桜咲く社で

鳳仙花。

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第一章

第八話 傍で見てきたからこそ

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 (思った以上に普通に出れる)
鳥居をくぐった薫子は、背後の結界を見た。白く輝く膜はその後に続く背景を映していない。だが薫子は知っている。完全に隔離かくりされた空間がそこに在るのだと。
 (…帰ろう)
ふう、と息を吐いた後、ガタガタの石階段を慎重しんちょうに降りていく。行きは緊張と恐怖で冷や汗を垂らしながら登っていたが、今はむしろすっきりして清々しかった。一日で人の感覚は変わるものだなと心の底から思う。
 乾いた笑いをこぼしながら階段を降りきり、手に持っていた風呂敷を背負う形で担いだ。そして東の空を見上げる。まだ太陽は東の山の間から顔を出していた。
(正午までに村に帰れれば上出来)
 そんなことを思いながら、薫子はせっせと山道さんどうを下り始めた。整備されているとはいえ、ほぼ自然のおもむくままの状態なので、時折木の根が地上に盛り上がっている。お世辞にも歩きやすいとは言えない。
(着物、汚さない様にしないとな)
すそをたくし上げて歩く薫子。そんな背中にざざっという地面が擦れる音と、聞き覚えのある老婆のやんわりとした声が飛んできた。否、降ってきた。
「薫子さん」
「はい?」
振り返ると、鼻先に熱い息が勢いよく掛かる。いななきを上げながら薫子の顔面に息を吹きかけるのは、焦げ茶の毛並みが美しい馬だった。
「薫子さん、こっちよ」
「…史さん」
視線を上げると、さっき社で別れてきた老婆が馬上ばじょうからひょっこりと顔を出す。史だ。
「何でここにいるんですか?ていうか、馬…」
「茜鶴覇様が山道を人の足で下るのは大変だろうからって貸して下さったのよ」
にこにこと微笑んで馬の首を優しく撫でる史。薫子は馬を見上げてまじまじと見つめた。
 この辺りの地域では、まず馬は飼わない。そもそも馬自体が高価で手に入らないという事もあるが、他にも理由がある。まず一つ目に、切り出した木材や農作物を安定しない道で運ばせなければならないという事。二つ目に、薫子の村含めこの辺りの村では馬は汎用性はんようせいが低いという事。この二つだ。
 諸々を考慮した結果、牛の方が都合がいい。馬よりも安価で手に入る上に多少道が荒れていても歩けるし、牛の乳は栄養になる。そしてけして裕福ではないが、自給自足できる程度には村が生きているので、外の物資に頼る場面は少ない。それ故に長距離を移動して物を村から出し入れする必要がないのだ。だからこの辺だと馬よりも牛をよく見かける。
 結果的に馬を連れているという事は、自然と金持ちか他村たそんからの流浪人るろうにか商人かのいずれかに分類されるのだが、この馬の場合どうなのだろうか。
(神の馬だと全部当てはまらない)
色々と規格外だからか、薫子は少し笑えて来た。
 心の中で笑っている薫子を見て、馬がヒヒンと鳴く。薫子は優しく首の筋を撫でてやった。筋肉質な肌は暖かく、毛並みは日ごろから手入れされているらしく、つやつやとして美しい。
「送って行ってあげるから、お乗りなさいな」
微笑ましそうに見ていた史が、ポンポンと自分の後ろを叩く。薫子は素直に礼を言って乗せてもらうことにした。裾を少し広げて足掛かりに片足を掛けてくらを掴む。史が気を利かせて手を差し伸べてくれたので、どうにか乗馬することが出来た。若干着崩れたが致し方ない。
(馬から降りたら整えよう)
薫子は鞍に横乗りすると、風呂敷を膝に抱え直す。
 視線を史の背中に向けると、ある事に気が付いた。社に居た時と服装が変わっている。別れる前まで淡い黄色の着物を着ていたのに、今は新緑の袴を纏っていた。恐らく馬に乗る為なのだろうが、よくこんな短時間で着替えが出来たものだ。長年の経験値に物を言わせているのかもしれない。
 「落とされない様に捕まっていてね」
「はい」
史は肩越しに微笑む。薫子は片手で風呂敷をぎゅっと抱え、空いた片腕を史の腹に回した。意外にも彼女の体は痩せこけて骨ばかりというわけでは無く、それなりに筋肉がついている。
(この老婆、一体…)
年老いた体で馬を乗り回している老婆は普通の老婆とは言わない。
 薫子は走り出す馬の衝撃に耐えながら、絶対に史だけは怒らせないようにしようと誓うのだった。

 「この辺りかしら」
「そうですね」
村のすぐ傍に流れる河川に辿り着くと、史は手綱を引いて馬を止めた。薫子は先に降りた史の手を借りて下馬げばする。
 「じゃあ、これで一旦さようなら…かしらね」
裾を直しながら明日帰ると神に言ったことを思い出し、薫子は史に頷いて見せた。
「はい、明日約束通り戻ります」
「…あのね、薫子さん」
薫子が史に貰った簪を帯に挿し直していると、史は居心地悪そうに口を開く。手を止めた薫子は史と向き合った。
「今更私が言うのもおかしな話かもしれないのだけど」
薫子の手を取って捲れた袖を整える史。
「本当に、良かったの?村にこのまま残ってもいいのよ。貴女にはそれを選ぶ権利がある。…いいえ、むしろそれは当たり前の選択。相手が茜鶴覇様神様とはいえ、無理に合わせる必要なんてないのよ」
心配そうな史の顔を見て、昨夜の神を思い出す。薫子は穏やかに流れる川を見つめた。太陽に照らされて水面みなもが輝いている。
「…長女のさが、という物でしょうね」
「え?」
「寂しそうな姿を見ると、隣に行って背中を撫でてあげたくなるんです」
勿論もちろん、神様にそんな無礼なことはしないが。
 薫子は、あの晩神の姿に寂しさと同時に何か暗いものを感じていた。どうしてなのかは分からない。だけど他人事には思えなかった。まるで近しい人が思い悩んでいるような、そんな感覚だった。
 薫子がそう言うと、ぽたりと温かいしずくが手の甲に落ちる。川から史に視線を戻すと、俯いてボロボロと泣いていた。
「ふ、史さん…?」
焦った薫子は拭くものを求めてふところを探したが、何も入っていない。仕方なくしわの寄った老婆の目元を優しく指で拭った。
「泣かないでください、どうしたんですか?私…何か余計なことを申し上げたのでしょうか」
(そうだとしたら謝らないと)
薫子が史の顔を覗き込むと、史は笑いながら涙を流していた。
「ごめんなさい薫子さん。違うの、これは…この涙は悲しくて出てるんじゃないのよ。ただ本当に…嬉しくて…」
人差し指で自分の涙を拭う史。薫子は首を傾げた。
「嬉しい…?」
「ええ」
 泣き続ける老婆を放って村に帰っていける程薫子は無神経ではない。というか、普通に心配だ。
「史さん、とりあえず座りましょう」
薫子は河原の草むらを指さし、史の手を引く。素直について来た史と共に座り、薫子は幼子おさなごをあやすように彼女の背を撫でた。その様子を心配そうに馬が見守っている。彼の名はあかつきというらしい。
 「…大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
地面に腰を下ろして少しした頃、薫子が声を掛けると史は笑ってくれた。薫子はひとまず安心と息を吐く。
 その後無言になる二人の空間。薫子は自然の音に耳を傾けた。川の流水音や、吹き抜ける春の風が実に心地よい。時々村の方から活力の溢れた声が聞こえる。みんな元気でやっているようだ。
(春は植物も動物も元気になる季節だ)
ここ二日程、気を張り巡らして生きていたからか、柄にもないことを思う。
 しばらく二人と一頭でその自然に身を投じていると、史が足元に揺れる野花を見つめてぽつりぽつりと語りだした。
「茜鶴覇様は、私がまだ若かった頃からあの様子だったわ。人間を遠ざけ、おのれの内にある孤独と寂しさと闘いながら、何年も何年も。……いえもしかしたら、そのまま何百何千と気が遠くなるほどの月日を重ねてきたのかもしれない」
史は花を撫でながら呟く。
「私はそばに居ながら、その事に気が付くまで随分と長く時間がかかった。気が付いても私にはどうしてあげる事も出来ず、長い年月が過ぎ、次第に私の中の無力感が増えていった。私はずっと、あの方につかえる自信が保てなかった」
「…」
史が隠すのが上手いのか、それとも薫子がうといのか。彼女と初めて会った時から今の今まで、一度もそんな空気を感じなかった。所作も雰囲気も経験も、何もかもが完璧だった。だからなのかもしれない。それが返って圧となり、長年の仕事への自負心が、泣き言をいう自分を許さなかったのかもしれない。
 「今まで沢山生贄いけにえとして捧げられて来た人間が居たわ。老若男女、本当に沢山…。だけど数日で人の世に返したの。色々と面倒な事になるから、ここからとても遠い場所へだけどね」
(なるほど、それで)
史の話を聞いてようやく辻褄つじつまがあった気がした。
 あの神が人を殺してたのしむような性格でないことくらい、薫子にもわかっている。だとすると、今までの生贄たちはどこへ消えたのか。その答えは酷く簡単だった。
(…人の世に返した。だからあの屋敷に人の気配が無かった)
神に捧げた貢物みつぎものが返品される事はまずない。それ故の盲点もうてんだった。
 元の村に返さないのは、ある意味神の慈悲じひなのだろう。生贄は村の嫌われ者であったり、何かのしきたりののっとって選ばれた者達だ。そんな人間がノコノコ村に帰ったりしたら大騒ぎになるし、下手すれば神の立場も危うい。
「今回もその内遠くの村に返すのだと思っていたけど、貴女と過ごす内に元の家にどうしても帰してあげたくなった。それと同時に、貴女にはあの屋敷に…茜鶴覇様の傍に居て欲しいとも思うようになったの」
「私が…?」
「そう、貴女は他の人間とは違う。人も神も同じ目で見てくれる。茜鶴覇様の孤独や寂しさに、すぐ気が付いた…。そんな人、初めてだったの。ああ…この子が居たら大丈夫だって、心からそう思えた」
史は薫子を見ると、皺がいっぱいの優しい顔で笑う。
「本当にありがとう。貴女がやしろに来てくれてから、初めて運命を愛したわ」
史はそう言うと、風で乱れた薫子の髪を撫でて立ち上がった。暁が「そろそろお帰りですか?」と言わんばかりにたてがみを揺らす。
「情けない姿を見せてしまってごめんなさい。私はそろそろ帰りますね」
昼餉ひるげの支度をしないと、と張り切る史はどこかすっきりした面持ちをしていた。
 史は鞍に手を掛けて軽やかに飛び乗る。そして立ち上がった薫子を見下ろし、愛おしそうに微笑んだ。
「…待っているわ」
「はい」
薫子は小さく頷く。それを見た史も頷き返した。



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