天才月澪彩葉の精神病質学研究ノート

玄武聡一郎

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1巻

1-1

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 第一部:胎動




 プロローグ


 呼び出された公園に向かうと、先輩は既に僕を待っていた。
 周囲には誰もいない。今朝の天気予報で、「今日は大型の台風が近付いております。不要不急の外出はお控えください」とお天気お姉さんが読み上げていたのを思い出して、そりゃそうかと僕は一人で納得した。
 ポケットに手をぎゅっとつっ込んで、今にも押しつぶされそうな灰色の雲の下、僕は先輩の方へと歩を進めた。
 僕が近付いてくることに気付いていないのか、はたまた気付いてはいるけれど、あえてそうしているのか。先輩は空を見上げたまま微動だにしなかった。

「先輩」

 紺色のカーディガンの裾のほつれや、襟についた小さな毛糸が確認できるくらいまで近付いたとき、僕は声をかけた。顔を少し傾けて、アーモンド形の大きな目で僕の姿をちらりと確認すると、先輩は口を開く。

「ああ、来たのか」

 それだけ言って、また空を見上げた。ずしりと重なった曇り空に興味があるわけでは、もちろんないだろう。絹糸のように滑らかな髪が、吹き抜けた風を受けておどる。

「覚えているかい。君に話した、私の夢を」

 ぽとり、ぽとりと、まるで言葉を地面に落とすように先輩は話しはじめた。

「ええ」
「そうか」

 静かな……とても静かなその声を聞きながら、僕はこの光景を絵にするならば、背景は灰色に塗りたいと思った。水をたっぷりと含ませた絵筆で極限まで伸ばした、薄い薄い灰色だ。

「『私が理解できないサイコパスに出会いたい』ですよね」
「うん」

 そう、彼女は。
 どんなに猟奇的な犯罪でも。
 どんなに快楽的な犯罪でも。
 どんなに狂気的な犯罪でも。
 罪を犯した者の気持ちを、理解できてしまう。だからつまらないのだと、常日頃から口にしていた。世間が勝手にタグ付けした精神病質者サイコパスなど、私にとっては一般人と変わらない、というのが彼女の持論だった。理解できない犯罪者を望む彼女を、僕は理解できなかった。

「例えば、その相手に出会えてしまったとして――」

 ああ、やめてくれ。先輩がつむぐ言葉を聞きつつ、僕はポケットの中で強くこぶしを握り締めていた。

「――その相手に……こ、恋を、してしまったとして」

 そう言えば、今日は見たい番組があったんだ。早く帰って適当な駄菓子でも食べながら、ただ流れてくる情報を阿呆あほみたいに聞いて、聞いているふりをして、聞き流して……何も考えたくない。

「私は、どうすればいいと思う?」

 知るか。とは言えず、僕も先輩と同じく空をあおぎ見た。
 残念ながら、その相手には心当たりがある。きっかけにも思い当たる。
 だからなんだという話だ。僕にはどうすることもできない。

「助言を、くれないか……?」

 いつもよりだいぶ弱々しい先輩にあきれて、僕は大きく吐いた息に乗せて言う。

「無理ですよ。だって、僕は――」

「今」という概念に形状を与えるなら、それは一体どんな形をしているだろうか?
 常に移ろいゆき、選択一つで大きく形を変え、まったく違う表情を見せる。そんな曖昧あいまいでふわふわした概念の上に、僕たちは立っている。
 少しだけ、付き合って欲しいんだ。
 これから語るのは、たくさんの分岐点があった物語。
 複数の幸せと、複数の不幸せが待ち受けていた物語だ。
 そして、どうか見届けて欲しい。
 僕が行きついた終着点エピローグを。



 1


 講義室に入った瞬間、人の多さに辟易へきえきした。

「どした、マサト。早く席を取らないとなくなるぜ」
「……帰りたい」
「うん、落ち着け。授業はまだ始まってすらいないから。だから、その外に向いた体を元に戻しなさい」

 襟首を掴まれて、そのままぐいぐい教室の中へ引きずられる。
 身長が一八〇センチ後半の浩太こうたの腕力に、小柄な僕はなすすべもない。

「お、ここ二つ空いてるじゃん。ラッキー。マサトは通路側でいい?」
「うん、僕もう帰ってもいい?」
「せめて会話を成り立たせてくれ。やっぱ俺が通路側だな、気付いたら逃げてそうだし」

 ぐいっと奥側の席へ押し込まれ、浩太が一番端の席に座る。帰るためには浩太を押しのけるか、知らない人に無理を言ってどいてもらうしかないわけだ。

「分かった、受けるよ……」
「ようやくあきらめたか。サボってばかりいたら、単位落としちまうぜ?」
「お前にだけは言われたくない」

 相変わらずお節介せっかいなやつだと、僕は有園ありぞの浩太の横顔を見てため息をつく。確かにこいつに出会わなければ、僕は授業スケジュールを組むことすらできず、途方に暮れていたかもしれない。入学してから約三か月、僕が安定した大学生活を過ごせているのは、浩太のおかげと言っても、過言ではない。
 そう考えると、この男は本当に――

「浩太ー」
「ん?」
「お前って、超、便利ってぇえぇ……」

 僕が言い終えるより前に、大きな拳が僕の頭に直撃した。

「なんで殴るんだよ。しかも『ぐー』で」
「人をものみたいに言うからだ」
「失礼な、褒めてるんだよ」
「失礼なのはお前だからな――っと。来た来た」

 ほくほくと顔をほころばせて浩太が見つめるのは、今しがた講義室に入ってきた、人の好さそうな顔をした心理学の担当講師、木之瀬きのせ准教授――ではなく、その横に立っているアシスタントの女性だ。

「やっぱり今日も輝いてるよなあ。美しいよなあ。遠くから見ても一瞬で分かるっていうか、オーラがあるっていうか……」
「うーん」

 そうかなあ、と思いながら、浩太が絶賛する女性、月澪彩葉つきみおいろは先輩に目を向ける。
 木之瀬研究室所属の修士二年生である月澪先輩は、この講義のティーチングアシスタントをしている。彼女の美貌を一目見ようと、講義を受講している学生も多いという話だ。

「どちらかと言えば、揺らめいてるような……陽炎かげろう?」
「ゆらめく? かげろう? 前から思ってたけど、マサトの感性って独特だよなー」
「んー、感性とはちょっと違うけど……」

 まあいいか、これを説明するのも考えるのも面倒くさい。僕はノートを開き、今しがた始まった講義のメモを取ることにした。
 月澪先輩の魅力のせいで話題に上がりにくいが、木之瀬准教授の講義はとても面白い。杓子定規しゃくしじょうぎに知識を垂れ流すのではなく、独自の見解や自分の研究を交えて、ユニークかつコミカルに話を進めてくれる。
 この前の、恋愛感情の有無による国家存続如何いかんの話は印象深かった。恋をした人間は、通常時なら行わないような非合理的な選択、すなわち誤った選択を容易たやすく選び取ってしまう。だから恋愛感情というのは、人間の歴史上もっとも必要のない感情なのかもしれない、だったかな。
 こんなに面白いのに、一体何人の学生がちゃんと講義を聞いているのかはなはだ疑問なのが、とても残念だ。

「超きれー……髪の毛さらさら……おっぱいでけー……肉付きさいこー……」

 こいつみたいに聞いてないやつもいるし。知能レベルがサル以下の言葉をぼろぼろ落としながら、巡回している月澪先輩の姿を目で追う浩太の足を蹴りつける。

「いてぇ!」
「アホづらでアホなことを言って自分のアホさ加減をさらしてないで、ちょっとはノート取ったら」
「な、なんだよお前。さっきまで散々帰りたがってたくせに、いきなりまじめになって」
「僕は人が多い場所が苦手なだけで、講義自体は大好きなの」
「帰っちゃったら受けられないじゃん」

 細かいことをいちいちうるさいなあ、と顔をノートで叩こうとした瞬間、頭にこつんと固いものが当たった。

「こーら、君たち、ちょっとうるさいぞ」

 それがくだんの月澪先輩に、クリップボードで小突かれた感触だと気付くまでに、少しの時間を要した。

「あ、すみません。気を付けます」
「つ、つき、つきみ! お、せんぱ!」

 両極端な反応をした僕らに、涼風みたいに気持ちのいい笑みを投げかけつつ、先輩は小声で続けた。

「君なんてノートすら出してないじゃないか。出席点ないんだから、ちゃんとしないと単位を落としてしまうぞ?」
「すみ、ま!」

 うわあ、浩太がこんなにポンコツになってるの初めて見た。

「で、君は……おお! しっかりメモしてるね! うんうん、しかもとても丁寧だ。レイアウトは独特だけど……」
「あの……恥ずかしいのであまり見ないでください」

 研究を専門としている人に、こんなノートを見られるのは恥ずかしい。自分の意見や、疑問点などをちりばめたノートを閉じる。

「ああ、ごめんごめん。よくできていたから、つい……待った」

 先輩が通路から身を乗り出して、ノートをしまおうとした僕の手を掴んだ。

「お! お! っぱ! おっぱ!」

 横で浩太が謎の奇声を上げはじめる。どうやら先輩が身を乗り出したことで、豊満な胸が彼の背中に当たっているらしい。そんなことには気付いていないのか、はたまた気にしていないのか、先輩はがっちりと僕の手を握って離さない。

「な、なんでしょう」
「君、北條正人ほうじょうまさと君、か?」
「おぱ……おぱ……」
「ええ、そうですけど」

 そう言えば、なんとなく高校の頃の習慣が抜けなくて、ノートに名前を書いていたっけ。しかし、それがどうしたというのか。

「ふ、ふふふ……」
「おっ……ぱ……ぱ」

 ええ……何この二人……
 突然笑いはじめた先輩と、おそらく色んな意味で固くなっている浩太を前に、僕は自然と体が引いてしまう。

「ようやく、見つけた」
「――っ!」

 瞬間、彼女が「揺らめいていた」理由を僕は知った。いや、

「北條、正人」

 揺らめきは、陽炎。

「講義が終わったら、私と一緒に、木之瀬研に来なさい」

 それは彼女の奥底に眠る、轟々ごうごうと猛り、うねり、ぜ燃ゆる炎が見せた、ただの表層。
 近付くだけで肌の水分が気化してしまいそうなほどの熱量と、吸えば肺が焼けただれ、触れれば全てが灰燼かいじんと化すほどのを劫火ごうかを彼女から感じたとき――

「絶対に、嫌です」

 僕は逃げ出すことを決意していた。



 2


「後生だ、浩太。見逃してくれ、頼む!」
「いいじゃんか、別に研究室に行くくらい。月澪先輩にも会えるしさー。なんでそんなに嫌がるんだよ」

 講義が終わった後、一目散に逃げだそうとした僕の首根っこを掴み「俺が責任をもって届けます!」と宣言した通り、浩太は僕を引きずり研究室へズンズン向かっていた。

「うるさい離せ! この……おっぱい星人!」
「なっ! お、お、お前は違うっていうのかよ!」
「ああ違うね!」

 ヒップライン重視派の僕は余裕の笑みを浮かべてそう言い放ち、じたばたもがく。

「そうかそうか。なら、先輩の双丘の素晴らしさを知るためにも、やっぱり行かないとな」
「どういう理屈だよ、まったく筋が通ってない! 離せぇぇえええ!」

 抵抗もむなしく、結局ずるずると引きずられ、五分としない内に目的地に到着してしまった。

「おお、ここだな、木之瀬研」
「違うよ、ここから真東に三百メートルほど歩いたところだよ」
「うん、そこ食堂な。失礼しまーす」

 律儀りちぎに三回ノックした後、浩太と僕は木之瀬研と書かれた張り紙の付いた扉をくぐった。

「おお……」

 研究室の中は本であふれ返っていた。壁は本棚に隠れてほとんど見えず、その本棚にはラックが悲鳴を上げそうな分厚い専門書が詰まっている。

「すっげぇ……研究室ってこんなんなんだな……」
「茶色い」
「なにが?」
「なんでもない」

 浩太と軽口を叩き合いながら部屋の中をきょろきょろと落ち着きなく眺めていると、奥の部屋から月澪先輩が現れた。

「お、もう来ていたのか。逃げずに来てくれたんだね、嬉しいよ」
「いえ、こいつに強制連行されてきただけなので、今すぐにでも帰りたい気持ちでいっぱいです」
「ははは。まあ、そう言わず話だけでも聞いてくれ。さ、座って座って」

 そう言って、先輩はホワイトボードの前にある大きな机を指した。ここまで来てしまった以上、話を聞かずに帰るのは難しい。僕は観念して青いオフィスチェアーに腰掛けた。

「オッパー君、北條君をここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」
「……あ、俺のことですか?」

 たっぷり数拍の間をおいて、浩太が答えた。今までの人生でこんな名前で呼ばれたことはないだろうから、反応が遅れたのは仕方がないと思う。

「ああ、さっきずっとオッパオッパ言ってたからね。君は今日からオッパー君だ」
「おー! なんかラッパーみたいでかっこいいですね!」
「そうだろう、そうだろう!」
「はい!」
「浩太って、先輩の前だと頭のねじ数本消し飛んでるよね……」

 馬鹿がうつっては困るので、僕はどう考えても不名誉なあだ名に喜んでいる浩太から、二、三十センチ距離を取った。

「しかし、だ、オッパー君。ここまでしてもらったのに大変恐縮なのだが……ここから先の話は北條君と二人だけで話したいんだ」
「二人だけで、ですか?」
「ああ、少々……込み入った話になるのでね。気になるなら私たちの話が終わった後、北條君から聞いて欲しいんだ」

 聞き捨てならない単語が耳に入った。
 込み入った話? できれば手短にお願いしたいところだけれど……

「分かりました。そういうことでしたら、俺は失礼しますね!」
「助かるよ。君は本当に話の分かる男だね、オッパー君。今度、改めて研究室に遊びに来てくれ。一緒にご飯でも食べようじゃないか」
「ほ、本当ですか! 来ます! 講義休んででも来ます!」
「うんうん、うちの准教授の講義でなければサボったって構わないさ。私は平日、大体ここにいるから、いつでも来るといい」
「はい! ありがとうございます!」

 尻尾しっぽがあったらちぎれんばかりに振り回しそうなテンションで、浩太は研究室から出ていった。

「面白い子だね」
「そうですね、まあ珍獣を見る気持ちに近いです」
「仲がいいんだ」
「あっちが勝手にくっついてきてるだけです」
「君はなかなかドライだ」

 愉快そうにくっくっくと笑いながら、先輩は僕に向けた視線を外さない。アーモンド形の大きな瞳で見つめられると、大変居心地が悪い。

「さて、せっかく来てもらったんだ。さっさと本題に入ろうか。ぐだぐだと最初に御託ごたくを並べるのは嫌いでね。まずは本題、そこから細やかな理由付け。国際ジャーナルに載せる論文なんかは、そういう構成で書くだろう?」
「はあ」

 論文なんて書いたことないから分かるはずがない。だが、英語の文法を思い出せば、あながち分からない話でもない。文頭からダラダラと書き連ねるのは、日本語特有の書き方だ。

「ずばり、君には私の研究、『サイコパスの識別』を手伝ってもらいたい。サイコパスとは何か。知っているかな?」
「いきなりですね」
「まあまあ。楽に答えてくれ」
「んー……変わった人?」

 サイコパス、と聞いて浮かんだ小説や漫画の知識をもとに返した答えは、自分でも笑ってしまうくらいに低レベルだった。そんな僕の返答を笑うでもなく、けなすでもなく、先輩は深くうなずいた。

「なるほど。一面ではある。だが、全てではない」

 そう言うとおもむろにペンを取り、後ろにあったホワイトボードに「サイコパスとは」と書きはじめた。

「サイコパスというのは一般的に、愛情や善意、良心といった感情が欠落している人間のことを言う。そのため特徴として、損得勘定でしか動かない、常習的に嘘をつく、冷淡、性に奔放ほんぽうなどが挙げられる」

 一瞬にしてホワイトボードが切れ長なくせのある文字で埋め尽くされていく。

「こういった特徴を持つサイコパスは、私たちとはそもそも思考回路が異なるため、社会にうまく適合できない場合が多い。反社会的、とも言う。深くかかわるほど、一般人との感情、行動の乖離かいりは目立ち、それが異常性として認識される。そして最終的には両者の間に摩擦まさつが生じ、時には看過できない事態を招く」
「看過できない事態、ですか?」
「簡単な例を出すなら、殺人だ。感情の欠落からか、サイコパスは命の扱いが非常に軽い。だから『人を殺す』というハードルを、いとも容易く飛び越えてくる」
「なるほど」
「これを回避するべく、ロバート・D・ヘアはサイコパシー・チェックリストという診断表を作成した。これは二十程度に及ぶ項目をもとに、専門家が行うことで初めて意味を成す診断表だ。そして、これを使えば、サイコパスをあぶり出すことはできる。だが――完璧ではない」

 一呼吸置き、先輩はさらに続ける。

「例えばこの診断表を熟知した人間なら、わざと自分がサイコパスであるという方向へ導くことができる。あるいは、サイコパスである者が返答を偽ることで、一般人と診断されてしまうこともある。これらが起こりうる可能性は、残念ながらゼロとはいえない。ここまで、ついてきているかい?」
「えーっと……」

 先輩が一区切りつけてくれたことに感謝する。
 大量の情報を処理しきれずに、脳がパンクするところだった。そもそも僕は、深く物事を考えるのが苦手なのだ。先輩の話を整理し、要点だけを抽出すると……

「要するに、現状、サイコパスと一般人の境界は曖昧である、ってことですね」
「その通り。簡潔かつ的確な答えだ。素晴らしい」

 手放しに褒められると照れてしまう。意味もなく髪をいじりながら僕は答えた。

「いや……先輩の教え方が分かりやすかったからだと思います」
「――っ! そうかそうか! 分かりやすかったか! 嬉しいことを言ってくれるじゃないか。研究者界隈では、研究馬鹿、人の心が分からない系女子、もはやお前がサイコパス、なんて言われている私だが、ちゃんと専門外の学生にも伝わる講義ができるのだな」

 照れ隠しに言った言葉は、予想外に月澪先輩の心に響いたようだった。
 うんうんと頷きつつ顔をほころばせる先輩は、なんというか年相応に可愛かわいらしかった。

「そんなことを言われるんですか……大変ですね」
「まったくだ。私のことを雑に扱う人間が多すぎる」

 噂程度にしか知らないが、月澪先輩はすぐれた研究者らしい。
 修士二年目にして何本かの論文を著名なジャーナルに発表し、学会では賞も受賞しているとかなんとか。僕にはそれがどれくらいすごいことなのかピンとこないが、きっと同じ土俵に立った人たちには、彼女は怪物のように見えているのだろう。

「この前なんて杉下すぎした研のポスドクが『木之瀬准教授は恋愛感情が引き起こす心理的連鎖反応の研究をされていたはずですが、あなたのような恋愛未経験者でも研究できるのですか?』とか言ってきたんだ。これ、セクハラだと思わないか? 大体、私に交際経験があるかないかなんてどこで判断したんだという話さ。だから頭にきて、私はこう言ってやったんだ――」

 しかし。こうやって自分に向けられた言葉にものすごく腹を立てたり、知り合って間もない僕の言葉に喜んだりする先輩は、どこにでもいる普通の女性と変わらないように見えた。
 ……それにしてもあれだ。序盤から薄々うすうす感づいてはいたけど、先輩は話しはじめると長いタイプだな。

「――っと。話がれてしまったね。申し訳ない……で、どこまで話したんだったかな」
「現状ではサイコパスと一般人の識別は難しい、というところまでは分かりました」
「ああ、そうだそうだ。そこで君が必要になる、という流れだったね」
「いや、その流れは全然分かりません」

 先輩の研究については、完璧からはほど遠いと思うが、さわりは理解できた。
 だが、僕がそれを手伝うという部分に関しては、いまだに話が見えてこなかった。取り立てて特技もなく長所もない、僕なんかに手伝えることがあるのだろうか?

「大丈夫、ちゃんと順序立てて説明するから。君、『共感覚シナスタジア』を持っているだろう?」



 3

 共感覚。ある刺激に対し、通常の感覚に加え、異なる種類の感覚を生じさせる特殊な知覚現象。サイコパスとは違って、こちらの単語は説明してもらうまでもなく知っている。

「どうして、それを……」

 文字や音に色を感じたり、形に味を感じたりするというのが、有名な事例だろうか。人によっては、痛覚や触覚を感じることもあるという。

「簡単な話さ。君の入試試験の答案用紙を見させてもらった」
「げ」

 思わず間の抜けた声が飛び出た。あれを見られたのか……

「そう嫌そうな顔をするな。ちなみに大学側にちゃんと許可は取ってある。そもそも、あの項目の採点にはうちの木之瀬准教授も関わっているから、私の目に触れるのはなんらおかしなことではないよ」

 まるで僕の心を読んだように、月澪先輩はそう言った。
 僕の所属する学部「人間総合ユニーク学部」は新設されたばかりで、少し特殊な受験方式を取っていた。通常の受験科目に加え、「ユニーク技能」なる意味不明な科目があるのだ。
 問題はいたってシンプル、出されたお題に対して自由に記述するだけだ。記述内容も自由で、小論文でも詩でも小説でも、なんなら絵や漫画でも構わないという、採点方法と基準が気になる試験だった。
 試験の趣旨は、通常の試験では測りきれない「人間の持つユニークな可能性」を模索し、本大学の自由な校風のもと、そのスキルを磨いてもらうため――などと書いてあったが、果たして定着するのかは甚だ疑問だ。数年したらそしらぬふりで消えていそうだ。
 とにかく、高校の頃の担任のごり押しでこんな怪しげな学部の入試を受けることになった僕も、例にもれずこの試験を受け……なぜか合格してしまった。まあ、補欠合格だったけど。
 試験問題は「絶望について自由に記述しなさい」だった。

「絶望はドブの色に似ている……くくく、なかなかどうしようもない書き出しだね」
「く、口に出さないでください……」

 自分が書いたものを他人に朗読されるほど、恥ずかしいことはないだろう。羞恥しゅうちもだえる僕を楽しそうに眺めながら、先輩は続ける。

「君のこの答案、形式としては詩にあたるのだろうが、ここにはかなり特殊な表現が散見される。面白いのは、どれも『絶望』『希望』『喜怒哀楽』など、目には見えないはずの『概念』を全て可視化した表現に変えているところだ。色に限らず、花柄のフェルト、粘土味の霧、堕ちてくる空、などなど。突飛なくせに、どこか真に迫っている」
「あの、もうやめましょう……」

 なんだろう、この羞恥プレイは……

「で、私は確信した。この答案用紙を書いた人間は、私たちとは違う世界がえている、共感覚の持ち主だと」
「……ものすごく変な表現方法が好きなだけの一般人だとは思わなかったんですか?」
「もちろん、その可能性も大いにあった。だが、何々に似ているなんて表現方法は、それを実際に視たことのある人間だからこそ書けるものだと、思ってはいたけどね」

 実際、当たりなのだろう? と笑ってこちらを見る先輩に、僕はため息をつきつつ答える。

「確かに、お医者さんにそう言われたことはあります。でもそれに近い感覚を持っているだけで、先輩の望むものかどうかは、正直分かりません」
「ほう、どうして?」
「まず、僕の共感覚には規則性がありません。文字だけに色が視えるとか、高い音ほど明るい色とか、母音に強い色を感じるとか、そんなんじゃないんです。体感的に言えば、ほとんど幻覚を視ているのに近い」

 当然「色」が視えることもある。例えばこの部屋。
 全体的に茶緑色のもやが視えるけれど、どちらかといえば茶色が強い。
 経験的に新書は緑、古書は茶色の靄がかかる。つまり、この部屋には古書が多めだと「なんとなく」分かるのだ。

「先輩には炎が視えます。地獄の業火ごうかみたいな……正直、近寄りたくないたぐいの炎です」

 おそらくあの炎は、何かに対する執念のようなものを反映しているのだろう。そういう強い思いを抱いている人からは、距離を取るに限る。巻き込まれれば大火傷をする。

「なるほどね。まあ規則云々うんぬんに関しては、問題ないと断言できる。気に病む必要はないよ」
「いや、別に気に病んでは……というか、断言できるんですか?」

 気になって問い返した瞬間――僕は少し後悔した。
 この先輩は話しはじめるとやたらと長いことを、さっきのサイコパスの説明で学んだはずなのに。ほどよく聞き流す準備を心の中でして、僕は先輩の言葉を待った。

「ああ、もちろんだ。なぜなら、君の共感覚は色や味といった明確なアウトプットではないから規則が判然としないだけで、必ず何かしらの法則はあるはずだからだ。細かい説明に入るぞ。そもそも共感覚は主観的な知覚現象、すなわち個々の価値観によって構築された独自の世界観クオリアであり、他の共感覚の持ち主が感じている法則が必ずしも君に適応されるとは限らないわけだ。では何をもって共感覚が共感覚足りえているかというと、それはおそらく本人の経験にもとづくものが大きいと推測される。共感覚は視覚や聴覚、味覚などといった異なる五感が互いに結合、もしくは影響しあっている状態であるという説もある。だから、無意識にインプットした様々な情報を君の脳が処理し、それらが互いに影響しあって君に幻覚のような光景を見せていると推測もできる。さっきも言ったように、君の共感覚は君の経験にもとづいて映し出された光景だ。つまり、君が今までの人生で取得したすべての情報に対して抱いている思い、感情、価値観が基盤になっているわけだから、それらを一つずつ紐解いていけば自ずと規則性、あるいは法則性が見えてくるはずなんだ」
「えー……っと」
「より簡単に言うなら、君があるもの、仮にこれをXとして、それに対する共感覚、これをYとしようか。Xに対するYを五十例ほど取って、それらの相関関係を見る。おっと、その前にYを数値化しなければならないね。話を聞いていると、Yは多種多様な表現が出現することが予想されるから、例えば主成分分析にでもかけてみようか。色、物、数字、文字、などなどを1~αまでの複数の数値群に置き換えて、これらのまとまりを見てあげればいい。もしくは、Xの方を固定することを前提に置くなら、一般化線形混合モデルを用いてもいい。うん、こちらの方がより何がXを規定しているかを明確に絞り込めるね。場合によっては、ベイズとか他の統計学的手法を使うことにはなるだろうが……あ、ここまでおっけー?」
「あ、おっけーです」

 途中から考えるのをやめていた僕は、最後の言葉を聞いて、とりあえず返答した。
 僕はそんなに頭がいい方ではない。色々と小難しいことを考えると、脳が熱暴走を起こしたみたいに熱くなるから、危なそうなときは途中で思考を放棄することにしている。だから今回も、考えることをやめていた僕は、なんとなく先輩の話の表層をくみ取って、まとめてみる。

「要するに、僕が視た光景を先輩にたくさん教えれば、その傾向から法則性を導き出してくれる、ということですね」
「その通り! 今の説明を完璧に理解するなんてさすがだね!」
「いえ、微塵みじんも理解はしてないです」

 理解はしていないが、問題がないことは痛いほど伝わった。

「えーと……とりあえず、あともう一点」
「どうぞどうぞ」
「僕はいつでも共感覚が発現するわけではありません。たまに視えるって感じです」
「なるほど。興味深いが、それも問題はないな」
「問題ないですか」
「ああ、なぜなら、、からだ。その条件さえ分かれば、君にいつでも共感覚を発現してもらえる」
「いや、いつでもはやめてください……」

 僕の共感覚は本当に色々な「モノ」が視えてしまう。中には血をしたたらせた動物や、グロテスクな触手など、直視できないほど気持悪いモノが視えることもあり……この能力で得したと思ったことはない。

「さて、他に言いたいことは?」
「言いたいことというか、根本的な部分なんですけど……僕のこの『共感覚』が先輩の研究にどう絡むんですか?」

 先輩の研究は、サイコパスの識別。一般人とサイコパスの境界線を探る研究だ。
 そんな研究に、僕のこの不完全な共感覚がどう関わってくるのだろうか?


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