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三話
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照明を消した室内に、ユニットバスの明かりだけが灯っている。
さっきから聞こえていたお湯を張る水音が止まり、せっけんと湯気の生暖かい匂いが部屋の中に漂い始めた。
「入って来いよ」
機嫌の良さそうな新堂の声が、明かりの方から響いている。
「いい。後で入る」
何も身に着けずにベッドに俯せていた俺は、気怠気な声を張り上げた。
辛うじて腰まで毛布に包まり、素足に当たるごわごわした感触が心もとない。
剥き出しになった裸の肩まで毛布を引き上げ、蓑虫みたいに丸くなった。
無茶なぐらいに激しくされた、さっきの行為を思い出す。
差し込まれていた感触が体の奥に残り、甘い余韻に浸る。
この体は、まだ新堂を引き留めておける。
俺を求めて情熱的だった男の愛撫に、今日のところはまだ大丈夫と安堵する。
先のことは分からない。
そう覚悟はしていても、こんな風に心行くまで満たされた後は、いつも少しだけ楽観的でいられた。
「緒方、いいから来い。洗ってやるから」
珍しくしつこいぐらいに言ってくる。
仕方なく、重い体を無理やり起こした。
毛布から抜け出て、まっすぐ風呂場に入っていったら、むせ返りそうな湯気の中で、お湯に浸かった新堂は、バスタブの縁に片肘をついてこちらを向いていた。
「何?」
頭の先からつま先までじろじろ見てくる無遠慮な視線に、細いばかりの貧相な男の体が気恥ずかしくなる。
かといって、隠すというのも格好悪い気がして、仕方なく、顔だけを横に向けて逸らした。
「来いよ」
新堂はにやにや笑って尚も言ってくる。
「だから狭いよ」
大柄な新堂ひとりでバスタブはいっぱいだ。無理を言うなと、唇をむっと突き出した。
「平気、いけるって」
ぶすっとした俺の顔が可笑しかったのか、新堂はくすりと笑って、俺に片手を伸ばしてくる。
しかたなく、その手に掴まり、バスタブを跨いだ。
新堂の手に導かれるまま、向かい合わせに体を沈める。
俺の体の体積の分だけ、お湯が勢いよくざざっと音を立ててあふれ出た。
「ほらな、ギチギチじゃないか」
お湯の中、俺はきっちり両足を折りたたみ体育座り。
新堂の両足がウェストの辺りを締め付ける。
「うっわ、きついな」
声を上げた新堂を、ほれみろと、両足を抱えて睨み返した。
「おまえ、細いくせに意外にデカいな」
「俺のせいかよ」
さらに白けた視線を新堂に投げてやる。
「こっちに背中向けろ」
「ええっ?」
この状態で体の向きを変えろってか。
ざっと立ち上がって、後ろ向きに腰を下ろし直すと、新堂は俺の腹のあたりを抱きかかえ、膝の上に座らせた。
「何、この体勢」
「いいから、いいから」
前に腰をずらしてお湯の中で仰向けに寝そべり、新堂の胸に後頭部を預ける形で落ち着いた。
もっとも、両足は湯船の外に放り出している。
湯船の底に沈んでしまいそうになるのを、俺の両脇に腕を回して抱え込み、新堂が支えてくれていた。
背中越しに伝わる籠った声が心地いい。
温かい湯の中で、その腕と胸に甘えるように、俺はそっと息を吐いた。
「おまえ、何で今日来なかったんだ」
しばらくこの体勢で、湯船に浸って目を瞑っていたら、新堂がやや構えたような口調で聞いてきた。
「今日?」
何かあっただろうかと、首を捻る。
「あっ、サークルの飲み会、今夜だったっけ」
そういえば先週、大学時代の仲間のひとりからお誘いメールが来ていた。
「何だ、忘れてただけか」
独り言のような呟きが頭の上で響き、ほんの少し、何かを含んでいるような気がした。
「いや、仕事が忙しくて……」
幹事が出欠を知らせろというので、行けないと短いレスをして、それきりになっていた。
「もしかして、納期前か? 何だよ、そういうことは早く言えよ」
新堂が、慌てた様子で湯船から立ち上がろうとしたものだから、俺は焦ってその腕を押さえた。
「来週末だから、まだ大丈夫。全然平気!」
取り繕うようにこう言った俺を見下ろし、新堂は本気で心配そうな顔をする。
「いつも前倒しで作業してるし、スケジュールもいつだって余裕持って取ってあるし……」
――だから、俺の仕事のことなんか気にしないで、いつでも来てくれ。
一番言いたいことは、口に出すことができなくて、俺は新堂の腕をぎゅっと握ったまま、懸命に眼で訴える。
少しでも長く一緒に居たい。帰るなんて言わないでほしい。
たとえそれが、俺のためであっても。
「仕事、調子はどうなんだ」
新堂は納得したのか、また湯船の中に腰を落ち着けた。
「ボチボチかなぁ」
その様子にほっとして、俺もまた、男の胸に背中を預けた。
俺の仕事はウェブデザインで、学生時代のバイトがそのまま本業になり、在宅で昼夜関係のないオタク作業を黙々とこなす。
デザインにコーディング、それにライターの真似事もやれるというので重宝され、今のところ収入は悪くない。
「ムリするな。誰だって同じだけど、フリーランスは特に、体壊したら終わりだぞ」
「大丈夫。上手くやってるよ」
へらへら笑って返したが、新堂の心配は的を射ている。
実は、正社員にならないかという誘いは、これまでも何度かあった。
社員なら干される心配はないし、キャリアアップも望める。
その反面、今のように完全に在宅ワークというわけにはいかなくなり、出張や深夜残業、納期前には連日連夜の貫徹作業、そんなものが漏れなくくっついてくる。
そういうのが嫌で、せっかくのオファーを断り続けていた。
フリーでバリバリ仕事を取れる営業向きの人間ならともかく、そうでない俺のようなタイプは、ちゃんと組織に組み込まれた方がいい。
それが分かっていて、俺が二の足を踏む理由はひとつ。
新堂と会えなくなる。
すれ違いが度重なり、男の足が遠のくのが怖かった。
「在宅ワークなんて、引き籠りみたいなもんだろ?」
「酷いな。ま、そうだけどさ」
おっしゃる通りと苦笑する。
恐らく、新堂の想像以上に俺のヒッキー度合いは重症だ。
人間関係は、ネットを通した見えない仕事相手と、近所のコンビニの店員、そして新堂。
居心地はいいのか、悪いのか。
まぁ、元々が引っ込み事案で人見知りする俺にとっては、結構なぬるま湯かもしれない。
「せめて飲み会ぐらい、マメに顔を出せ」
「分かった。次は行くよ」
少し責めるような口調の裏に、新堂が本気で気遣ってくれているのが感じられる。
もしかしたらと、ふと思った。
大学の時、俺が早々に就活を諦めて、この仕事を選んだ理由を、こいつは薄々知っているのではないのか。
それについて、自分に多少の責任があると思っているのではないのか。
それはもちろん、俺的にはとても単純に、この仕事ならどこでもやれる、新堂の就職がどこに決まろうと、適当な理由を付けてついていくことができると考えたからだった。
「最近、顔を出さないから、みんなマジで心配してた。緒方はちゃんと生きてんのかって」
「はは……」
さらに続く新堂の言葉に、俺は薄ら笑いを浮かべる。
元気にしていると、おまえから一言伝えてくれたらいいじゃないかと、喉まで出かかったのを飲み込んだ。
俺と新堂に何某かの接点があることを、友達は誰も知らない。
こんな関係になってからは猶更、わざとよそよそしい態度を取ってきた。
サークルの中心メンバーである新堂と、その他大勢の俺。
こんな二人が仲良さそうにつるんでみせたら、珍しい組み合わせだと、さぞやみんなが驚くだろう。
温厚で誠実で、欠点らしい欠点のない、とてもいいヤツだと誰もが口を揃える、この男の唯一人に言えない汚点があるとするなら、それは俺とのこういう関係なのかもしれない。
「そうそう、今日、おまえの噂話で盛り上がった」
からかうような新堂の声がして、大きな両腕が俺の肩に回り、密着度がアップした。
「何で?」
俺が話題になるなんて、どんな話なのかと訝しく思う。
「緒方って彼女いるのかって。合コンに誘ったら、来てくれるかなってさ」
「はぁ?」
ちょっと呆れて、素っ頓狂な声が出た。
ゲイの俺に合コンはないだろう。
もっとも、この性癖をカミングアウトしているわけではないので、ヘテロであることが大前提の彼らにすれば、しかたのないことかもしれない。
「緒方は昔から、女受けがいいんだ。
大学の頃、よく女子が話してた。
緒方君はクールなところがいい。
他のやつらと違ってがっついてないし、むっつりでもない。
清潔感があるってな」
新堂は、くっくっと笑っている。
「それは嫌味か」
低い声で言い返し、じろりと睨んでやった。
種を明かせば、俺が女に興味がないから、それだけの話だ。
「緒方が女の子にがっつかないのはゲイだから、とは言われてなかったわけ?」
学生時代は、離れた場所からずっと新堂だけを見ていた。
日当たりのいい窓際の席に陣取り、学食でサークル仲間と楽しそうに話をしている。
人懐こい笑顔が、明るい日の光に融け込むようで、それにぼうっと見惚れていた。
新堂だけを追い掛ける、俺の眼つきがキモイと言われていたとしても不思議じゃない。
「残念ながら、そういう噂はなかった。
それに何より、緒方クンは顔が可愛いらしいぞ。
サークルの男の中で、顔で言うならおまえが一番いいって言ってた子がいたよ。
色白で、天然の薄茶の髪もさらさらで、アイドルの誰かに似てるってさ」
「もう、オッサンだっつうの」
「まだ二十代でオッサン言うな。俺もオッサンになるだろ、タメなんだから」
むくれた顔で呟いた俺の自虐発言に、冗談じゃないとむっとした顔で返してくる。
「丸顔で童顔だからな。いくつになっても可愛いんじゃないか?
目が大きくて犬っぽくて、素直そうに見えるしな」
面と向かって顔が可愛いと言われたのは、初めてだった。
嬉しいような、くすぐったいような、ふいを突かれて、火照った頬が更にかっと赤くなる。
「素直そう、じゃなくて、実際素直なの」
どう言い返せばいいのか分からなくて、つっけんどんな言い方をした。
「そうだな。緒方は素直だよ、とても」
首筋に新堂の唇が押し当てられる。
淫靡な動きに、ぞくりとくる。
「素直で、可愛い。特に……やってるとき」
「何言って……」
急に卑猥なことを言われ、体がその気になろうとする。
さっき散々やった後なのに、欲深な自分に呆れてしまう。
素直、つまり、捨てられたくないばっかりに、卑屈なほどに従順な都合のいいセフレ、それが俺だということだ。
全て俺が望んだ結果で、新堂には微塵も責任はない。
「聞いてるか? 沢田が結婚するらしい」
ふと思い出したように、何気ない調子で新堂が呟いた。
「へぇ。次は沢田? また二次会で同窓会になるのかな」
三十路を間近にして、最近、友達の結婚がラッシュになっている。
子供ができたという話も出始めた。
正直今は、この手の話題は避けたかった。
俺は落ち着かない気分になり、ざわざわと耳鳴りが始まる。
早く話が逸れてくれることを願いつつ、じっと黙っていたのだが、新堂はこの話を終わらせてくれなかった。
「ご丁寧に披露宴でスピーチまで頼まれた」
「また新堂がやるの?」
何をやってもそつのない新堂なら安心だと、友人代表のスピーチは大概みんなこいつに頼む。
「もうしゃべるネタが尽きた」
やれやれとため息を吐く新堂に、俺も笑って応える。
だが内心では、この話はもう止めにしてくれと、一心に願っていた。
これ以上聞くと、取り返しのつかないことになる。
直感が俺にそう知らせてくる。
「実は、俺も結婚するんだ」
しばらく間があって、背後の男は、ついにこの一言を告げてきた。
淡々と何気ない口調で、それは俺が予想していた通りだった。
「常務の紹介で、取引先の病院の一人娘で、見合いみたいな……」
「……そう」
一呼吸置いて、ぽつりと一言だけ返す。
胸にセメントを流し込まれたような感じがして、これ以上、何も言うことが思いつかない。
今夜はこいつから女の匂いがしなかった。
だから完全に油断していた。
セックスで散々翻弄しておいて、今それを俺に言うのか。
どういうわけか、急に新堂が俺を抱き締めていた腕に力を込めた。
ようやく俺は、自分ががたがた震え始めたことに気付いた。
二人して言葉はなく、ユニットバスの換気扇だけが煩く回っている。
きっと、あの香水の女に違いない。
私よと、顔の見えないただ一人の女が、その存在を主張し始める。
俺は九年掛けても、手に入れることができなかった。
なのに、その女はいとも易々と新堂の一生を自分のものにするのか。
もし俺が女だったら、俺にもそんな魔法が使えた?
そんなわけないよな。俺なんか平凡過ぎて相手にもしてもらえなかった。
だって新堂は、男の体に興味があっただけだ。
新堂に女がいるなんて、いまさらじゃないか。
何も見ない。何も聞かない。ずっとそうやってやり過ごしてきた。
結婚も同じことだ。
外の世界で新堂が誰と何をしようが、知ったことじゃない。
新堂の手を振り払い、ざぶりと水音をさせて湯船から立ち上がった。
「緒方!」
切羽詰まった新堂の声が聞こえ、引き留めるように手首を掴まれた。
ぐらりと頭が揺れて、ユニットバスの手すりに掴まり持ちこたえる。
急いで立ち上がった新堂に、ふらつく体を抱き留められた。
足にまるきり力が入らず、湯あたりしたのか、視界が霞む。
強い力で抱き締めてくる両腕に体を預けて眼を閉じた。
こんな日がいつか来ると分かっていた。
分かっていたのに、覚悟のひとつもできてやしない。
新堂の濡れた髪が首筋に纏わりつく。
「緒方……」
どうしてだか、新堂が俺を呼ぶ声は酷く辛そうに聞こえた。
さっきから聞こえていたお湯を張る水音が止まり、せっけんと湯気の生暖かい匂いが部屋の中に漂い始めた。
「入って来いよ」
機嫌の良さそうな新堂の声が、明かりの方から響いている。
「いい。後で入る」
何も身に着けずにベッドに俯せていた俺は、気怠気な声を張り上げた。
辛うじて腰まで毛布に包まり、素足に当たるごわごわした感触が心もとない。
剥き出しになった裸の肩まで毛布を引き上げ、蓑虫みたいに丸くなった。
無茶なぐらいに激しくされた、さっきの行為を思い出す。
差し込まれていた感触が体の奥に残り、甘い余韻に浸る。
この体は、まだ新堂を引き留めておける。
俺を求めて情熱的だった男の愛撫に、今日のところはまだ大丈夫と安堵する。
先のことは分からない。
そう覚悟はしていても、こんな風に心行くまで満たされた後は、いつも少しだけ楽観的でいられた。
「緒方、いいから来い。洗ってやるから」
珍しくしつこいぐらいに言ってくる。
仕方なく、重い体を無理やり起こした。
毛布から抜け出て、まっすぐ風呂場に入っていったら、むせ返りそうな湯気の中で、お湯に浸かった新堂は、バスタブの縁に片肘をついてこちらを向いていた。
「何?」
頭の先からつま先までじろじろ見てくる無遠慮な視線に、細いばかりの貧相な男の体が気恥ずかしくなる。
かといって、隠すというのも格好悪い気がして、仕方なく、顔だけを横に向けて逸らした。
「来いよ」
新堂はにやにや笑って尚も言ってくる。
「だから狭いよ」
大柄な新堂ひとりでバスタブはいっぱいだ。無理を言うなと、唇をむっと突き出した。
「平気、いけるって」
ぶすっとした俺の顔が可笑しかったのか、新堂はくすりと笑って、俺に片手を伸ばしてくる。
しかたなく、その手に掴まり、バスタブを跨いだ。
新堂の手に導かれるまま、向かい合わせに体を沈める。
俺の体の体積の分だけ、お湯が勢いよくざざっと音を立ててあふれ出た。
「ほらな、ギチギチじゃないか」
お湯の中、俺はきっちり両足を折りたたみ体育座り。
新堂の両足がウェストの辺りを締め付ける。
「うっわ、きついな」
声を上げた新堂を、ほれみろと、両足を抱えて睨み返した。
「おまえ、細いくせに意外にデカいな」
「俺のせいかよ」
さらに白けた視線を新堂に投げてやる。
「こっちに背中向けろ」
「ええっ?」
この状態で体の向きを変えろってか。
ざっと立ち上がって、後ろ向きに腰を下ろし直すと、新堂は俺の腹のあたりを抱きかかえ、膝の上に座らせた。
「何、この体勢」
「いいから、いいから」
前に腰をずらしてお湯の中で仰向けに寝そべり、新堂の胸に後頭部を預ける形で落ち着いた。
もっとも、両足は湯船の外に放り出している。
湯船の底に沈んでしまいそうになるのを、俺の両脇に腕を回して抱え込み、新堂が支えてくれていた。
背中越しに伝わる籠った声が心地いい。
温かい湯の中で、その腕と胸に甘えるように、俺はそっと息を吐いた。
「おまえ、何で今日来なかったんだ」
しばらくこの体勢で、湯船に浸って目を瞑っていたら、新堂がやや構えたような口調で聞いてきた。
「今日?」
何かあっただろうかと、首を捻る。
「あっ、サークルの飲み会、今夜だったっけ」
そういえば先週、大学時代の仲間のひとりからお誘いメールが来ていた。
「何だ、忘れてただけか」
独り言のような呟きが頭の上で響き、ほんの少し、何かを含んでいるような気がした。
「いや、仕事が忙しくて……」
幹事が出欠を知らせろというので、行けないと短いレスをして、それきりになっていた。
「もしかして、納期前か? 何だよ、そういうことは早く言えよ」
新堂が、慌てた様子で湯船から立ち上がろうとしたものだから、俺は焦ってその腕を押さえた。
「来週末だから、まだ大丈夫。全然平気!」
取り繕うようにこう言った俺を見下ろし、新堂は本気で心配そうな顔をする。
「いつも前倒しで作業してるし、スケジュールもいつだって余裕持って取ってあるし……」
――だから、俺の仕事のことなんか気にしないで、いつでも来てくれ。
一番言いたいことは、口に出すことができなくて、俺は新堂の腕をぎゅっと握ったまま、懸命に眼で訴える。
少しでも長く一緒に居たい。帰るなんて言わないでほしい。
たとえそれが、俺のためであっても。
「仕事、調子はどうなんだ」
新堂は納得したのか、また湯船の中に腰を落ち着けた。
「ボチボチかなぁ」
その様子にほっとして、俺もまた、男の胸に背中を預けた。
俺の仕事はウェブデザインで、学生時代のバイトがそのまま本業になり、在宅で昼夜関係のないオタク作業を黙々とこなす。
デザインにコーディング、それにライターの真似事もやれるというので重宝され、今のところ収入は悪くない。
「ムリするな。誰だって同じだけど、フリーランスは特に、体壊したら終わりだぞ」
「大丈夫。上手くやってるよ」
へらへら笑って返したが、新堂の心配は的を射ている。
実は、正社員にならないかという誘いは、これまでも何度かあった。
社員なら干される心配はないし、キャリアアップも望める。
その反面、今のように完全に在宅ワークというわけにはいかなくなり、出張や深夜残業、納期前には連日連夜の貫徹作業、そんなものが漏れなくくっついてくる。
そういうのが嫌で、せっかくのオファーを断り続けていた。
フリーでバリバリ仕事を取れる営業向きの人間ならともかく、そうでない俺のようなタイプは、ちゃんと組織に組み込まれた方がいい。
それが分かっていて、俺が二の足を踏む理由はひとつ。
新堂と会えなくなる。
すれ違いが度重なり、男の足が遠のくのが怖かった。
「在宅ワークなんて、引き籠りみたいなもんだろ?」
「酷いな。ま、そうだけどさ」
おっしゃる通りと苦笑する。
恐らく、新堂の想像以上に俺のヒッキー度合いは重症だ。
人間関係は、ネットを通した見えない仕事相手と、近所のコンビニの店員、そして新堂。
居心地はいいのか、悪いのか。
まぁ、元々が引っ込み事案で人見知りする俺にとっては、結構なぬるま湯かもしれない。
「せめて飲み会ぐらい、マメに顔を出せ」
「分かった。次は行くよ」
少し責めるような口調の裏に、新堂が本気で気遣ってくれているのが感じられる。
もしかしたらと、ふと思った。
大学の時、俺が早々に就活を諦めて、この仕事を選んだ理由を、こいつは薄々知っているのではないのか。
それについて、自分に多少の責任があると思っているのではないのか。
それはもちろん、俺的にはとても単純に、この仕事ならどこでもやれる、新堂の就職がどこに決まろうと、適当な理由を付けてついていくことができると考えたからだった。
「最近、顔を出さないから、みんなマジで心配してた。緒方はちゃんと生きてんのかって」
「はは……」
さらに続く新堂の言葉に、俺は薄ら笑いを浮かべる。
元気にしていると、おまえから一言伝えてくれたらいいじゃないかと、喉まで出かかったのを飲み込んだ。
俺と新堂に何某かの接点があることを、友達は誰も知らない。
こんな関係になってからは猶更、わざとよそよそしい態度を取ってきた。
サークルの中心メンバーである新堂と、その他大勢の俺。
こんな二人が仲良さそうにつるんでみせたら、珍しい組み合わせだと、さぞやみんなが驚くだろう。
温厚で誠実で、欠点らしい欠点のない、とてもいいヤツだと誰もが口を揃える、この男の唯一人に言えない汚点があるとするなら、それは俺とのこういう関係なのかもしれない。
「そうそう、今日、おまえの噂話で盛り上がった」
からかうような新堂の声がして、大きな両腕が俺の肩に回り、密着度がアップした。
「何で?」
俺が話題になるなんて、どんな話なのかと訝しく思う。
「緒方って彼女いるのかって。合コンに誘ったら、来てくれるかなってさ」
「はぁ?」
ちょっと呆れて、素っ頓狂な声が出た。
ゲイの俺に合コンはないだろう。
もっとも、この性癖をカミングアウトしているわけではないので、ヘテロであることが大前提の彼らにすれば、しかたのないことかもしれない。
「緒方は昔から、女受けがいいんだ。
大学の頃、よく女子が話してた。
緒方君はクールなところがいい。
他のやつらと違ってがっついてないし、むっつりでもない。
清潔感があるってな」
新堂は、くっくっと笑っている。
「それは嫌味か」
低い声で言い返し、じろりと睨んでやった。
種を明かせば、俺が女に興味がないから、それだけの話だ。
「緒方が女の子にがっつかないのはゲイだから、とは言われてなかったわけ?」
学生時代は、離れた場所からずっと新堂だけを見ていた。
日当たりのいい窓際の席に陣取り、学食でサークル仲間と楽しそうに話をしている。
人懐こい笑顔が、明るい日の光に融け込むようで、それにぼうっと見惚れていた。
新堂だけを追い掛ける、俺の眼つきがキモイと言われていたとしても不思議じゃない。
「残念ながら、そういう噂はなかった。
それに何より、緒方クンは顔が可愛いらしいぞ。
サークルの男の中で、顔で言うならおまえが一番いいって言ってた子がいたよ。
色白で、天然の薄茶の髪もさらさらで、アイドルの誰かに似てるってさ」
「もう、オッサンだっつうの」
「まだ二十代でオッサン言うな。俺もオッサンになるだろ、タメなんだから」
むくれた顔で呟いた俺の自虐発言に、冗談じゃないとむっとした顔で返してくる。
「丸顔で童顔だからな。いくつになっても可愛いんじゃないか?
目が大きくて犬っぽくて、素直そうに見えるしな」
面と向かって顔が可愛いと言われたのは、初めてだった。
嬉しいような、くすぐったいような、ふいを突かれて、火照った頬が更にかっと赤くなる。
「素直そう、じゃなくて、実際素直なの」
どう言い返せばいいのか分からなくて、つっけんどんな言い方をした。
「そうだな。緒方は素直だよ、とても」
首筋に新堂の唇が押し当てられる。
淫靡な動きに、ぞくりとくる。
「素直で、可愛い。特に……やってるとき」
「何言って……」
急に卑猥なことを言われ、体がその気になろうとする。
さっき散々やった後なのに、欲深な自分に呆れてしまう。
素直、つまり、捨てられたくないばっかりに、卑屈なほどに従順な都合のいいセフレ、それが俺だということだ。
全て俺が望んだ結果で、新堂には微塵も責任はない。
「聞いてるか? 沢田が結婚するらしい」
ふと思い出したように、何気ない調子で新堂が呟いた。
「へぇ。次は沢田? また二次会で同窓会になるのかな」
三十路を間近にして、最近、友達の結婚がラッシュになっている。
子供ができたという話も出始めた。
正直今は、この手の話題は避けたかった。
俺は落ち着かない気分になり、ざわざわと耳鳴りが始まる。
早く話が逸れてくれることを願いつつ、じっと黙っていたのだが、新堂はこの話を終わらせてくれなかった。
「ご丁寧に披露宴でスピーチまで頼まれた」
「また新堂がやるの?」
何をやってもそつのない新堂なら安心だと、友人代表のスピーチは大概みんなこいつに頼む。
「もうしゃべるネタが尽きた」
やれやれとため息を吐く新堂に、俺も笑って応える。
だが内心では、この話はもう止めにしてくれと、一心に願っていた。
これ以上聞くと、取り返しのつかないことになる。
直感が俺にそう知らせてくる。
「実は、俺も結婚するんだ」
しばらく間があって、背後の男は、ついにこの一言を告げてきた。
淡々と何気ない口調で、それは俺が予想していた通りだった。
「常務の紹介で、取引先の病院の一人娘で、見合いみたいな……」
「……そう」
一呼吸置いて、ぽつりと一言だけ返す。
胸にセメントを流し込まれたような感じがして、これ以上、何も言うことが思いつかない。
今夜はこいつから女の匂いがしなかった。
だから完全に油断していた。
セックスで散々翻弄しておいて、今それを俺に言うのか。
どういうわけか、急に新堂が俺を抱き締めていた腕に力を込めた。
ようやく俺は、自分ががたがた震え始めたことに気付いた。
二人して言葉はなく、ユニットバスの換気扇だけが煩く回っている。
きっと、あの香水の女に違いない。
私よと、顔の見えないただ一人の女が、その存在を主張し始める。
俺は九年掛けても、手に入れることができなかった。
なのに、その女はいとも易々と新堂の一生を自分のものにするのか。
もし俺が女だったら、俺にもそんな魔法が使えた?
そんなわけないよな。俺なんか平凡過ぎて相手にもしてもらえなかった。
だって新堂は、男の体に興味があっただけだ。
新堂に女がいるなんて、いまさらじゃないか。
何も見ない。何も聞かない。ずっとそうやってやり過ごしてきた。
結婚も同じことだ。
外の世界で新堂が誰と何をしようが、知ったことじゃない。
新堂の手を振り払い、ざぶりと水音をさせて湯船から立ち上がった。
「緒方!」
切羽詰まった新堂の声が聞こえ、引き留めるように手首を掴まれた。
ぐらりと頭が揺れて、ユニットバスの手すりに掴まり持ちこたえる。
急いで立ち上がった新堂に、ふらつく体を抱き留められた。
足にまるきり力が入らず、湯あたりしたのか、視界が霞む。
強い力で抱き締めてくる両腕に体を預けて眼を閉じた。
こんな日がいつか来ると分かっていた。
分かっていたのに、覚悟のひとつもできてやしない。
新堂の濡れた髪が首筋に纏わりつく。
「緒方……」
どうしてだか、新堂が俺を呼ぶ声は酷く辛そうに聞こえた。
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