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35 のよりさんにココアを
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そんな矢先、だった。
のぞき穴の向こう側には、見覚えのある「若奥さん」が居たのだ。
慌てて私は扉を開けた。
夏じゃないのだ。
いつまでも外に待たせてはいけない。
夜中だった。
皆寝静まって、起きるには時間がある明け方より、寝付くかどうか、というこの時間の方が、通路の騒音はよろしくない。
「ど…… うしたの?」
「……えと、ごめんなさい。今日だけでいいの、泊めてくれない?」
そう言って、彼女は笑顔を作ろうとする。
だけどとても笑顔には見えなかった。
ただ引きつっているだけだ。
「それはいいけど」
ありがとう、と言って彼女は上がり込んだ。
「ごめんね唐突に。だけど、川崎まで行くのに、終電が行っちゃって」
川崎は彼女の実家があるところだ、と以前ハコザキ君から聞いたことがある。
「実家に帰るの?」
「ええ」
さりげなく、実にさりげなくそう言おうとしたのだろう。
だけど駄目だよ、声が震えてる。
「じゃあ朝の方がいいよね。お金は持ってるの?」
「一応」
そうなんだ、と私はうなづく。
そのあたりがハコザキ君とは違う。
女の方が、とっさにそういう見通しはたつのかもしれない。
「本当は、終電も、間に合わない訳じゃあないの」
私は黙ってうなづく。
「だけど、今帰るのは、すごく寒いから」
「ああまだ明け方とか寒いし」
「違うのよ」
彼女は首を横に振る。髪が揺れる。
「寒いの」
頬の肉が、ぴく、と動く。
顔を上げた彼女は、今までに見たこともない程、大きな目をしていた。
「ケンショーには、判らないのよ、それが」
「兄貴には?」
問い返した私の言葉に、彼女ははっとして口を閉ざす。
余計なことを言ってしまった、という顔だ。
私は黙ってその場を立った。
棚からココアの缶を出すと、二つのマグカップに何杯かの粉を入れた。
熱湯を少し入れてねりねりねり。
そして冷蔵庫から牛乳を出して、やはり二杯分の牛乳を沸かした。
鍋の上に手をかざすと、暖かい。やがてぷう、と牛乳が膨れてきたところで火を止めると、手はすっかり暖まっている。
「はいココア」
彼女は六畳のクッションの上に脱力したように座っている。
マグカップを渡すと、ありがとう、と小さく言った。
渡す時に、私の手が彼女の手に触れた。
「美咲ちゃんの手は温かいのね」
「さっき鍋の上にかざしてたから」
「そういうことじゃなくて」
そのまま彼女は私の手を握った。
ちょっと待て。
手だけじゃない。
そのまま、彼女は私に抱きついてきた。
「の…… よりさん」
「ごめん美咲ちゃん、ちょっとだけこうさせて」
何って力だろう。
まるで動けない。いや違う、私の腕に、力が入らないのだ。
「美咲ちゃんは、ケンショーにちょっと似てる」
「似てないわよ」
「似てるわよ。その強情なとことか、人見知りするとことか」
ぎく。
「もちろんケンショーほどじゃないけどね。でも似てる。あたしはそういうとこも含めて、好きだったのだけど」
「好きだった?」
彼女は黙ってうなづいた。
「付き合ってると、彼が何処かやっぱりずれてるの、判るのよね。自分しか見えてないとことか、前しか見てないとことか、一度目的が見えてしまうと、馬車馬のように真っ直ぐしか見られないとか、そういうの、全部、だんだん、見えてくるの。……そしたら、見えちゃったのよ」
「何が?」
「彼はあたしを見てるんじゃないの」
「そういうの、判るの?」
回されている腕から、くっついている胸から、じんわりと熱が伝わってくる。
ああ、暖かい。
「判るわよ。彼はあたしの声が好きだわ。歌ってる時のあたしが一番綺麗だって、臆面も無く言ったりするわ。だけど、そうでない時のあたしなんて、何も見てない。見えてないのよ」
「近眼だから……」
ばさばさ、と首筋で髪が動いた。
「そうよ彼は近眼だわ。だけどそれは目だけのことじゃないのよ。気持ちも、近眼なのよ。興味の無いこと以外、彼は自分の中に映そうとはしないの。彼が興味あるあたしは、歌ってる時だけなのよ」
ぴりぴり、とその声が緊張を帯びる。
胸が痛くなるような声だ。
ああでも、確かにそれは判る。
私にも確かに、何処か共通するところだ。
兄貴ほどではなくとも。
「それで、ミスドで切れたの?」
のぞき穴の向こう側には、見覚えのある「若奥さん」が居たのだ。
慌てて私は扉を開けた。
夏じゃないのだ。
いつまでも外に待たせてはいけない。
夜中だった。
皆寝静まって、起きるには時間がある明け方より、寝付くかどうか、というこの時間の方が、通路の騒音はよろしくない。
「ど…… うしたの?」
「……えと、ごめんなさい。今日だけでいいの、泊めてくれない?」
そう言って、彼女は笑顔を作ろうとする。
だけどとても笑顔には見えなかった。
ただ引きつっているだけだ。
「それはいいけど」
ありがとう、と言って彼女は上がり込んだ。
「ごめんね唐突に。だけど、川崎まで行くのに、終電が行っちゃって」
川崎は彼女の実家があるところだ、と以前ハコザキ君から聞いたことがある。
「実家に帰るの?」
「ええ」
さりげなく、実にさりげなくそう言おうとしたのだろう。
だけど駄目だよ、声が震えてる。
「じゃあ朝の方がいいよね。お金は持ってるの?」
「一応」
そうなんだ、と私はうなづく。
そのあたりがハコザキ君とは違う。
女の方が、とっさにそういう見通しはたつのかもしれない。
「本当は、終電も、間に合わない訳じゃあないの」
私は黙ってうなづく。
「だけど、今帰るのは、すごく寒いから」
「ああまだ明け方とか寒いし」
「違うのよ」
彼女は首を横に振る。髪が揺れる。
「寒いの」
頬の肉が、ぴく、と動く。
顔を上げた彼女は、今までに見たこともない程、大きな目をしていた。
「ケンショーには、判らないのよ、それが」
「兄貴には?」
問い返した私の言葉に、彼女ははっとして口を閉ざす。
余計なことを言ってしまった、という顔だ。
私は黙ってその場を立った。
棚からココアの缶を出すと、二つのマグカップに何杯かの粉を入れた。
熱湯を少し入れてねりねりねり。
そして冷蔵庫から牛乳を出して、やはり二杯分の牛乳を沸かした。
鍋の上に手をかざすと、暖かい。やがてぷう、と牛乳が膨れてきたところで火を止めると、手はすっかり暖まっている。
「はいココア」
彼女は六畳のクッションの上に脱力したように座っている。
マグカップを渡すと、ありがとう、と小さく言った。
渡す時に、私の手が彼女の手に触れた。
「美咲ちゃんの手は温かいのね」
「さっき鍋の上にかざしてたから」
「そういうことじゃなくて」
そのまま彼女は私の手を握った。
ちょっと待て。
手だけじゃない。
そのまま、彼女は私に抱きついてきた。
「の…… よりさん」
「ごめん美咲ちゃん、ちょっとだけこうさせて」
何って力だろう。
まるで動けない。いや違う、私の腕に、力が入らないのだ。
「美咲ちゃんは、ケンショーにちょっと似てる」
「似てないわよ」
「似てるわよ。その強情なとことか、人見知りするとことか」
ぎく。
「もちろんケンショーほどじゃないけどね。でも似てる。あたしはそういうとこも含めて、好きだったのだけど」
「好きだった?」
彼女は黙ってうなづいた。
「付き合ってると、彼が何処かやっぱりずれてるの、判るのよね。自分しか見えてないとことか、前しか見てないとことか、一度目的が見えてしまうと、馬車馬のように真っ直ぐしか見られないとか、そういうの、全部、だんだん、見えてくるの。……そしたら、見えちゃったのよ」
「何が?」
「彼はあたしを見てるんじゃないの」
「そういうの、判るの?」
回されている腕から、くっついている胸から、じんわりと熱が伝わってくる。
ああ、暖かい。
「判るわよ。彼はあたしの声が好きだわ。歌ってる時のあたしが一番綺麗だって、臆面も無く言ったりするわ。だけど、そうでない時のあたしなんて、何も見てない。見えてないのよ」
「近眼だから……」
ばさばさ、と首筋で髪が動いた。
「そうよ彼は近眼だわ。だけどそれは目だけのことじゃないのよ。気持ちも、近眼なのよ。興味の無いこと以外、彼は自分の中に映そうとはしないの。彼が興味あるあたしは、歌ってる時だけなのよ」
ぴりぴり、とその声が緊張を帯びる。
胸が痛くなるような声だ。
ああでも、確かにそれは判る。
私にも確かに、何処か共通するところだ。
兄貴ほどではなくとも。
「それで、ミスドで切れたの?」
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