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 奏はクラクラとする頭を微かに振り、気力だけで上体を起こす。

「――どうぞ、お帰り下さい」

「…………今日は、もう寝ろ」

 正嘉は奏の言葉を無視すると、手を伸ばして、奏の着ていたシャツのボタンを外して楽なように喉元をくつろげた。

 そこに残る噛み痕と、無残に引き裂かれた古い傷痕に、正嘉の顔は曇る。

「……この古い傷は、どうした? 」

 先日は、違う男馬淵栄太の噛み痕の方が先に目に入って、この古い傷の方には注意が向かなかったが、こうして見ると随分と惨い傷痕だ。

 表面の生皮を剥いだような、見るからに痛々しい――……。

「――――あなたには、関係ありません」

 この醜い傷は、かつて青柳邸から独り引き返す道中、絶望のあまりに自らフォークで切り裂いた傷痕だ。死んでしまいたいと思った苦い記憶に、また胸が苦しくなる。

――――でも、もう……。

「正嘉さまには、もう……関係ないことです」

 奏はか細い声でそう言うと、ふいと視線を逸らして、ベッドサイドのテーブルへと手を伸ばした。

 そこに置いてあった薬とミネラルウォーターを取り、ゴクリと飲み下す。

 そして同じく置いてあったONS経腸栄養剤を一息に飲み干すと、奏はフゥと息をついた。

「僕はこれで充分です。ケイタリングは……そのまま置いても持ち帰ってもどちらでも結構ですので、正嘉さまはもうお引き取りください」

「そんな缶飲料が、食事の代わりなのか? それで本当に大丈夫なのか? 」

「ONSは体に必要な栄養素をバランスよく含んだ医療用医薬品です。充分でしょう」

 素っ気なく言うと、奏はベッドから身を起こした。

「僕は、これから仕事を片付けます。あなたがここに居ては気が散りますから、出て行ってほしいのですが」

「お前は、オレの番だ」

「僕はそんなの……認めていません」

 キッと眦を吊り上げて、奏は正嘉を睨んだ。

「正嘉さまのご希望通り、このマンションに移っただけで充分でしょう? これ以上僕に何を望むんですか? ……まさか、僕を抱きたいとでも言う気ですか? 」

「そうだと言ったら、どうする? 」

 正嘉はそう口にすると、アルファとしての『フェロモン』を発動してみる。

 通常なら、番となったオメガはその強力なフェロモンには抗しきれずに、一気に発情状態に陥るはずだが――――。

「……何ですか? 」

 奏は不審な様子で、ただジッと正嘉を見上げるだけである。

 その様子に、正嘉は『やはりな』と溜め息をついた。

「どうやらお前は、目的の新薬をほぼ完成させているようだ」

「? 」

「察するに、お前が仕切りに口にしているくだんの新薬は、己の身体に投与して効果を実験中なのではないか? 」

 その言葉に、奏は驚いて目を見開いた。

 栄太にも教えていないのに、正嘉は何故分かったのだろう?

「ど、どうして――」

「簡単な事だ。たった今、オレはアルファフェロモンをコントロールして発散してみたんだ。でも、番のはずなのに、お前には全く効いていない様子だからな」

 つまり奏は既に、狂おしいオメガの発情ヒートとは二度と無縁という事だ。

 その指摘に、奏は『ああ』と納得する。

 感触は、確かにあった。

 前回のデータを検証中に、身体の方は確かに発情期の数値を出していたのに、意識の方は全くの素でヒートの自覚は0だったのだ。

 あれこそが、新薬の効果だったのだろう。

 これからは、アルファやベータの女性が、生理の周期を計算して妊娠しやすい期間を算出するように、オメガも『発情期』に入っているかどうかを計算して、妊娠するかを自由意思で判断するようになるだろう。

 残るハードルは、発情期に発散されるオメガのフェロモンの、無意識の放出を抑える事だけだ。

 ならば、あと半年での新薬完成は――――夢ではないかもしれない。

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