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2巻
2-3
しおりを挟む3:月澪彩葉
「なんだこの論文は?」
またその質問か、と私は溢れ出そうになったため息をぐっと呑み込んだ。事前に何度説明したと思ってるんだ。
「『恋愛観を用いたクオリアの追求:イージー・プロブレムからハード・プロブレムまで』ですね。脳内の電気化学的な神経活動が、どのようにして人間の主観的体験を作り上げるかを解明することは、生物学、脳科学、心理学、そして哲学など、多岐の学問にまたがる難題の一つである。この概念は古くからクオリアという言葉をあてがわれており、ネド・ブロック、シドニー・シューメーカー、ダニエル・デネットなど数多くの学者によって議論がなされてきた。その中でも特に、クオリアの概念に一石を投じたのはデイビッド・チャーマーズが唱えたイージー・プロブレムとハード・プロブレムである。これらの区分は、それまで曖昧にされてきたクオリアと脳内で起こる化学現象の間にまたがるギャップを明確にした。すなわち、ある事象を体験したときに現れる表層的な状況証拠を集めただけでは、主観的感覚情報を証明するには不足しているということである。これを解明するためには――」
「誰がイントロを頭から読み上げろと言った! そんなもの何度も読み返してもうとっくに覚えとるわ!」
「よくできているでしょう?」
「ああ、君の器用さがよくにじみ出ているよ」
なら問題ないじゃないですか、とは言えなかった。立派に蓄えた髭を何度もさする秦野教授を見て、やっぱり武田信玄の肖像画にそっくりだなと思った。
「なら、どうしろって言うんですか? すでに投稿先のジャーナルは決めていますし、様式も整っています。アンケートを取った学生の個人情報の扱いに関する資料も一通り揃えてありますし、先生以外の共著者からの承諾も得ています」
あとは、私の指導教官である秦野教授のゴーサインが出れば、すぐにでも投稿できるのだが……どうも教授はご不満らしい。
器用さがよくにじみ出ている、ね。よくできた皮肉だ。そう言われる理由も原因も、私はよく分かっている。
「くっ……相変わらず仕事の早い……。明日葉君といい君といい、最近の子はハイスペックすぎやしないかね?」
「先生には及びませんよ」
「はっ。嫌味にしか聞こえんね」
秦野正晃教授は、桃花大学、環境システムマネジメント学部、心理学科所属の教授だ。脳科学や心理学の手法を用いて、人の感情や行動の基盤にアプローチする研究を主としている。
明日葉君と私の指導教官であり、メディアへの露出頻度も高い。十分優秀な経歴と実績を持っていると思うのだが。
「大体だ。こんな研究、誰でもできるだろうに」
「……ほう」
教授の言葉に、ぴくんと自分の肩が小さく跳ねたのが分かった。ああ……これはよくないな。
「恋愛感情がクオリアである、というのは昔から言われてきたことだろう。あの木之瀬の阿呆だって、そこに着目した研究を進めていた。その系譜を君が継ぐというのは、ある意味順当ではあると思うがね、君はもっとこう……ちょっとちょっと。何しとるんだね、月澪君」
「ああ、いえ。お気になさらず。先生の言い分はよく分かりました」
部屋の隅に置いてあったホワイトボードを引きずり、秦野教授の目の前に設置する。マーカーのインクが出ることを確認し、私は言う。
「要するに、この研究の独自性、そして私が行う必然性。この二つが明確でない、ということでしょう? これは失礼いたしました。私としたことが、このような基本的な説明を怠っていただなんて、羞恥のあまり顔から火が噴き出しそうです」
「い、いや、そうではなくてだね。私は単純に――」
「どうか弁解の機会を与えてください。これから、この研究のオリジナリティーを、私のこれまでの研究を踏まえた上で、項目別にご説明いたします。そうですね……ざっと六十七項目ほど」
「……」
「では、しばしお付き合いください。まず第一項目ですが、そもそもこの研究は、私が学部四年生の頃から進めていた研究が発端となっていまして――」
結局、十二個目の説明を始めた段階で「分かった、もう好きにしてくれ」と教授は力のない声を上げたのだった。
「おかえりなさい、月澪さん。結構長かったですね。もめました?」
秦野教授の部屋から研究室に戻ると、明日葉君がさわやかな笑顔で迎えてくれた。
明日葉昴。学部生の頃から秦野研に所属しており、今は私の後輩にあたる。稀に見る極度のお人好しで、自分のことを二の次にして他人の手助けをしようとするきらいがある。
「他人のために」を「自分のために」やるのだと言い張る彼は、もちろん善人ではあるが……どこか歯車が狂っているのではないかと思ってしまうこともある。気のせいだとは思うが。
「案の定渋られたよ。おまけに、こんな研究誰にでもできる、と言われてしまってね」
「ああ、それは……」
「でもさすがは教授。改めて、この研究の独自性と重要性について懇切丁寧に説明したら、最後にはちゃんと納得してくれたよ」
「お気の毒に……」
最後の言葉は私にではなく、秦野教授にかけられた言葉なのだろう。そこに関しては私も同感なので、特に異論は挟まなかった。
「でも、先生も頑なですよね。月澪さんの研究、面白いのに。あ、何か飲みます?」
「ありがとう、じゃあコーヒーをもらおうかな」
少し経って、部屋の中にふくよかな香りが充満しはじめた。目をつぶって深く息を吸うと、二年前まで過ごしていた、あの研究室の風景が脳裏をよぎった。
嗅覚は他の感覚器と異なり、唯一、大脳辺縁系へ直接つながっている。要するに、香りは記憶を想起しやすい。プルースト効果というやつだ。
二年前、木之瀬が逮捕されたことで、私の指導教官はいなくなった。
本来であれば、同じ大学内で同じような研究室を探すのだが、残念ながら帝桜大学には存在しなかった。木之瀬が下に助教をとっていれば話は別だったのだが、どうやらあいつは、頑なに下のポジションの公募をかけさせなかったらしい。私が卒業するのを待っていたという見方もあるようだが……今となってはどうでもいい話だ。
とにかく、大学内に居場所がなくなった私は、明日葉君の勧めもあって、桃花大学の秦野研に身を置くことになった。それが、私が修士二年生の頃の話。
それから二年が経ち、私は博士後期課程へと進んだ。それを機に研究内容も一新したわけなのだが……秦野教授からはあまりいい顔をされたことがない。
もっとも、研究室が違った頃から、決して折り合いがよかったとは言えないのだが。
「個々の持つ恋愛感情がどのようなものなのか。誰かの『胸がときめく』という感情は、他の誰かのそれと一致するのか。興味深いですよね。どうぞ、ブラックでよかったですよね?」
「くく、実験の方も面白かったぞ。なんせ、若い男女の甘酸っぱい恋愛観を聞き続けるわけだからな。苦いコーヒーも欲しくなるというものさ。ありがとう」
一口含むと、ほろ苦い独特の風味が鼻から抜けていった。うん、おいしい。一時期抱いていたコーヒーへの嫌悪感も、もう消えた。
「機能的核磁気共鳴画像法を使った脳活動領域、脳波の測定と、複数の恋愛シチュエーションにおける感受性テスト、でしたよね」
秦野研に入って以降、私が興味を持って取り組んだのは、クオリアの研究だった。
クオリア、すなわち、個々人が有する独自の世界観のことだ。着想を得たのは、もちろん、北條君の共感覚からだ。
彼の視ていた世界は、私たちが見ている世界とはあまりにも違いすぎた。
本質と感情が視える彼の世界を、私は想像することはできても、感じ入ることはできない。
これは、トマス・ネーゲルという学者が提起した「What it is
like to be a bat?(コウモリになったときの自分を想像することはできるだろうか?)」 という問題に酷似している。
コウモリは超音波を使って物体の位置を観測し、飛び回り、逆さ吊りになって生活している。そう言葉で表すことはできても、完全に理解できたとは言いがたい。私たちは、超音波を出すことができないのだから。
そう気付いたとき、私はクオリアに関わる研究をしようと決意した。より深く、この概念を理解しなければならないと強く思った。
「ああ。予想以上にいい結果が出たよ」
私がクオリアの研究材料に選んだのは、恋愛感情だった。
被験者には、小説、漫画、ゲーム、会話、あらゆる形式で恋愛にまつわる話を聞いてもらい、ときめいたときにボタンを押してもらう。そして、その際の脳波を測定する。
さらにその後、ボタンを押した際に感じていた色、形、数字などを場面ごとに選択してもらったのだ。
「先行研究から、恋愛感情を抱いた際に活発に活動する脳の領域はある程度予測できていたが……まさか『ときめき』のイメージまで一致するとは思わなかったよ」
どんなシチュエーションにときめくかは個人差がある。
例えば、壁ドンをされた話を聞いたとき。普段意識していなかった幼馴染に告白されたとき。屋上に呼び出されたとき。自分が不良に絡まれていたら颯爽と駆けつけて助けてくれたとき。
人それぞれボタンを押したシチュエーションは異なっていたが、同じ場面にときめいた被験者が、その場面にふさわしいと思った色や形は、高い確率で一致していたのだ。
「主観的な経験を観測することができたという点で、今回の実験は意味があるものだったと言えるだろうな。もう少し進めれば、『哲学的ゾンビ』の話にも切り込めるかもしれない」
哲学的ゾンビというのは、普通の人間とまったく同じ反応をするが、クオリアを持っていない人間と定義された、仮想の存在だ。
今の私の研究に当てはめてみれば、ときめいたという反応を見せるが、実際には何も感じていない、という人間がそれに該当する。そういう人間がいれば、クオリアを科学的に証明するための重要な手がかりになるだろう。もちろん、もう少し検討が必要な事項ではあるが。
「改めて聞いても、やっぱり面白いですね、月澪さんの研究」
「くく、そうだろうそうだろう。ぜひ隣の部屋にいる偏屈なおじさんにも言ってやってくれ」
「前の研究とは絡めないんですか?」
いつの間にか飲み干していた私のマグカップにコーヒーを注ぎ足しながら、明日葉君がさらりと言った。
「……やっぱり君は、食えない男だな」
「なんのことでしょう?」
にこりと笑った明日葉君の表情には一点の曇りもなくて、そこに害意など微塵も紛れ込んでいないことが分かる。だが……この一連のやり取りは、最初から私がこのセリフを口にするよう彼が誘導したものだったのだろう。
「そうだな……。サイコパスの研究と絡めれば、さらに面白くなるだろう」
サイコパスは良心の欠落した存在だ。
共感性、良心、愛情、善意。
そういったものが欠落しつつも、社会に溶け込んで生活している彼らは、その一点においては哲学的ゾンビと言えるかもしれない。
「その予定はないんですか?」
「なあ明日葉君。君、最初からそれが聞きたかっただけじゃないのか?」
「そんな気持ちはまったくなかった、という証明はできませんね」
「回りくどいことを……」
まったく、この後輩は日に日に手ごわくなっていく。入ったばかりの頃はもう少し素直で実直だったはずなのだが……誰に影響を受けたのやら。
そんな彼は、心配そうに眉尻を下げて、私に問いかけた。
「月澪さんがサイコパスに関わらなくなって、もう半年以上経っていますよね。理由はやっぱり、北條君ですか?」
半年以上。裁判が終わってから、もうそんなに経つのか。
北條君は元気にしているだろうか……
「いい意味でも悪い意味でも、イエス、だろうな。答えは」
自分を客観的に評価することは嫌いではない。自分のいいところを十個、悪いところを十個挙げろと言われれば、数分の内に列挙することができると思う。
だから、分かる。
私がサイコパスと関わることを避けている理由は、二つある。
「私がサイコパスの研究をしていたそもそもの理由を、君は覚えているか?」
「自分に理解できないサイコパスを見つけたい、でしたよね」
「その通り」
私は、あらゆるサイコパスの心情が手に取るように分かってしまう。だから、私が理解できないような、見たこともないサイコパスに出会いたい。それが研究の原動力だった。
「だが、私は出会ってしまった。北條正人という、どうしようもなく『理解できないサイコパス』に。なあ、明日葉君。私の願いは……叶ってしまったんだよ」
サイコパスと常人の狭間で揺れる、不安定な存在。北條君は、デミ・サイコパスだ。
そんな不安定な、完成しきっていないサイコパスこそが、私が追い求めていたものだというのは、なんとも皮肉なようで、その実、納得もできる。
不完全なものほど、完全から、理解から、ほど遠いものはないだろう。
「一番の目的が叶ってしまったから。燃やすべき燃料がなくなってしまったから。だから、サイコパスから距離を置いている。そういうことですか」
「ああ」
「嘘ですね」
明日葉君はきっぱりと断言した。
「いや、正確には『それだけが理由ではない』です」
「ほう、どうしてそう思うんだ?」
「だって僕の知っている月澪さんなら、次に『理解できないサイコパスを理解する』ための研究をするはずですから」
「もちろんだ。クオリアの研究はその一環だが?」
「とぼけないでください」
彼にしては珍しく、言葉の端に御しきれていない感情がこもっていた。そうさせたのは他でもない自分自身で、それが少し申し訳なくも思った。
「どうしてあなたの研究に、北條君が関わっていないんですか?」
研究室にしばし沈黙の帳が下りた。
私が北條君を見張ろうと、彼の隣にいようと決意してから二年が経った。
彼のために戦い、裁判が終わって約一年経った。
彼が陽華に軟禁されて、半年以上が過ぎた。
そして――
「ずっと聞かないでいてくれたんだな」
「月澪さんが自分から話そうと思うまで、待とうと思ってました。でも……もう限界です」
「優しいね」
「そんなことはありません。ただ、僕が耐えられなかったから聞いたんです」
「よく言うよ」
相変わらずだな、明日葉君は。私はソファーに深く腰掛けなおして、天井を仰いだ。ちょうどいい頃合いなのかもしれない。いい加減に私も、あのことに折り合いをつける必要があるだろう。
「大したことのない話だよ」
「構いません。聞かせてください」
部屋の空気をゆっくりとかき混ぜるシーリングファンを眺めながら、私は考えることをやめていた思い出の扉に手を伸ばした。
あの日、陽華に直談判をしに向かったとき、北條君が私にかけた言葉を思い出す。
「私はね、明日葉君。彼に……――拒絶されたんだ」
「月澪先輩。もう、ここには来なくていいので。僕のことは放っておいてください」
4:月澪彩葉
北條正人は、無害であることが確定するまで、あるいは無害になる方法が確立されるまでは、身柄を一般市民から隔離し、より詳細なデータ収集を行う必要がある。
私がこの事実を知ったのは、北條君が連れ去られてから既に二日が経過した後だった。先に事情を知った青山さんが連絡をくれていなければ、行動するのがもっと遅れていたかもしれない。
間々越市から電車を乗り継いで約二時間、都心からは少し離れた山のふもとに、国立脳科学研究所は建っていた。
「あ、彩葉センパイこんにちはー! んー、今日も素晴らしいコーディネートですね! 美しいボディラインが見事に際立ってます!」
出会い頭に人を褒める癖は今も健在のようだった。悪い気はしないが、今は彼女の軽口に付き合っている心の余裕はない。
「どういうつもりだ、陽華」
「どういうつもり、とは?」
「とぼけるな。北條君をここで預かるなんて、聞いていないぞ」
「だって言ってませんもん」
「……貴様」
「おっと、暴力は反対でーす。素手で殴り合って彩葉センパイに勝てる気はぜーんぜんしませんし? ま、中で話しましょうよ。正人君もいますしね」
ささ、どうぞどうぞ、と陽華は私を中に案内した。
陽華はノリが軽く、言葉の一つ一つは薬包紙のようにぺらぺらで、つかみどころのないやつだ。だが、紛れもなく天才である。
「仕方ないですよね? だって、私が気になっちゃったんですもん」
これまで彼女は何度もそう言って、いくつもの研究成果を挙げてきた。しかしその陰で、何人もの研究者が彼女に心を折られ、研究界を去ったことも、私は知っている。
ある男子学生は彼女と同い年だった。彼は「その研究は何がハッピーなの?」という陽華の一言に答えられず、答えられなかった自分を恥じ、研究職に就くことを諦めた。
あるポスドクの研究者は陽華に助けを求めた。データを解析するにあたって、どうしても分からない部分があったからだ。陽華は研究者の疑問を解決し、その過程で生まれた自分の疑問を片手間に解消し、解析結果を送り返した。後日、陽華が追加で解析した部分だけが論文として採用された。その研究者は自信をなくし、ポスドクを辞めた。
またあるときは、大学の助教が「この題材はどうやっても面白くならない」と捨ててしまったテーマをもらい、国際誌に何本もの論文を通した。以来、その助教は学会に出てこなくなった。
気になったこと、興味を持ったことは、自分で解明しなければ気が済まず、その過程で誰が傷つき、手折られ、くじけようと気にかけない。
悪意はない。ただ、善意もない。
陽華が研究を行う原動力は、貪欲な知識欲と探求心のみで構築されていて、慈悲も容赦も入り込む余地がない。そんな彼女が、北條君のような稀有な体質の人間を見ればどんな行動を起こすのか、私はもっとよく考えるべきだったのだろう。
白い、四角い部屋に案内されたとき、私は強くそう思った。
「ふっふっふー。どうですかー? 私による、正人君のための、正人君専用のお部屋でぐえぇえええええええ」
「今すぐ彼をあそこから出せ。今、すぐにだ」
「ぎ……ぎぶぎぶ、センパイ、いきが……」
「答えは?」
「ぐるじい」
「答えろ!」
「……ふふ」
妖艶な笑いとともに、陽華はぬるりと私の拘束から逃れた。どうやら、彼女も格闘技の心得があるようだ。
「答えはノー、です。センパイ。げっほげっほ。うぅ……センパイったらこんなか弱い乙女を相手にひどい……」
「なに?」
「あー、苦しかった。っていうか、私こそ聞きたいです。センパイ、どういうつもりなんですか?」
大げさに咳こみながらも、陽華の態度は変わっていない。まるで、自分は正しいことをしていると言わんばかりの表情だ。
正しいことを……
「……なるほどな」
「ご理解いただけました? 普通に考えて、私のやってることは間違ってないんですよ。自分の意思で、良心や善良な心、そういう心のストッパーを捨てられる人間なんて異常でしょう? 一般社会に戻しちゃいけないんですよ、あの子は」
彼女の言い分は間違ってはいない。だからこそ、裁判所へ提出した資料も通ったのだろう。
当然私も、北條君が不安定な存在であるという点に関しては、彼女の意見に同意する。しかし――
「それが今回の、お前の大義名分というわけか」
「なんの話ですか?」
陽華がつぶしてきたのは、研究者だけではない。噂では、実験の被験者に一種のトラウマのようなものを植えつけているらしい。それでも彼女が糾弾されずにいるのは、その被験者の多くが、何かしらの罪を犯した経歴のある犯罪者だからだ。言葉巧みに実験の正当性を主張し、周りを納得させ、強行する。今まさに、彼女がやっているように。
「なあ陽華。確かにお前の言うことは間違ってはいない。だが、少々大げさすぎやしないか?二年前の事件は特例だ。北條君はこれまでの人生で、大小問わず、罪を犯してきた経歴は一切ない。彼の共感覚が及ぼす影響は、せいぜい赤信号を無視するようになるくらいのものだろう」
「赤信号を無視する。人ごみの中の狭い隙間を自転車で走り抜ける。横断歩道のない交通量が多い道路を歩いて渡る。心のストッパーが外れるっていうのはそういうことです。それがどれだけ危険なことか、分からないセンパイじゃないですよね?」
「……そうだな」
言い換えればそれは、損得勘定の優先順位が、危機意識よりも高く設定されている、ということだ。
例えば、数分歩けば横断歩道がある、交通量の多い道があったとして。さらに歩行者用の信号は、青信号に変わるのが異常に遅かったとして。そういう人間は、横断歩道を渡らずに、走る車の間を縫うように道を横断してしまう。些細なことのようで、積み重なれば社会に混乱を招くトリガーになりかねない、危険な行動だ。
陽華の主張は、正しい。反論の余地がないほどに。
それでも私は、引くわけにはいかない。
「だがこれは、研究倫理的にアウトだろう。もっと他のやり方があるはずだ」
「スタンフォード監獄実験がありなら、これもありでしょう?」
「いつの時代の話をしている。屁理屈をこねるのも大概にしろ」
「屁理屈をこねてるのはセンパイの方ですよ。公的機関からのお達しが下った時点で、センパイに口を出す権利はありません」
その通りだ。だが、まだ私にも介入する術は残っている。
「だったら、この研究は私との共同研究にしろ。北條君の共感覚については、私が最初にデータを集めている。妥当な主張だと思うが」
陽華が北條君に執着する可能性を、もちろん私も考えていないわけではなかった。
だからそのときは、私が共同研究者として携わることで、最悪の展開を回避しようと考えていた。事実、裁判のためにデータを集める際には、私もできる限り実験の現場にいたし、北條君の身の安全のチェックを怠ったことはなかった。
「却下です」
しかし予想に反して、陽華は首を縦に振らなかった。
「おい、それは納得しかねるな。共感覚の研究に最初に着手したのは私だ。どう考えたって、私を共同研究者に入れないわけにはいかないだろう」
「じゃあ、センパイが集めてたデータは一切使わないと約束します。助言も求めません。ここから先の研究は、私個人ができる範囲で行います。これなら文句ないでしょう?」
一瞬、言葉を失った。正直、陽華がここまで拒絶するとは思っていなかった。
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