どうせなら日々のごはんは貴女と一緒に

江戸川ばた散歩

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64 追い打ちを掛けるように。

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 雨の降る日の通勤というものは憂鬱だ。
 傘をさして歩くのは、晴れた日の倍の体力と、数倍の気力が必要ではないかと思う。
 最寄りの駅から幾つか。そしてそこからまた少し歩く。
 足元に気を付けて、前に気を付けて。服を汚さないように、できれば靴だって汚したくはない。
 そんな気遣いで疲れてしまうのかもしれない。
 そしてやっとたどり着いた会社で、朝から何かしら卑屈な調子の電話など聞いてしまった時には、憂鬱が増すというものだ。

「おはようございます」

 ああおはよう、と電話が終わった相手は私に返した。
 あの上司だ。
 あまり朝から顔を見たくは無かった。
 早く他の人がもっと来て欲しい、と思う。
 他に人が居ない訳ではないが、どうも全体人口における比率を考えると、どんよりとしてしまう。
 窓からいつもだったら入り込む日射しが無いのも気分を滅入らせる元になっている。
 上司は黙って必要な書類を眺めていたりする。
 卑屈というか、何かしら奥歯に物の挟まったような調子で、相手に対してあいづちを打ってたりするのだ。
 おそらく下手に言い返してはいけない相手だったのだろう。
 それは判るのだが、どうもこのひとのそういう時の態度は、空気を重くさせるのだ。
 そう考えるのは私だからかもしれないが。
 脱出のつもりで、給湯室に向かおうとした。
 すると上司が私を呼び止めた。
 何ですか、と問い返すと、何枚もの書類を手渡した。
 それを表計算のソフトで打ち込んでおいてほしい、というのだ。
 ふと見ると、それは住所録に見える。

「頼むよ」

 まるで当たり前のことの様に、上司は私に言う。
 何となく、嫌な予感がして、それを私は彼の前でぱらぱら、と繰った。

 ―――ちょっと待て。

「これって、私用、じゃないですか?」

 どう見ても、それはPTAの名簿だった。
 小学生の子供が居る、と聞いたことがある。

「まあ頼むよ。時間が無くてね」

 は?

 途端、私の中でかっ、と燃えるものがあった。
 頭に血が上る。
 だがこらえる。そしてこういう一言を絞り出す。

「私用、なんですね」

 頼むよ、と彼は繰り返した。
 私も、忙しいのだ。
 辞めた彼女の居ない分の打ち込みの仕事が時々回ってくる。
 普段あまり使わないPC画面をにらんでいる時間が増えていた。
 もしかしたら、最近の目眩はそのせいかもしれない。
 神経を集中しすぎるのだ。
 私はそれでも黙ってその書類の顔をした名簿を持って、自分のデスクに置いた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。何だか判らないが、怒りが自分の中で沸騰しているのが判る。
 普段私がこういう風に怒ることは滅多にない。
 それを顔に出すのも好きではない。
 だからそんな感情は、鈍いのだ、と私は思っていた。
 だがそうではなさそうだ。
 唇を噛みしめ、黙々と作業を始めた。
 こういう作業は、結構に時間を食うのだ。
 だけどこんな作業たからこそ、「残業」にはしたくない。
 鬱陶しい。とっととやってしまって突き返してしまいたい。
 午前中掛かって、その作業を終わらせた。
 その間にも私の普段の仕事の電話や来客対応もある。
 昼時間が近づいた時に、ようやく作業が終わって、できました、と上司の前にそのプリントアウトしたものと、ファイルを入れたディスクを置いた。
 そして彼はそれをざらっと見ると、こう言った。

「ついでに宛名シールも作っておいてくれないかなあ。これ利用すれば、早いだろう?」

 はあああああ?
 何を言ってやがるこの野郎。

 口から出かかった。
 目眩がする。拳を握りしめた。ただでさえ気持ちが滅入っているところに、追い打ちを掛けるように。私は一度渡したディスクをもう一度受け取った。
 そしてお昼時間になった時に、廊下の隅へ走り込み、壁を一発、思い切り強く蹴った。
 がん、と音がしたが、気分は晴れなかった。



 帰る頃には、雨が上がっていた。
 時計を見ると、まだ七時前だった。
 ふらふら、と頭の芯がふらつくのを覚えつつ、途中スーパーに寄って帰る。
 今夜は何を作ろう。
 きっとめぐみ君は店で食べてくるだろうから、食事は自分の分だけ。
 のよりさんの時よりその点では張り合いが無い。
 かさかさと袋の音をさせながら階段を上る。
 足が重い。
 鍵を回し、扉を開け、靴を脱いだらもうそれで精一杯だ。
 上着を掛けて、ふらふら、とベッドの上に座り込んだら、もう駄目だ。
 少しだけ。
 少しだけ。
 そのまま私は倒れ込んでしまう。背中が伸びる。気持ちいい……
 目を覚ましたのは、夜中も二時だった。
 腹が減ったから目を覚ましたらしい。
 頭のふらつきはまだ続いている。
 ああやだ、服もそのままだったらしい。上着はともかく、スカートがしわくちゃだ。
 でも、寒くは無かった。
 何故だろう、とベッドを降りようとして気付く。
 足元で、やっぱり毛布にくるまれためぐみ君の姿があった。
 ああ、優しい子だ。
 そっと彼の横をすり抜けて、シャワーだけでも浴びようと、風呂場に向かった。
 ぱっ、と灯りをつけた途端、目眩がした。
 しっかりしろ、自分。
 熱いシャワーを浴びたらそれでも何とかふらつきが治まった。
 頭と体にバスタオルを巻いて、キッチンでミルクを口にする。
 ああやっぱりずいぶんと腹が減っている。
 だけど時間が中途半端すぎだ。
 朝になったら、しっかりした朝食を摂ろう。
 髪も朝少し早めに起きて、何とかしよう。
 とりあえずもう一度眠ろう、と私はベッドに向かおうとした。
 めぐみ君はまだ眠っていた。
 まるで目を覚ます気配は無い。
 彼も疲れているのだろう。
 柔らかそうな彼の髪にそっと触れる。
 目を覚ます気配は無い。
 朝が早く来ればいいのに、と私は思った。
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