桜咲く社で

鳳仙花。

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第一章

第十七話 四日後の約束

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「…さあ、行きましょうか」
急須を盆に乗せて机を拭いた後、史と薫子は部屋を後にする。襖を閉めた老婆は薫子の一歩前を歩き始めた。
「ああそうだ。湯呑を洗ったら、薫さんは荷解にほどきの続きをしていいわよ」
渡り廊下を抜けたあたりで、史が肩越しに振り返る。薫子は軽く会釈をした。
「ありがとうございます。すぐ終わらせます」
「そんなに焦らずとも時間はありますよ」
コロコロと笑って歩く姿を、薫子は後ろから見つめる。背筋の伸びた老婆は確かな足取りで歩き、馬に跨り、神に説教を垂れる。
(この人本当に何者なんだろうか)
薫子は台所に着くまで考えていたが、予想など着くはずもなく考えるのをやめた。

 「こんなもんかな」
風呂敷を畳み、正座した自分の膝の上に乗せる。実家から持ってきた荷物が少なかったせいか、思っていた以上に早く終わってしまった。二つある箪笥たんすは、今のところ一つで事足りる程である。なんあらそれすらも埋まっていない。
(まあ、ここで着飾る事も無いだろうし)
薫子は貧しい村の娘だ。美しい着物とは縁も所縁ゆかりも無い。あったとしても、家の奥底に眠る嫁入りの白無垢しろむくくらいである。家から薫子が持ってきた物と言えば、まだ人前に出ることが出来そうな着物と、史から貰った着物、肌着、最低限の小物くらいだ。
ここに季節感は無いし、夏物と冬物を分ける必要が無い)
案外良い方に考えれば、この空間はとても楽しい。
 薫子は「よいしょ」と立ち上がると、箪笥の中に畳んだ風呂敷をしまう。その時、障子の外から神楽鈴かぐらすずのような美しい声音が聞こえた。振り返ると、背の高い影が立っている。
「薫子」
「は、はい!」
慌てて障子を開けると、そこには茜鶴覇が立っていた。その手には紙の束を抱えている。
「ご用件はなんでしょうか」
薫子が訊ねると、茜鶴覇は少し目を細めた。
「……相手を名乗らせず、戸を簡単に開けてはいけない」
「え…」
急な説教に目を見開く薫子。
「次からは相手が誰であっても返答を待つように」
「……承知いたしました」
 茜鶴覇はそう言うと、薫子の背後を見た。前回殺風景だった部屋は、彼の心遣いによって下女には贅沢すぎる程に実が高くなっている。
「部屋は、気に入ったか」
その問いを聞き、薫子は部屋を振り返った。気に入ったかそうでないかと言われたら、前者に決まっている。しかしそれと同時に罪悪感があるのもまた事実である。
「……私のような者が住んでいい場所ではない気がします」
そう答えると、茜鶴覇は呆れたような顔をする。そんな顔すらも美しいとは、つくづく罪な男だと薫子は心の中で思った。
「お前と同じ年頃の娘は、もっと華美かびな物を強請ねだると思うが」
「それは、まあ、人に寄ると思いますけど…」
「美しい物は好まぬのか」
「いいえ、好きですよ。ただ自分が身に着けたり、使用すると思うと気が引けてしまって」
そう言うと、茜鶴覇は呆れた顔のまま次はため息を吐いた。これを普通の娘に対してやっていたとしたら、うれいをびた美しさに卒倒そっとうするはずだ。何度も言うが、本当に罪な男である。
「四日後の午後、私の部屋へ来い」
「四日後、ですか?」
急な話題変更に、鳩が豆鉄砲を受けたようにほうける薫子。茜鶴覇は「ああ」と応えた。
「街へ出る。外行きの物があれば、それを着て来れば良い」
「か、かしこまりました」
薫子は外行きの着物なんて持ってないぞと心の中で焦る。史に貰った着物が一番上等なので、それを着るしかない。
 薫子が悶々もんもんとし始めたあたりで茜鶴覇は「それと」と言いながら紙の束を差し出した。
「これを」
「紙……ですか?」
束を受け取って分かったが相当良い和紙だ。真っ白でくすみ一つ無く、表面もさらりとしている。
「家族との文のやり取りに使うと良い」
「えっ」
薫子は思わず紙と茜鶴覇を見比べた。
 薫子の村は比較的大きな村ではあるが、日常的に文のやり取りをするほど広くはない。ゆえにあまり縁が無いのだ。他村たそんや離れた場所とのやり取りには流石に使っているが、滅多に書くものではないというのが現実である。そのせいで浸透率は低く、薫子くらいの年の者が一度も文を書いたことが無い程だ。一般的にどういう質の紙を使うのか知らないが、それでもこの紙を使うのは惜しまれるというのは分かる。
「この紙には私の神力しんりきを込めている。力を持たぬ人間のお前でも、式神にして飛ばす事が出来るだろう」
「式神…私に出来るでしょうか」
薫子がそう言うと、、茜鶴覇は少し考えるように視線を下げ「そうだな…」と呟き目を合わせた。
「部屋に入っても良いだろうか」
「ええ、構いませんが…」
薫子が答えると、茜鶴覇は「失礼する」と端的に言って文机に向かう。そして引き出しの中にあった墨を手に取った。
「……あ、水をお持ちしますね」
薫子が部屋を出ようとすると、茜鶴覇が声を掛ける。
「よい、ここに居ろ。水は要らぬ」
「え、でも…」
水が無ければ墨汁にはならない。当たり前の事ではあるのだが、茜鶴覇は構わずすずりに墨を滑らせた。その瞬間、硯には少量の水が何処からともなく湧き上がる。茜鶴覇は何事もなかったかのように、墨をすり始めた。
(どっから出したんだ)
薫子は突っ込んだ方がいいのか、放っておく方がいいのか分からず、一旦何も見なかったことにする。時に人間は考えても無駄だと悟ると、思考をしなくなるものだ。
 少しして、墨汁を作り終わった茜鶴覇が紙にさらさらと何かを書き、数回紙を折りたたむ。そして正座して待っていた薫子の方を見た。
「薫子、見ておけ」
茜鶴覇はそう伝えると人差し指と中指で挟んで持ち、唇に当てた。
け」
短く唱えると紙は鳥の様な形になり、薫子へ飛んでいく。目の前で止まった式神に手をかざすと大人しくてのひらに収まった。そして鳥の姿から元の折りたたまれた文に戻る。見た所その折り目意外にしわはなく、文を開くと流麗な字で「薫子」とだけ書かれていた。
「式神を飛ばす時、唇に紙を着けた後【行け】と命令すればいい。その時誰に宛てる物なのか頭の中で想像していれば、式神はその者へ飛んでいくだろう」
茜鶴覇はそれだけ説明すると、すっと立ち上がる。
「私はもう行く。今はここの生活に慣れる事を最優先事項とせよ」
「かしこまりました」
薫子は紙を両手に持つと、深々と頭を下げた。その姿を肩越しに見た茜鶴覇は「失礼した」と言い残し、髪をなびかせて部屋を去っていく。
 薄っすらと残った桜とお香の匂いが、墨の匂いと混じって鼻をくすぐる。理由はわからない。だが薫子は、彼の匂いや気配を知っているような気がしてならなかった。
(気のせい、ではないと思うんだけどな)
かさりと文に書かれた「薫子」という文字を指でなぞる。墨で書かれたばかりの文字は、少し湿っていた。

















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