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出題篇 □■□■君は
第十七話 (3) 『悪意と体育倉庫荒し』
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翌日。
僕は放課後のシャワータイムを終えて、夕ご飯までの時間を本を読んで過ごすべく、教室棟に向かって歩いていた。
水飲み場の辺りに鴨川さんの姿が見えた。彼女も今から教室に向かう所なのかもしれない。
期末試験も終わり、活動を再開した運動系の部活に所属する生徒が、バタバタと寮に向かって走っていく。
放課後の短い時間を目一杯使って練習をする代償として、彼らはシャワー時間を削っている。
運動を終えて疲れた体を引きずって、十数分でシャワーを浴びて身支度をする、いわゆるシャワーダッシュと言われる伝統芸があるのだ(ダッシュと奪取を兼ねてるという噂だ)。
とてもじゃないが僕にはできない芸当だ。走り去っていく皆に心の中で敬礼を送っていると、女子寮の扉から見知った人物が姿を現した。
夢莉さんだ。
「あ、奏汰くん。やっほー」
ひらひらと手を振って微笑んだ彼女の目を何故か直視できず、僕も手を挙げて挨拶をした。
昨日ララちゃんが変なことを言ったせいで、妙に意識してしまう。
「教室棟に向かう所?」
「うん……風邪、まだ治ってないの? 大丈夫?」
マスクこそ外れている物の、夢莉さんの声はかすれていて、喉の調子が悪い事はすぐに分かった。
折角の耳に心地よい声音が、砂が混じったような音になっていて悲壮感が増している。
首に手をやり、あはは、と彼女は笑った。肩甲骨辺りでそろった彼女の髪が静かに揺れた。
「中々長引いちゃってて」
「ゆっくり休んでた方がいいんじゃない?」
「そうもいかないよー。そろそろクラス展示も部活演出も、本格的に始動させなきゃいけないし」
八月も半ばになり、いよいよスクフェスに向けて生徒が積極的に活動を始めた。
模型班と背景担当の人たちは、既に教室内のあらゆるところの大きさをはかり、模型のサイズや模造紙のサイズを計算し始めていた。
模型を作るには普段は使わないような材料が必要で、それを先生に注文するのが九月の終わりから十月の頭にかけて。
それまでに、作る模型や必要な材料を一通り算出しないといけない訳だ。
全ての班の材料や内装の細やかなデータは一括して夢莉さんが取りまとめているため、彼女の仕事は中々に多い。
「それはそうだけど……文芸部の方、少しペース落とそうか?」
「だめだめー。折角いい調子で集まって来てるんだから、このまま頑張らないと……っとと」
何かに躓いたのか、それとも足に力が入らなかったのか。
その場でよろめき、こけそうになった夢莉さんを、僕はすんでの所で受け止めた。柔らかい感触と、何かよく分からないけど、とりあえずすごくいい匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「あ、はは。ありがとー奏汰くん。奏汰くんって、意外と力あるんだねー」
力なく笑う夢莉さんに触れて、僕は気づいた。
夢莉さんの体は、とても熱かった。これ、三十七度後半くらいあるんじゃ……。
「ねぇ夢莉さん、やっぱり保健室行った方が――――」
「あ、ミョウミョウだー」
「え?」
振り返ると、確かに水谷先生が走ってくるところだった。
いつもクールでせわしなさとは無縁な感じの水谷先生が走っているなんて、なんだかレアな光景だ。
それにとても険しい顔をしている。
やがて声が届く距離に来た水谷先生は。僕たちが声をかける前に、切羽詰まった口調で言った。
「日向君、七々扇さん、もしよかったら手を貸してもらえませんか?」
「どうしたんですか、先生? 何かあったんですか?」
さっきまでの弱々しい姿はどこへやら、夢莉さんはしっかりと自分の足で立ち、はきはきとした口調で言った。
弱っているところを見せれば、先生は自分に相談事ができないかもしれない。
急を要する様子の先生に、迷惑はかけられない。
そんなところだろう。つくづく夢莉さんはいい子過ぎる。
せめて彼女のサポートをして、負担を減らしてあげなければ。
そんな僕らの思いつゆ知らず、水谷先生は端的に言った。
「体育館の倉庫が荒らされているんです」
◇◇◇
自分が他の先生方を連れてくるまでの間、誰も入らないように見張っていてくれないか、という水谷先生の言葉を受けて、僕たちは体育館へと向かっていた。
夕飯の時間までは残り二十分ほど。この時間に体育館に向かう生徒はいないと思うけれどかなり危険なので念のため、という事だった。
僕としては体育館倉庫の状態よりも、夢莉さんの体調の方が心配だったけど……今ここで戻って休むようにと言っても、彼女は首を縦には振らないだろう。何かあったときの為に僕が傍にいる方が良いと判断した。
すぐに体育館に着いた僕たちは、靴を履き替え中へ踏み込んだ。体育館倉庫は、体育館に入って右手すぐの所にある。
「……?」
ふと足元に目をやると、体育館の床に点々と白い粉が付いていた。
なんだろう、これ……? 砂、ではなさそうだけど……。
「うわぁ……、これは酷いね……」
夢莉さんの声に釣られて、僕も顔を上げて体育館倉庫の中を覗き込んだ。
体育で使うあらゆる道具が収納されている倉庫は、普段はきちんと整理されている。
それは体育委員の努力の賜物でもあるし、各部活の生徒が、きちんと後片付けをしているからでもある。やはりここの学院の生徒は、個性派ぞろいではあるものの、その辺りはきちんとしているのだ。
そんな体育倉庫が、今はとんでもない状態になっていた。
縄跳びや握力系などの小物が入った棚や体操用マットは倒れ、バスケットボールの入った籠はぶちまけられ、そこら中にボールが散乱している。跳び箱も崩れ落ち、挙句の果てには蛍光灯が一つ割れていた。
「ひどい……」
倉庫の中だけ台風でも通り過ぎたのかと言うくらいの荒れっぷりに、僕たちは言葉を失った。明らかに誰かが、意図的に起こしたとしか思えない状況。考えたくはないが……この学院の中に犯人が居るのだろう。
もちろん自分から名乗り出てくれればそれでいい。僕が、あるいは私がやりましたと、正直に告白してくれるならば、それで万事解決だ。
だけど……どうしてだろう。
僕はこの体育倉庫を見た瞬間から、そうはならないのではないかと、直感していた。
この事件を起こした人物は、過失で、何かの不幸な事故で、この状態にしてしまったのではないと、何故かそう感じた。
気持ち悪い。
なんだろうか、この感情は。
僕はふと、ララちゃんの言葉を思い出した。
『だからこそ……気になるよ』
『何が……?』
『悪の感情に出会った時、果たして君はどうなってしまうのか、ね』
「……」
これが……これが悪意、なのか?
分からない。分からないけれど、一先ず僕は、夢莉さんにばれないように、この体育倉庫の様子を写真に収めることにした。
体育倉庫の中を見る夢莉さんが入らないように、ミュート機能を使って数枚、写真を撮った。
体育倉庫はその内誰かの手で片づけられてしまうだろうから、証拠を残しておく必要があると思った。
「ちょっと……中に入ってみよっか、奏汰くん。中がどうなってるのか……もうちょっと……記憶にとどめて、おきたいかも」
「あ、危ないよ。蛍光灯も割れてるみたいだし、破片とか踏んじゃったら――――」
それ以前に、夢莉さんの声に覇気がない。やはり限界なのではないだろうか?
そう声をかけようとした、その時。
体育倉庫の中に視線が向いていた僕たち二人は、突如、何者かに背中を押された。
そんなに強い力で押されたわけではない。けれど、突然の事で姿勢を崩した僕と夢莉さんは、倒れ込むようにして倉庫の中に足を踏み入れた。
「――――っ⁈」
驚いて振り向く間もなく、体育倉庫の扉が閉められた。
がちゃりと、固い金属音が倉庫の中に響き渡る。
「一体誰が――――っ夢莉さん⁈」
状況は更に悪化していた。
もともと風邪を引いていて、足元が覚束なかった夢莉さんはバランスを崩し、倉庫内にあった得点板にぶつかって派手に転んでいた。
床には蛍光灯の破片が散らばっていたはずだ。
僕は薄暗い倉庫の中、できる限り迅速に夢莉さんの元に駆け寄った。
「夢莉さん! 夢莉さん、大丈夫⁈」
「い、いたたたた……あはは、ドジ、踏んじゃったー……」
「どこか怪我してない⁈ 痛そうな音がしてたけ……ど……」
膝立ちになって、転んだ夢莉さんを抱え起こすと、夢莉さんの左頬を流れ落ちる液体が視認できた。
血だ。
見ると、左眉あたりに擦過傷がある。
さっき転んだ時に、得点板の角にぶつけたのだろうか。
傷がどれくらい深いのかは分からないけれど、それでも確実に血は流れ続けている。
どくん、と。僕の胸の辺りで何かが跳ねた。鳥肌が立つ。
「ゆ、夢莉さん! 血が出てる! 早く止血しなくちゃ……」
僕はポケットからハンカチを取り出して、夢莉さんの頬をぬぐい、そのまま額に付けた。さっきお風呂上りに新しいハンカチに取り換えたばかりだから、綺麗なはずだ。
「っ……」
「ご、ごめん痛いよね」
「ううん、大丈夫。ありがとー、奏汰くん……」
力なく、夢莉さんがそう言った。
やはり額が熱い。熱のせいで体に力は入らず、頭は回っていないに違いない。ぐったりと僕の腕に身を預けた夢莉さんの体は、人一人分の重量があって。傷付いた夢莉さんを安静に保健室まで運べる自信が僕にはなかった。
幸いな事に、水谷先生や他の先生方がもうすぐ来てくれるはずだ。
僕にできることは、それまで夢莉さんの傍にいてあげる事、それだけだ。自分の不甲斐なさに、力のなさに、どうしようもない憤りを感じる。膝の上で、夢莉さんがもぞりと動いた。
「かなた……くん」
「なに、夢莉さん……?」
「ふふ……お顔が……近いねぇ……」
甘えたような声。
いつもの夢莉さんとは少し違うその声音は、きっと風邪のせいだろう。
場違いながらどきりとしつつ、僕は顔をそむける。
「ごっ、ごめん……!」
「だーめー……いかない、で……?」
僕の両頬を夢莉さんの手が柔らかく包み込んだ。
右腕は夢莉さんの後頭部に、左手は夢莉さんの額のハンカチを押さえている僕は、それを避けることができない。
「あは……見ーえた……」
「こ、こんにちは」
「ふふ、こんにちはー……」
なんて間抜けな返答をしてるんだ僕は。
もっと気の利いた言葉を何か……何か……。
錯乱する僕のことなどお構いなしに、夢莉さんは夢見心地な声音で言葉を紡いでいく。
「私ねぇ……かなたくんのお顔、好きなんだー……」
「あ、ありがとう……」
「今日はー……どこが好きなのか……詳しく、教えてあげるね?」
「い、いや……別にいいよ……」
「……教えてあげる、ね?」
「おねがいします」
有無を言わせぬ力を感じ、僕は首肯した。
どうして僕がお願いする形になってるのかは謎だ。
夢莉さんの右手が、ゆっくりと僕の頬を撫でながら、上がっていく。
「まずはー……この耳……」
「み、耳?」
夢莉さんのほっそりとした指が、左耳に絡んだ。
人差し指、だろうか。耳介の中にするりと入り込むと、その部分を爪でかりかりとかいた。静かで大きな音が、鼓膜を通して強く脳内に響く。
「っ……、ゆ、夢莉、さん?」
「綺麗な形……。食べちゃいたい……」
「そ、そこ汚いから……あんまり触らない方が……」
「気に入ったものって……なんだか口にいれたくなっちゃうよね……」
赤ちゃんみたいだね……というツッコミは、僕の口から出ることはなかった。
夢莉さんの左手の親指が、僕の唇に添えられたからだ。
「次はー……唇の形」
「……」
なんだろう。夢莉さんの趣味が随分マニアックな気がする。これは褒められて喜ぶ所なのか?
ゆっくり、ゆっくりと、夢莉さんの親指が僕の唇の形をなぞる様に動く。
「ちょっと薄めの唇、好きだなぁ……それからー……端がちょっとだけきゅって上がってる……かわいい……猫ちゃんみたい」
「……」
熱い吐息と共に、彼女はそんな言葉をゆっくりとこぼした。
何か喋ったら夢莉さんの指が口内に入ってしまいそうで、僕は口を開けなかった。
「この唇も……食べちゃいたいなぁ……」
「……っ」
それは。
色々とまずいのではないだろうか。
胸の鼓動がうるさい。
緊張しているからなのか、それとも興奮しているからなのか、はたまた、その両方なのか。
それすら判別できないほどに、僕の脳内は混乱していた。
「……食べて、いい?」
夢莉さんの右手は、いつの間にか僕の後頭部に回っていて、ぐいっと彼女の方に引き寄せられる。
いいのか? これでいいのか?
こんななし崩しみたいな形で。お互いの気持ちが固まっていない状態で。
踏み切ってしまってもいいのか? なにより、夢莉さんは、僕の事を――――っ
「ゆ、夢莉さん、あの――――」
その時、がちゃんという音と共に、大量の光が倉庫の中に溢れかえった。
「七々扇さん! 日向さん! 大丈夫で………………一体何をしているんですか?」
ぐったりとした女性を抱え、顔を近づける男。それが僕だ。
夢莉さんはいつの間にか寝てしまったらしく、右手はだらりと下を向いている。
要するに傍から見れば僕は意識を失った夢莉さんに必要以上に顔を近づけている状態で……。
「ち、違うんです! これは違うんです!」
待ちに待った先生方の到着時に僕が発した最初の言葉は、そんな浮気現場を目撃された男性のテンプレ発言みたいな、安っぽいセリフだった。
僕は放課後のシャワータイムを終えて、夕ご飯までの時間を本を読んで過ごすべく、教室棟に向かって歩いていた。
水飲み場の辺りに鴨川さんの姿が見えた。彼女も今から教室に向かう所なのかもしれない。
期末試験も終わり、活動を再開した運動系の部活に所属する生徒が、バタバタと寮に向かって走っていく。
放課後の短い時間を目一杯使って練習をする代償として、彼らはシャワー時間を削っている。
運動を終えて疲れた体を引きずって、十数分でシャワーを浴びて身支度をする、いわゆるシャワーダッシュと言われる伝統芸があるのだ(ダッシュと奪取を兼ねてるという噂だ)。
とてもじゃないが僕にはできない芸当だ。走り去っていく皆に心の中で敬礼を送っていると、女子寮の扉から見知った人物が姿を現した。
夢莉さんだ。
「あ、奏汰くん。やっほー」
ひらひらと手を振って微笑んだ彼女の目を何故か直視できず、僕も手を挙げて挨拶をした。
昨日ララちゃんが変なことを言ったせいで、妙に意識してしまう。
「教室棟に向かう所?」
「うん……風邪、まだ治ってないの? 大丈夫?」
マスクこそ外れている物の、夢莉さんの声はかすれていて、喉の調子が悪い事はすぐに分かった。
折角の耳に心地よい声音が、砂が混じったような音になっていて悲壮感が増している。
首に手をやり、あはは、と彼女は笑った。肩甲骨辺りでそろった彼女の髪が静かに揺れた。
「中々長引いちゃってて」
「ゆっくり休んでた方がいいんじゃない?」
「そうもいかないよー。そろそろクラス展示も部活演出も、本格的に始動させなきゃいけないし」
八月も半ばになり、いよいよスクフェスに向けて生徒が積極的に活動を始めた。
模型班と背景担当の人たちは、既に教室内のあらゆるところの大きさをはかり、模型のサイズや模造紙のサイズを計算し始めていた。
模型を作るには普段は使わないような材料が必要で、それを先生に注文するのが九月の終わりから十月の頭にかけて。
それまでに、作る模型や必要な材料を一通り算出しないといけない訳だ。
全ての班の材料や内装の細やかなデータは一括して夢莉さんが取りまとめているため、彼女の仕事は中々に多い。
「それはそうだけど……文芸部の方、少しペース落とそうか?」
「だめだめー。折角いい調子で集まって来てるんだから、このまま頑張らないと……っとと」
何かに躓いたのか、それとも足に力が入らなかったのか。
その場でよろめき、こけそうになった夢莉さんを、僕はすんでの所で受け止めた。柔らかい感触と、何かよく分からないけど、とりあえずすごくいい匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「あ、はは。ありがとー奏汰くん。奏汰くんって、意外と力あるんだねー」
力なく笑う夢莉さんに触れて、僕は気づいた。
夢莉さんの体は、とても熱かった。これ、三十七度後半くらいあるんじゃ……。
「ねぇ夢莉さん、やっぱり保健室行った方が――――」
「あ、ミョウミョウだー」
「え?」
振り返ると、確かに水谷先生が走ってくるところだった。
いつもクールでせわしなさとは無縁な感じの水谷先生が走っているなんて、なんだかレアな光景だ。
それにとても険しい顔をしている。
やがて声が届く距離に来た水谷先生は。僕たちが声をかける前に、切羽詰まった口調で言った。
「日向君、七々扇さん、もしよかったら手を貸してもらえませんか?」
「どうしたんですか、先生? 何かあったんですか?」
さっきまでの弱々しい姿はどこへやら、夢莉さんはしっかりと自分の足で立ち、はきはきとした口調で言った。
弱っているところを見せれば、先生は自分に相談事ができないかもしれない。
急を要する様子の先生に、迷惑はかけられない。
そんなところだろう。つくづく夢莉さんはいい子過ぎる。
せめて彼女のサポートをして、負担を減らしてあげなければ。
そんな僕らの思いつゆ知らず、水谷先生は端的に言った。
「体育館の倉庫が荒らされているんです」
◇◇◇
自分が他の先生方を連れてくるまでの間、誰も入らないように見張っていてくれないか、という水谷先生の言葉を受けて、僕たちは体育館へと向かっていた。
夕飯の時間までは残り二十分ほど。この時間に体育館に向かう生徒はいないと思うけれどかなり危険なので念のため、という事だった。
僕としては体育館倉庫の状態よりも、夢莉さんの体調の方が心配だったけど……今ここで戻って休むようにと言っても、彼女は首を縦には振らないだろう。何かあったときの為に僕が傍にいる方が良いと判断した。
すぐに体育館に着いた僕たちは、靴を履き替え中へ踏み込んだ。体育館倉庫は、体育館に入って右手すぐの所にある。
「……?」
ふと足元に目をやると、体育館の床に点々と白い粉が付いていた。
なんだろう、これ……? 砂、ではなさそうだけど……。
「うわぁ……、これは酷いね……」
夢莉さんの声に釣られて、僕も顔を上げて体育館倉庫の中を覗き込んだ。
体育で使うあらゆる道具が収納されている倉庫は、普段はきちんと整理されている。
それは体育委員の努力の賜物でもあるし、各部活の生徒が、きちんと後片付けをしているからでもある。やはりここの学院の生徒は、個性派ぞろいではあるものの、その辺りはきちんとしているのだ。
そんな体育倉庫が、今はとんでもない状態になっていた。
縄跳びや握力系などの小物が入った棚や体操用マットは倒れ、バスケットボールの入った籠はぶちまけられ、そこら中にボールが散乱している。跳び箱も崩れ落ち、挙句の果てには蛍光灯が一つ割れていた。
「ひどい……」
倉庫の中だけ台風でも通り過ぎたのかと言うくらいの荒れっぷりに、僕たちは言葉を失った。明らかに誰かが、意図的に起こしたとしか思えない状況。考えたくはないが……この学院の中に犯人が居るのだろう。
もちろん自分から名乗り出てくれればそれでいい。僕が、あるいは私がやりましたと、正直に告白してくれるならば、それで万事解決だ。
だけど……どうしてだろう。
僕はこの体育倉庫を見た瞬間から、そうはならないのではないかと、直感していた。
この事件を起こした人物は、過失で、何かの不幸な事故で、この状態にしてしまったのではないと、何故かそう感じた。
気持ち悪い。
なんだろうか、この感情は。
僕はふと、ララちゃんの言葉を思い出した。
『だからこそ……気になるよ』
『何が……?』
『悪の感情に出会った時、果たして君はどうなってしまうのか、ね』
「……」
これが……これが悪意、なのか?
分からない。分からないけれど、一先ず僕は、夢莉さんにばれないように、この体育倉庫の様子を写真に収めることにした。
体育倉庫の中を見る夢莉さんが入らないように、ミュート機能を使って数枚、写真を撮った。
体育倉庫はその内誰かの手で片づけられてしまうだろうから、証拠を残しておく必要があると思った。
「ちょっと……中に入ってみよっか、奏汰くん。中がどうなってるのか……もうちょっと……記憶にとどめて、おきたいかも」
「あ、危ないよ。蛍光灯も割れてるみたいだし、破片とか踏んじゃったら――――」
それ以前に、夢莉さんの声に覇気がない。やはり限界なのではないだろうか?
そう声をかけようとした、その時。
体育倉庫の中に視線が向いていた僕たち二人は、突如、何者かに背中を押された。
そんなに強い力で押されたわけではない。けれど、突然の事で姿勢を崩した僕と夢莉さんは、倒れ込むようにして倉庫の中に足を踏み入れた。
「――――っ⁈」
驚いて振り向く間もなく、体育倉庫の扉が閉められた。
がちゃりと、固い金属音が倉庫の中に響き渡る。
「一体誰が――――っ夢莉さん⁈」
状況は更に悪化していた。
もともと風邪を引いていて、足元が覚束なかった夢莉さんはバランスを崩し、倉庫内にあった得点板にぶつかって派手に転んでいた。
床には蛍光灯の破片が散らばっていたはずだ。
僕は薄暗い倉庫の中、できる限り迅速に夢莉さんの元に駆け寄った。
「夢莉さん! 夢莉さん、大丈夫⁈」
「い、いたたたた……あはは、ドジ、踏んじゃったー……」
「どこか怪我してない⁈ 痛そうな音がしてたけ……ど……」
膝立ちになって、転んだ夢莉さんを抱え起こすと、夢莉さんの左頬を流れ落ちる液体が視認できた。
血だ。
見ると、左眉あたりに擦過傷がある。
さっき転んだ時に、得点板の角にぶつけたのだろうか。
傷がどれくらい深いのかは分からないけれど、それでも確実に血は流れ続けている。
どくん、と。僕の胸の辺りで何かが跳ねた。鳥肌が立つ。
「ゆ、夢莉さん! 血が出てる! 早く止血しなくちゃ……」
僕はポケットからハンカチを取り出して、夢莉さんの頬をぬぐい、そのまま額に付けた。さっきお風呂上りに新しいハンカチに取り換えたばかりだから、綺麗なはずだ。
「っ……」
「ご、ごめん痛いよね」
「ううん、大丈夫。ありがとー、奏汰くん……」
力なく、夢莉さんがそう言った。
やはり額が熱い。熱のせいで体に力は入らず、頭は回っていないに違いない。ぐったりと僕の腕に身を預けた夢莉さんの体は、人一人分の重量があって。傷付いた夢莉さんを安静に保健室まで運べる自信が僕にはなかった。
幸いな事に、水谷先生や他の先生方がもうすぐ来てくれるはずだ。
僕にできることは、それまで夢莉さんの傍にいてあげる事、それだけだ。自分の不甲斐なさに、力のなさに、どうしようもない憤りを感じる。膝の上で、夢莉さんがもぞりと動いた。
「かなた……くん」
「なに、夢莉さん……?」
「ふふ……お顔が……近いねぇ……」
甘えたような声。
いつもの夢莉さんとは少し違うその声音は、きっと風邪のせいだろう。
場違いながらどきりとしつつ、僕は顔をそむける。
「ごっ、ごめん……!」
「だーめー……いかない、で……?」
僕の両頬を夢莉さんの手が柔らかく包み込んだ。
右腕は夢莉さんの後頭部に、左手は夢莉さんの額のハンカチを押さえている僕は、それを避けることができない。
「あは……見ーえた……」
「こ、こんにちは」
「ふふ、こんにちはー……」
なんて間抜けな返答をしてるんだ僕は。
もっと気の利いた言葉を何か……何か……。
錯乱する僕のことなどお構いなしに、夢莉さんは夢見心地な声音で言葉を紡いでいく。
「私ねぇ……かなたくんのお顔、好きなんだー……」
「あ、ありがとう……」
「今日はー……どこが好きなのか……詳しく、教えてあげるね?」
「い、いや……別にいいよ……」
「……教えてあげる、ね?」
「おねがいします」
有無を言わせぬ力を感じ、僕は首肯した。
どうして僕がお願いする形になってるのかは謎だ。
夢莉さんの右手が、ゆっくりと僕の頬を撫でながら、上がっていく。
「まずはー……この耳……」
「み、耳?」
夢莉さんのほっそりとした指が、左耳に絡んだ。
人差し指、だろうか。耳介の中にするりと入り込むと、その部分を爪でかりかりとかいた。静かで大きな音が、鼓膜を通して強く脳内に響く。
「っ……、ゆ、夢莉、さん?」
「綺麗な形……。食べちゃいたい……」
「そ、そこ汚いから……あんまり触らない方が……」
「気に入ったものって……なんだか口にいれたくなっちゃうよね……」
赤ちゃんみたいだね……というツッコミは、僕の口から出ることはなかった。
夢莉さんの左手の親指が、僕の唇に添えられたからだ。
「次はー……唇の形」
「……」
なんだろう。夢莉さんの趣味が随分マニアックな気がする。これは褒められて喜ぶ所なのか?
ゆっくり、ゆっくりと、夢莉さんの親指が僕の唇の形をなぞる様に動く。
「ちょっと薄めの唇、好きだなぁ……それからー……端がちょっとだけきゅって上がってる……かわいい……猫ちゃんみたい」
「……」
熱い吐息と共に、彼女はそんな言葉をゆっくりとこぼした。
何か喋ったら夢莉さんの指が口内に入ってしまいそうで、僕は口を開けなかった。
「この唇も……食べちゃいたいなぁ……」
「……っ」
それは。
色々とまずいのではないだろうか。
胸の鼓動がうるさい。
緊張しているからなのか、それとも興奮しているからなのか、はたまた、その両方なのか。
それすら判別できないほどに、僕の脳内は混乱していた。
「……食べて、いい?」
夢莉さんの右手は、いつの間にか僕の後頭部に回っていて、ぐいっと彼女の方に引き寄せられる。
いいのか? これでいいのか?
こんななし崩しみたいな形で。お互いの気持ちが固まっていない状態で。
踏み切ってしまってもいいのか? なにより、夢莉さんは、僕の事を――――っ
「ゆ、夢莉さん、あの――――」
その時、がちゃんという音と共に、大量の光が倉庫の中に溢れかえった。
「七々扇さん! 日向さん! 大丈夫で………………一体何をしているんですか?」
ぐったりとした女性を抱え、顔を近づける男。それが僕だ。
夢莉さんはいつの間にか寝てしまったらしく、右手はだらりと下を向いている。
要するに傍から見れば僕は意識を失った夢莉さんに必要以上に顔を近づけている状態で……。
「ち、違うんです! これは違うんです!」
待ちに待った先生方の到着時に僕が発した最初の言葉は、そんな浮気現場を目撃された男性のテンプレ発言みたいな、安っぽいセリフだった。
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……本当にわからせられるのは俺の方だということを、この時点ではまだわかっちゃいなかったのだ。
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