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出題篇 □■□■君は
第四話 (4) 『春、来たりて』
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その日の晩は脇谷レオ、通称わっきーを加えてすさまじいエロトークで盛り上がったのだけれど、その話はまたの機会に取っておく事にしよう。
因みに就寝後は見回りの先生(当番制らしい)が寮に併設された宿直室という場所にいて、騒ぎすぎると物凄い剣幕で怒りに来る。
深夜のエロトークというのは眠気のピークを過ぎれば謎のテンションと声のボリュームで盛り上がれることは請け合いで……まぁ要するに僕は転校初日から宿直の先生に大目玉を食らった。
「あんなん日常茶飯事やで。様式美や、様式美。サザエさんのじゃんけんみたいなもん」
最後のはよく分からなかったけれど、要するに気にしなくてもいい、という事なのだろう。
まぁ健全な思春期男子が集まって、静かにしろと言うのが土台無理な話だ。宿直の先生には申し訳ないけれど、これからも厄介になることになりそうだ。
いや、そんな事はどうでもいい。
こんちゃんの性癖がえぐいとか、わっきーが学校の清掃員さんのエロさについて語り出すと止まらないとか、そんな話はどうでもいいのだ。
麗華稀月の話をしよう。
彼女はこの学院始まって以来の天才らしい。
『凡才に寄り添う天才』、もとい、『寄り添う天才』。それが彼女の売り文句だった。
彼女と直接話をすることになったのは、僕が入学して一週間後の事だ。
◇◇◇
「そこは一度xで括ってから公式に当てはめると早いよ、日向君」
夜の自習時間、その日数学の宿題で出た「因数分解」とかいう謎の問題にうんうんと唸っている時に、彼女は現れた。
「え? あ……あー! ほんとだ! ありがとう、えーっと……麗華さん?」
「ふ、堅苦しいな。もっと気軽に……そうだな、『ララちゃん』とでも呼んでくれたまえよ」
きっと麗華と稀月の両方に共通する「らら」を抽出したあだ名なんだろうけれど、僕は生まれてこの方、女性をあだ名で呼んだことがない。
大体君がそう呼ばれてるのを聞いたことがない。
そう説明すると、彼女はゆるふわショートヘアーの髪に指を入れてがしがしと頭をかきながら言った。
「ふ、なら私が君の初めてになれば問題あるまい?」
「あ、はは、その表現に問題があるかな?」
なんで『はじめて』の部分だけやたらと強調して言ったのかな、麗華さん?
あとね、今、自習中だから! 周りに人いるから! せめて声落として!
「私では……不満なのか?」
「いや、そうじゃなくてね」
「私も初めてを捧げようとしているのに? こんなにも! 覚悟を決めて! 今まさに捧げようとむぐむぐ」
「よっし、ちょっと外に出ようか麗華さん! 二人で仲良く、お喋りしようぜ!」
畜生! この子人の話を聞きやしない!
ここ数日、雅樹を始めとする変態三人衆の相手をしてきたおかげで、僕のツッコミ、変人対応スキルは急激に伸びていた。
どうにもこの学院には彼ら以外にも変た……言い過ぎか、変じ……これも違う、個性派……うん、もうこれでいいや。
個性派の人間が多いらしく、自分を強く保っていないと「あれよあれよ」ととんでもない状況に流されかねない。
機転を利かせた僕は、片手で麗華さんの口をふさぎ、もう片手で彼女の手を取り、教室の外に出て、人目のつかない場所へと移動した。
食堂前の水飲み場の前まで来たところで、僕は麗華さんの手を離す。
「ふふ、こんな人気のない所に連れてきて、一体どういうつもりかな? 怖くて怖くて、私、震えが止まらないわっ……。さてさて、今日の下着は……おぉ、大丈夫、それなりに自信があるぞ」
「せめて一回のセリフ内ではキャラと感情を固定してくれるかな」
「ふ、こいつは失敬。では自然体でいかせてもらおう」
それが通常運転なのかよ、というツッコミを飲み込みながら、僕は麗華さんの顔を見据える。
麗華さんの顔はめちゃくちゃ整っている。はっきり言って美人だ。
彼女の手にかかれば、そのやる気のなさそうなぼんやりとした目も、覇気のない態度も、少しだらしのない服装も、全てがプラスの要素へと還元される。
頭がよくて、見栄えもいい。少々背は小さいが、それもまた可愛らしさを引き立てている。
まさに天に全てを与えられたんじゃないかと思うような人間だ。
ただ惜しむらくは胸がない。
だから何だという訳ではないが、胸はない。
もう一度言う。胸は、無い。
あぁ……天はやはり平等なのかもしれない。
「……君はシュレディンガーの猫の話を知っているか?」
「はい?」
「批判思考実験の一つだ。箱の中の猫が死んでいるか死んでいないかの確率は一対一。開けてみるまで分からない」
一時間以内に五十%の確率で青酸カリを放出する、特殊な機械が入った密閉された箱の中にネコを入れた場合、一時間後に箱を開けて確認するまでは、中には生きている猫と死んでいる猫が一対一の確率で存在している、という架空の実験。
確か何かの理論から得られる結論の異常さを指摘するための批判実験、だったかな。
「いや、知ってるけどそれが一体なんだって……」
「つまり、私の胸が本当に無いかどうかも、実際に見るまでは分かるまい? もしかしたらサラシで思いっきり締め付けているかもしれないし、コルセットにぎっちぎちに詰め込んでいるかもしれない。つまり、私のここには現在、巨乳と虚乳が同一確率で存在していることになる。言っていることが分かるか?」
「分かった。じろじろ見た僕が悪かったからそれ以上自分を傷付けないで」
女子は自分の胸が見られている事くらい、ちゃんと分かってるっていうもんね。
不躾(ぶしつけ)で情欲にまみれた視線を投げかけるのは失礼極まるってもんだ。
うん、本当にごめんね、七々扇さん。
「……今違う女を想像したな」
「話を進めようぜ、麗華さん。この話題はあまりにも不毛だ」
その後、誰の胸が不毛の大地だ! と言う麗華さんを必死でなだめ、ようやく本題に入る事が出来た。
「で、一体どういうつもりであんな絡み方したの?」
色素の薄いゆるっとしたショートヘアーの毛先をくるくると弄りながら、麗華さんは答えた。
「君に興味があるからね」
「どういう……?」
「君は私にはない、優れた能力がある。そして私は、そういう相手をリスペクトする」
「冗談だろ?」
彼女が何故「寄り添う天才」と呼ばれているのかは、既にルームメイトたちから聞いていた。
既に大学入試レベルの問題は軽く解けるとか、一度覚えた事は絶対に忘れないとか、そういう些細な事はオプションとしてついているが、本質は別にある。
例えば、天才は天才であるがゆえに、凡人の気持ちが分からない、と言う。
簡単に言えばそれは、数学の問題の初歩でつまずいている相手に、何故それが理解できないのか分からない、と言うようなものだ。
けれど彼女と出会った人は皆、そんなのは本当の天才と出会ったことがない人間が吐くセリフだと言う。
麗華稀月は、問題の構造を理解し、分解し、ある時は階層化し、ある時は並列化し、多角的に、客観的にとらえ直すことで、凡人がどこでつまずくかを把握する。
どこで理解の難易度が上がるかを理解し、自分と他人との乖離を察知し、その差分を詰めることができる。
相手が凡人であろうが、変人であろうが、奇人であろうが、それこそ天才であろうが、全ての相手のレベルに合わせて、語り合う事ができる。
だからこその、寄り添う天才。
彼女ほど、主観を取り除いて事象を見つめることができる人間はいない。
究極の科学者であり、観測者。
そんな彼女がリスペクトする部分が、僕ごときにあるとは到底思えなかった。
「謙遜するな。自分でもわかっているとは思うが……君は極めて高い共感力がある。共感力、というよりは、『エンパス』とでも呼べばいいのかな」
「あぁ……『舞姫』の事?」
「その通り。ふふ、いやはや、あれは中々に面白かったよ」
国語、いや現国の時間に、何故か森鴎外の舞姫の話になった。
舞姫は本来高三で取り扱う内容らしいが、国語が得意な人が多いとかなんとかで、担当の南先生が読んだことがあるかどうか、そしてその感想を聞いてきた。
読んだことがあったのはクラスの三分の一に満たないくらいの人数で、大方の感想は『豊太郎が最低だ』『エリスがかわいそう』というものだった。
そんな中、僕の感想はいたってシンプルだった。
『豊太郎に全面的に非があるとは思えません。あれはしょうがなかったんです』
それはもう、主に女子からの大ブーイングを受けたが、南先生のよく分かる解説のお陰で、僕はクラスで浮くことなく、栓なきを得た。
「君、本を読む時に登場人物に自分を置き換えてるだろう。それも、かなり深く」
「……」
「エンパスとは、他人の感情を直感的に感じ、あたかも自分の事の様に受け入れることができる先天的な能力のことだ。つまり君は、相手の感情を高い精度で読み取ることができる」
「……買いかぶりすぎだよ」
残念ながらそんな大層なものではない。
凡才に寄り添う天才といえど、深読みしすぎることはあるということか。
「僕が読み取れるのは精々『物語』の中の登場人物の感情くらいのもので、現実の人の感情が分かる訳じゃない。そしてこの程度の能力は誰だって……君だって持ってるはずだ。舞姫の解釈は、麗華さんも僕と一緒だったでしょう?」
「あぁ、一緒だった。だが、私は解答に至るプロセスが違う」
ずいっと、麗華さんが一歩僕ににじり寄った。柑橘系の香りがする。香水だろうか。
「舞姫を読み解く上で重要な要素は時代背景、そして何より、著者である森鴎外そのものだ。私は関連著書をいくつか読んでいるし、明治の歴史もそれなりに知っている。それらの情報を断片化し、精査し、傍観すれば自ずと答えにはたどり着く。しかし君は違う。君はあの物語を読んでいる間、まさしく豊太郎だった。そして真相にたどり着いた。違うか?」
「……」
確かに僕は彼女のような思考ルートを辿って、あの答えを言った訳ではない。
なんなら、別に何か深い考察があったわけでもない。ぼんやりと思ったことを口にしただけだ。
愛する人を失うことを選ぶしかなかった、激動の時代に流され、翻弄され、自分の無力さをただ灰色の感情を持って眺めることしかできなかった、彼の気持ちを。
「君は『物語』の登場人物の思考しかトレースできない、そんなのは大したことがない、というが……ふ、私は十分、その才能に嫉妬するね。きっと君にしか見えない真実が、世界にはあるだろうから」
「またそんな大げさな……」
やっぱり買いかぶりが過ぎる気がして、僕は否定の言葉を口にしようとした。だが、彼女の言葉に引っ掛かりを覚え、言葉を変える。
「それって、七々扇さんの事と何か関係があるの? 先週僕に言った、あの言葉と」
『七々扇夢莉には気をつけろ』
すれ違った時、僕にだけ聞こえるように言ったあの言葉の真意を、そう言えばまだ彼女に聞いていなかった。
「ふむ……。君はそのことを七々扇夢莉に話したか?」
「君に気をつけろって言われたこと? 言ってないよ。あれからそんなに話してないし」
彼女はいつも男女問わず、なんなら学年問わず大勢の友人に囲まれていたし、僕は僕でここの生活に慣れるのに必死だった。
部活の事とかもあるし、また色々と話したいとは思っているのだけど。
「そうか、なら私から情報を出しすぎるのはやめておこう。君にいらぬ先入観を与えたくない。データバイアスは出来る限り避けるべきだ」
ただ、と彼女は付け加えた。
「これはいずれ君の耳にも入るだろうし、教えておこう。彼女は私と違い、高校から入学した。君の一か月程前に入学したわけだ。当然最初はそんなに知名度は高くなかったわけだが……今は見ての通り、大人気だ」
そうだね、と僕も頷く。
愛嬌があって、優しくて、かわいくて、おまけになんかエロい彼女の人気はとても高い。
「その原因となった事件がある。事件、といっても大したものではないが……彼女はそれを解決し、たちまち人気者になった」
「へー……」
「更にそれを皮切りに、彼女の元には度々相談事が舞い込んできているらしい。彼女はこの学院における、相談窓口でもあり……探偵でもある」
いつも誰かと話をしていたり、あわただしく移動しているのは知っていたけれど、まさかそんな人助けをしていたなんて。道理で中々話ができないはずだ。
しかし……話を聞く感じ、七々扇さんは「すごい人」ではあっても「気を付ける人」には思えない。
まだ何か、隠している情報があるのではないだろうか。そう僕が言うと、麗華さんはにやっと笑って言った。
「そこから先は自分の目で確かめてくれたまえよ少年。時折助言をするからさ」
「よく分からないけど……まぁ、気には留めておくよ」
「そうしてくれ」
「じゃぁ、そろそろ戻ろうか。あんまり長く抜け出すと水谷先生に怒られそうだし」
水谷美代、の美代の部分が派生して、ミョウミョウというあだ名になったとつい最近教えてもらった。彼女のあだ名を始め、先生方のあだ名は突拍子もないものが多くて面白い。
「あぁ、それともう一つ」
「まだ何か?」
「私の事は『ララちゃん』と呼びなさい」
「だからそれは嫌だってば」
「ふむ、中々頑固な奴だ。なら……これでどうだ」
そう言うと、麗華さんは唐突に僕の手を取り、自分の胸に当てた。
ぽすん、と悲しい音がした。
僕の右手は麗華さんの胸に添えられている。
ぼくのみぎてはうららかさんのむねにそえられている。
ボクノミギテハウララカサンノムネニソエラレテイル。
現状と彼女の意図とその感触を必死に咀嚼しようと頭をフル回転させていると、麗華さんが僕の顔を覗き込んできた。
「どうだ?」
どうだ?
どうだってなんだ?
感想を求められているのか?
とにかく何か言わなければと、神妙な表情を作って、思ったことをそのまま口にした。
「とりあえず、シュレディンガーの猫が死んでいたことは分かった」
「誰の胸が臨床状態だ!」
「いや、それは言ってな――――おおおおおおおおお⁈ いてぇええええええ!」
刹那、彼女の姿が視界から消えたかと思うと、僕の体は宙を舞い、背中から地面にたたきつけられていた。
あまりにも綺麗で切れ味のある背負い投げを決められ僕は咳き込みながら悶える。
この子、格闘技までできるのかよ……。
仰向けのまま動けない僕の胸に足を置き(ご丁寧に革靴は脱いでくれている)、腕を組んで見下ろしながら彼女は言った。
「いいか、この学院での私の発言力は君より大きい。『さっき水飲み場で日向君に胸をもまれたんです。しかもあろうことか、揉むほどねぇな、って言われたんです、しくしく』と言えば君の学院生活は終わりだ。そうされたくなかったら『ララちゃん』と呼べ」
上から降ってくるどすの効いた声を聞きながら、あぁもうちょっとでパンツ見えそう、とか、うーん、四十デニールくらい? いいね! とか、やばいな、大分僕の思考回路雅樹達に毒されてる……とか全く関係ない思考に気を取られつつ、僕は返答する。
「それ……実際に胸触らせる必要あった?」
「実際にされてない事をあげつらう程、私は落ちぶれてないつもりだ」
揉むほどねぇな、とは言ってないけどそれは良いのか……。
色々と思う所はあったものの、言い合いをする元気も最早残っていなかった僕は、彼女の事を『ララちゃん』と呼ぶことになった。
ついでに彼女は僕の事を『カナタ』と呼ぶらしい。
別に構わないけれど、なんでそこまで呼称にこだわるのか、僕には全く分からなかった。
因みに就寝後は見回りの先生(当番制らしい)が寮に併設された宿直室という場所にいて、騒ぎすぎると物凄い剣幕で怒りに来る。
深夜のエロトークというのは眠気のピークを過ぎれば謎のテンションと声のボリュームで盛り上がれることは請け合いで……まぁ要するに僕は転校初日から宿直の先生に大目玉を食らった。
「あんなん日常茶飯事やで。様式美や、様式美。サザエさんのじゃんけんみたいなもん」
最後のはよく分からなかったけれど、要するに気にしなくてもいい、という事なのだろう。
まぁ健全な思春期男子が集まって、静かにしろと言うのが土台無理な話だ。宿直の先生には申し訳ないけれど、これからも厄介になることになりそうだ。
いや、そんな事はどうでもいい。
こんちゃんの性癖がえぐいとか、わっきーが学校の清掃員さんのエロさについて語り出すと止まらないとか、そんな話はどうでもいいのだ。
麗華稀月の話をしよう。
彼女はこの学院始まって以来の天才らしい。
『凡才に寄り添う天才』、もとい、『寄り添う天才』。それが彼女の売り文句だった。
彼女と直接話をすることになったのは、僕が入学して一週間後の事だ。
◇◇◇
「そこは一度xで括ってから公式に当てはめると早いよ、日向君」
夜の自習時間、その日数学の宿題で出た「因数分解」とかいう謎の問題にうんうんと唸っている時に、彼女は現れた。
「え? あ……あー! ほんとだ! ありがとう、えーっと……麗華さん?」
「ふ、堅苦しいな。もっと気軽に……そうだな、『ララちゃん』とでも呼んでくれたまえよ」
きっと麗華と稀月の両方に共通する「らら」を抽出したあだ名なんだろうけれど、僕は生まれてこの方、女性をあだ名で呼んだことがない。
大体君がそう呼ばれてるのを聞いたことがない。
そう説明すると、彼女はゆるふわショートヘアーの髪に指を入れてがしがしと頭をかきながら言った。
「ふ、なら私が君の初めてになれば問題あるまい?」
「あ、はは、その表現に問題があるかな?」
なんで『はじめて』の部分だけやたらと強調して言ったのかな、麗華さん?
あとね、今、自習中だから! 周りに人いるから! せめて声落として!
「私では……不満なのか?」
「いや、そうじゃなくてね」
「私も初めてを捧げようとしているのに? こんなにも! 覚悟を決めて! 今まさに捧げようとむぐむぐ」
「よっし、ちょっと外に出ようか麗華さん! 二人で仲良く、お喋りしようぜ!」
畜生! この子人の話を聞きやしない!
ここ数日、雅樹を始めとする変態三人衆の相手をしてきたおかげで、僕のツッコミ、変人対応スキルは急激に伸びていた。
どうにもこの学院には彼ら以外にも変た……言い過ぎか、変じ……これも違う、個性派……うん、もうこれでいいや。
個性派の人間が多いらしく、自分を強く保っていないと「あれよあれよ」ととんでもない状況に流されかねない。
機転を利かせた僕は、片手で麗華さんの口をふさぎ、もう片手で彼女の手を取り、教室の外に出て、人目のつかない場所へと移動した。
食堂前の水飲み場の前まで来たところで、僕は麗華さんの手を離す。
「ふふ、こんな人気のない所に連れてきて、一体どういうつもりかな? 怖くて怖くて、私、震えが止まらないわっ……。さてさて、今日の下着は……おぉ、大丈夫、それなりに自信があるぞ」
「せめて一回のセリフ内ではキャラと感情を固定してくれるかな」
「ふ、こいつは失敬。では自然体でいかせてもらおう」
それが通常運転なのかよ、というツッコミを飲み込みながら、僕は麗華さんの顔を見据える。
麗華さんの顔はめちゃくちゃ整っている。はっきり言って美人だ。
彼女の手にかかれば、そのやる気のなさそうなぼんやりとした目も、覇気のない態度も、少しだらしのない服装も、全てがプラスの要素へと還元される。
頭がよくて、見栄えもいい。少々背は小さいが、それもまた可愛らしさを引き立てている。
まさに天に全てを与えられたんじゃないかと思うような人間だ。
ただ惜しむらくは胸がない。
だから何だという訳ではないが、胸はない。
もう一度言う。胸は、無い。
あぁ……天はやはり平等なのかもしれない。
「……君はシュレディンガーの猫の話を知っているか?」
「はい?」
「批判思考実験の一つだ。箱の中の猫が死んでいるか死んでいないかの確率は一対一。開けてみるまで分からない」
一時間以内に五十%の確率で青酸カリを放出する、特殊な機械が入った密閉された箱の中にネコを入れた場合、一時間後に箱を開けて確認するまでは、中には生きている猫と死んでいる猫が一対一の確率で存在している、という架空の実験。
確か何かの理論から得られる結論の異常さを指摘するための批判実験、だったかな。
「いや、知ってるけどそれが一体なんだって……」
「つまり、私の胸が本当に無いかどうかも、実際に見るまでは分かるまい? もしかしたらサラシで思いっきり締め付けているかもしれないし、コルセットにぎっちぎちに詰め込んでいるかもしれない。つまり、私のここには現在、巨乳と虚乳が同一確率で存在していることになる。言っていることが分かるか?」
「分かった。じろじろ見た僕が悪かったからそれ以上自分を傷付けないで」
女子は自分の胸が見られている事くらい、ちゃんと分かってるっていうもんね。
不躾(ぶしつけ)で情欲にまみれた視線を投げかけるのは失礼極まるってもんだ。
うん、本当にごめんね、七々扇さん。
「……今違う女を想像したな」
「話を進めようぜ、麗華さん。この話題はあまりにも不毛だ」
その後、誰の胸が不毛の大地だ! と言う麗華さんを必死でなだめ、ようやく本題に入る事が出来た。
「で、一体どういうつもりであんな絡み方したの?」
色素の薄いゆるっとしたショートヘアーの毛先をくるくると弄りながら、麗華さんは答えた。
「君に興味があるからね」
「どういう……?」
「君は私にはない、優れた能力がある。そして私は、そういう相手をリスペクトする」
「冗談だろ?」
彼女が何故「寄り添う天才」と呼ばれているのかは、既にルームメイトたちから聞いていた。
既に大学入試レベルの問題は軽く解けるとか、一度覚えた事は絶対に忘れないとか、そういう些細な事はオプションとしてついているが、本質は別にある。
例えば、天才は天才であるがゆえに、凡人の気持ちが分からない、と言う。
簡単に言えばそれは、数学の問題の初歩でつまずいている相手に、何故それが理解できないのか分からない、と言うようなものだ。
けれど彼女と出会った人は皆、そんなのは本当の天才と出会ったことがない人間が吐くセリフだと言う。
麗華稀月は、問題の構造を理解し、分解し、ある時は階層化し、ある時は並列化し、多角的に、客観的にとらえ直すことで、凡人がどこでつまずくかを把握する。
どこで理解の難易度が上がるかを理解し、自分と他人との乖離を察知し、その差分を詰めることができる。
相手が凡人であろうが、変人であろうが、奇人であろうが、それこそ天才であろうが、全ての相手のレベルに合わせて、語り合う事ができる。
だからこその、寄り添う天才。
彼女ほど、主観を取り除いて事象を見つめることができる人間はいない。
究極の科学者であり、観測者。
そんな彼女がリスペクトする部分が、僕ごときにあるとは到底思えなかった。
「謙遜するな。自分でもわかっているとは思うが……君は極めて高い共感力がある。共感力、というよりは、『エンパス』とでも呼べばいいのかな」
「あぁ……『舞姫』の事?」
「その通り。ふふ、いやはや、あれは中々に面白かったよ」
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舞姫は本来高三で取り扱う内容らしいが、国語が得意な人が多いとかなんとかで、担当の南先生が読んだことがあるかどうか、そしてその感想を聞いてきた。
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そんな中、僕の感想はいたってシンプルだった。
『豊太郎に全面的に非があるとは思えません。あれはしょうがなかったんです』
それはもう、主に女子からの大ブーイングを受けたが、南先生のよく分かる解説のお陰で、僕はクラスで浮くことなく、栓なきを得た。
「君、本を読む時に登場人物に自分を置き換えてるだろう。それも、かなり深く」
「……」
「エンパスとは、他人の感情を直感的に感じ、あたかも自分の事の様に受け入れることができる先天的な能力のことだ。つまり君は、相手の感情を高い精度で読み取ることができる」
「……買いかぶりすぎだよ」
残念ながらそんな大層なものではない。
凡才に寄り添う天才といえど、深読みしすぎることはあるということか。
「僕が読み取れるのは精々『物語』の中の登場人物の感情くらいのもので、現実の人の感情が分かる訳じゃない。そしてこの程度の能力は誰だって……君だって持ってるはずだ。舞姫の解釈は、麗華さんも僕と一緒だったでしょう?」
「あぁ、一緒だった。だが、私は解答に至るプロセスが違う」
ずいっと、麗華さんが一歩僕ににじり寄った。柑橘系の香りがする。香水だろうか。
「舞姫を読み解く上で重要な要素は時代背景、そして何より、著者である森鴎外そのものだ。私は関連著書をいくつか読んでいるし、明治の歴史もそれなりに知っている。それらの情報を断片化し、精査し、傍観すれば自ずと答えにはたどり着く。しかし君は違う。君はあの物語を読んでいる間、まさしく豊太郎だった。そして真相にたどり着いた。違うか?」
「……」
確かに僕は彼女のような思考ルートを辿って、あの答えを言った訳ではない。
なんなら、別に何か深い考察があったわけでもない。ぼんやりと思ったことを口にしただけだ。
愛する人を失うことを選ぶしかなかった、激動の時代に流され、翻弄され、自分の無力さをただ灰色の感情を持って眺めることしかできなかった、彼の気持ちを。
「君は『物語』の登場人物の思考しかトレースできない、そんなのは大したことがない、というが……ふ、私は十分、その才能に嫉妬するね。きっと君にしか見えない真実が、世界にはあるだろうから」
「またそんな大げさな……」
やっぱり買いかぶりが過ぎる気がして、僕は否定の言葉を口にしようとした。だが、彼女の言葉に引っ掛かりを覚え、言葉を変える。
「それって、七々扇さんの事と何か関係があるの? 先週僕に言った、あの言葉と」
『七々扇夢莉には気をつけろ』
すれ違った時、僕にだけ聞こえるように言ったあの言葉の真意を、そう言えばまだ彼女に聞いていなかった。
「ふむ……。君はそのことを七々扇夢莉に話したか?」
「君に気をつけろって言われたこと? 言ってないよ。あれからそんなに話してないし」
彼女はいつも男女問わず、なんなら学年問わず大勢の友人に囲まれていたし、僕は僕でここの生活に慣れるのに必死だった。
部活の事とかもあるし、また色々と話したいとは思っているのだけど。
「そうか、なら私から情報を出しすぎるのはやめておこう。君にいらぬ先入観を与えたくない。データバイアスは出来る限り避けるべきだ」
ただ、と彼女は付け加えた。
「これはいずれ君の耳にも入るだろうし、教えておこう。彼女は私と違い、高校から入学した。君の一か月程前に入学したわけだ。当然最初はそんなに知名度は高くなかったわけだが……今は見ての通り、大人気だ」
そうだね、と僕も頷く。
愛嬌があって、優しくて、かわいくて、おまけになんかエロい彼女の人気はとても高い。
「その原因となった事件がある。事件、といっても大したものではないが……彼女はそれを解決し、たちまち人気者になった」
「へー……」
「更にそれを皮切りに、彼女の元には度々相談事が舞い込んできているらしい。彼女はこの学院における、相談窓口でもあり……探偵でもある」
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しかし……話を聞く感じ、七々扇さんは「すごい人」ではあっても「気を付ける人」には思えない。
まだ何か、隠している情報があるのではないだろうか。そう僕が言うと、麗華さんはにやっと笑って言った。
「そこから先は自分の目で確かめてくれたまえよ少年。時折助言をするからさ」
「よく分からないけど……まぁ、気には留めておくよ」
「そうしてくれ」
「じゃぁ、そろそろ戻ろうか。あんまり長く抜け出すと水谷先生に怒られそうだし」
水谷美代、の美代の部分が派生して、ミョウミョウというあだ名になったとつい最近教えてもらった。彼女のあだ名を始め、先生方のあだ名は突拍子もないものが多くて面白い。
「あぁ、それともう一つ」
「まだ何か?」
「私の事は『ララちゃん』と呼びなさい」
「だからそれは嫌だってば」
「ふむ、中々頑固な奴だ。なら……これでどうだ」
そう言うと、麗華さんは唐突に僕の手を取り、自分の胸に当てた。
ぽすん、と悲しい音がした。
僕の右手は麗華さんの胸に添えられている。
ぼくのみぎてはうららかさんのむねにそえられている。
ボクノミギテハウララカサンノムネニソエラレテイル。
現状と彼女の意図とその感触を必死に咀嚼しようと頭をフル回転させていると、麗華さんが僕の顔を覗き込んできた。
「どうだ?」
どうだ?
どうだってなんだ?
感想を求められているのか?
とにかく何か言わなければと、神妙な表情を作って、思ったことをそのまま口にした。
「とりあえず、シュレディンガーの猫が死んでいたことは分かった」
「誰の胸が臨床状態だ!」
「いや、それは言ってな――――おおおおおおおおお⁈ いてぇええええええ!」
刹那、彼女の姿が視界から消えたかと思うと、僕の体は宙を舞い、背中から地面にたたきつけられていた。
あまりにも綺麗で切れ味のある背負い投げを決められ僕は咳き込みながら悶える。
この子、格闘技までできるのかよ……。
仰向けのまま動けない僕の胸に足を置き(ご丁寧に革靴は脱いでくれている)、腕を組んで見下ろしながら彼女は言った。
「いいか、この学院での私の発言力は君より大きい。『さっき水飲み場で日向君に胸をもまれたんです。しかもあろうことか、揉むほどねぇな、って言われたんです、しくしく』と言えば君の学院生活は終わりだ。そうされたくなかったら『ララちゃん』と呼べ」
上から降ってくるどすの効いた声を聞きながら、あぁもうちょっとでパンツ見えそう、とか、うーん、四十デニールくらい? いいね! とか、やばいな、大分僕の思考回路雅樹達に毒されてる……とか全く関係ない思考に気を取られつつ、僕は返答する。
「それ……実際に胸触らせる必要あった?」
「実際にされてない事をあげつらう程、私は落ちぶれてないつもりだ」
揉むほどねぇな、とは言ってないけどそれは良いのか……。
色々と思う所はあったものの、言い合いをする元気も最早残っていなかった僕は、彼女の事を『ララちゃん』と呼ぶことになった。
ついでに彼女は僕の事を『カナタ』と呼ぶらしい。
別に構わないけれど、なんでそこまで呼称にこだわるのか、僕には全く分からなかった。
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言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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