上 下
2 / 39

87日前【1】

しおりを挟む

 四季宮さんが階段から落ちて来た。

 踊り場から、僕の元まで。
 段数にして約二十段。おそらく高さは四メートルほど。

 体に痛みは感じない。
 互いに怪我はなさそうだ。
 そんなことより問題なのは、四季宮さんの形の良い唇が、今まさに僕の口に当たっていることだ。

 やけに柔らかくて、張りがある。
 彼女が付けている化粧水の匂いなのか、はたまた時間差ではらりと落ちて来た、髪から漂うシャンプーの匂いなのか。
 どちらかなのか、どちらもなのか。
 とにかく殺人的にいい匂いに包まれて、僕の意識は飛びそうになる。

 一秒。
 いや、もっとかもしれない。
 二人とも動かないままの時間が過ぎた後、彼女はゆっくりと体を起こした。

 薄桃色の、桜みたいな唇に、僕の視線は釘付けになる。
 今起きたことを意識すると、頭がかっと熱くなって、その熱が頬や首まで降りてきて、夏でもないのに汗がじわりとにじみ始める。

 まずい……これは非常にまずい……。
 高ぶる鼓動を落ち着けようと、僕の頭は急速回転。
 素数を数えたり、円周率をそらんじたりするように、心を落ち着かせるために、何か違うことを考えようと思った。

 唇……くちびる……赤い、くちびる……。
 そ、そうだ、そういえばこんな話を聞いたことがある。

 実は唇が赤いのは人間だけで、サルやチンパンジーといった他の種族には見られない珍しい特徴なのだ。一説によると、これは発情期を分かるようにするためなのだとか。唇が赤く、ふくよかに膨らんできた時が、最も生殖行為に適した状態らしい。
 真偽のほどは分からないけれど、仮にその説が本当なのだとしたら、それってなんとなく、とってもエッチだなぁという感想を――

 ってダメだダメだ!
 これじゃ、むしろ逆効果だ……!

「びっくりしたぁ……」

 そんな僕の心境を知ってか知らずか。
 四季宮さんは場違いなほどに、のんびりとしたセリフを口にする。

「こういうことって、ほんとにあるんだねえ……」

 漫画の中だけだと思ってたよ、と他人事みたいに目をぱちくりさせた。
 一瞬気が緩みそうになったけど、現状を思い出して、僕は慌てて彼女の体を引きはがす。
 焦りと戸惑いで、体中から嫌な汗が吹き出していた。

「ご、ごめんなさいっ……」
「どうしてあやまるの?」
「だってその、口が……当たって……」

 四季宮さんは、思い出したように口に手を当てる。
 長めの袖のカーディガンが、するっと肘の辺りまで落ちた。

「すみませんわざとじゃなくて落ちて来たから助けようと思っただけでそれで……」
「ちょっとちょっと、早い早い」

 膝をポンポンと叩かれる。

「そんなに早口じゃ、何言われてるか分かんないよー。なんとなく、謝ってるのは伝わってくるけど」
「ごめんなさい……」
「もー、だから謝らないでってば。むしろ、お礼を言いたいくらいだよ。君のお陰で怪我せずに済んだわけだし、ね?」

 四季宮さんはちらりと背後の階段に目をやった。
 ワックス塗りたての階段は酷く足場が悪くなっていて、急いで駆け下りて来た四季宮さんは案の定足を滑らし、落ちて来たのだった。

 ――僕の上に。

「けが、してない?」
「た、たぶん……大丈夫です」
「そっか、ならよかった」

 ほっと安堵したように笑う四季宮さん。
 そして僕の表情を見て、次は眉を八の字にして笑った。
 笑顔のレパートリーが多い人だ。

「もー、まだ気にしてるの? キスなんて減るもんじゃないし、そんなに深刻そうな顔しなくて大丈夫だよ」

 そ、そういうものなのか?
 僕は初めてだったから未だに動悸が収まらないのだけど……慣れてる人にとっては、そうでもないのだろうか? 

「ん? いや、でもファーストキスはなくなっちゃったから、実質減ってる?」

 とんでもない事実をさらっと言いなすった。

「……どうしよう?」
「どうしよう、と言われましても……」

 気を抜くと、さっき触れ合った唇に目が吸い寄せられてしまって落ち着かない。
 僕は視線のやり場を探して、うろうろとさまよわせた結果……、

「……え?」

 四季宮さんの手首で、目が止まった。
 先に説明しておくと、四季宮さんは他人に素肌を見せることがほとんどない。

 なんでも彼女は冷え性らしく、春夏秋冬いつでも変わらず、ちょっと大きめのカーディガンを羽織り、下にはストッキングを履いている。
 加えて体が弱いらしく、体育の授業は見学している。

 そんなことも相まって、四季宮さんの素肌というのは、僕たちの目にさらされたことがない。せいぜい見えて首筋まで、手首や二の腕、太腿なんてもっての他だ。

 なのに今、四季宮さんの手首が見えている。
 走ったり、落ちたり、もつれたりしたからだろう。
 シュシュがずれ、カーディガンの袖がはだけていた。

 そして、僕の目に入った彼女の手首には――生々しい真っ赤な痕がいくつもついていた。
 何度も、何度も、強く縛り付けられたような赤。
 滑らかで白い素肌とコントラストを成して、より鮮烈に僕の目に飛び込んでくる。

「……? どこ見て――」

 僕の視線に気づくと、四季宮さんは慌ててカーディガンの袖を引っ張って、手首を隠した。
 数瞬の沈黙。

「……見た?」
「……見てないです」
「本当に見てない人は、何が? って聞くんだよ?」
「すみません見ました」

 正確には、見えました、と言うべきなのだろうけど。

「だよねえ。うーん、どうしよっかなあ」
「あ、あの……誰にも言いませんので……」
「えー、ほんとにー?」

 色々と分からないことだらけだけど、さっきの赤い痕を隠したいであろうことは、いくら僕でも察することが出来た。
 体育に出ない理由も、年がら年中カーディガンを羽織っている理由も、ここにきてパズルのピースが合わさるように、ぴたりぴたりと繋がった。

「その、大丈夫です本当に。誰にだって隠したいこととかありますし秘密の一つや二つあって当然っていうか……そもそも僕には言いふらすような友達もいないですしそこは信用してもらってもいいかなとか……」
「もー、だから早いってば」
「す、すみません……」
「友達がいないってところしか、聞き取れなかったよー」

 よりによってそこが聞き取れたのか……。
 いやまあ、いいんだけど。事実だし。
 四季宮さんが重ねて何かを言おうとした、その時、

「あーかーねーちゃーん! まだー?」

 階段の上から突き抜けるように声が降って来た。
 この声……たしか、四季宮さんの友達のはち織江おりえさん、だったっけ。

「ごめーん! 今行くー!」

 八さんにそう返事をすると、四季宮さんは僕の方にずいっと寄って、

「ね。今日の放課後、時間ある?」
「ありますけど……」
「じゃあ、ちょっと話したいことがあるから、待っててくれる? もちろん、これのことで」

 すっとカーディガンを降ろして、赤い痕を見せた。
 なんだかいけないものを見ている気分になって、僕は思わず視線をそらした。
 四季宮さんはそんな僕をみて、含むように笑った。

「約束だからね? 勝手に帰ったらダメだよ?」

 僕が答えるよりも前に、八さんの活発な声がまた聞こえ、四季宮さんは立ち上がった。
 スカートの裾を丁寧にはらい、指だけがちらりとのぞいた右手を、腰の辺りでひらひらと振る。

「じゃあね、真崎君。また教室で」
「……どうも」

 僕は床に座ったまま、そんな気の利かない返答をした。
 ここ数分で詰め込まれた情報の数々が渋滞を起こして、頭の中でパニック状態になっていた。

 順を追って考えようとするけれど、四季宮さんの唇の柔らかさや、彼女の右腕についた赤い痕が思考を妨げて、まったくまとまらない。
 だから僕は、

「四季宮さん、僕の名前知ってたんだな……」

 なんて。
 キスとも彼女の腕の傷とも、そして今日の放課後の約束とも。
 なんの関係もないことをつぶやいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

拡張現実におおわれた世界で

プラ
ライト文芸
生涯、拡張現実(AR)世界で生きていくことが当たり前になった世界。 人々は現実拡張デバイスCAREを1日中装着しており、物心ついた頃から現実世界を見たことがない。 そんな世界をCAREによって作られた嘘で覆われていると嫌っている主人公の修一。 もちろん、学校生活も上手くなじめるわけもなく、悶々とした日々を過ごしていた。 しかし、ある日、拡張現実に覆われた世界では、決して書けるはずのない内容のメッセージがノートに書かれていて、人生は大きく変わっていく。 完結済

相馬さんは今日も竹刀を振る 

compo
ライト文芸
大学に進学したばかりの僕の所に、祖父から手紙が来た。 1人の少女の世話をして欲しい。 彼女を迎える為に、とある建物をあげる。   何がなんだかわからないまま、両親に連れられて行った先で、僕の静かな生活がどこかに行ってしまうのでした。

夢の言葉は魔法の呪文【改訂版】

☆リサーナ☆
恋愛
「庶民だった私がお嬢様〜?!」 元一般庶民だったお嬢様と、記憶を失くした召使いの身分差恋物語。 幼き日に他界していた父が名家の跡取り息子だと母の死をキッカケに知らされたアカリは、父方の祖父に引き取られる。 しかし、そこで待っていたのは跡継ぎを作る為の政略結婚。 今までの自分を否定され続け、花嫁修行を強いられる毎日に孤独を感じ、ある日脱走を試みた彼女が出会うのは珍しい白金色の髪と瞳を持つ男性。 彼こそがアカリの運命を変える、召使いバロン。 果たして、記憶を失くしたという彼の正体は? 時間を共にすると同時に膨れ上がる、二人の想いは?! 素敵な表紙絵・扉絵(挿絵)は、 専属絵師様:不器用なヤン様が、手掛けて下さっています。 〈別サイトにて〉 2018年8月1日(水) 投稿・公開 2018年9月13日(水) 完結 この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

ハナノカオリ

桜庭かなめ
恋愛
 女子高に進学した坂井遥香は入学式当日、校舎の中で迷っているところをクラスメイトの原田絢に助けられ一目惚れをする。ただ、絢は「王子様」と称されるほどの人気者であり、彼女に恋をする生徒は数知れず。  そんな絢とまずはどうにか接したいと思った遥香は、絢に入学式の日に助けてくれたお礼のクッキーを渡す。絢が人気者であるため、遥香は2人きりの場で絢との交流を深めていく。そして、遥香は絢からの誘いで初めてのデートをすることに。  しかし、デートの直前、遥香の元に絢が「悪魔」であると告発する手紙と見知らぬ女の子の写真が届く。  絢が「悪魔」と称されてしまう理由は何なのか。写真の女の子とは誰か。そして、遥香の想いは成就するのか。  女子高に通う女の子達を中心に繰り広げられる青春ガールズラブストーリーシリーズ! 泣いたり。笑ったり。そして、恋をしたり。彼女達の物語をお楽しみください。  ※全話公開しました(2020.12.21)  ※Fragranceは本編で、Short Fragranceは短編です。Short Fragranceについては読まなくても本編を読むのに支障を来さないようにしています。  ※Fragrance 8-タビノカオリ-は『ルピナス』という作品の主要キャラクターが登場しております。  ※お気に入り登録や感想お待ちしています。

初愛シュークリーム

吉沢 月見
ライト文芸
WEBデザイナーの利紗子とパティシエールの郁実は女同士で付き合っている。二人は田舎に移住し、郁実はシュークリーム店をオープンさせる。付き合っていることを周囲に話したりはしないが、互いを大事に想っていることには変わりない。同棲を開始し、ますます相手を好きになったり、自分を不甲斐ないと感じたり。それでもお互いが大事な二人の物語。 第6回ライト文芸大賞奨励賞いただきました。ありがとうございます

妹はわたくしの物を何でも欲しがる。何でも、わたくしの全てを……そうして妹の元に残るモノはさて、なんでしょう?

ラララキヲ
ファンタジー
 姉と下に2歳離れた妹が居る侯爵家。  両親は可愛く生まれた妹だけを愛し、可愛い妹の為に何でもした。  妹が嫌がることを排除し、妹の好きなものだけを周りに置いた。  その為に『お城のような別邸』を作り、妹はその中でお姫様となった。  姉はそのお城には入れない。  本邸で使用人たちに育てられた姉は『次期侯爵家当主』として恥ずかしくないように育った。  しかしそれをお城の窓から妹は見ていて不満を抱く。  妹は騒いだ。 「お姉さまズルい!!」  そう言って姉の着ていたドレスや宝石を奪う。  しかし…………  末娘のお願いがこのままでは叶えられないと気付いた母親はやっと重い腰を上げた。愛する末娘の為に母親は無い頭を振り絞って素晴らしい方法を見つけた。  それは『悪魔召喚』  悪魔に願い、  妹は『姉の全てを手に入れる』……── ※作中は[姉視点]です。 ※一話が短くブツブツ進みます ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾もあるかも。 ◇なろうにも上げました。

その後の愛すべき不思議な家族

桐条京介
ライト文芸
血の繋がらない3人が様々な困難を乗り越え、家族としての絆を紡いだ本編【愛すべき不思議な家族】の続編となります。【小説家になろうで200万PV】 ひとつの家族となった3人に、引き続き様々な出来事や苦悩、幸せな日常が訪れ、それらを経て、より確かな家族へと至っていく過程を書いています。 少女が大人になり、大人も年齢を重ね、世代を交代していく中で変わっていくもの、変わらないものを見ていただければと思います。 ※この作品は小説家になろう及び他のサイトとの重複投稿作品です。

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

処理中です...