「見ている神がいないなら、この物語は『 』です」

第0章【始まり】

第2話 守り抜く意志

　改編の日から、およそ2年が経った。初夏の風が吹く住宅街の小さな田んぼのあぜ道を行く兄妹の姿がある。

　耳にかかるかどうかの柔らかな黒髪で、黒目の少年、神代かみしろ優ゆう。祖父母に買ってもらったお気に入りの赤いランドセルは、いつもヒーロー達の中心にいる“レッド”の色だ。しかし、小さな身体の背中で揺れる正義の赤いランドセルはあまりに大きい。

「おっとと……」

　中に入った教科書の重みで、優の小さな身体は左右に揺れる。それでも、妹を守るよう母から大切な任・務・を仰おおせつかっているため、妹の小さな手を握ることは絶対にやめなかった。

「天そら、迷子になるなよ」

　下の前歯が抜けた歯で笑う優に手を握られるのは、妹の神代かみしろ天そら。おおよそ黒髪だが、メッシュを入れたようにところどころに明るい金色の髪が混じる。そんな奇抜な地毛が特徴的な少女だ。大きく丸い茶色の瞳は、人懐っこい愛嬌を感じさせる。早産かつ、早生はやうまれということもあって、同級生たちに比べると天はかなり小柄だった。

　そのため、天が青空と同じ色をしたランドセルを背負うと、優以上に大きく見える。それでも天の場合、天性の平衡感覚で瞬時に重心を見抜いて体勢を整えているため、優のように不格好にふらつくことは無かった。

　一度ランドセルを跳ね上げた天は、少し見上げる位置にある優の顔に呆れたような半眼を向ける。

「迷子になるのは兄さんの方でしょ。すぐにどっか行くんだもん。魔獣に襲われても、知らないから」
「へへん、大丈夫だ！　だって特訓してからな。魔獣が来ても、わんぱん？　で倒してみせる！」
「……はぁ」

　好奇心旺盛ですぐにあっちこっちへ行く兄を、天はただただ心配していた。

　改編の日から目まぐるしく世界は変わった。例えば小学校の授業に「魔法」の科目が加わったり、魔獣を倒したり魔法犯罪を防いだりする職業が新しく生まれた。とは言っても、優も天も子供。2人にとっては遠い世界の話で、実感などない。

　それは、魔獣についても同じだ。魔法の獲得によって魔獣があるていど駆逐され、安全が確保された『内地』と呼ばれる大阪市内で育った優と天。生まれてこの方、魔獣と会ったことなど無い。せいぜい、テレビの映像で見かけるくらいだった。

『ワン！』

　ゆえに、優が最初にその“犬”を見た時。

「へんな犬だー！　しかも、くさい！」

　程度にしか思わなかった。茶色く毛むくじゃらでやせ細り、異様に飛び出た目が白目を剥むいていようとも。足が虫のような光沢を放つ節足だったとしても。可愛い2つの耳と4本足。おまけにワンと鳴くソレを、なんとなくの形から、優はプードルの一種だと思っていた。

　今、優と天が居る場所は民家の塀と小さな田んぼの間にある、幅3mほどのあぜ道。乗用車や軽トラック1台がどうにか通ることの出来る、アスファルトで舗装された道だ。

「おいで、おいで」

　いつものように撫でまわしてやろう。そう思ってしゃがみこみ、犬と目線を合わせた優が、空いている左手を犬に差し出す。

『クゥン？』

　優の誘いに、犬はか細く鳴いて首をかしげる。犬が戸惑うように光沢のある足を動かすたび、カチカチとアスファルトが鳴る。

「来ないのか？　じゃあぼく……じゃない。俺の方から行ってやるか！」

　天の手を引きながら犬に駆け寄ろうとする優。そんな彼の手を不意に、妹の天が強く引いて引き留めた。

　驚いた優が天を振り返ると、そこには青い顔で震える妹の姿がある。

「……へへ。なんだ、天。怖いのか？　 大丈夫だって！」

　不器用な優に比べ、何事もそつなくこなす天。普段は兄らしいことが出来ない優は、ここぞとばかりに兄らしく振舞う。天が怖がるものを、自分は恐《おそ》れないぞ、と。

　そうして兄としての威厳を示すために犬に近づこうとする優に、なおも天は食い下がる。

「ま、待って、兄さん！　あれは、なんかよくない気がする……！」
「なんだよそれ！　意味分かんな――」

　言っている途中で、優の目が黄金色に輝く光を捉えた。次の瞬間、優は天に信じられない力で腕を引かれる。その反動で、

「わっ？！」「きゃっ……」

　兄妹はもつれあうように転んでしまった。反動でランドセルのフタが開き、中に入っていた教科書たちがあぜ道に散乱してしまった、その直後。

『ガルゥッ――』

　上顎を2つに割りながら大きく口を開いた犬が、先程まで優が立っていた場所を通過して行ったのだった。

　ただし、背後を通り過ぎて行ったため、優には異様なその姿は見えていない。天もまた、兄の身体が邪魔になって犬の姿が見えていない。そのため2人はまだ、その犬が“ただの犬”ではないことに気付かない。

「なにするんだよ、天！」

　起き上がりながら、妹に文句を言う優は、そこでは・た・と気付く。天の全身が、黄金色の膜のようなもので覆われているのだ。

　その正体は魔法を使用したことによって励起れいきしたマナが放つ光だ。天はつい最近学校で習った〈身体強化しんたいきょうか〉の魔法を使って、優の腕をとっさに引いたのだった。

「はぁ……。天、犬が怖いからって、授業か、魔獣と会った時じゃなきゃ、魔法は使っちゃダメなんだぞ！」
「分かってる！　けど、こうしなきゃいけない気がして、体が勝手に……」

　口論をしながらも、兄の手を借りながら立ち上がる天。その時にはもう、天の身体を包むマナの光は消え去っていた。

「内緒にしてやるから、帰ろうか。ほら、手」
「う、うん」

　スカートを叩はたいて土を落とした後、差し出された兄の手を取る。そのまま散らばってしまった教科書を拾う作業に移る。その際、何気なく優の背後に目をやった天は、

『グルルルッ……』

　不機嫌そうに唸うなる犬と目が合ってしまった。重量すら感じる殺意のこもったその視線に、生まれて初めて、天の中に本能的な恐怖が芽生える。

「ひぅ……痛たっ！」

　小さく悲鳴を上げ、腰を抜かしてしまった天。尻餅をついた彼女に、カツカツと足を鳴らしながら犬が歩み寄って来る。

　花開く花弁のように、あらぬ方向に広がる4枚の口。その1つ1つには、人を食べるために最適化された鋭い牙が生えている。腰を抜かす自分を見ながら滝のようによだれを垂らす犬の姿を見て、ようやく天はソレが犬では無いこと――今もなお、人類を生存の危機に追いやっている存在……魔獣であることを理解した。

（逃げないと！）

　そう思う反面、犬の白目に射すくめられた天の体は言うことを聞かない。声も上手く発せず、呼吸もままならないぐらいだ。そうして怯えることしかできずにいた天と魔獣の間に割って入る、小さな背中がある。

「こ、こっちに来るな！」

　天の兄――優だ。生まれてからずっと一緒にいた妹が初めて見せた弱気な姿。それを見た瞬間、自然と優の体は動いていた。

「に、兄さん？」
「だ、だいじょうぶだ。だいじょうぶだぞ、天」

　怖くないぞ、と。天が安心できるように、優はさらに一歩前に出る。

「……天は、おれが守るんだ」

　兄として、天のヒーローでなければならない。天を守ることが、母から優に与えられている任務なのだ。大人が見ればひどく幼稚で、子供っぽい理屈だろう。それでも、小学生の優が行動を起こすにはその情熱だけで十分だった。

　使命感とともに、優は牙をむく犬と対峙する。

「く、来るならおれのところに来い！」

　震える声で言って、優は懸命に魔獣を睨みつける。なおもゆっくりと歩いてくる犬に対して目一杯両手を広げて見せ、天と犬との直線状に立つ。

　これまでは可愛い犬だと思っていたソレ。しかし、牙を剥いてよだれを垂らす猛獣に脳が本能的な恐怖を覚え、優の全身を震わせる。奥歯がかみ合わず、カチカチとなる。気を抜けば、背後にいる天のように腰を抜かしてしまう。

（怖い、怖い、怖い……っ！）

　今にも泣きだしそうな優。許されるなら、逃げ出したいとすら思っている。しかし、

（天をかっこよく、守らなくちゃ！）

　その想いだけで、どうにか優は立っている。そんな彼の気概を感じたのだろうか。

『ガルルルル……ゥ』

　魔獣は優と天の3mほど手前で足を止めた。

　あぜ道を駆け抜ける、初夏の風。住宅街のど真ん中であるにもかかわらず、恐ろしい程の静けさだ。それはまるで、この魔獣が人間を含めた辺り一帯の生物を根こそぎ食べてしまったようでもある。

　現状、優に出来ることは立っていることだけだ。学校で習った魔法も、幼稚園の頃から“特訓”しているヒーローたちの剣術も体術を披露することも、何一つできない。恐怖で体が動かない。

　このままどこかに行ってくれないだろうか。そんな優の願いは、届かない。しびれを切らした魔獣がついに、兄妹めがけて駆けて来たのだ。

「くそっ！　天、逃げろ！」

　思わず悪態をついた優は飛びかかってくる魔獣に対して、憧れの象徴でもある赤いランドセルを構える。しかし、飛びかかって来た魔獣の勢いに負けて簡単に押し倒されてしまった。

　魔獣はさらに、優の背後に居る天に迫ろうと優を押してくる。対して、優は左手でランドセルを固定し、右手を地面について体を支える。

『ガゥッ！　ガルゥッ！』
「天、はやく……っ！」

　ランドセルを挟んで、顔の前で上下左右に開閉する、魔獣の口。口内に並ぶ、鋭くとがった犬歯が、優の恐怖を加速させる。それでも優は懸命にランドセルという盾を構え続ける。

「天のところには行かせない！　……絶対に！」

　そうして優が時間を稼いでいる間に、天は兄に言われるがまま、這いずるように犬から距離を取る。少しでも身体を軽く。そう思って天は空色のランドセルを投げ捨てる。

　しかし、そんな兄妹の必死の努力も、魔獣によっていともたやすく踏みにじられた。魔法も使っていないただの小学2年生でしかない優は、彼の憧れを示す赤いランドセルと共に、数瞬で魔獣に押し退のけられてしまう。

「うわっ！？」

　仰向けに地面に転がった優の上を、軽々と跳躍して飛び越えて見せた犬の魔獣。

『ガルルゥ♪』
「ひっ……」

　恐怖という重しで押さえつけられている天を見る魔獣の口元は、獲物をいたぶる強者のようにいやらしく歪んでいた。