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62 社員が一人消えていた。
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ある朝、会社へ行ったら、いきなり仕事がてんやわんやになった。
何事か、と思ったら、いつの間にか社員の行き先ホワイトボードから一人消えていた。
あの割と自分の好きなように仕事をしていたひとだ。
何でいきなり、と皆唖然としていた。
ただ、上司とボス的OLさんには既に伝えてあったようで、彼等は憮然とした顔をしていたが、驚いた様子は無かった。
私達にとっては寝耳に水だった。
仕事の直接のしわ寄せは来なかったが、彼女がサポートとしていた仕事の一部が、「手が空いたらやっておいて」と私に少しばかり回ってきた。
一体何で、と私は№2のOLさんに聞いてみた。
ボスの彼女に直接聞いても、何かしらはぐらかされそうな気がしたのだ。
「詳しい事情は知らないけれど」
と言いつつ彼女は結構詳しく教えてくれた。
「何でも、うちの仕事の後に、他のことやっていて、そっちのほうでいい感じになってきたから、そっちに集中するんだって」
「他のこと?」
「いつも定時で帰ってたでしょ? あれって、デザイン会社のほうにあの後行ってたんだって。彼女パソコン使えたじゃない。あれで、そっち関係の仕事探したんだって」
「げ」
私は目を丸くした。仕事の後にまた仕事!
「よっぽどその仕事、好きなんですねえ」
「私とあのひとは入ったのがそう変わらなかったんだけど、さすがに聞いてびっくりしたわ。だって、もう五年も前から二足のわらじだったって言うのよ。まあよく休むなあ、とは思ってたけど、別に有休の範囲だったから、それはそれだろうと思ってたのにね」
はあ。
そうなると呆れるより感心してしまう。
自分のやっていることを隠しておいて、周囲の目も何のその。それで自分のしたいことのほうにするりと移れるとは。
「まああの性格だからできたんでしょうね」
「性格?」
「私なんか、何だかんだ言って、周りの口とか気にしてしまうし。別にここで定年まで勤めていられる訳でもないのにねえ」
「え、ずっと勤めてるんじゃ」
「いくら何でも、私だっていずれは結婚したいわよ」
彼女はにっこりと笑った。別にしたくない訳ではないのだ。
「ただ何かいまいちチャンスが無いからしないだけで、もしかしたらいきなりお見合いとかしてしまうかもしれないし。そしたらうちの会社なんて、子供ができたらやめ、だから先なんて見えてるじゃない」
「まあそれはそうですが」
「だから彼女みたいのも一つの手なのよね。男のひと達と違って、ここじゃ頭打ちなのは目に見えてるんだから」
「でも―――さんは」
私はボス的OLさんの名を出す。
すると手をひらひらと振られた。
「ああ、彼女は別別。あのひとはちゃんと昇級試験受けたい、とか上司に言ってるのよね。それにダンナの同期とかが結構出世コースだし」
「うーん」
「でもいいのよね。わたしは別に出世したい訳でもないし。まあ腰掛けだから」
どう答えていいものか、私は困った。
困って結局何も言えなかった。
*
昼休み、ロッカー室に行ったら、その当の彼女が荷物を引き取りにやってきていた。
「あ、突然でごめんねー」
あまり話したことがないから、扉を開けたら唐突に言われた言葉にびっくりした。
「い、いえ」
普段ブラウスにスカートでやってきていた人が、髪をざっと結んでジーンズで荷物を段ボールにまとめていた。
ひょい、と上げた顔は、知っている顔より化粧気が無かった。
……このひとこんなにひょうきんな声だったんだろうか?
「前々から正スタッフにならないかって言われてたんだけどさー、なかなかふんぎり付かなかったんだよねえ」
「そういうものですか?」
私は彼女の隣の隣のロッカーを使っていたので、必然的に彼女に近づいていくことになる。
「そうそう。だってまあ、一応少しだけど昇給とかしてたじゃないですか。あっちの仕事のほうが楽しいけど、さすがに小さいとこだから、ちょっと不安だったしねー」
「はあ」
私はただうなづくしかない。
「だけどさー、面白くないことやって疲れてる程、あたしも若くはないしさー」
「え」
「だってそうじゃん。毎日毎日打ち込みとかしててもさあ、向こうの仕事してても肩はこるし目は疲れるし。同じ疲れるんだったら、あっちで疲れるほうがあたしは気分いいじゃん。それに向こうの連中のほうが気が合うし…… ってあ、ごめん」
「いえ」
「ここのひと達が悪いって訳じゃないよ。むしろいい人ばかりなんだけどさ、ただ、どうしても、判らないんだよね」
「判らない?」
「あたしの知ってるもの、とみんなの知ってるもの、って何か違う世界のもののようでさ。話合わせられる程器用じゃないし。かと言ってあたしの知ってる範囲のことって口にしても、みんな退くじゃん」
「ってどういうことですか?」
「だから例えば、澁澤達彦がどうとか、寺山修司がどうとか」
「え」
「―――って反応するじゃない。アングラ演劇がどうとか、新宿のライヴハウスは、とか学生運動の時代性は、とか色々あたしの中には話せる人と話したいことがあるんだけど、どう転んだって、そんな話すると退かれるのは判ってるし」
……確かに。
「で、逆にあたしはあたしで、バーゲンがどうとか昨日のTV番組はとか判らないんだよね。普段見ていないし、行くような服屋も決まってる訳だし」
「TV、見てないんですか?」
「だって見なければ見なくて済むし。同じ時間使うだったら、目を取られてるTVよりは、音楽流してたりFM聞いてたりするほうがいいし。あ、加納さん音楽何か好き?」
「兄貴が、バンドやってるんですけど」
私はこの会社の中で、初めてそのことを口にした。
何事か、と思ったら、いつの間にか社員の行き先ホワイトボードから一人消えていた。
あの割と自分の好きなように仕事をしていたひとだ。
何でいきなり、と皆唖然としていた。
ただ、上司とボス的OLさんには既に伝えてあったようで、彼等は憮然とした顔をしていたが、驚いた様子は無かった。
私達にとっては寝耳に水だった。
仕事の直接のしわ寄せは来なかったが、彼女がサポートとしていた仕事の一部が、「手が空いたらやっておいて」と私に少しばかり回ってきた。
一体何で、と私は№2のOLさんに聞いてみた。
ボスの彼女に直接聞いても、何かしらはぐらかされそうな気がしたのだ。
「詳しい事情は知らないけれど」
と言いつつ彼女は結構詳しく教えてくれた。
「何でも、うちの仕事の後に、他のことやっていて、そっちのほうでいい感じになってきたから、そっちに集中するんだって」
「他のこと?」
「いつも定時で帰ってたでしょ? あれって、デザイン会社のほうにあの後行ってたんだって。彼女パソコン使えたじゃない。あれで、そっち関係の仕事探したんだって」
「げ」
私は目を丸くした。仕事の後にまた仕事!
「よっぽどその仕事、好きなんですねえ」
「私とあのひとは入ったのがそう変わらなかったんだけど、さすがに聞いてびっくりしたわ。だって、もう五年も前から二足のわらじだったって言うのよ。まあよく休むなあ、とは思ってたけど、別に有休の範囲だったから、それはそれだろうと思ってたのにね」
はあ。
そうなると呆れるより感心してしまう。
自分のやっていることを隠しておいて、周囲の目も何のその。それで自分のしたいことのほうにするりと移れるとは。
「まああの性格だからできたんでしょうね」
「性格?」
「私なんか、何だかんだ言って、周りの口とか気にしてしまうし。別にここで定年まで勤めていられる訳でもないのにねえ」
「え、ずっと勤めてるんじゃ」
「いくら何でも、私だっていずれは結婚したいわよ」
彼女はにっこりと笑った。別にしたくない訳ではないのだ。
「ただ何かいまいちチャンスが無いからしないだけで、もしかしたらいきなりお見合いとかしてしまうかもしれないし。そしたらうちの会社なんて、子供ができたらやめ、だから先なんて見えてるじゃない」
「まあそれはそうですが」
「だから彼女みたいのも一つの手なのよね。男のひと達と違って、ここじゃ頭打ちなのは目に見えてるんだから」
「でも―――さんは」
私はボス的OLさんの名を出す。
すると手をひらひらと振られた。
「ああ、彼女は別別。あのひとはちゃんと昇級試験受けたい、とか上司に言ってるのよね。それにダンナの同期とかが結構出世コースだし」
「うーん」
「でもいいのよね。わたしは別に出世したい訳でもないし。まあ腰掛けだから」
どう答えていいものか、私は困った。
困って結局何も言えなかった。
*
昼休み、ロッカー室に行ったら、その当の彼女が荷物を引き取りにやってきていた。
「あ、突然でごめんねー」
あまり話したことがないから、扉を開けたら唐突に言われた言葉にびっくりした。
「い、いえ」
普段ブラウスにスカートでやってきていた人が、髪をざっと結んでジーンズで荷物を段ボールにまとめていた。
ひょい、と上げた顔は、知っている顔より化粧気が無かった。
……このひとこんなにひょうきんな声だったんだろうか?
「前々から正スタッフにならないかって言われてたんだけどさー、なかなかふんぎり付かなかったんだよねえ」
「そういうものですか?」
私は彼女の隣の隣のロッカーを使っていたので、必然的に彼女に近づいていくことになる。
「そうそう。だってまあ、一応少しだけど昇給とかしてたじゃないですか。あっちの仕事のほうが楽しいけど、さすがに小さいとこだから、ちょっと不安だったしねー」
「はあ」
私はただうなづくしかない。
「だけどさー、面白くないことやって疲れてる程、あたしも若くはないしさー」
「え」
「だってそうじゃん。毎日毎日打ち込みとかしててもさあ、向こうの仕事してても肩はこるし目は疲れるし。同じ疲れるんだったら、あっちで疲れるほうがあたしは気分いいじゃん。それに向こうの連中のほうが気が合うし…… ってあ、ごめん」
「いえ」
「ここのひと達が悪いって訳じゃないよ。むしろいい人ばかりなんだけどさ、ただ、どうしても、判らないんだよね」
「判らない?」
「あたしの知ってるもの、とみんなの知ってるもの、って何か違う世界のもののようでさ。話合わせられる程器用じゃないし。かと言ってあたしの知ってる範囲のことって口にしても、みんな退くじゃん」
「ってどういうことですか?」
「だから例えば、澁澤達彦がどうとか、寺山修司がどうとか」
「え」
「―――って反応するじゃない。アングラ演劇がどうとか、新宿のライヴハウスは、とか学生運動の時代性は、とか色々あたしの中には話せる人と話したいことがあるんだけど、どう転んだって、そんな話すると退かれるのは判ってるし」
……確かに。
「で、逆にあたしはあたしで、バーゲンがどうとか昨日のTV番組はとか判らないんだよね。普段見ていないし、行くような服屋も決まってる訳だし」
「TV、見てないんですか?」
「だって見なければ見なくて済むし。同じ時間使うだったら、目を取られてるTVよりは、音楽流してたりFM聞いてたりするほうがいいし。あ、加納さん音楽何か好き?」
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