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49 兄にとっての例外なき「声」というもの
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「兄貴これ……」
TVの上に無造作に置かれていたそのカードが何であるのか理解した時、私の指は凍り付いた。
「あ? あれまだめぐみ、捨ててなかったのか…」
捨てて?
「結婚式の招待状なんて、そうそう捨てるもんじゃないわよ」
「だけど俺、行く気ないからな。出した方もそのつもりだろうし」
それはそうだ、と思う。
何せ、結婚式の当事者は、のよりさんとハコザキ君なのだ。
もともと付き合っていた彼等だ。
それが何故か一人の男に連続した時間、気持ちと身体を支配されてしまっていた。
その呪縛が解けた今、もとのさやに戻った、と言えばいいのかもしれない。
ただ。
「そういえば、めぐみ君、知ってるの?」
背中を向けたまま、私は兄貴に訊ねる。
めぐみ君は今日バイトに出ていて居ない。
私のように土日完全週休二日制、という訳にはいかない彼等は、シフトの関係で、休みが合わないことの方が多いらしい。
ただそれでも一緒に住んでいるから、顔を合わさない朝夜は無い訳で―――
ふと、めぐみ君の白い腕が脳裏をよぎる。
長い髪を後ろで無造作に束ねている兄貴は、煙草を吸いながらスポーツ新聞を広げている。
店でもらってきたものらしく、ずいぶんとよれている。
顔も上げずに(と思われる)彼は問い返した。
「何を?」
「兄貴が前、のよりさんやハコザキ君と付き合ってたこと」
「どうだったかなあ。ああでも俺、声が良ければ本人にも惚れる、ってのは言ったことあるよ」
「言うかなあ、そういうこと、普通」
「だって俺はそうだからさ。お前知ってるだろ」
「そりゃあそうだけど」
結婚して、のよりさんはのよりさんではなくなる。
ずっと気付かなかったけれど、あれは名前ではなく名字なのだ。
ハコザキ君と結婚すれば、彼女もハコザキさんになってしまうのだろう。
何か妙な気持ちだ。
「じゃあ兄貴は、二人ともあたしのとこに来たってのは、知ってた?」
「ああ」
私は振り向いた。彼はだが新聞から目を離す気配は無い。
「誰かが言った?」
「ハコザキがお前によろしく、って言ってたから」
それを伝えてもらったことはないような気がするが。
「それだけでしょ?」
「ああ」
「じゃあこれは知ってた? あたししばらくのよりさんと暮らしてて、彼女とそういう関係にあったわよ」
ふっ、と兄貴は顔を上げた。
「お前が?」
「そうよ。帰りにくいからって、しばらく居たわ。それであたしが兄貴に何処か似てるって」
曖昧にぼかす。
「そういうの、平気なの?」
「平気かどうかって、お前、俺に聞くの?」
「そうよ」
ぽん、と私は言葉を投げた。
「平気だよ」
あっさりと、彼はそう返した。
「本当に?」
「のよりが俺を見放したんだ。それは俺もよく知ってる。俺がどうこう言ったとこで仕方ないだろ?」
「だけどその時点では、のよりさん、兄貴のこと好きだったのよ」
「それでも、仕方ないだろ」
ふっと、彼女の残していった言葉が頭をよぎる。可哀相なひと。
「俺はこういう俺だし、それが原因で、どれだけの奴が逃げて行こうと見捨てて行こうが、俺は俺であることを辞められはしないから」
「そんなの、逃げよ」
「じゃあお前は、付き合ってる相手が、―――や、お前にこれ聞いても仕方ないよな」
「何よ」
「ああそうだ、こう言えば判るかな。『仕事とあたしとどちらが大事なのよ』」
「何、彼女がそんなこと言ったの?」
「いや? そういうこと言った訳じゃあない」
「じゃあ何よ」
「だから、俺にとって、のよりは声だった。あいつには最初からそう言ってる。お前の声が好きだから、お前がいい、って。だけどあいつにはそれでは足りなかった。かと言って俺がそれ以上をあげられる訳じゃない。だから仕方ない」
「どうして」
「だからお前にこのたとえは通じない、って言ったんだろ。お前だったら、もし一緒に暮らしてる相手が病気で寝込んでいれば、会社くらい休むだろ。そういうことが普段からできるように、日々過ごしてるだろ。普段きちんきちんとしていて、突然仮病使っても上手くだませるくらいには」
「そ、そうだけど」
「だけど俺にはそれはできん。や、そりゃお前のように会社がどうの、じゃなくてな、もし俺がその時作曲モードに入っていたら、もしもその時の相手が同じ部屋で寝込んでいても、俺はきっと作業を続けているんだよ。続けなくては、とりあえず俺がどうかなる」
「勝手よ」
「そうだよ。だから俺はそれは最初から言ってる。それでも好きなのは向こうの勝手だし、見捨てるのも向こうの勝手だ。俺にそれ以外、どうしようがある?」
私は言葉を探した。
上手く見つからない。
「……それでも、そう思ってしまうことは、止まらないじゃない。それこそ、兄貴が曲作りに止まらないように。それでも好きだったんだ、ってのは……」
兄貴は間違ってる。と思う。
いや、違っている。
だって、それじゃあ絶対に、誰ともある一線を越えられない。
「兄貴は、声以外で、誰か好きになったことはないの?」
「無い」
「それでいいの?」
「そういうのは、いいとか悪いとかいう問題か?」
判っている。
そんなことは問題ではないのだ。
「めぐみ君は、もう少し大事にしてやってよ」
「大事にしているよ。うちの大事なヴォーカリストだ。めぐみなら、今までよりもっといい場面にうちのバンドを持っていける」
「声以外の部分は、どうでもいいの?」
「声が全部を表してる、って、お前思ったことはないの?」
声が?
TVの上に無造作に置かれていたそのカードが何であるのか理解した時、私の指は凍り付いた。
「あ? あれまだめぐみ、捨ててなかったのか…」
捨てて?
「結婚式の招待状なんて、そうそう捨てるもんじゃないわよ」
「だけど俺、行く気ないからな。出した方もそのつもりだろうし」
それはそうだ、と思う。
何せ、結婚式の当事者は、のよりさんとハコザキ君なのだ。
もともと付き合っていた彼等だ。
それが何故か一人の男に連続した時間、気持ちと身体を支配されてしまっていた。
その呪縛が解けた今、もとのさやに戻った、と言えばいいのかもしれない。
ただ。
「そういえば、めぐみ君、知ってるの?」
背中を向けたまま、私は兄貴に訊ねる。
めぐみ君は今日バイトに出ていて居ない。
私のように土日完全週休二日制、という訳にはいかない彼等は、シフトの関係で、休みが合わないことの方が多いらしい。
ただそれでも一緒に住んでいるから、顔を合わさない朝夜は無い訳で―――
ふと、めぐみ君の白い腕が脳裏をよぎる。
長い髪を後ろで無造作に束ねている兄貴は、煙草を吸いながらスポーツ新聞を広げている。
店でもらってきたものらしく、ずいぶんとよれている。
顔も上げずに(と思われる)彼は問い返した。
「何を?」
「兄貴が前、のよりさんやハコザキ君と付き合ってたこと」
「どうだったかなあ。ああでも俺、声が良ければ本人にも惚れる、ってのは言ったことあるよ」
「言うかなあ、そういうこと、普通」
「だって俺はそうだからさ。お前知ってるだろ」
「そりゃあそうだけど」
結婚して、のよりさんはのよりさんではなくなる。
ずっと気付かなかったけれど、あれは名前ではなく名字なのだ。
ハコザキ君と結婚すれば、彼女もハコザキさんになってしまうのだろう。
何か妙な気持ちだ。
「じゃあ兄貴は、二人ともあたしのとこに来たってのは、知ってた?」
「ああ」
私は振り向いた。彼はだが新聞から目を離す気配は無い。
「誰かが言った?」
「ハコザキがお前によろしく、って言ってたから」
それを伝えてもらったことはないような気がするが。
「それだけでしょ?」
「ああ」
「じゃあこれは知ってた? あたししばらくのよりさんと暮らしてて、彼女とそういう関係にあったわよ」
ふっ、と兄貴は顔を上げた。
「お前が?」
「そうよ。帰りにくいからって、しばらく居たわ。それであたしが兄貴に何処か似てるって」
曖昧にぼかす。
「そういうの、平気なの?」
「平気かどうかって、お前、俺に聞くの?」
「そうよ」
ぽん、と私は言葉を投げた。
「平気だよ」
あっさりと、彼はそう返した。
「本当に?」
「のよりが俺を見放したんだ。それは俺もよく知ってる。俺がどうこう言ったとこで仕方ないだろ?」
「だけどその時点では、のよりさん、兄貴のこと好きだったのよ」
「それでも、仕方ないだろ」
ふっと、彼女の残していった言葉が頭をよぎる。可哀相なひと。
「俺はこういう俺だし、それが原因で、どれだけの奴が逃げて行こうと見捨てて行こうが、俺は俺であることを辞められはしないから」
「そんなの、逃げよ」
「じゃあお前は、付き合ってる相手が、―――や、お前にこれ聞いても仕方ないよな」
「何よ」
「ああそうだ、こう言えば判るかな。『仕事とあたしとどちらが大事なのよ』」
「何、彼女がそんなこと言ったの?」
「いや? そういうこと言った訳じゃあない」
「じゃあ何よ」
「だから、俺にとって、のよりは声だった。あいつには最初からそう言ってる。お前の声が好きだから、お前がいい、って。だけどあいつにはそれでは足りなかった。かと言って俺がそれ以上をあげられる訳じゃない。だから仕方ない」
「どうして」
「だからお前にこのたとえは通じない、って言ったんだろ。お前だったら、もし一緒に暮らしてる相手が病気で寝込んでいれば、会社くらい休むだろ。そういうことが普段からできるように、日々過ごしてるだろ。普段きちんきちんとしていて、突然仮病使っても上手くだませるくらいには」
「そ、そうだけど」
「だけど俺にはそれはできん。や、そりゃお前のように会社がどうの、じゃなくてな、もし俺がその時作曲モードに入っていたら、もしもその時の相手が同じ部屋で寝込んでいても、俺はきっと作業を続けているんだよ。続けなくては、とりあえず俺がどうかなる」
「勝手よ」
「そうだよ。だから俺はそれは最初から言ってる。それでも好きなのは向こうの勝手だし、見捨てるのも向こうの勝手だ。俺にそれ以外、どうしようがある?」
私は言葉を探した。
上手く見つからない。
「……それでも、そう思ってしまうことは、止まらないじゃない。それこそ、兄貴が曲作りに止まらないように。それでも好きだったんだ、ってのは……」
兄貴は間違ってる。と思う。
いや、違っている。
だって、それじゃあ絶対に、誰ともある一線を越えられない。
「兄貴は、声以外で、誰か好きになったことはないの?」
「無い」
「それでいいの?」
「そういうのは、いいとか悪いとかいう問題か?」
判っている。
そんなことは問題ではないのだ。
「めぐみ君は、もう少し大事にしてやってよ」
「大事にしているよ。うちの大事なヴォーカリストだ。めぐみなら、今までよりもっといい場面にうちのバンドを持っていける」
「声以外の部分は、どうでもいいの?」
「声が全部を表してる、って、お前思ったことはないの?」
声が?
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