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しおりを挟む「『時のある間にバラの花を摘むがよい。 時は絶えず流れ行き、 今日微笑んでいる花も明日には枯れてしまうのだから』」
「…………それ何? 」
「ヘリックっていう詩人の詩だよ」
「ふぅん」
何気ない会話をするが、視線は一切合わせない。
互いに、手にした資料と検体のチェックに忙しいからだ。
ここは、国立生化学研究所・オメガ症免疫研究室である。
「――――そっちの方は、順調? 」
背中越しにかけられる声に、振り向くことなく答える。
「順調に行くよう、努力しています。並列してサンプルも30増やして、24時間、発症実験の経過観察中です」
素っ気ない返しに、相手は肩を竦める。
「マジでか!? それじゃあ、家に帰れないじゃん? 」
「家ですか……僕には、そもそも無いですよ、そんなの」
「――ああ、そうね。ここは、そういう人多いからねぇ……」
溜め息をつくと、相手は手だけ伸ばして、棚の上のコーヒー缶を取った。
それを、ずっと後ろ向いたままの相手の頬へ当てる。
「はいよ、ぬるいけどオレのオゴリ」
「ありがとうございます」
「――吉沢は発症しちまって、しばらく来れないから、データの推移を頼むって伝言あった。そっちで見れる? 」
「オッケーです。僕はこのまま泊まりですから」
「そっか……吉沢は、また治まるまで便所コース突入になっちまうけど。オレ達――――何とかリベンジできっかな? 」
その言葉に、ようやく相手は振り向いた。
――――低い鼻に小さな唇、二重の眼。小さな顎。いかにも、日本人といった平坦な顔。
十年の時が流れたが、全く変わらず、歳を感じない。
それもまた、日本人特有の特徴であったが。
大きく違うのは、この十年間に流れた、過酷過ぎる現実の嵐だった。
「勿論、リベンジしますよ」
そう請け負い、奏は暗い微笑みを浮かべた。
◇
今日微笑んでいる花も明日には枯れてしまう――まったく、その通りだと思う。
十年前、奏は、婚約者の家だという青柳の屋敷を訪問した。
しかしそれは、実際は『訪問』ではなく、押し掛けるが正解だった。
あの当時は、もう、オメガは誰より大切にされるという……奏が子供の頃から繰り返し聞かされた話は、既に現実では通用しなくなっていたのだ。
アルファとベータの種族間では子供が産まれにくくなり、一時は、子供を産めるのがオメガだけだという現象が起こったのは本当だ。
そして、肝心のオメガは流行り病により大きく数を減らし、貴重な存在になったというのも。
それ故、奏の実家である結城家では、本来なら忌避すべき存在であるオメガの奏が誕生した時、狂喜乱舞したわけだ。
有力な家と婚約させ、無事に嫁がせれば、傾いた結城家を再興できると!
事実、オメガである奏の誕生を知ったあちこちの名家から、是非我が家と婚約を――と、矢のような催促が来た。
たとえその家に、肝心の子供がいなくても、青田買いのような勢いでどこもかしこも結城家へ『是非、奏を我が家へ』と申し込みがあった。
結城家では、その中で最も財力のある青柳を選び、将来青柳に跡取りとなる男児が産まれたら、必ず奏を嫁がせると約束をしたのだ。
支度金として、青柳家から多額の援助を受け、結城家はそれでどうにか持ち直す事が出来たワケだが――――それから三年後に、再び変異が起こる。
なんと、オメガが大きく数を減らす原因となった奇病に特効薬が開発され、オメガはその数を持ち直したのだ。
アルファとベータの種族間では、子供が産まれ難いというのは依然として変わらなかったが……とにかく、オメガは特効薬の開発と同時に、再びその地位を最下層へ落とす事になった。
発情しては子供を産む、獣と変わらないただの動物だと。
しかし、結城家では青柳家との婚約の約束は生きていると主張し、奏をそのまま育てた。
だが、青柳としては、もう婚約は破棄してしまいたい。
奏はオメガだが『男体』だ。
男体でもオメガなら、妊娠の可能性はあるが――――それなら最初から『女体』の方が、断然その可能性は跳ね上がる。
『男体』のオメガは、やはり『女体』と比べると、妊娠の確率は著しく低いのである。
尚更、青柳には財力がある。幾らでも血筋の良い女のオメガを集められる。
だから、幾ばくかの手切れ金を渡して、青柳は完全に奏を切ろうとした。
それが、奏が十八になった時。
青柳の跡取りである正嘉が、八つの時だった。
――――いまさらそんな事を言われても困る。
――――絶対に受け入れられない!
――――婚約していたのは本当なのだから、それを証拠に裁判所へ訴える!
青柳家から絶縁状が届いた時、結城の家ではそう形振り構わず騒ぎ立て、十八になった奏を伴って青柳家へ強引に押し掛けた。
当時、奏は訳が分からず、ただ命令されるままに取るもの取り敢えず車に乗せられて、青柳家へ連れて来られた。
隣室での言い争いに身を竦めながら、それでも奏はそれまで徹底して躾けられた作法に倣って、ただ微笑みを浮かべ貴婦人のように清楚にソファーへ座っていた。
客人のはずなのに、どうして誰も挨拶に訪れないのか。
どうしてお茶の一つも出してもらえないのか。
なぜ、何時間も放っておかれるのか……。
やがて訪れた――――奏の主人である筈の正嘉に「バカ」とまで言い捨てられ、奏は途方に暮れた。
勝手に動いていいものか。
誰かを、声を出して呼んで構わないのか。
嫁ぎ先で、そんな振る舞いは許されるのか……と、いうよりも、いつまでここで待機していればいいのか?
もう、なにが正解なのか分からない。
声を出すことも動くことも出来ずに、ただ奏は暗くなるまで、そこで座っていた。
その後――――どれだけ惨めな思いを味わった事か。
結城の家族は奏をその場に残したまま帰ってしまい、青柳では、いつまでも動こうとしない奏を無視して、その場に放置したのだ。
奏がその事に気付いたのは――――暗くなり、やがて夜が明けて、空が白み始めて、次の太陽が中天に差し掛かった頃だ。
「あの……おトイレを借りていいでしょうか……」
それが、初めて意思を持って、青柳で発した奏の言葉だった。
奏が、それからどれだけ悲惨な思いをしたか……。
(僕は、決して忘れない)
喉をフォークで刺した時の傷痕をさすりながら、奏は冷たく笑う。
「――――何がなんでも、必ず復讐しますよ」
◇
現在、国では、全てのオメガを対象に、新しく開発されたワクチンの無料接種を施している。
おかげで、かつて多くのオメガの命を奪った、恐ろしい病は根絶した。
死から解放され、オメガは自由で平和な暮らしを約束され、幸福になった筈だったが――……言わずもがな、結果は逆だった。
国が無料でオメガに施すのは、そのワクチンのみだ。
昔からオメガを苦しめ、彼らの地位が底辺に固定されている最大の原因の『発情』を抑える薬は、一切援助はしなかった。
そこには、悪意しか感じない。
『発情』をひとたび発症すると、オメガは地獄の苦しみを味わう。
頭はまともに働かなくなり、とにかく誰かの精を受けなければ治まらない。
誰彼構わず股を開き、腰を振って誘うしか方法がなくなってしまう。
それは本当に地獄の苦しみなのだが、それが解からないアルファやベータから見たら、とんでもない醜態だった。
よだれを垂らして猥らに相手を誘う淫売だ――――。
彼らはオメガを指して、そう言っては嘲笑う。
オメガの発情を抑える薬は販売されているが――それは、とてもとても高価だ。
保険も利かないので、到底一般の家庭では、続けての購入は難しい。
借金でもしなければ続けて買えなくなる。
それならば、財力のあるような裕福な家なら大丈夫なのか?
――――今度は、違う理由からオメガは唾棄された。
幾ら薬でしのぐと言っても、発情の期間中はどうしても体調に変化が起きる。
身体から甘い香りが漂い、他の種族を引き寄せてしまう。
仕方がないので、オメガはその期間中、どこかへ籠って嵐が去るのを待つしかない。
そんな風に、淫らに発情を繰り返すような人間は家の恥だ――――そう断じられ、いずこかへ放擲される者が殆どだ。
奏もまた、同じだった。
現金も持たない状態で連れて来られ、青柳家に置き捨てられたのだ。
『帰れ』
と、今度は青柳でも外へ放り出され、奏は……どうしようもなく、トボトボと二日かけて徒歩で帰った。
しかし、へとへとになって辿り着いても、結城の家には入れてもらえなかった。
『お前は青柳にやったのだ。ここはもう、お前の家ではない』
優しかった母やメイドは態度を豹変させ、立ち尽くす奏を追い遣る。
石まで投げ付けられ、奏はどうしようもなく、またそこを去るしかなかった。
せめて、水を――――という訴えだけは聞いてもらえ、窓からペットボトルを放り投げられたが。
奏はそれを手に、また二日かけて来た道を戻って行った。
声をあげて泣くのは『はしたない』事だ――――そう躾けられていたので、声を出さずに泣きながら。
――――その後、青柳家と結城家の間で、もう一度話し合いが行われた。
歩き疲れ泣き疲れ、心身ともに困憊し果てた奏が次に気付いたのは、粗末なベッドの上だった。
奏は、その日から、青柳家に住み込みの下働きとしての住居を許されたのだ。
だが奏は、この家の跡取りである、正嘉の番として嫁いだ筈ではなかったのか?
その疑問も誰にぶつける事も許されずに、奏は青柳の広い屋敷で、他の下働きやメイドと一緒に働く日常を強要されてしまった。
しかし奏は、元々、名家青柳のアルファに相応しい番になれるようにと、高い教育を受けた来た身である。
彼は自分の能力や高校の時のツテを活かして、どうにか大学の奨学生へと滑り込むことに成功した。
針のムシロである青柳には住みたくない。
ましてや、実家である結城にも帰れない。
次第に奏は大学に泊まり込むようになり、自分の生活費は、幾つも掛け持ちでバイトをしてやり繰りするようになった。
大学に泊まったり、ネットカフェやカラオケに泊まったり、果てはバイト先の休憩室で泊まらせてもらったり。
随分と過酷な生活であったが、青柳も結城もどこの誰も奏を気に掛けることは無かったので、ある意味奏は自由な身であった。
――――そう、とうとう――奏に、発情期が来るまでは…………。
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