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2巻
2-1
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第一部:不自由
プロローグ:北條正人
『このグレイビーソースにはもう少し紫色の味が必要だね。ジョンが何気なく口にした一言に、私は首を傾げた。彼が共感覚と呼ばれる不思議な知覚現象の持ち主だと知ったのは、もう少し後になってからのことだった』
ぱたんと本を閉じて、伸びをする。
本はあまり読まない方だったけど、最近ぐんと読書量が増えた。「琥珀色の頭脳」「嘘をつく人たちとの戦い方」「恋する脳」「心理分析学入門」などなど。学術書の割合が多いのは、誰かさんの影響かもしれない。
読了した本の山に、赤茶色の背表紙の本を加える。
「虹を食べる男」。共感覚に関する本は色々読んだけど、やっぱりこれが一番分かりやすかったかな。
ある刺激に対して、通常の感覚に加えて、異なる種類の感覚が生じる知覚現象、共感覚。
「虹を食べる男」は、共感覚にまつわるたくさんの話が、心理学者である主人公の目線で語られたノンフィクションだった。味に色を感じる人。音に味を感じる人。アルファベットに味を感じたり、形に痛みを覚える人。実に多種多様な例が取り上げられていた。
だけど僕――北條正人のように、人の「本質」が可視化する人間はどこを探しても見つからなかった。ついでに言えば、僕は相手の「感情」も色のついた靄として視えるけれど、こちらも似た症例はなかった。
ただ最近は、名乗り出ずに隠れているだけで、本当は似たような共感覚を持つ人もいるんじゃないかと、思ったりもする。
『今日のびっくり人間ショーの出演者は、北條正人さんです! なんと彼は、人の本質や感情を見抜けてしまえるんだとか! 北條さん、僕にも何か視えてますか?』
『ええ、グラビアアイドルの写真がついた日めくりカレンダーにナイフが刺さってますね』
『ちょ、ちょっとー。それじゃあ僕が変態みたいじゃないですかー』
『あ、今焦りましたね。感情の靄の色がすごく濁ってますよ。何か思い当たる節があるんじゃないですか? 例えばそう……最近巷で話題の、グラビアアイドル連続殺人事件について、何か知ってるとか』
「なーんちゃって」
だだっ広い部屋に僕の独り言がぽつんと落ちて、溶けるように消えた。
頭の中で思い描いた妄想は、ただただ馬鹿らしかったけど、実際それに近いことになるんじゃないかと思う。人の本質が視える。相手の感情が色で視える。そんなことが知れ渡れば、テレビや雑誌に引っ張りだこになってしまって、平穏な毎日は送れないだろう。
だからみんな、誰にも言わず、隠して隠れて、ひっそりと生活しているんじゃないだろうか。
いや、メディア関係ならまだましか。世の中は熱しやすく冷めやすいから、ひとときだけ騒がしくなって、ブームが過ぎればすぐみんなの記憶からも消えていくだろうし。
もっと厄介なのは、きっと――
「北條正人さん、時間です。実験を再開しますので、所定の位置についてください」
――研究者という人種に見つかったときだ。
人生というのは、バックスペースキーがない状態で書く小説みたいなものじゃないかと思う。
あのときああすればよかったとか、もしあのときこっちの選択をしていればとか、そういう後悔をしているときには、すでに別の物語が展開していて取り返しがつかない。
そんなたくさんの選択や後悔が、インクの染みのように広がって、ページのように積み重なり、それを「経験」なんて言葉に置き換えたりしながら、一人の人間が形作られていくのだろう。
僕の共感覚は、その一端を覗き視る。
経験によって構築された、一冊の本のような人間の、その在り方を垣間見る。
便利じゃなくて、万能でもない、なんなら、視えたからなんだって思う人もいるかもしれない。だけど僕は……共感覚で視えた光景は、決して無駄にはならないと思うんだ。
だからどうか、一緒に考えてみてほしい。
僕が出会った人たちに視えた、本質の光景が意味するところを。
きっとそれが、終着点にたどり着くための重要なカギになると思うから。
1:北條正人
凍らせた豆腐の中にいるみたいだなと、僕はここで目が覚める度に思う。
上下左右どこへ目を走らせても白い壁に囲われた、だだっ広い立方体の部屋。染み一つない真っ白な壁はつるりとしていて、ちっとも話を聞いてくれない不愛想な医者のようだ。
部屋の中には、ベッドや勉強机、本棚といったありふれたものから、ランニングマシーンやバランスボール、サンドバッグなど、スポーツジムでしかお目にかかったことのないものまで置いてある。
部屋の隅にある区切られた一角には、手洗い場と風呂が併設されている。この部屋と同様に監視カメラがばっちり付けられているから、プライバシーなんてまるっきりないようなものだけど。
「話には聞いてたけど、すげーとこだな。外の風景とか全然分かんないじゃん。息苦しさで死にそう」
透明なアクリル板の向こうで、大学の同級生の有園浩太が言った。
今朝差し入れられたミネラルウォーターを二本、冷蔵庫から取り出して、僕もアクリル板の前へ向かう。
「いや、ベッドの位置からだけちょっと見えるんだよ。飛行機雲が二、三本入るくらいのほっそい青空が。いる? こんなんしかないけど」
「そんなん四捨五入したら見えてないようなもんだろ。お、サンキュ。へー、ここ開くんだ」
「どこをどう四捨五入するんだよ」
軽口を叩き合いながら、アクリル板の一部を開けて、向こう側にいる浩太にミネラルウォーターを手渡した。ここは受け取り口。僕が毎日、飲食物を受け取っている場所だ。アクリル板は、面会に来た人と喋れるようにもなっていて、花火みたいに小さな穴が開いている。
「これ、結構分厚いんだな。水族館みたい」
そう言いながら、浩太はこんこんとアクリル板を叩いた。ちらりと僕の頭に視線を向けたけど、僕が被せられているものについては何も言わなかった。別にいいのに。
透明なアクリル板は、この白い部屋の容積を二対一くらいに分けるように垂直に横断している。広い方は僕が寝起きする場所。狭い方には、さっき浩太が入ってきた、外と出入りできる扉がある。
「魚の気持ちがよく分かるよ、来る?」
「んー……遠慮しとく」
アクリル板の端を指さして言うと、浩太は苦笑いしながらそう答えた。
一応アクリル板にも行き来するための扉は付いているけど、構造上、向こう側からしか開けられないようになっている。僕はこの部屋から自力で出ることができない。
「冗談だよ。あの扉、鍵かかってるから職員さんしか開けられないし」
「あー、さっき会った! 一人、超可愛い人いない? ちょっとSっ気がある感じがポイント高かったんだよなー。小悪魔系っていうかさー」
「ああ、あの人か……。小悪魔系っていうか、悪魔系って感じだと思うよ」
「月澪先輩とはまた違ったよさがあるよなー! くぅ~! あーゆー人の手のひらの上でころころされてー! 弄ばれてるって分かりつつ弄ばれてー!」
「あはは。相も変わらず気持ち悪くて安心した」
まあ、二年程度じゃ人はそんなに変わらないか。妄想を膨らませている浩太をアクリル板越しに眺めながら、僕はゆっくりとミネラルウォーターを口に含んだ。
人は変わらない。
人の本質は変わらない。
それは、特殊な共感覚を持つ僕こそが、他の人よりもずっと強く感じていることだと思う。
だけど……人と人との関係は、時に容易に移ろいゆく。
あの事件以来、僕の周りから、たくさんの人間がいなくなったように。
僕と月澪先輩の間に、今、一切の関わりがないように。
だからこうして二年前と同じように、なんの中身もないバカ話ができる相手というのは、僕にとって、とてもありが――
「そう考えると、ここでの生活も悪くないよな。あんな可愛い人に常時監視されてるとか、考えるだけで興奮するし。いや、むしろ逆に見せつけていきたい」
「浩太、ちょっとそこの穴から顔出して。殴って蹴るから」
「殴られた上に蹴られるの!?」
前言撤回。ちっともありがたくなんてない。
こいつ、二年前から輪をかけて変態になってるな……
「まったく……。そんなことを言いにここまで来たわけ? 暇なの?」
「暇じゃねーって。三年生ってやべーんだぜ。研究室配属とか、インターンとかさあ」
そうか、もう三年生か。
僕がごたごたに巻き込まれ、あるいは巻き込み、大学を休学しながら混沌とした生活を送っている間に、浩太は着々と単位を取って進級していた。
「あんな受講態度でよく進級できたね。てっきり留年してるとばっかり」
「マサトがいないと怠けられないからさー」
どういう理屈だよそれは……
「そういえば、人総ってどうなったの? 一時期問題になってたって聞いたけど」
人間総合ユニーク学部は、人間の持つユニークな可能性に着目し、従来とは異なる試験方式で学生を集めていた。僕や浩太の在籍している学部であり、明乃さん……いや、漣さん、木之瀬元准教授、そして月澪先輩が所属していた学部でもある。
漣さんは明乃さんに成り代わり、彼女の遺体を半年近く隠していた。
木之瀬元准教授は自分の研究のため、複数の人間を殺した。
そして、僕は――
「同じ学部から短期間で何人も犯罪者が出て、嫌な注目の浴び方したって聞いたけど」
一年以内に複数人の犯罪者が出た学部が独特の試験方式を採っていたとなれば、非難の声が上がるのは自明の理だろう。
僕はあの学部自体が解体されるのではないかと思っていたのだけど……
「ああ、それな。一時期マスコミの取材とかすごかったけど、結局、大丈夫だったよ」
マスコミを黙らせることができた理由は、大きく分けて二つあったらしい。
一つは、これまでの実績数が他の学部と比較して断トツで多かったこと。実績数というのは、論文数とか、海外での研究発表数とか、研究費の獲得数とか、そういう具体的なものらしい。月澪先輩の実績も、当然その中に含まれているのだろう。
そしてもう一つは、入学希望者の数。
「噂だと、うちの大学で一番人気の工学部より、倍率が高かったらしいぜ」
「へえ。僕らのときはそんなことなかったのにね」
でなければ、補欠合格とはいえ、僕が合格するはずもない。
「色々目立ったからじゃねえかなあ。だからか分かんないけど、ここ二年間の入学生のキャラが濃いのなんのって……。俺らの比じゃないぜ、ほんと」
「なんか戻りたくなくなってきた」
もっとも、いつ戻れるのかも、そもそも戻れるのかどうかさえも、定かではないけれど。
「おいおい悲しいこと言うなよー。俺一人じゃ、あんな猛獣だらけの構内を生き抜けないんだよ」
「浩太なら大丈夫だって。お前も珍獣みたいなもんだし」
「いーや無理だね。百歩譲って珍獣だったとしても、カテゴリーは草食動物だし」
だからさ、と浩太はからっと、南国の太陽みたいに笑って続けた。
「早く戻ってこいよ、マサト。待ってるから」
「……」
有園浩太という人間は、コミュニケーションの化け物だ。
初めて出会った相手でもすぐさま仲良くなることができるし、多分一か月後には親友みたいになっていると思う。もし言葉が通じない国に一人取り残されても、こいつは周りにいる全ての人間を味方につけて、スキップしながら帰ってくるだろう。
そんなこいつが、僕にここまで肩入れする理由は、いまだによく分からない。何か裏があるのかもしれないし、何も考えていないのかもしれない。正直、どちらでも構わない。
「じゃあ留年して待っててよ。あと一、二年ほど」
「いやだね。ストレートで卒業するから一年以内に復学しろよな」
「無茶言うなよ」
「お互い様だと思うぞ」
だから僕はそんな風に茶化して、茶化されて、大事な部分はぼかしつつ、生ぬるい時間を過ごした。今はそれが心地よかったから。
きっちり三十分が経過すると、無機質なブザーが鳴って、退出するようアナウンスされた。「また来るからな」と言う浩太に、「もう来なくていいよ」と僕は返した。
「そう言われると意地でも来たくなるな……」とぶつぶつ呟きながら去っていった浩太と入れ替わるように、一人の女性職員が入室した。
茶色がかったセミボブの髪の毛はふわふわと巻かれていて、しゅっと尖った顎の横で楽しそうに揺れている。好奇心を詰め込んだ黒曜石みたいな瞳が、僕の姿を捉えてきらりと光った。
「なーんか面白い子だったねー。正人君と友達なのが不思議なくらい」
「僕もそう思いますよ。なんで好かれてるのか、いまだに分かりません」
「弱みでも握ってるの?」
「そこまでして友達が欲しいとは思いませんね」
「あはは。正人君ったら、相変わらずドライー」
よっ、という掛け声とともに、彼女はさっきまで浩太が腰かけていた椅子に座った。
形のよい目を細め、薄い唇を人差し指でなぞりながら彼女は言う。
「ま、ただの『いい子』だったら、正人君とは友達になれてないか」
「かもしれませんね」
根っからの善人。
極度のお人好し。
他人のために、自分の何かを犠牲にすることを厭わない人間。
そういう人と、僕は相いれない。それどころか、視界に入れることすら難しい。
だから、まあ……あいつの本質は「そう」ではないのだろう。
一体何を考えて僕に肩入れしてくれているのか。どんな信念を持っているのか。
深く追及するほど興味はないので、僕はいつも考えるのをやめているけれど。
「戻ってきたんですね」
そんなことよりも、目下の悩みの種はこっちの方だ。
タイトスカートからすらりと伸びる太腿から目を引きはがしつつ、彼女の目を注視する。前から思ってたけど、その短さで足を組むのはぜひやめていただきたい。
「イエス、アイムバーック。異国の地からはるばる君に会いに帰ってきたよー。寂しかった?正人君」
「いえ、全然。むしろ超平和でした。もっと出張してくれててもよかったんですよ」
「もー、やめてよねー。そういう反抗的な態度……」
ぞくぞくしちゃうじゃん。
囁くようにそう言って、彼女は静かに笑った。
浩太は小悪魔系と言っていたけど、やっぱり僕にはただの悪魔にしか思えない。攻撃的な美人顔、というのがしっくりくる表現だろうか。
美人にもいろんな種類があるんだなと、月澪先輩の顔を脳裏に浮かべながら思った。
「ま、今日からまたよろしくね。ま、さ、と、君」
僕の名前を呼んだその声は、しなやかな白い蛇を彷彿させた。
音もなく忍び寄り、耳の中へぬるりと入ったそれに、鼓膜の表面を赤い舌でちろちろと舐められているかのように錯覚する。
彼女の名前は、丹色陽華。
好奇心や嗜虐心、支配欲や庇護欲が体の中で仲良く同居しているような。
相反し、矛盾した欲求をけろりと呑み込み、ご馳走さまでしたと呟いた後、艶やかな舌で唇を舐めて濡らすような、そんな女性。
端的に、簡潔に、一言で、僕と丹色さんの関係を表すならば。
僕は彼女に――軟禁されている。
2:北條正人
間々越市連続殺人事件
事件概要
二〇XX年の七月から八月にかけて起こった連続殺人事件。
赤瀬町と明日月町で女性二人、男性一人の計三人が遺体で発見された。三人中二人の体の一部が切り取られ、現場から持ち去られていたことから、当時は連続人肉嗜食事件という名称で呼ばれることもあったが、正式名称は間々越市連続殺人事件である。
同年八月三十日、別の容疑で逮捕されていた帝桜大学所属の木之瀬准教授を、同研究室の学生の供述により、連続殺人事件の容疑者として再逮捕。その後、三人に対する殺人罪と、帝桜大所属の学生への殺人未遂教唆の罪で起訴された(後述)。
本事件は、木之瀬被告のマインドコントロールによって殺人に関与した学生の責任能力や、教唆の因果関係の証明が必要であり、また否認事件であったことから、当初裁判は長期化すると見込まれていた。
しかし、翌年六月より始まった刑事裁判は、わずか二回で結審し、木之瀬被告には無期懲役が言い渡された。また教唆によって殺人に関与していた学生は――
「控訴されず、第一審で片を付けたいところですね」
木之瀬元准教授が起訴されてから数日後、僕は月澪先輩と青山さんとカフェで打ち合わせをしていた。ブラックコーヒーを一口飲んで、月澪先輩が続ける。
「木之瀬は殺人に関しては容疑を否認しているそうですね、青山さん」
「はい、おそらく『北條さんへの殺人教唆』は一部を認め、三人への『殺人罪』は北條さんへなすりつけるつもりなのでしょう。木之瀬の目的はやはり、研究者としての復帰でしょうか?」
青山さんは、この事件を担当してくれている検察官だ。日本人形を思わせるぱっつん前髪と遊びのないまっすぐな黒髪が、彼女の真面目さを体現しているようだった。
「十中八九そうでしょうね。共感覚の実験による殺人の教唆については、不本意な結果だったと主張することで、悪くても幇助、うまくいけば無罪を狙っているんだと思います。幇助でも、研究業界に戻ってこられる可能性は十分にありますから。業腹ですが、あの人の支持者は多いので」
こきっと首を鳴らして月澪先輩が静かに言った。それだけの動作で、あふれんばかりの怒りを感じた。
「なるほど。しかし逆に言えば、殺人罪が通れば木之瀬は戦う気力をなくすでしょう。反論の余地のない、完璧な証拠が必要です」
僕は手元に置かれた資料に目を落とした。
現状、僕たちが木之瀬元准教授を追いつめるための証拠は三つある。
一つ、僕に投与された睡眠導入剤の成分分析結果。
二つ、月澪先輩が研究室で撮影した、自身が殺されそうになったときの木之瀬元准教授とのやり取りに関する録画データ。
三つ、木之瀬元准教授が残した、暗号文。
暗号文は月澪先輩によって全て解読され、以下のような文章から始まることが分かっている。
【恋愛感情は人の持ち合わせた感情の中で最も非合理的であるという見解については、既に先行研究で述べた通りである(木之瀬 20XX等)。
人は恋をした時、脳内からフェニルエチルアミン(PEA)と呼ばれる神経伝達物質を大量に分泌する。この神経伝達物質の影響で、時に人は合理的な判断よりも、恋心に由来する非合理的な判断を優先する行動を取る。
(中略)
仮に恋愛感情を抱くことがなく、常に合理的な判断をすることができる人間がいたとすれば、そういった人種が社会を、国を統治することが、結果的に文明の発達には寄与するのではないだろうか。そこで我々はある精神疾患を有する人間に着目した。いわゆる、サイコパスである。】
これに加え、僕の共感覚とサイコパスの関係性についての考察や、僕が殺人を行うかどうかなどの観察記録が綴られていた。
つまり、木之瀬元准教授が、僕を使ってサイコパスの研究をしていたことを裏付ける証拠は揃っている。
「木之瀬が実際に殺人を犯したかどうかについては、月澪さんが提出してくださった録画データが肝になってくるかと思います。ただ――」
青山さんの表情は悔しそうに歪む。
「――自白には至っていません」
僕もデータを見させてもらったが、確かに木之瀬元准教授はずっと、容疑を否認するような言葉ばかりを重ねていた。
月澪先輩が、僕に飲ませた睡眠導入剤について言及した後、膝を折って何か呟いてはいるが、声が小さすぎて判声は不可能だった。
「ちっ……あの場でもう少し締め上げるべきだったか」
「月澪さんに非はありません。どうかお気になさらず。月澪さんが仰っているように、北條さんの体内から検出された睡眠導入剤の成分と、それを飲ませている録画データである程度までは追いつめることは可能でしょう。ただ……こんな風に言い逃れされる可能性も否定できません。資料の五ページ目をご覧ください」
青山さんに従い、僕と先輩は手元の資料をめくった。
そこには、『木之瀬側の反論予想一覧』とあった。
一、録画された映像の中で「自分が三人を殺した」と主張してはいない。
二、頭に血が上っている月澪さんを黙らせるために、その場では殺人を犯したということにした、と言う可能性がある。
三、最後に襲いかかったのは、でたらめを言われてついカッとなったから、とも言える。
四、コーヒーに混ぜた睡眠導入剤は自分がいつも飲んでいるものであり、混乱している北條さんを落ち着かせるために飲ませた、と言い逃れが可能。
五、暗号文はデータとしては「バグ」というタイトルで保存してあり、こちらも言い逃れされる可能性はある。
プロローグ:北條正人
『このグレイビーソースにはもう少し紫色の味が必要だね。ジョンが何気なく口にした一言に、私は首を傾げた。彼が共感覚と呼ばれる不思議な知覚現象の持ち主だと知ったのは、もう少し後になってからのことだった』
ぱたんと本を閉じて、伸びをする。
本はあまり読まない方だったけど、最近ぐんと読書量が増えた。「琥珀色の頭脳」「嘘をつく人たちとの戦い方」「恋する脳」「心理分析学入門」などなど。学術書の割合が多いのは、誰かさんの影響かもしれない。
読了した本の山に、赤茶色の背表紙の本を加える。
「虹を食べる男」。共感覚に関する本は色々読んだけど、やっぱりこれが一番分かりやすかったかな。
ある刺激に対して、通常の感覚に加えて、異なる種類の感覚が生じる知覚現象、共感覚。
「虹を食べる男」は、共感覚にまつわるたくさんの話が、心理学者である主人公の目線で語られたノンフィクションだった。味に色を感じる人。音に味を感じる人。アルファベットに味を感じたり、形に痛みを覚える人。実に多種多様な例が取り上げられていた。
だけど僕――北條正人のように、人の「本質」が可視化する人間はどこを探しても見つからなかった。ついでに言えば、僕は相手の「感情」も色のついた靄として視えるけれど、こちらも似た症例はなかった。
ただ最近は、名乗り出ずに隠れているだけで、本当は似たような共感覚を持つ人もいるんじゃないかと、思ったりもする。
『今日のびっくり人間ショーの出演者は、北條正人さんです! なんと彼は、人の本質や感情を見抜けてしまえるんだとか! 北條さん、僕にも何か視えてますか?』
『ええ、グラビアアイドルの写真がついた日めくりカレンダーにナイフが刺さってますね』
『ちょ、ちょっとー。それじゃあ僕が変態みたいじゃないですかー』
『あ、今焦りましたね。感情の靄の色がすごく濁ってますよ。何か思い当たる節があるんじゃないですか? 例えばそう……最近巷で話題の、グラビアアイドル連続殺人事件について、何か知ってるとか』
「なーんちゃって」
だだっ広い部屋に僕の独り言がぽつんと落ちて、溶けるように消えた。
頭の中で思い描いた妄想は、ただただ馬鹿らしかったけど、実際それに近いことになるんじゃないかと思う。人の本質が視える。相手の感情が色で視える。そんなことが知れ渡れば、テレビや雑誌に引っ張りだこになってしまって、平穏な毎日は送れないだろう。
だからみんな、誰にも言わず、隠して隠れて、ひっそりと生活しているんじゃないだろうか。
いや、メディア関係ならまだましか。世の中は熱しやすく冷めやすいから、ひとときだけ騒がしくなって、ブームが過ぎればすぐみんなの記憶からも消えていくだろうし。
もっと厄介なのは、きっと――
「北條正人さん、時間です。実験を再開しますので、所定の位置についてください」
――研究者という人種に見つかったときだ。
人生というのは、バックスペースキーがない状態で書く小説みたいなものじゃないかと思う。
あのときああすればよかったとか、もしあのときこっちの選択をしていればとか、そういう後悔をしているときには、すでに別の物語が展開していて取り返しがつかない。
そんなたくさんの選択や後悔が、インクの染みのように広がって、ページのように積み重なり、それを「経験」なんて言葉に置き換えたりしながら、一人の人間が形作られていくのだろう。
僕の共感覚は、その一端を覗き視る。
経験によって構築された、一冊の本のような人間の、その在り方を垣間見る。
便利じゃなくて、万能でもない、なんなら、視えたからなんだって思う人もいるかもしれない。だけど僕は……共感覚で視えた光景は、決して無駄にはならないと思うんだ。
だからどうか、一緒に考えてみてほしい。
僕が出会った人たちに視えた、本質の光景が意味するところを。
きっとそれが、終着点にたどり着くための重要なカギになると思うから。
1:北條正人
凍らせた豆腐の中にいるみたいだなと、僕はここで目が覚める度に思う。
上下左右どこへ目を走らせても白い壁に囲われた、だだっ広い立方体の部屋。染み一つない真っ白な壁はつるりとしていて、ちっとも話を聞いてくれない不愛想な医者のようだ。
部屋の中には、ベッドや勉強机、本棚といったありふれたものから、ランニングマシーンやバランスボール、サンドバッグなど、スポーツジムでしかお目にかかったことのないものまで置いてある。
部屋の隅にある区切られた一角には、手洗い場と風呂が併設されている。この部屋と同様に監視カメラがばっちり付けられているから、プライバシーなんてまるっきりないようなものだけど。
「話には聞いてたけど、すげーとこだな。外の風景とか全然分かんないじゃん。息苦しさで死にそう」
透明なアクリル板の向こうで、大学の同級生の有園浩太が言った。
今朝差し入れられたミネラルウォーターを二本、冷蔵庫から取り出して、僕もアクリル板の前へ向かう。
「いや、ベッドの位置からだけちょっと見えるんだよ。飛行機雲が二、三本入るくらいのほっそい青空が。いる? こんなんしかないけど」
「そんなん四捨五入したら見えてないようなもんだろ。お、サンキュ。へー、ここ開くんだ」
「どこをどう四捨五入するんだよ」
軽口を叩き合いながら、アクリル板の一部を開けて、向こう側にいる浩太にミネラルウォーターを手渡した。ここは受け取り口。僕が毎日、飲食物を受け取っている場所だ。アクリル板は、面会に来た人と喋れるようにもなっていて、花火みたいに小さな穴が開いている。
「これ、結構分厚いんだな。水族館みたい」
そう言いながら、浩太はこんこんとアクリル板を叩いた。ちらりと僕の頭に視線を向けたけど、僕が被せられているものについては何も言わなかった。別にいいのに。
透明なアクリル板は、この白い部屋の容積を二対一くらいに分けるように垂直に横断している。広い方は僕が寝起きする場所。狭い方には、さっき浩太が入ってきた、外と出入りできる扉がある。
「魚の気持ちがよく分かるよ、来る?」
「んー……遠慮しとく」
アクリル板の端を指さして言うと、浩太は苦笑いしながらそう答えた。
一応アクリル板にも行き来するための扉は付いているけど、構造上、向こう側からしか開けられないようになっている。僕はこの部屋から自力で出ることができない。
「冗談だよ。あの扉、鍵かかってるから職員さんしか開けられないし」
「あー、さっき会った! 一人、超可愛い人いない? ちょっとSっ気がある感じがポイント高かったんだよなー。小悪魔系っていうかさー」
「ああ、あの人か……。小悪魔系っていうか、悪魔系って感じだと思うよ」
「月澪先輩とはまた違ったよさがあるよなー! くぅ~! あーゆー人の手のひらの上でころころされてー! 弄ばれてるって分かりつつ弄ばれてー!」
「あはは。相も変わらず気持ち悪くて安心した」
まあ、二年程度じゃ人はそんなに変わらないか。妄想を膨らませている浩太をアクリル板越しに眺めながら、僕はゆっくりとミネラルウォーターを口に含んだ。
人は変わらない。
人の本質は変わらない。
それは、特殊な共感覚を持つ僕こそが、他の人よりもずっと強く感じていることだと思う。
だけど……人と人との関係は、時に容易に移ろいゆく。
あの事件以来、僕の周りから、たくさんの人間がいなくなったように。
僕と月澪先輩の間に、今、一切の関わりがないように。
だからこうして二年前と同じように、なんの中身もないバカ話ができる相手というのは、僕にとって、とてもありが――
「そう考えると、ここでの生活も悪くないよな。あんな可愛い人に常時監視されてるとか、考えるだけで興奮するし。いや、むしろ逆に見せつけていきたい」
「浩太、ちょっとそこの穴から顔出して。殴って蹴るから」
「殴られた上に蹴られるの!?」
前言撤回。ちっともありがたくなんてない。
こいつ、二年前から輪をかけて変態になってるな……
「まったく……。そんなことを言いにここまで来たわけ? 暇なの?」
「暇じゃねーって。三年生ってやべーんだぜ。研究室配属とか、インターンとかさあ」
そうか、もう三年生か。
僕がごたごたに巻き込まれ、あるいは巻き込み、大学を休学しながら混沌とした生活を送っている間に、浩太は着々と単位を取って進級していた。
「あんな受講態度でよく進級できたね。てっきり留年してるとばっかり」
「マサトがいないと怠けられないからさー」
どういう理屈だよそれは……
「そういえば、人総ってどうなったの? 一時期問題になってたって聞いたけど」
人間総合ユニーク学部は、人間の持つユニークな可能性に着目し、従来とは異なる試験方式で学生を集めていた。僕や浩太の在籍している学部であり、明乃さん……いや、漣さん、木之瀬元准教授、そして月澪先輩が所属していた学部でもある。
漣さんは明乃さんに成り代わり、彼女の遺体を半年近く隠していた。
木之瀬元准教授は自分の研究のため、複数の人間を殺した。
そして、僕は――
「同じ学部から短期間で何人も犯罪者が出て、嫌な注目の浴び方したって聞いたけど」
一年以内に複数人の犯罪者が出た学部が独特の試験方式を採っていたとなれば、非難の声が上がるのは自明の理だろう。
僕はあの学部自体が解体されるのではないかと思っていたのだけど……
「ああ、それな。一時期マスコミの取材とかすごかったけど、結局、大丈夫だったよ」
マスコミを黙らせることができた理由は、大きく分けて二つあったらしい。
一つは、これまでの実績数が他の学部と比較して断トツで多かったこと。実績数というのは、論文数とか、海外での研究発表数とか、研究費の獲得数とか、そういう具体的なものらしい。月澪先輩の実績も、当然その中に含まれているのだろう。
そしてもう一つは、入学希望者の数。
「噂だと、うちの大学で一番人気の工学部より、倍率が高かったらしいぜ」
「へえ。僕らのときはそんなことなかったのにね」
でなければ、補欠合格とはいえ、僕が合格するはずもない。
「色々目立ったからじゃねえかなあ。だからか分かんないけど、ここ二年間の入学生のキャラが濃いのなんのって……。俺らの比じゃないぜ、ほんと」
「なんか戻りたくなくなってきた」
もっとも、いつ戻れるのかも、そもそも戻れるのかどうかさえも、定かではないけれど。
「おいおい悲しいこと言うなよー。俺一人じゃ、あんな猛獣だらけの構内を生き抜けないんだよ」
「浩太なら大丈夫だって。お前も珍獣みたいなもんだし」
「いーや無理だね。百歩譲って珍獣だったとしても、カテゴリーは草食動物だし」
だからさ、と浩太はからっと、南国の太陽みたいに笑って続けた。
「早く戻ってこいよ、マサト。待ってるから」
「……」
有園浩太という人間は、コミュニケーションの化け物だ。
初めて出会った相手でもすぐさま仲良くなることができるし、多分一か月後には親友みたいになっていると思う。もし言葉が通じない国に一人取り残されても、こいつは周りにいる全ての人間を味方につけて、スキップしながら帰ってくるだろう。
そんなこいつが、僕にここまで肩入れする理由は、いまだによく分からない。何か裏があるのかもしれないし、何も考えていないのかもしれない。正直、どちらでも構わない。
「じゃあ留年して待っててよ。あと一、二年ほど」
「いやだね。ストレートで卒業するから一年以内に復学しろよな」
「無茶言うなよ」
「お互い様だと思うぞ」
だから僕はそんな風に茶化して、茶化されて、大事な部分はぼかしつつ、生ぬるい時間を過ごした。今はそれが心地よかったから。
きっちり三十分が経過すると、無機質なブザーが鳴って、退出するようアナウンスされた。「また来るからな」と言う浩太に、「もう来なくていいよ」と僕は返した。
「そう言われると意地でも来たくなるな……」とぶつぶつ呟きながら去っていった浩太と入れ替わるように、一人の女性職員が入室した。
茶色がかったセミボブの髪の毛はふわふわと巻かれていて、しゅっと尖った顎の横で楽しそうに揺れている。好奇心を詰め込んだ黒曜石みたいな瞳が、僕の姿を捉えてきらりと光った。
「なーんか面白い子だったねー。正人君と友達なのが不思議なくらい」
「僕もそう思いますよ。なんで好かれてるのか、いまだに分かりません」
「弱みでも握ってるの?」
「そこまでして友達が欲しいとは思いませんね」
「あはは。正人君ったら、相変わらずドライー」
よっ、という掛け声とともに、彼女はさっきまで浩太が腰かけていた椅子に座った。
形のよい目を細め、薄い唇を人差し指でなぞりながら彼女は言う。
「ま、ただの『いい子』だったら、正人君とは友達になれてないか」
「かもしれませんね」
根っからの善人。
極度のお人好し。
他人のために、自分の何かを犠牲にすることを厭わない人間。
そういう人と、僕は相いれない。それどころか、視界に入れることすら難しい。
だから、まあ……あいつの本質は「そう」ではないのだろう。
一体何を考えて僕に肩入れしてくれているのか。どんな信念を持っているのか。
深く追及するほど興味はないので、僕はいつも考えるのをやめているけれど。
「戻ってきたんですね」
そんなことよりも、目下の悩みの種はこっちの方だ。
タイトスカートからすらりと伸びる太腿から目を引きはがしつつ、彼女の目を注視する。前から思ってたけど、その短さで足を組むのはぜひやめていただきたい。
「イエス、アイムバーック。異国の地からはるばる君に会いに帰ってきたよー。寂しかった?正人君」
「いえ、全然。むしろ超平和でした。もっと出張してくれててもよかったんですよ」
「もー、やめてよねー。そういう反抗的な態度……」
ぞくぞくしちゃうじゃん。
囁くようにそう言って、彼女は静かに笑った。
浩太は小悪魔系と言っていたけど、やっぱり僕にはただの悪魔にしか思えない。攻撃的な美人顔、というのがしっくりくる表現だろうか。
美人にもいろんな種類があるんだなと、月澪先輩の顔を脳裏に浮かべながら思った。
「ま、今日からまたよろしくね。ま、さ、と、君」
僕の名前を呼んだその声は、しなやかな白い蛇を彷彿させた。
音もなく忍び寄り、耳の中へぬるりと入ったそれに、鼓膜の表面を赤い舌でちろちろと舐められているかのように錯覚する。
彼女の名前は、丹色陽華。
好奇心や嗜虐心、支配欲や庇護欲が体の中で仲良く同居しているような。
相反し、矛盾した欲求をけろりと呑み込み、ご馳走さまでしたと呟いた後、艶やかな舌で唇を舐めて濡らすような、そんな女性。
端的に、簡潔に、一言で、僕と丹色さんの関係を表すならば。
僕は彼女に――軟禁されている。
2:北條正人
間々越市連続殺人事件
事件概要
二〇XX年の七月から八月にかけて起こった連続殺人事件。
赤瀬町と明日月町で女性二人、男性一人の計三人が遺体で発見された。三人中二人の体の一部が切り取られ、現場から持ち去られていたことから、当時は連続人肉嗜食事件という名称で呼ばれることもあったが、正式名称は間々越市連続殺人事件である。
同年八月三十日、別の容疑で逮捕されていた帝桜大学所属の木之瀬准教授を、同研究室の学生の供述により、連続殺人事件の容疑者として再逮捕。その後、三人に対する殺人罪と、帝桜大所属の学生への殺人未遂教唆の罪で起訴された(後述)。
本事件は、木之瀬被告のマインドコントロールによって殺人に関与した学生の責任能力や、教唆の因果関係の証明が必要であり、また否認事件であったことから、当初裁判は長期化すると見込まれていた。
しかし、翌年六月より始まった刑事裁判は、わずか二回で結審し、木之瀬被告には無期懲役が言い渡された。また教唆によって殺人に関与していた学生は――
「控訴されず、第一審で片を付けたいところですね」
木之瀬元准教授が起訴されてから数日後、僕は月澪先輩と青山さんとカフェで打ち合わせをしていた。ブラックコーヒーを一口飲んで、月澪先輩が続ける。
「木之瀬は殺人に関しては容疑を否認しているそうですね、青山さん」
「はい、おそらく『北條さんへの殺人教唆』は一部を認め、三人への『殺人罪』は北條さんへなすりつけるつもりなのでしょう。木之瀬の目的はやはり、研究者としての復帰でしょうか?」
青山さんは、この事件を担当してくれている検察官だ。日本人形を思わせるぱっつん前髪と遊びのないまっすぐな黒髪が、彼女の真面目さを体現しているようだった。
「十中八九そうでしょうね。共感覚の実験による殺人の教唆については、不本意な結果だったと主張することで、悪くても幇助、うまくいけば無罪を狙っているんだと思います。幇助でも、研究業界に戻ってこられる可能性は十分にありますから。業腹ですが、あの人の支持者は多いので」
こきっと首を鳴らして月澪先輩が静かに言った。それだけの動作で、あふれんばかりの怒りを感じた。
「なるほど。しかし逆に言えば、殺人罪が通れば木之瀬は戦う気力をなくすでしょう。反論の余地のない、完璧な証拠が必要です」
僕は手元に置かれた資料に目を落とした。
現状、僕たちが木之瀬元准教授を追いつめるための証拠は三つある。
一つ、僕に投与された睡眠導入剤の成分分析結果。
二つ、月澪先輩が研究室で撮影した、自身が殺されそうになったときの木之瀬元准教授とのやり取りに関する録画データ。
三つ、木之瀬元准教授が残した、暗号文。
暗号文は月澪先輩によって全て解読され、以下のような文章から始まることが分かっている。
【恋愛感情は人の持ち合わせた感情の中で最も非合理的であるという見解については、既に先行研究で述べた通りである(木之瀬 20XX等)。
人は恋をした時、脳内からフェニルエチルアミン(PEA)と呼ばれる神経伝達物質を大量に分泌する。この神経伝達物質の影響で、時に人は合理的な判断よりも、恋心に由来する非合理的な判断を優先する行動を取る。
(中略)
仮に恋愛感情を抱くことがなく、常に合理的な判断をすることができる人間がいたとすれば、そういった人種が社会を、国を統治することが、結果的に文明の発達には寄与するのではないだろうか。そこで我々はある精神疾患を有する人間に着目した。いわゆる、サイコパスである。】
これに加え、僕の共感覚とサイコパスの関係性についての考察や、僕が殺人を行うかどうかなどの観察記録が綴られていた。
つまり、木之瀬元准教授が、僕を使ってサイコパスの研究をしていたことを裏付ける証拠は揃っている。
「木之瀬が実際に殺人を犯したかどうかについては、月澪さんが提出してくださった録画データが肝になってくるかと思います。ただ――」
青山さんの表情は悔しそうに歪む。
「――自白には至っていません」
僕もデータを見させてもらったが、確かに木之瀬元准教授はずっと、容疑を否認するような言葉ばかりを重ねていた。
月澪先輩が、僕に飲ませた睡眠導入剤について言及した後、膝を折って何か呟いてはいるが、声が小さすぎて判声は不可能だった。
「ちっ……あの場でもう少し締め上げるべきだったか」
「月澪さんに非はありません。どうかお気になさらず。月澪さんが仰っているように、北條さんの体内から検出された睡眠導入剤の成分と、それを飲ませている録画データである程度までは追いつめることは可能でしょう。ただ……こんな風に言い逃れされる可能性も否定できません。資料の五ページ目をご覧ください」
青山さんに従い、僕と先輩は手元の資料をめくった。
そこには、『木之瀬側の反論予想一覧』とあった。
一、録画された映像の中で「自分が三人を殺した」と主張してはいない。
二、頭に血が上っている月澪さんを黙らせるために、その場では殺人を犯したということにした、と言う可能性がある。
三、最後に襲いかかったのは、でたらめを言われてついカッとなったから、とも言える。
四、コーヒーに混ぜた睡眠導入剤は自分がいつも飲んでいるものであり、混乱している北條さんを落ち着かせるために飲ませた、と言い逃れが可能。
五、暗号文はデータとしては「バグ」というタイトルで保存してあり、こちらも言い逃れされる可能性はある。
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