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2巻
2-2
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「何度も申し上げている通り、状況はこちらに有利です。ただ、このままでは裁判が長引く可能性があります。そこで、二か月後に行われる公判前整理手続きの前に、さらに証拠を足したいと考えています。具体的には――」
「木之瀬が北條君とともに事件現場の近くにいたという客観的な証拠。そして北條君が殺人を犯すことができないという実証的な証拠、ですね」
「月澪さんは相変わらず、話が早くて助かります」
青山さんはそう言いながら、今日初めて笑った。笑うとえくぼができて、一気に幼く見える。
「実はそうなると思って、後者に関しては手配を済ませているんですよ」
「もう、ですか……! 本当に月澪さんは規格外ですね」
「いやいや、大したことでは。北條君の共感覚とサイコパス化の関係についての資料は、責任能力の有無を問われるときに必要になりますから、そのついでに頼んだだけです」
「本当に助かります。こうなると、木之瀬が北條さんと現場にいた、という証拠がなんとしてでも必要になりますね……」
木之瀬元准教授は、第一から第三の事件が起こった時間、全て家や研究室にいたと証言しているらしい。当然だが、それを証明できる人間は出てきていない。
「あ、そのことなんですけど、一つ心当たりがあって……」
ちょん、と月澪先輩に肩をつつかれ、僕は慌てて口を開いた。ここまでの会話は僕が口を挟む余地がなくて、ひたすら黙ってカフェラテを飲んでいた。誰よりも当事者なはずなのに、情けない。
「実は僕、一つ目の事件が起こる前、ティッシュ配りをしていた女性と話しているんです。話した時間は短かったんですけど、印象には残っているはずなので、もしかしたら何か目撃しているかもしれません」
話した時間と場所、見た目の特徴なんかをまとめた紙を青山さんに手渡す。もちろんこれも、先輩にアドバイスされて作ったものだ。
「ほ、本当ですか! 至急探してもらいます! ちなみに、北條さんに本人確認してもらうことは可能ですか?」
「はい、分かると思います。アライグマがタップダンスしてるはずなので」
「タップダンス?」
「なんでもないです」
「タップダンスが得意な方なんですか?」
「本当になんでもないので、そのくだりはメモを取らなくて大丈夫です」
「じゃあアライグマの方は……」
「いえ、そっちも大丈夫です」
青山さんは、もちろん僕の共感覚のことを知ってはいるけど、慣れてはいない。急に関係のない単語が出てきたら戸惑うのは当然だ。
月澪先輩は、僕たちのそんなやり取りを横目で見つつ、「くっくっ」とひとしきり笑った後、助け舟を出してくれた。
「共感覚の話ですよ、青山さん。彼には人の『本質』が視えるんです。大方、そのティッシュ配りをしていた女性の本質が、北條君にはタップダンスをしているアライグマに視えたんでしょう」
「あ! し、失礼しました! すみません、いまだに慣れなくて……」
「ふふ、簡単に信じられないのも無理はありませんよ。今の青山さんと同じように、多くの人はすぐには受け入れられないでしょう」
だけど、それでは困るんです、と先輩は続けた。
僕の共感覚は異常だ。
人の本質が様々な光景となって現れ、感情は色の靄となって立ち上る。
共感覚のオンオフは、練習によって不完全ながら可能になったが、酷使すると脳に異常な負荷がかかり、僕の思考、行動がサイコパスのそれに近くなる。
にわかには信じがたいが、事実だ。そしてこれが、今回の裁判で重要なポイントとなる。
「北條君は木之瀬の実験で共感覚を過剰に発現させられ、さらに睡眠導入剤を服用させられたことで、正常な判断力を失っていました。つまり、心神耗弱状態であったはずです。これは、今ある証拠からも示唆することはできますが、追加でデータを提示することで、より確固たるものにしたいと考えています」
「……そしてそれが、さっき仰っていた『北條君が殺人を犯すことができないという実証的な証拠』を示すことにもつながる、ということですね」
「ええ」
「共感覚を過剰発現すると、思考回路に変化が生じること。そしてその変化は、決して殺人につながるものではない、ということ。この二点を証明できれば、君が罪に問われることはない。安心していい」
昨日も月澪先輩は、軽く笑ってそう言ってくれたけれど、僕にはひどく難しいことに思えた。
先輩が今見下ろしている、カップの中で波打っているであろうブラックコーヒーを、僕が見ることができないように。
月澪先輩の周囲で轟々と燃え盛る彩り豊かな火炎が、先輩にも青山さんにも視えないように。
僕の視ている世界は、他人には視えない。
そんな、ただでさえ複雑な共感覚とサイコパス化の関係を「科学する」なんてことは、不可能なのではないかと、思いはするのだけれど――
「大丈夫だ、北條君。私に不可能はない」
――先輩はいつものようにあっさりと、そう言ってのけるから。
僕は黙って、先輩の言う通りにすることにした。
テーブルの向こうで青山さんが小さく「録音したい……!」と呟いていたけど、聞かなかったことにする。青山さんは九割九分尊敬できる人だけど、残りの一分が致命的だ。
「なんて大見得を切ったはいいものの、こればっかりは私一人の力では時間が足りなくてね。応援を呼んである。もうすぐ来ると思うんだが……」
「え、今日会うんですか?」
「なんだ、言ってなかったか?」
「まったく聞いてません。青山さんは?」
「私は事前に連絡をいただいてます。もっとも、もう一人いらっしゃるとだけですが」
なんで僕だけ知らないんだ。
抗議の目を向けると、先輩は黙って柔らかく微笑んだ。
「……先輩、僕にだけ伝えるの忘れてましたね?」
「くくっ、そうとも言うな」
「いや、そうとしか言えないのでは?」
笑ったらなんでも許されると思ってるのかこの人は……許すけど。
最近思ったけれど、先輩はちょっと僕にだけゆるい気がする。
まあそれはそれで、特別扱いされてる感じがして悪い気はしない――
「こんにちはー」
「――っ!」
それは決して、不快な声ではなかった。
むしろ逆。心地のよい、布団の上にビー玉を落としたときのような、柔らかく包容力のある声。だけど僕は、背後からかけられたその声を聞いた瞬間、なぜか総毛立ち、勢いよく振り向いた。
「おお、びっくりした! いきなり声かけて驚かせちゃったかな? ごめんねー」
立っていたのは、若い女性だった。月澪先輩よりも少し年下だろうか。軽くウェーブさせたセミボブの茶髪と、清潔感のある服装から、快活な印象を受ける。
「久しぶりだね、陽華。突然呼び出してすまない」
「お久しぶりです、彩葉センパーイ! 相変わらず美人ですねー!」
「出会い頭に褒めるクセは健在だな。悪い気はしない。もっと言っていいぞ」
「くぅー! 美人であることは否定しない、その肝の太さと豪胆さ! たまりませんねー!」
先輩に陽華と呼ばれた女性は、朗らかに挨拶を交わしていた。悪い人ではなさそうに思える。
いや、だけど……さっきの妙な感覚は一体……
悶々と考えているうちに、女性は僕の目の前に座り、ペコリと頭を下げた。
「はじめまして、丹色陽華です。君の無罪を証明するため、彩葉センパイの命を受けて馳せ参じました!」
真面目な青山さんが早速名刺を取り出し、丹色さんと交換していた。手持ち無沙汰になった僕に、月澪先輩が言う。
「彼女は国立脳科学研究所の研究員だ。私の二つ下だが、既に海外で博士号取得目前と言わている天才だ。必ず力になってくれる」
「それは……」
すごいなと、素直に思った。正直、肩書や研究所の名前はよく分からないけれど、月澪先輩が他の誰かを「天才」と呼ぶのを、僕は初めて聞いた。それだけで、彼女が研究分野で一線を画する存在であることが伝わってくる。
それに、この状況で先輩が連絡をする人物だ。間違いなく信頼に足る相手なのだろう。
そう頭では分かっているのに。
「改めまして、はじめましてだね、正人君。これからよろしくね」
この胸騒ぎはなんなのだろうか。
僕は彼女の言葉に、ただぎこちなく笑って返すことしかできなかった。
「なるほどー。共感覚とサイコパス化に関する客観的なデータと、正人君がサイコパス化をしても人を殺さない実証的な証拠が必要、と」
じゅーっと、バニラシェイクを吸い上げながら、丹色さんは配られた資料を読んでいた。僕は貰った名刺に目を落とす。
表はいたってシンプルで【丹色陽華 国立脳科学研究所 特任助手】とあり、その下にメールアドレスと電話番号が書かれていた。裏をひっくり返すともう少し詳しく書いてあって、自分の専門と、習得技術なんかが記載してあった。
「脳波・脳活動の測定、仮想現実……」
「イエース、正人君。仮想現実を用いた様々な実験を行って、脳波や脳活動を測定するのが私の専門研究。ヴァーチャルリアリティって言ったら分かりやすいかな? 今じゃゲームなんかでも取り入れられてるけど、私が使ってるのはもっとイケてるやつなんだよね。そこを見込まれて、今回彩葉センパイに呼ばれたってわけ。ですよね、センパイ?」
「ああ。君なら、その分野のお偉いさんとも親しいだろうからね。あてにさせてもらったよ」
「ふふふーん。悪い気はしませんねー」
どうやら丹色さんは、誰のことでも下の名前で呼ぶようだ。海外に留学していた経験があるらしいから、その影響なのだろうか。
「ぜひ君の意見を聞かせてくれ、陽華。どうやったらその二つを証明することができる?」
「どうやったら……?」
月澪先輩の言葉を受けて、なぜか丹色さんは不思議そうに首を傾げた。
「そんなの、疑似再現と反復しか方法ないと思いますけど。というか、彩葉センパイはもう具体的な実験内容までプランニングできてるんじゃないですか? ……あー、分かった。もしかして私のこと試してますー? どっえすぅー」
そう言うと丹色さんはテーブルの上に身を乗り出して、にんまりと先輩を見上げた。先輩は腕を組んだまま笑って「まさか」と答える。
「君なら私が思いつきもしないようなアイデアを持ってるんじゃないか、と思っただけだよ。他意はないさ」
「それは買いかぶりすぎですよー。大体、どう考えたって最善案は一つじゃないですかー。ねえ、燕さん?」
丹色さんの吸い込んだバニラシェイクが、ずごごごごっと音を立てた。燕、というのは青山さんの名前だ。
「わ、私ですか? 私はそっちの方面には明るくないので……」
「んあー、そっかー。じゃー、正人君っ」
いやいや、そこでなんで僕に振るんだ。
月澪先輩はもちろん変な人だけど、この人も大概な気がする。研究者というのは、一癖も二癖もある人間しかいないのだろうか。
ああ、そう言えば……ふと思い立って、僕は丹色さんに目線を向ける。
「……え?」
思わず声が出た。見間違い……いや、視方違い……ってわけでもなさそうだ。
なら、どうして――
「どしたの、正人君。私の顔になんかついてる?」
「いえ。素敵な髪型だなあと思って」
「あ、そーお? 今日は綺麗に巻けたなーと思ってたんだー、うふふ、ありがとー」
綺麗に巻けてたんだ。それは全然気付かなかったけど……気を逸らせたならいいか。
僕が背もたれに寄りかかると同時に、月澪先輩が人差し指でくるくると毛先を回しながら口を開いた。
「……話を戻すぞ。確かに考えられる方法の中では、陽華が言っているものがふさわしいのは事実だ。だが、それだと北條君の負担が大きすぎる」
「ん?」
ちょっと待った。負担が大きい? 一体、なんの話だ?
「まー、それは仕方がないですよ。両手の指に収まらないくらい地獄は見ると思いますけど、無罪を勝ち取るためにはやむなしです」
「んん?」
「それしかないのか」
「ですねー」
ずごっと、シェイクがなくなった間の抜けた音がした。そんなBGMにそぐわない険しい表情で、先輩は僕の両肩を優しく掴んだ。
「北條君……」
「はい」
「本当にすまない。だが、他に選択肢がないんだ」
「はあ」
「君にこんなことをさせるのは極めて、極めて不本意なのだが……」
「なるほど」
「……頑張ってくれ」
「あの、とりあえず具体的な実験内容を教えてもらってもいいですか?」
「――どしたの正人君?」
「いえ、ちょっと思い出し笑いです」
先輩はほんとに自由だよなあ。もう二年も前の話だけど、今でも先輩の表情や仕草、会話の細部までよく覚えてる。
「へえ、いつのこと?」
「昨日のことです」
「浩太君と何か面白い話したの?」
「そんなところですね」
「つれないなー」
部屋の中に響く丹色さんの声に適当に返答しつつ、僕は頭につけたブレイン・スキャナーを外した。
「あ、外さないでってばー」
「これ蒸れるんですよ。頭かくだけですから……ほら、つけましたよ」
「んー、よしよし。まあ、お風呂のときも外してるし、多少はしょうがないけどねー。その機械と君は一蓮托生だと思ってもらわなきゃ」
「いやだなあ……」
ブレイン・スキャナー。別名、高精度脳波測定器。
網でできたヘルメットみたいな見た目をしていて、僕の頭部から顎にかけてを大きく覆っている。これを被ることで僕の脳波と活性部位が詳細に記録され、別部屋にいる丹色さんのパソコンにリアルタイムで送られる。
去年の裁判で僕の共感覚とサイコパス化の関係を証明できたのも、この装置のお陰だった。
月澪先輩と丹色さんが考えた実験は次のようなものだった。
まず、ブレイン・スキャナーを装着したまま、僕が共感覚を過剰に発現する。
やがて僕は意識が朦朧としてくるけれど、そのまま気にせず脳波のデータを取り続ける。
共感覚を発現する前と後で、脳波や脳の活性部位にどのような変化があるかを記録し、そのデータを、他のサイコパスの人間のデータと照合する。
共感覚を発現した後の僕の脳波が、サイコパスの人間の脳波に有意に近づいているのであれば、僕の共感覚はサイコパス化に関係があると判断できる。これが一つ目の実験。
二つ目は、さらにその状態でVRゴーグルを被る。VRゴーグルは間々越市連続殺人事件の三つの事件現場を再現していて、目の前には被害者が、僕は両手に凶器を持っているようzに見える設定になっている。この状態で、僕が被害者になんらかの危害を加えるかどうかを試す。
つまり、僕が悩まされていた悪夢のもとになった光景を再現するということだ。
そしてこれを、睡眠導入剤を使用した状態も含めて、何度も何度も繰り返す。
「んー。統計的な有意性を得たいから、とりあえず五十回は試そうか」
と悪魔みたいに言った丹色さんの曇りのない笑顔を、僕は忘れない。結局、色々調整、修正を加える必要があり、百回近く実験は繰り返されたと思う。
月澪先輩が心配していた通り、とても辛い実験ではあったけれど、お陰で非常に有力なデータを入手することができたらしい。
まず、木之瀬元准教授が推測していた通り、僕の脳波は共感覚を使うとサイコパスのそれに近くなる。特に扁桃体、眼窩前頭皮質の活動が共感覚の使用前と比較して著しく下がることが示されたそうだ。
一方で、僕はVR上で一度たりとも被害者たちを傷つけることはなかった。
丹色さんの話だと、VR実験だけでなく、「人の命を奪う」ことを連想させる単語や文章、映像を見せた際に、脳に異常なストレスがかかっていることが分かったという。このあたりの実験は、僕は意識が朦朧としていて、正直よく覚えていない。
「以上のデータは、北條正人氏の共感覚は、過剰発現することでサイコパス化を招き、心神耗弱状態に陥ることを示している。一方で、その状態でも人を殺すことはないということも、明確に示している。統計的な信頼性も高く、非常に精度の高い実証データである」
最終的に丹色さんと研究所長のサインが入った報告書はこのように締めくくられていた。あの地獄みたいな実験が無駄にはならなかったと、僕はそっと胸をなでおろしたものだ。
この報告書がダメ押しとなったのか、木之瀬元准教授は無期懲役となり、僕にはなんの罪も科せられなかった。青山さんと月澪先輩の目論見通り、木之瀬元准教授は控訴せず、大人しく第一審の判決に従い、今は刑務所の中にいる。
一年と数か月が過ぎて、あの悪夢のような事件はようやく終止符が打たれた。
黒幕は暴かれ、正しく裁かれた。
肉親を失った遺族の方々の心の傷は、もちろん癒えていないはずだし、一度だけ法廷で向けられた僕への視線は、決して温かいものではなかった。
それでも……一つの終着点にたどり着いた。
月澪先輩は大学院に進学し、僕は約一年の休学を経て、大学生活へと戻ることができる――はずだった。
僕に自由は訪れなかった。
「北條正人の共感覚とサイコパス性の間には強い相関関係があり、事件当時心神耗弱状態であったことは間違いない。しかしながら――」
裁判の判決が下ってから二週間後、突如僕の家を訪ねてきた丹色さんは、手に持った資料を僕の前で読み上げ――
「共感覚の発現は彼の一存に任されており、今後いつ何時猟奇的な考えを抱くサイコパスに身を落とすか分からない不安定な状態である。従って無害であることが確定するまで、あるいは無害になる方法が確立されるまでは、彼の身柄を一般市民から隔離し、より詳細なデータ収集を行う必要がある」
そして笑った。あの地獄のような実験を僕に課したときと同じように。
「以上の提言が裁判所より認可されたので、今日からあなたを国立脳科学研究所に隔離することになりましたー。今日からよろしくね、ま、さ、と、君っ」
要するに、僕が無罪になるために証明した事柄は、同時に「僕がいつ何時でも猟奇的な人間に変わってしまう」ことの証明でもあったということだ。
そんな危険なやつを野放しにしておくわけにはいかない、隔離するべきだ。
実に合理的で、正しい判断だと思った。
だから僕は特に反対することも抵抗することもなく、手早く準備を済ませて、彼女に従った。
そうして連れてこられたのが……この白い部屋というわけだ。
「今って何月なんだろう……」
誰に言うでもなく、呟く。
こんな部屋に閉じ込められていると、時間の感覚が曖昧になるので、正確な日付が分からなくなる。多分、あれからもう半年以上が過ぎたんじゃないかと思う。
隔離されてこの方、僕が会話を交わしたのは、丹色さんや職員の人たちを除けば二人しかいない。一人は昨日の浩太で、もう一人は最初の頃に面会した月澪先輩だ。二人とも、もうここに来ることはないだろうから、外部からの助けは望めない。
丹色さんの言葉に大人しく従って、こうして研究所に閉じ込められてはいるけれど、僕だってこんな場所で暮らすのはまっぴらごめんだ。
ブレイン・スキャナーはすぐに頭がかゆくなって鬱陶しいし、外の空気だって恋しい。なんとか脱出の糸口をつかみたいところだけど……苦戦しそうだ。
「ハーイ、正人君。楽しい楽しい、ご飯の時間だよー」
「今日は丹色さんが持ってきてくれる日なんですね」
「そうだよー。嬉しい? ね、嬉しーい?」
「いえ別に。しいて言うなら、あまり煮魚は好きじゃないので嬉しくないですね」
「うえーん、正人君が冷たいよー。私泣いちゃいそう」
嘘つけ。
彼女が来たときから感情の靄を追っているけど、一向に変化がない。言葉の表面はきらきらぱちぱちと鮮やかに躍っているのに、その裏側は凪いでいて、水面にさざ波一つすら立っていなくて……ただ静かに僕を観察している。丹色さんの言葉は、信用できない。
それにしても――
「あー、今私の感情視てたでしょ。後で脳波チェックしなくちゃ」
「どうぞご自由に」
――相変わらず、視えないなあ。
受け取り口から今日の昼ご飯が載ったトレイを受け取りながら、ちらりと丹色さんに目を向ける。
感情の靄は視える。共感覚に異常はない。
だったらどうして――僕は、彼女の本質だけ視ることができないのだろうか。
二年前、カフェで初めて会ったときからずっと、なぜか彼女の本質だけが視えない。
その理由を掴むことができれば、ここから脱出するきっかけになると思って、僕はここに軟禁されてから、そればかりを考えている。
口に入れた煮魚は、やっぱりもったりとした可愛げのない味だった。
まだまだ先は長そうだと、僕は大きくため息をついた。
「木之瀬が北條君とともに事件現場の近くにいたという客観的な証拠。そして北條君が殺人を犯すことができないという実証的な証拠、ですね」
「月澪さんは相変わらず、話が早くて助かります」
青山さんはそう言いながら、今日初めて笑った。笑うとえくぼができて、一気に幼く見える。
「実はそうなると思って、後者に関しては手配を済ませているんですよ」
「もう、ですか……! 本当に月澪さんは規格外ですね」
「いやいや、大したことでは。北條君の共感覚とサイコパス化の関係についての資料は、責任能力の有無を問われるときに必要になりますから、そのついでに頼んだだけです」
「本当に助かります。こうなると、木之瀬が北條さんと現場にいた、という証拠がなんとしてでも必要になりますね……」
木之瀬元准教授は、第一から第三の事件が起こった時間、全て家や研究室にいたと証言しているらしい。当然だが、それを証明できる人間は出てきていない。
「あ、そのことなんですけど、一つ心当たりがあって……」
ちょん、と月澪先輩に肩をつつかれ、僕は慌てて口を開いた。ここまでの会話は僕が口を挟む余地がなくて、ひたすら黙ってカフェラテを飲んでいた。誰よりも当事者なはずなのに、情けない。
「実は僕、一つ目の事件が起こる前、ティッシュ配りをしていた女性と話しているんです。話した時間は短かったんですけど、印象には残っているはずなので、もしかしたら何か目撃しているかもしれません」
話した時間と場所、見た目の特徴なんかをまとめた紙を青山さんに手渡す。もちろんこれも、先輩にアドバイスされて作ったものだ。
「ほ、本当ですか! 至急探してもらいます! ちなみに、北條さんに本人確認してもらうことは可能ですか?」
「はい、分かると思います。アライグマがタップダンスしてるはずなので」
「タップダンス?」
「なんでもないです」
「タップダンスが得意な方なんですか?」
「本当になんでもないので、そのくだりはメモを取らなくて大丈夫です」
「じゃあアライグマの方は……」
「いえ、そっちも大丈夫です」
青山さんは、もちろん僕の共感覚のことを知ってはいるけど、慣れてはいない。急に関係のない単語が出てきたら戸惑うのは当然だ。
月澪先輩は、僕たちのそんなやり取りを横目で見つつ、「くっくっ」とひとしきり笑った後、助け舟を出してくれた。
「共感覚の話ですよ、青山さん。彼には人の『本質』が視えるんです。大方、そのティッシュ配りをしていた女性の本質が、北條君にはタップダンスをしているアライグマに視えたんでしょう」
「あ! し、失礼しました! すみません、いまだに慣れなくて……」
「ふふ、簡単に信じられないのも無理はありませんよ。今の青山さんと同じように、多くの人はすぐには受け入れられないでしょう」
だけど、それでは困るんです、と先輩は続けた。
僕の共感覚は異常だ。
人の本質が様々な光景となって現れ、感情は色の靄となって立ち上る。
共感覚のオンオフは、練習によって不完全ながら可能になったが、酷使すると脳に異常な負荷がかかり、僕の思考、行動がサイコパスのそれに近くなる。
にわかには信じがたいが、事実だ。そしてこれが、今回の裁判で重要なポイントとなる。
「北條君は木之瀬の実験で共感覚を過剰に発現させられ、さらに睡眠導入剤を服用させられたことで、正常な判断力を失っていました。つまり、心神耗弱状態であったはずです。これは、今ある証拠からも示唆することはできますが、追加でデータを提示することで、より確固たるものにしたいと考えています」
「……そしてそれが、さっき仰っていた『北條君が殺人を犯すことができないという実証的な証拠』を示すことにもつながる、ということですね」
「ええ」
「共感覚を過剰発現すると、思考回路に変化が生じること。そしてその変化は、決して殺人につながるものではない、ということ。この二点を証明できれば、君が罪に問われることはない。安心していい」
昨日も月澪先輩は、軽く笑ってそう言ってくれたけれど、僕にはひどく難しいことに思えた。
先輩が今見下ろしている、カップの中で波打っているであろうブラックコーヒーを、僕が見ることができないように。
月澪先輩の周囲で轟々と燃え盛る彩り豊かな火炎が、先輩にも青山さんにも視えないように。
僕の視ている世界は、他人には視えない。
そんな、ただでさえ複雑な共感覚とサイコパス化の関係を「科学する」なんてことは、不可能なのではないかと、思いはするのだけれど――
「大丈夫だ、北條君。私に不可能はない」
――先輩はいつものようにあっさりと、そう言ってのけるから。
僕は黙って、先輩の言う通りにすることにした。
テーブルの向こうで青山さんが小さく「録音したい……!」と呟いていたけど、聞かなかったことにする。青山さんは九割九分尊敬できる人だけど、残りの一分が致命的だ。
「なんて大見得を切ったはいいものの、こればっかりは私一人の力では時間が足りなくてね。応援を呼んである。もうすぐ来ると思うんだが……」
「え、今日会うんですか?」
「なんだ、言ってなかったか?」
「まったく聞いてません。青山さんは?」
「私は事前に連絡をいただいてます。もっとも、もう一人いらっしゃるとだけですが」
なんで僕だけ知らないんだ。
抗議の目を向けると、先輩は黙って柔らかく微笑んだ。
「……先輩、僕にだけ伝えるの忘れてましたね?」
「くくっ、そうとも言うな」
「いや、そうとしか言えないのでは?」
笑ったらなんでも許されると思ってるのかこの人は……許すけど。
最近思ったけれど、先輩はちょっと僕にだけゆるい気がする。
まあそれはそれで、特別扱いされてる感じがして悪い気はしない――
「こんにちはー」
「――っ!」
それは決して、不快な声ではなかった。
むしろ逆。心地のよい、布団の上にビー玉を落としたときのような、柔らかく包容力のある声。だけど僕は、背後からかけられたその声を聞いた瞬間、なぜか総毛立ち、勢いよく振り向いた。
「おお、びっくりした! いきなり声かけて驚かせちゃったかな? ごめんねー」
立っていたのは、若い女性だった。月澪先輩よりも少し年下だろうか。軽くウェーブさせたセミボブの茶髪と、清潔感のある服装から、快活な印象を受ける。
「久しぶりだね、陽華。突然呼び出してすまない」
「お久しぶりです、彩葉センパーイ! 相変わらず美人ですねー!」
「出会い頭に褒めるクセは健在だな。悪い気はしない。もっと言っていいぞ」
「くぅー! 美人であることは否定しない、その肝の太さと豪胆さ! たまりませんねー!」
先輩に陽華と呼ばれた女性は、朗らかに挨拶を交わしていた。悪い人ではなさそうに思える。
いや、だけど……さっきの妙な感覚は一体……
悶々と考えているうちに、女性は僕の目の前に座り、ペコリと頭を下げた。
「はじめまして、丹色陽華です。君の無罪を証明するため、彩葉センパイの命を受けて馳せ参じました!」
真面目な青山さんが早速名刺を取り出し、丹色さんと交換していた。手持ち無沙汰になった僕に、月澪先輩が言う。
「彼女は国立脳科学研究所の研究員だ。私の二つ下だが、既に海外で博士号取得目前と言わている天才だ。必ず力になってくれる」
「それは……」
すごいなと、素直に思った。正直、肩書や研究所の名前はよく分からないけれど、月澪先輩が他の誰かを「天才」と呼ぶのを、僕は初めて聞いた。それだけで、彼女が研究分野で一線を画する存在であることが伝わってくる。
それに、この状況で先輩が連絡をする人物だ。間違いなく信頼に足る相手なのだろう。
そう頭では分かっているのに。
「改めまして、はじめましてだね、正人君。これからよろしくね」
この胸騒ぎはなんなのだろうか。
僕は彼女の言葉に、ただぎこちなく笑って返すことしかできなかった。
「なるほどー。共感覚とサイコパス化に関する客観的なデータと、正人君がサイコパス化をしても人を殺さない実証的な証拠が必要、と」
じゅーっと、バニラシェイクを吸い上げながら、丹色さんは配られた資料を読んでいた。僕は貰った名刺に目を落とす。
表はいたってシンプルで【丹色陽華 国立脳科学研究所 特任助手】とあり、その下にメールアドレスと電話番号が書かれていた。裏をひっくり返すともう少し詳しく書いてあって、自分の専門と、習得技術なんかが記載してあった。
「脳波・脳活動の測定、仮想現実……」
「イエース、正人君。仮想現実を用いた様々な実験を行って、脳波や脳活動を測定するのが私の専門研究。ヴァーチャルリアリティって言ったら分かりやすいかな? 今じゃゲームなんかでも取り入れられてるけど、私が使ってるのはもっとイケてるやつなんだよね。そこを見込まれて、今回彩葉センパイに呼ばれたってわけ。ですよね、センパイ?」
「ああ。君なら、その分野のお偉いさんとも親しいだろうからね。あてにさせてもらったよ」
「ふふふーん。悪い気はしませんねー」
どうやら丹色さんは、誰のことでも下の名前で呼ぶようだ。海外に留学していた経験があるらしいから、その影響なのだろうか。
「ぜひ君の意見を聞かせてくれ、陽華。どうやったらその二つを証明することができる?」
「どうやったら……?」
月澪先輩の言葉を受けて、なぜか丹色さんは不思議そうに首を傾げた。
「そんなの、疑似再現と反復しか方法ないと思いますけど。というか、彩葉センパイはもう具体的な実験内容までプランニングできてるんじゃないですか? ……あー、分かった。もしかして私のこと試してますー? どっえすぅー」
そう言うと丹色さんはテーブルの上に身を乗り出して、にんまりと先輩を見上げた。先輩は腕を組んだまま笑って「まさか」と答える。
「君なら私が思いつきもしないようなアイデアを持ってるんじゃないか、と思っただけだよ。他意はないさ」
「それは買いかぶりすぎですよー。大体、どう考えたって最善案は一つじゃないですかー。ねえ、燕さん?」
丹色さんの吸い込んだバニラシェイクが、ずごごごごっと音を立てた。燕、というのは青山さんの名前だ。
「わ、私ですか? 私はそっちの方面には明るくないので……」
「んあー、そっかー。じゃー、正人君っ」
いやいや、そこでなんで僕に振るんだ。
月澪先輩はもちろん変な人だけど、この人も大概な気がする。研究者というのは、一癖も二癖もある人間しかいないのだろうか。
ああ、そう言えば……ふと思い立って、僕は丹色さんに目線を向ける。
「……え?」
思わず声が出た。見間違い……いや、視方違い……ってわけでもなさそうだ。
なら、どうして――
「どしたの、正人君。私の顔になんかついてる?」
「いえ。素敵な髪型だなあと思って」
「あ、そーお? 今日は綺麗に巻けたなーと思ってたんだー、うふふ、ありがとー」
綺麗に巻けてたんだ。それは全然気付かなかったけど……気を逸らせたならいいか。
僕が背もたれに寄りかかると同時に、月澪先輩が人差し指でくるくると毛先を回しながら口を開いた。
「……話を戻すぞ。確かに考えられる方法の中では、陽華が言っているものがふさわしいのは事実だ。だが、それだと北條君の負担が大きすぎる」
「ん?」
ちょっと待った。負担が大きい? 一体、なんの話だ?
「まー、それは仕方がないですよ。両手の指に収まらないくらい地獄は見ると思いますけど、無罪を勝ち取るためにはやむなしです」
「んん?」
「それしかないのか」
「ですねー」
ずごっと、シェイクがなくなった間の抜けた音がした。そんなBGMにそぐわない険しい表情で、先輩は僕の両肩を優しく掴んだ。
「北條君……」
「はい」
「本当にすまない。だが、他に選択肢がないんだ」
「はあ」
「君にこんなことをさせるのは極めて、極めて不本意なのだが……」
「なるほど」
「……頑張ってくれ」
「あの、とりあえず具体的な実験内容を教えてもらってもいいですか?」
「――どしたの正人君?」
「いえ、ちょっと思い出し笑いです」
先輩はほんとに自由だよなあ。もう二年も前の話だけど、今でも先輩の表情や仕草、会話の細部までよく覚えてる。
「へえ、いつのこと?」
「昨日のことです」
「浩太君と何か面白い話したの?」
「そんなところですね」
「つれないなー」
部屋の中に響く丹色さんの声に適当に返答しつつ、僕は頭につけたブレイン・スキャナーを外した。
「あ、外さないでってばー」
「これ蒸れるんですよ。頭かくだけですから……ほら、つけましたよ」
「んー、よしよし。まあ、お風呂のときも外してるし、多少はしょうがないけどねー。その機械と君は一蓮托生だと思ってもらわなきゃ」
「いやだなあ……」
ブレイン・スキャナー。別名、高精度脳波測定器。
網でできたヘルメットみたいな見た目をしていて、僕の頭部から顎にかけてを大きく覆っている。これを被ることで僕の脳波と活性部位が詳細に記録され、別部屋にいる丹色さんのパソコンにリアルタイムで送られる。
去年の裁判で僕の共感覚とサイコパス化の関係を証明できたのも、この装置のお陰だった。
月澪先輩と丹色さんが考えた実験は次のようなものだった。
まず、ブレイン・スキャナーを装着したまま、僕が共感覚を過剰に発現する。
やがて僕は意識が朦朧としてくるけれど、そのまま気にせず脳波のデータを取り続ける。
共感覚を発現する前と後で、脳波や脳の活性部位にどのような変化があるかを記録し、そのデータを、他のサイコパスの人間のデータと照合する。
共感覚を発現した後の僕の脳波が、サイコパスの人間の脳波に有意に近づいているのであれば、僕の共感覚はサイコパス化に関係があると判断できる。これが一つ目の実験。
二つ目は、さらにその状態でVRゴーグルを被る。VRゴーグルは間々越市連続殺人事件の三つの事件現場を再現していて、目の前には被害者が、僕は両手に凶器を持っているようzに見える設定になっている。この状態で、僕が被害者になんらかの危害を加えるかどうかを試す。
つまり、僕が悩まされていた悪夢のもとになった光景を再現するということだ。
そしてこれを、睡眠導入剤を使用した状態も含めて、何度も何度も繰り返す。
「んー。統計的な有意性を得たいから、とりあえず五十回は試そうか」
と悪魔みたいに言った丹色さんの曇りのない笑顔を、僕は忘れない。結局、色々調整、修正を加える必要があり、百回近く実験は繰り返されたと思う。
月澪先輩が心配していた通り、とても辛い実験ではあったけれど、お陰で非常に有力なデータを入手することができたらしい。
まず、木之瀬元准教授が推測していた通り、僕の脳波は共感覚を使うとサイコパスのそれに近くなる。特に扁桃体、眼窩前頭皮質の活動が共感覚の使用前と比較して著しく下がることが示されたそうだ。
一方で、僕はVR上で一度たりとも被害者たちを傷つけることはなかった。
丹色さんの話だと、VR実験だけでなく、「人の命を奪う」ことを連想させる単語や文章、映像を見せた際に、脳に異常なストレスがかかっていることが分かったという。このあたりの実験は、僕は意識が朦朧としていて、正直よく覚えていない。
「以上のデータは、北條正人氏の共感覚は、過剰発現することでサイコパス化を招き、心神耗弱状態に陥ることを示している。一方で、その状態でも人を殺すことはないということも、明確に示している。統計的な信頼性も高く、非常に精度の高い実証データである」
最終的に丹色さんと研究所長のサインが入った報告書はこのように締めくくられていた。あの地獄みたいな実験が無駄にはならなかったと、僕はそっと胸をなでおろしたものだ。
この報告書がダメ押しとなったのか、木之瀬元准教授は無期懲役となり、僕にはなんの罪も科せられなかった。青山さんと月澪先輩の目論見通り、木之瀬元准教授は控訴せず、大人しく第一審の判決に従い、今は刑務所の中にいる。
一年と数か月が過ぎて、あの悪夢のような事件はようやく終止符が打たれた。
黒幕は暴かれ、正しく裁かれた。
肉親を失った遺族の方々の心の傷は、もちろん癒えていないはずだし、一度だけ法廷で向けられた僕への視線は、決して温かいものではなかった。
それでも……一つの終着点にたどり着いた。
月澪先輩は大学院に進学し、僕は約一年の休学を経て、大学生活へと戻ることができる――はずだった。
僕に自由は訪れなかった。
「北條正人の共感覚とサイコパス性の間には強い相関関係があり、事件当時心神耗弱状態であったことは間違いない。しかしながら――」
裁判の判決が下ってから二週間後、突如僕の家を訪ねてきた丹色さんは、手に持った資料を僕の前で読み上げ――
「共感覚の発現は彼の一存に任されており、今後いつ何時猟奇的な考えを抱くサイコパスに身を落とすか分からない不安定な状態である。従って無害であることが確定するまで、あるいは無害になる方法が確立されるまでは、彼の身柄を一般市民から隔離し、より詳細なデータ収集を行う必要がある」
そして笑った。あの地獄のような実験を僕に課したときと同じように。
「以上の提言が裁判所より認可されたので、今日からあなたを国立脳科学研究所に隔離することになりましたー。今日からよろしくね、ま、さ、と、君っ」
要するに、僕が無罪になるために証明した事柄は、同時に「僕がいつ何時でも猟奇的な人間に変わってしまう」ことの証明でもあったということだ。
そんな危険なやつを野放しにしておくわけにはいかない、隔離するべきだ。
実に合理的で、正しい判断だと思った。
だから僕は特に反対することも抵抗することもなく、手早く準備を済ませて、彼女に従った。
そうして連れてこられたのが……この白い部屋というわけだ。
「今って何月なんだろう……」
誰に言うでもなく、呟く。
こんな部屋に閉じ込められていると、時間の感覚が曖昧になるので、正確な日付が分からなくなる。多分、あれからもう半年以上が過ぎたんじゃないかと思う。
隔離されてこの方、僕が会話を交わしたのは、丹色さんや職員の人たちを除けば二人しかいない。一人は昨日の浩太で、もう一人は最初の頃に面会した月澪先輩だ。二人とも、もうここに来ることはないだろうから、外部からの助けは望めない。
丹色さんの言葉に大人しく従って、こうして研究所に閉じ込められてはいるけれど、僕だってこんな場所で暮らすのはまっぴらごめんだ。
ブレイン・スキャナーはすぐに頭がかゆくなって鬱陶しいし、外の空気だって恋しい。なんとか脱出の糸口をつかみたいところだけど……苦戦しそうだ。
「ハーイ、正人君。楽しい楽しい、ご飯の時間だよー」
「今日は丹色さんが持ってきてくれる日なんですね」
「そうだよー。嬉しい? ね、嬉しーい?」
「いえ別に。しいて言うなら、あまり煮魚は好きじゃないので嬉しくないですね」
「うえーん、正人君が冷たいよー。私泣いちゃいそう」
嘘つけ。
彼女が来たときから感情の靄を追っているけど、一向に変化がない。言葉の表面はきらきらぱちぱちと鮮やかに躍っているのに、その裏側は凪いでいて、水面にさざ波一つすら立っていなくて……ただ静かに僕を観察している。丹色さんの言葉は、信用できない。
それにしても――
「あー、今私の感情視てたでしょ。後で脳波チェックしなくちゃ」
「どうぞご自由に」
――相変わらず、視えないなあ。
受け取り口から今日の昼ご飯が載ったトレイを受け取りながら、ちらりと丹色さんに目を向ける。
感情の靄は視える。共感覚に異常はない。
だったらどうして――僕は、彼女の本質だけ視ることができないのだろうか。
二年前、カフェで初めて会ったときからずっと、なぜか彼女の本質だけが視えない。
その理由を掴むことができれば、ここから脱出するきっかけになると思って、僕はここに軟禁されてから、そればかりを考えている。
口に入れた煮魚は、やっぱりもったりとした可愛げのない味だった。
まだまだ先は長そうだと、僕は大きくため息をついた。
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