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彼の名前
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「あの、ゆかりさ……。……じゃなくて、えっと。……あなたに、お願いがあって」
また私の名前を呼びそうになったのを慌てて訂正しながら、彼は緊張した面持ちで私の方を見る。一体どんなことを言われるんだろうと身構えていると、彼は意を決した様子で言った。
「……僕に、名前を付けてくれませんか?」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。突然のことに驚いていると、彼は続けて言った。
「僕、自分の名前も思い出せないのがすごく悲しくて、心細いんです。このままじゃ自分が何者だったのかわからなくなってしまいそうで……。だから、僕が本当の名前を思い出すまでの間、あなたの好きな名前で僕を呼んでほしいんです……」
彼は真剣そのものといった表情でまっすぐ私を見つめている。彼の目はまるで捨てられた子犬のように潤んでいる。その姿を見た瞬間、私の胸がきゅんとなった。
(……きゅん? なんで私、この人にときめいてるの……?)
彼を見ていると、その綺麗な瞳に吸い込まれるような気がしてくる。
(さ、さっきの夢のせいで変な気持ちになっちゃってるだけだよね、きっと……)
自分に言い聞かせるようにして、なんとか平静を取り戻す。
しかし、よく考えてみれば、確かに彼のいうことはもっともだ。私も彼の名前がわからないままなのは不便だし、彼も自分の名前がない状態では落ち着かないのだろう。それに、ずっとあなたとか呼ぶのは面倒くさいと思っていたところだ。
彼にぴったりの名前を今すぐつけてあげたいけど、いざ考えるとなると難しい。どうしたものかとしばらく悩んでいると、ふと彼の今日の服装を思い出した。全身真っ黒の服に身を包んでいた彼の姿が頭に浮かぶ。
(黒……、くろ……。クロ……、いやいや、犬とかじゃないんだし……。うーん……、……あ、そうだ!)
私はある名前を思いついた。そして、それをそのまま口に出した。
「黒田さん」
すると、彼は驚いたように目を大きく見開いた。
「黒田……、ですか? それは、えっと……苗字?」
戸惑っているような彼の声を聞いて、ハッとする。確かに、黒田さん、では名前というよりも苗字っぽい感じだ。
「え、じゃあ……黒太郎?」
「くろたろう」
私が適当に呟いた名前を、彼が反芻する。慌てて考えたとはいえこれはさすがにないな、と思った私とは反対に、彼はどこか嬉しそうだ。
もしかすると、彼にとってはいい名前だと思ったのかな……? いや、そんなまさか……。
そんなことを考えていると、彼は急に私の両手を握りしめてきた。驚いて顔を上げると、そこには先ほどまでの不安そうな表情からは想像できないほど真剣な顔をした彼がいた。
ドキッとして思わず固まっていると、彼は言った。
「嬉しいです。……黒太郎。それが僕の名前なんですね」
そう言って微笑む彼はとても幸せそうで、そんな彼に今さら「その名前はちょっと変ですよ」とは言い出せなかった。
「……あの、僕の名前、呼んでみてもらえませんか?」
彼のその言葉にぎくりとする。そうか、黒太郎、なんて変な名前を付けてしまったけど、その名前を呼ぶのは私なのか。
自分で付けた名前なのに、恥ずかしくてなかなか声に出せない。私が躊躇していると、彼は催促するようにじっと私を見つめてくる。そんなに見つめられたらますます恥ずかしくなるじゃないか。でも、いつまでも黙っていても仕方ない。覚悟を決めて、ゆっくりと口を開く。
「…………く、黒太郎、さん」
「……黒太郎くん、がいいです」
「え? ……黒太郎……くん?」
「はい。……えへへ、嬉しいです」
そう言って、彼は本当に嬉しそうにはにかんだ。なんだかこっちまで照れてしまう。こんな可愛い笑顔を見せられると、もっとちゃんとした名前をつけてあげればよかったな、と後悔してしまう。まあ、本人が喜んでくれたみたいだからいいか……。
「それと、できれば、敬語もやめてほしいんです。こんな僕に敬語を使っていただくのは、なんだか申し訳なくて」
彼はそう言うと、少し困ったような顔をした。さっきから気になっていたのだが、どうもこの人は私に対して妙に腰が低いというか、遠慮がちというか……。
それに、私が彼に敬語で話すのは別に彼を敬っているからとかではなくて、あえて距離を置きたいからそうしている、という意味合いのほうが大きいのだ。初対面だし、これ以上仲良くなるつもりもないし、馴れ馴れしくされるよりは、他人行儀くらいの距離感があったほうがむしろ安心するというか。彼だってそうだろうと思っていたのだが、違ったのだろうか。
そんなことを思いながらも、私は彼の申し出を了承した。
「じゃ、じゃあ……黒太郎、くん? ……これでいい?」
「……はい! ありがとうございます!」
「あれ、黒太郎くんは敬語のままなの?」
「だって、ゆかりさ……、……あなたは僕の、命の恩人ですから」
そう言って、彼は私に向かって深々と頭を下げた。いや、そこまでしてくれなくてもいいんだけど……。
心の中でそう呟きながら、私は彼に提案した。
「じゃあ、敬語はそのままでもいいけど、黒太郎くんも私のこと名前で呼んでよ。さっきから、何回も言い直してるでしょ?」
私の言葉を聞いて、彼の顔がぱあっと明るくなる。
そして、彼は言った。
「……ゆかりさん」
彼のその声で自分の名前が呼ばれるのを聞くと、胸が高鳴るのを感じた。
(……ん?)
その瞬間、私は自分の身体に起こった異変に気付いた。自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。頬が熱を帯びていく。
「ゆかりさん? なんか顔赤くないですか?」
「な、なんでもないよ! それより、何かお話ししよ!」
私は動揺を隠すように慌ててそう叫んだ。不思議そうにする彼に、私は無理矢理話題を振る。すると、彼もそれに乗ってきてくれた。
それからしばらくの間、私たちは他愛のない話をして過ごした。
また私の名前を呼びそうになったのを慌てて訂正しながら、彼は緊張した面持ちで私の方を見る。一体どんなことを言われるんだろうと身構えていると、彼は意を決した様子で言った。
「……僕に、名前を付けてくれませんか?」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。突然のことに驚いていると、彼は続けて言った。
「僕、自分の名前も思い出せないのがすごく悲しくて、心細いんです。このままじゃ自分が何者だったのかわからなくなってしまいそうで……。だから、僕が本当の名前を思い出すまでの間、あなたの好きな名前で僕を呼んでほしいんです……」
彼は真剣そのものといった表情でまっすぐ私を見つめている。彼の目はまるで捨てられた子犬のように潤んでいる。その姿を見た瞬間、私の胸がきゅんとなった。
(……きゅん? なんで私、この人にときめいてるの……?)
彼を見ていると、その綺麗な瞳に吸い込まれるような気がしてくる。
(さ、さっきの夢のせいで変な気持ちになっちゃってるだけだよね、きっと……)
自分に言い聞かせるようにして、なんとか平静を取り戻す。
しかし、よく考えてみれば、確かに彼のいうことはもっともだ。私も彼の名前がわからないままなのは不便だし、彼も自分の名前がない状態では落ち着かないのだろう。それに、ずっとあなたとか呼ぶのは面倒くさいと思っていたところだ。
彼にぴったりの名前を今すぐつけてあげたいけど、いざ考えるとなると難しい。どうしたものかとしばらく悩んでいると、ふと彼の今日の服装を思い出した。全身真っ黒の服に身を包んでいた彼の姿が頭に浮かぶ。
(黒……、くろ……。クロ……、いやいや、犬とかじゃないんだし……。うーん……、……あ、そうだ!)
私はある名前を思いついた。そして、それをそのまま口に出した。
「黒田さん」
すると、彼は驚いたように目を大きく見開いた。
「黒田……、ですか? それは、えっと……苗字?」
戸惑っているような彼の声を聞いて、ハッとする。確かに、黒田さん、では名前というよりも苗字っぽい感じだ。
「え、じゃあ……黒太郎?」
「くろたろう」
私が適当に呟いた名前を、彼が反芻する。慌てて考えたとはいえこれはさすがにないな、と思った私とは反対に、彼はどこか嬉しそうだ。
もしかすると、彼にとってはいい名前だと思ったのかな……? いや、そんなまさか……。
そんなことを考えていると、彼は急に私の両手を握りしめてきた。驚いて顔を上げると、そこには先ほどまでの不安そうな表情からは想像できないほど真剣な顔をした彼がいた。
ドキッとして思わず固まっていると、彼は言った。
「嬉しいです。……黒太郎。それが僕の名前なんですね」
そう言って微笑む彼はとても幸せそうで、そんな彼に今さら「その名前はちょっと変ですよ」とは言い出せなかった。
「……あの、僕の名前、呼んでみてもらえませんか?」
彼のその言葉にぎくりとする。そうか、黒太郎、なんて変な名前を付けてしまったけど、その名前を呼ぶのは私なのか。
自分で付けた名前なのに、恥ずかしくてなかなか声に出せない。私が躊躇していると、彼は催促するようにじっと私を見つめてくる。そんなに見つめられたらますます恥ずかしくなるじゃないか。でも、いつまでも黙っていても仕方ない。覚悟を決めて、ゆっくりと口を開く。
「…………く、黒太郎、さん」
「……黒太郎くん、がいいです」
「え? ……黒太郎……くん?」
「はい。……えへへ、嬉しいです」
そう言って、彼は本当に嬉しそうにはにかんだ。なんだかこっちまで照れてしまう。こんな可愛い笑顔を見せられると、もっとちゃんとした名前をつけてあげればよかったな、と後悔してしまう。まあ、本人が喜んでくれたみたいだからいいか……。
「それと、できれば、敬語もやめてほしいんです。こんな僕に敬語を使っていただくのは、なんだか申し訳なくて」
彼はそう言うと、少し困ったような顔をした。さっきから気になっていたのだが、どうもこの人は私に対して妙に腰が低いというか、遠慮がちというか……。
それに、私が彼に敬語で話すのは別に彼を敬っているからとかではなくて、あえて距離を置きたいからそうしている、という意味合いのほうが大きいのだ。初対面だし、これ以上仲良くなるつもりもないし、馴れ馴れしくされるよりは、他人行儀くらいの距離感があったほうがむしろ安心するというか。彼だってそうだろうと思っていたのだが、違ったのだろうか。
そんなことを思いながらも、私は彼の申し出を了承した。
「じゃ、じゃあ……黒太郎、くん? ……これでいい?」
「……はい! ありがとうございます!」
「あれ、黒太郎くんは敬語のままなの?」
「だって、ゆかりさ……、……あなたは僕の、命の恩人ですから」
そう言って、彼は私に向かって深々と頭を下げた。いや、そこまでしてくれなくてもいいんだけど……。
心の中でそう呟きながら、私は彼に提案した。
「じゃあ、敬語はそのままでもいいけど、黒太郎くんも私のこと名前で呼んでよ。さっきから、何回も言い直してるでしょ?」
私の言葉を聞いて、彼の顔がぱあっと明るくなる。
そして、彼は言った。
「……ゆかりさん」
彼のその声で自分の名前が呼ばれるのを聞くと、胸が高鳴るのを感じた。
(……ん?)
その瞬間、私は自分の身体に起こった異変に気付いた。自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。頬が熱を帯びていく。
「ゆかりさん? なんか顔赤くないですか?」
「な、なんでもないよ! それより、何かお話ししよ!」
私は動揺を隠すように慌ててそう叫んだ。不思議そうにする彼に、私は無理矢理話題を振る。すると、彼もそれに乗ってきてくれた。
それからしばらくの間、私たちは他愛のない話をして過ごした。
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