた。
だけど彼の場合は。
「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」
「美咲さん」
「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」
そう言って、にっ、と口元を上げた。
大げさなまでに。
「兄貴に、渡してもいいの?」
「どちらでも。美咲さんの思うように」
その言葉で、既に彼が、兄貴のことが過去になりつつあるのに気付いた。
彼は知っているのだ。
兄貴はこれを見ても別段自分を追わないだろうということを。
既に他人なのだ、と。
「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」
「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…… でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して」
ああ、現実的な問題まで考えてるんだ。
考えに沈み込みそうな彼の前に、私はとん、とグラスを置いた。
冷蔵庫から、イタリアのワインを取り出す。
サラダが来た時に時々出すのだ。
そうだねあんたの言った通りだ。
この子はこうやって、私の手の中から飛び立って行ってしまう。
それがいいことだ、と判っていても。
私は軽く酔ったふりをして、彼にこう言った。
「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」
「そうですね」
彼はふっと笑った。
「僕は、美咲さん、好きだったよ」
「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」
でも知ってる。
この子はそういう言葉を安売りはしない。
そして好きだとしても。それでもその「好き」は、あくまで、それだけなのだ。
と扉を開けた彼に、私は言った。
あれから会社に行って、だけど定時で帰ってきた。
買い物をして、食事を作って。
待っていたという訳ではない。ない、と思う。
「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」
「まあね」
私は苦笑した。
「休んだの?」
「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」
「ごめんなさい」
めぐみ君は軽くうなだれた。
彼は私が結構いつも残業していることを知っている。
別に残業が好きだとは思っていないだろうが、定時で帰るのが厄介な場所だ、ということは判っているのかもしれない。
「まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」
私は立ち上がり、温めるだけにしていた料理に手を出す。
コーヒーメーカーをセットする。
「美咲さん」
「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」
「美咲さん!」
引き止めるような声。
私はゆっくりと振り向いた。
でも今は、それ以上言わせたくはない。
「いーい? とにかく、食事なのよ」
私はそう言うと、何度かレンジを鳴らした。
彼はテーブルの脇に立って、私の様子を眺めている。背を向けていても、それは判る。
私は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、彼の前にカフェオレを置いた。彼は黙ってしばらくそれをすすっていた。
今日は和食だ。
ひじきの煮物に、魚の西京焼き。
みそ汁はやっぱり赤だしに限る。
赤だしの香りとカフェオレの香りが混じると、奇妙なことは奇妙だ。
「出てくって言うんでしょ?」
不意に私は言ってみた。
彼ははっと顔を上げた。
不意打ちくらい食らわせたっていいじゃないか。
私の手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。
だけど彼はうん、と即座に返していた。
「そんな気はしていたけど」
「そう?」
「そう。帰ってきた時、そう思った」
「何で?」
「何でだろ? 声が」
「声が?」
「声が、弾んでいたからかな」
彼は首を傾げた。
「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」
「出る?」
「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」
「……そう…… だったの?」
やっぱり気付いていなかったか。
「そう」
だから私はあえて断定した。
食事を終えた私は茶碗や皿をまとめた。
そしてキッチンでミルクティを入れて、また彼のもとに戻る。
ミルクは入れない。
そういう気分ではないのだ。
「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」
私は目を伏せた。
あまり真っ直ぐ彼の顔を見られない。
めぐみ君はつぶやいた。
「あなたのこと、好きだったよ」
「ありがと」
「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。暖かくて、気持ちよかった」
どうして。
「気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」
どうして、それでは駄目なのだろう。
「でもそれは駄目なんだ」
彼はカフェオレのカップを置いた。
聞きたくない言葉が近づいて来るのを私は感じた。
「それじゃあ、駄目なんだ」
彼は繰り返す。
顔を上げた私の視界に入ったのは、それまでとは違う視線だった。
「学校に、ちゃんと行き直すよ。……思い出したんだ」
思い出した?
ああそうか。彼はもともとデザインをやりたくて上京してきたんだ。
兄貴のせいで、遠回りしてしまったけれど、軌道を戻そうとするんだ。
彼はバッグを引き寄せると、中から一枚のCDジャケットをとりだした。
テーブルの上に乗せ、私の前に押し出した。
綺麗な、写真を加工したデザインだ。
「これ、あなたが持ってて欲しいんだ。前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」
彼は言葉を探しているようだった。
私もその言葉を待った。
待つしか無かった。
「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…… かもしれないから」
はっ、とする。そこにあるもので。
そういう方法で。人の作ったものを利用して、置き換えて、並び替えて、その並び替えという作業そのもので、自分を表現する、ということもあったのか。
私はそのCDジャケットを手に取る。
「めぐみちゃんが、作ったの?」
「うん。これが僕の、今の精一杯」
彼は微かに笑った。
「別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」
「もういいわ」
ひらひら、と私は手を振った。
……聞きたくない、と思った。
だけど顔は、あえて笑顔を作ろうとする。
顔がこわばっているかもしれない。
のよりさんの時よりずっと。
あのひとの時は、私がそれでも甘えることができた。
だけど彼の場合は。
「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」
「美咲さん」
「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」
そう言って、にっ、と口元を上げた。
大げさなまでに。
「兄貴に、渡してもいいの?」
「どちらでも。美咲さんの思うように」
その言葉で、既に彼が、兄貴のことが過去になりつつあるのに気付いた。
彼は知っているのだ。
兄貴はこれを見ても別段自分を追わないだろうということを。
既に他人なのだ、と。
「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」
「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…… でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して」
ああ、現実的な問題まで考えてるんだ。
考えに沈み込みそうな彼の前に、私はとん、とグラスを置いた。
冷蔵庫から、イタリアのワインを取り出す。
サラダが来た時に時々出すのだ。
そうだねあんたの言った通りだ。
この子はこうやって、私の手の中から飛び立って行ってしまう。
それがいいことだ、と判っていても。
私は軽く酔ったふりをして、彼にこう言った。
「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」
「そうですね」
彼はふっと笑った。
「僕は、美咲さん、好きだったよ」
「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」
でも知ってる。
この子はそういう言葉を安売りはしない。
そして好きだとしても。それでもその「好き」は、あくまで、それだけなのだ。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる