どうせなら日々のごはんは貴女と一緒に

江戸川ばた散歩

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39 どうして、私じゃ駄目なの?

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 ペンキのはげかけた赤いホーローの椅子の上に、花を無造作に生けたブリキのバケツが置かれていた。
 目の前のテーブルもそんな感じで。
 目の前には黄金色に輝くフレンチトーストとライ麦パンのサンド。
 結構大きめのテーブルの、真ん中に置いて、二人でどちらもつつく。
 窓辺の花に、つい視線が飛ぶ。
 彼女の視線がそっちに飛んでいるから。

「気に入った?」

 私は問いかけた。

「うん、結構ね。いいね、こういう場所も」

 座っている椅子も、はげかけたペンキの。

「何か、昔、連れて行ってもらった遊園地のさ、外のテーブルみたいじゃない?」

 言われてみれば、そうだ。
 そうだね、と私はうなづいた。
 フォークでフレンチトーストを切って口に入れる。
 ふんわり、バターのこくと、後でふりかけたようなグラニュー糖のざらりとした感触が心地よい。
 まだ昼には時間があるせいだろうか。
 客も多くは無い。「CUTPLATE」という名のそのカフェでは、壁を飾るカードを総入れ替えしているところだった。
 飾られるそれらは、一枚幾ら、で売られてもいる。
 一週間くらいで入れ替えになる様で、それを目当てにやってくる女の子も居るらしい。
 私もカードは結構好きだった。
 壁を飾るには手軽で、それでいて配置によっては効果的な。
 結果、トイレの扉がかなりの割合で侵略されている。
 新しく貼られたカードに私は視線を飛ばす。
 目がいいので、そう遠くない壁に貼られたカードなら楽勝だ。

「あ」

 その中の幾つかに、私は目を留めた。
 どうしたの、とのよりさんは訊ねた。

「ちょっと」

 立ち上がる。
 つられるように私はそのカードの方へと近づいて行った。
 一枚のカードの上にオレンジ色があふれていた。
 正確に言えば、オレンジ色とそれに近い色が、微妙に無数にそのカードの上にはあふれていたのだ。
 私はそれに見覚えがあった。
 思わずそのカードを、止めている洗濯ばさみから外した。
 赤い大きなエプロンの、背の高い男が、お帰りの時にどうぞ、と言った。

「これ、書いた人は」
「ああ、ここは持ち込みで色んな人のカードを展示販売してますから」

 ああ、そういうシステムになっているのか。
 わかりました、と私は手にしたカードと、同じ作者らしいカードをもう一枚壁から外した。
 白い壁、白いロープ、白木の洗濯ばさみの中で、そのカードはひときわ鮮やかだった。
 さっきがオレンジなら、今度はりんごだ。

「どうしたの? ああ、何か面白いね」
「そう思う?」
「うん。何か、わーっとしたものを感じる」
「わっーとしたもの?」
「上手い、という訳ではないんだけど、色使いとか、線とかね、習ったものじゃない、何か外へ外へと広がろうとする感じがあるの」

 言われてみれは、そうかもしれない。

「あたしは――― 何か、暖かそうだと思ったから」
「美咲ちゃん、寒がりだものね」

 どき。

 彼女は無造作にそう言うと、ライ麦サンドを口にする。
 野菜も肉もしっかりはさんだホットサンドだから、彼女は両手で持って、しっかりとそれにかぶりつく。
 トマトから汁が滴り落ちる。
 ぽとん。

「そんなこと、あたし言ったっけ」
「言ったことはないわ。だけど、判るじゃない」

 かぶりつく。
 ぽとん。

「それとも、そんなこと、言われたことが無かった?」
「無かった」

 ああ止めて。
 こらえていた感情が、一気にあふれる。
 普段こらえてこらえてこらえているから、暖められて、弱くなった部分は、ちょっとした衝撃で壊れやすい。

「だけど、駄目よ」
「何で?」

 私は思わず問い返していた。

「何で、駄目なの?」

 どうして、私じゃ駄目なの?

「兄貴じゃない、から?」
「そういうことじゃないわ」

 ごくん、と彼女はサンドの最後の一口を飲み下す。
 フォームドのミルクをたっぷり入れたコーヒーを、口にする。

「それを言うなら、あなただって、あたしでなくたっていいのよ。だからそれは言うものじゃないの。ねえ美咲ちゃん、とりあえずお互い、冬をやり過ごしたのよ」

 眉を寄せた。
 そういうもの、なんだろうか。
 そういうもの、なのかもしれない。

「あたしはあなたのおかげで助かった。あなたがどうかは判らないけれど」
「あたしだって」
「うん。それならあたしも嬉しい。だけど」

 そこで彼女は言葉を止めた。

「感謝してるのよ」
「そんな言葉、要らない」
「でも本当よ」
「でも、要らない」

 欲しいのは。

「それ以上の言葉は、もっと好きになったひとに、取っておいたほうがいいわよ。錯覚しているの。あなたはまだ」
「錯覚?」

 だけど恋愛というものは基本的に錯覚ではないだろうか。

「それにあたしも、欲張りなの。あたしでなくても誰でも良かったひとと、ずるずる続かせるというのは、幾らそれが心地よくても、あたしにも、プライドがあったみたい」

 プライド、というのだろうか。
 では私にはプライドが無いのだろうか。
 プライドも無くしてしまう程、何かに飢えていたと言うのだろうか。
 それは、嫌だ。
 そう思った時、こうつぶやいていた。

「そうだね」

 顔が自動的に表情を作る。
 私は外面という奴がいいのだ。

「このままじゃ、お互い前には行けないね。うん」

 こういうことを言いたいのではないのに。
 フォークを動かす。
 フレンチトーストを一口ほおばる。
 無理矢理飲み込む。
 放っておけば、出てしまいそうな言葉と共に。
 レジに向かうと、さっきの赤いエプロンの男が立っていた。
 決して広くは無いが小さくもないカフェなのに、彼以外には、あと一人、髪を上げて、細い眉毛の女の子一人しか見かけない。
 関節の太い指で、男はお釣りと一緒に、ポイントカードを渡した。

「点数貯めると、ポストカードおまけしますよ」

 低い声がそう穏やかに告げた。
 ありがとう、と私は笑った。
 笑おうとした。



 彼女が出て行った後の部屋は、妙にがらんとしていた。
 それまでが楽しかっただけに、この静けさがたまらなく感じる。
 思い立って、隣のサラダのチャイムを鳴らすが、出てくる気配はない。
 天気も良かったから出かけているのか。
 肩が、どっさりと重くなったような気がした。
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