沈溺

吐瀉ろ

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沈溺

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 最早呆れる程に温く、じめじめとした空気が僕を包んだ。重い足を自宅から徒歩三十秒のコンビニに向かうため上げたり下げたり繰り返す。べちゃ、と地面についた足の方から音がした。サンダルに、無意味に温められた水が侵入する。そういえば昨日は雨が降っていたらしい。台風が過ぎっていったようでかなりの土砂降りだったということを今朝知った。昨日はアルバイトのなかった日だったから一日中寝ていたのだ。濡れた足を振り、水を落とすのも億劫で、僕はそのままゆっくりと足を進めた。水の溜まったサンダルの底に足がつくたび、また気持ちの悪い音が響く。朝からずっと鳴いている蝉の鳴き声と上手い具合に不協和音を奏でている。不快だった。
 やっと自動ドアの手前まで辿り着く。ドアが開いた途端、いらっしゃいませと高い声が耳に入った。レジの奥に、にこにことしている男の顔が浮かんでいた。昨日の僕も彼と同じことをしていたと言うのに大きな違いだ。こんなはきはきと僕は喋れはしないな、と最悪な思考に嘔気を催した。店内には他に誰もいなかった。古く汚れたシャツや二日は洗っていない髪の毛、濡れたままのサンダル。それを声の高い店員がずっと見つめている気がして心地が悪かった。安価な菓子パンをいくつか手に取ると、すぐさま店を出た。蝉の合唱が大きくなる。みいんみんみんみん。鳴き声はどんどん高く大きくなっていった。暑さで揺れていた目の前の道路も段々と溶けてきたようだった。最悪だ。歩く道がなくなるじゃないか。そうして僕は足早に帰った筈なのに、途中比べ難いスピードで車が横を通り過ぎ、また吐き気が込み上げた。
 今にも崩れてしまいそうなボロアパートの狭い一室。数ヶ月は敷いたままの布団にぼすん、と身を預けた。背中には冷えた汗でシャツがひっついているし、朝から何も飲んでいないせいで喉はカラカラだが、もう一度起き上がる気力もない。僕は帰り道に黒いランドセルを背負った少年二人とすれ違ったことを思い出した。俺、絶対サッカー選手になるんだ、と背の低い方が胸を張っていた。少年の姿に、僕は小学生の頃の自身を見た。羨ましいと思った。少年も、昔の僕も。
 何度も書かされた将来の夢。作文の題名にはいつも目標とした職業名のみを書いた。短くてスッキリしていた方が格好いいと確信していたからである。そして、それを実現させるという確信もあった。僕の見ていた景色は眩く、とても素敵なものだった。今ならそう言うことができる。フワフワした僕の夢さえも包み込んでくれるその素晴らしい景色を、僕はいつも舞台に立って眺めていただろう。スポットライトは常に僕を照らしていただろう。どうして? その舞台には僕以外立っていなかったからだ。
 しばらくして、暑さに我慢するだけなのにも飽き、僕はスマホを取り出した。鬱陶しいと思いつつ設定を開いて、という動作をきらって初期のままにしている通知が画面上から現れる。「柴崎詩、映画初主演」の文字が堂々と表示された。その文字がこれまたどんどんと大きくなって僕の目に映る。やっと止まったかと思いきや、柴崎の二文字以外が消えてしまった。気付けば手に握る汗の量が増していて、息をすることも苦しくなっていた。いいや仕方ないのだと起動したばかりのスマホを手放す。少し仮眠をとることにした。目を瞑る直前にちらりと確認したけれど、画面には柴崎以外の文字も鮮明に映っていた。

「いらっしゃいませ」
 僕の口が開き、声が小さいことを叱った店長を思い出す。けれどもこの声が大きくなることはなかった。
 日はとっくに暮れていた。自動ドアが開き、僕もまた機械的に歓迎の言葉を述べるが、客に届いているかどうかはわからない。先日女子高校生のアルバイトにも陰口を叩かれていることを知った。声が小さいことを含め陰気臭いとかそういう趣旨のことを話していたのを偶然耳にした。入店してきたのはマスクをつけた若い男だった。僕とさほど歳は変わらないように見える。しかしこの暑い日にマスクとは。少し違和感を覚えつつ、狭い店内で物色する男を眺めることにした。やがて男は缶ビール二つを手に取ると、レジのテーブルを挟み僕の向かいに立った。合計金額を口にして商品を差し出すが、男の手は財布を持ったままで止まっていた。
「もしかして、佐野くん?」
 小銭でも探しているのかと思っていたのだが、男は小さな声で僕の姓を呼んだ。それから胸元にあるネームプレートを見てやっぱりそうだと目を輝かせた。僕はその顔に見覚えがあった。嫌になるほど見た顔だった。
「柴崎詩……」
 と僕が呟くと芝崎は唸った。否定はしなかった。
「ううんと、覚えてないかな。高校で同じクラスだった芝崎宏太」
 覚えていないはずがないというのに、僕は柴崎詩、否、芝崎の問には応答せず、黙ったままでいた。ただ、遠慮がちに笑う仕草は昔から変わらないのだな、と思った。
「ああ、ごめん、会計がまだだったね」
 芝崎は五百円玉を取り出し青色のトレーに置いた。レシートと、擦れてじゃらじゃらと音をたてるお釣りを渡す。パンパンの財布にそれらを仕舞っていく姿を見て、こいつは計算が得意ではないのだったと、ずっと昔、前の席に座っていた芝崎の姿を思い返した。
 既に日付は変わり、制服からよれたシャツに着替えると僕はコンビニを出た。蒸し暑いのは夜でも相変わらずのようだった。身体を覆う湿気に溜め息をついたところで声が聞こえた。
「お疲れさま」
 眉を下げながら笑う。芝崎だった。どうしても話がしたくて、と僕の手首を掴んだ。極めて優しく丁寧に。瞬間僕はその手を払う。芝崎の丸くなった目が見えた。僕自身も驚いていた。しかし数秒あけて、僕は、彼を汚すことを恐れたのだと理解した。芝崎は怒りも悲しみも表情に出さなかったのでそそくさと帰ろうとしたのだが、また手首を掴まれた。今度は払えなかった。
「少し、少しだけでいいから。話したいんだ」
「僕には話したいことなんてないけど」
 やっと出た声で冷たく返答しても、芝崎は引き下がらなかった。僕とまた会えたことが嬉しいのだと言うが、その顔の色は苦い。僕の下顎の部分からいつの間にか汗が滲み、皮ばかりとなった首筋を伝って、ゆるりと降下するとシャツに染み込んだのがわかった。芝崎の唇はやんわりと円を描き、その隙間から柔らかい音出る。
「もう、芝居はやめたの」
 僕はまた、何も言えなくなってしまった。

 夕暮れにはっきりと映った細い影と、光に交じるように放たれた澄んだ声を、僕は一生忘れることはできないのだろう。正方形の狭い部屋に留めておくには勿体ないものだった。まだ僕が高校生だった頃だ。で忘れ物を取りに帰った教室、一人で台本を抱える芝崎を僕は呆然と見つめていた。彼は、どうやら芝居の練習をしているらしかった。僕が何もできないまま教室の入り口で佇んでいると、芝崎がゆらりとこちらを振り向いたあと、肩を跳ねさせた。慌てて台本を背中の方へ隠すと、いつからそこにいたの、と尋ねた。僕はそれには答えなかった。
「声が小さい」
 代わりに、そう呟いたのだ。自身が助言する側であるという馬鹿げた思い込みからきた発言ではあった。けれど、今考えれば芝崎の演技に感動していることが悔しく、指摘できる部分を見つけ自分の地位を守ろうとしていたような気もする。少なくとも当時の僕が一年生ながら演劇部のエースであったことは事実で、入部すらしていない芝崎に負けるのは非常に腹立たしかったのだ。一方の芝崎は、興奮と羨望を宿した瞳をこちらに向けていた。仕方ない、僕が芝崎を若干ではあれど敵視していることなど、知る由もないのだから。
「そうだよね。どうしても自信がなくて」
 と、芝崎は言った。それから僕から目を逸らすと、しばらく赤い唇を開いてみたり、結んでみたり。自分の不始末を母親に告げる前の幼子のようにその動作を繰り返した。僕が黙ってそこに立ったままでいるので、芝崎はやっと声を発した。芝崎の握る台本の表紙に、徐々にシワが増えていくのが分かった。
「い、一緒に練習してくれないかな。その、演技の」
 想像していなかった誘いが飛び出て、僕は驚愕した。と同時に、ひどく快感を覚えたのは確かである。自分の地位を守り切ったと思ったからだ。
「台本は大事に扱えよ。貸して」
 きっと僕は醜い笑みでも浮かべていただろう。コツコツと上履きの足音を響かせながら芝崎に近づき、台本を手に取り、中に目を通した。僕なりの許諾であった。芝崎にもそれは伝わったらしく、ふにゃりと笑い喜んでいたのを覚えている。
 その日からほとんど毎日、僕たちは放課後の教室に通った。発声練習とか即興劇とか、どこの演劇部でもやっていそうなことばかりやった。僕は芝崎の一人の同級生に過ぎないのに、偉そうに指導した気になっていた。それでも芝崎は僕を慕うのをやめなかった。僕の声が綺麗だと言う。演技をしている僕のシルエットが美しいのだと言う。芝居に対する姿勢が魅力的なのだと言う。愚かな当時の僕はそれに自慢げに頷くだけだった。全て芝崎にこそぴたりと当てはまることなのに。だからこそ彼は柴崎詩に昇華したというのに。
 周りの同級生は皆、受験で頭がいっぱいになっている高校三年生の夏。相変わらず放課後の教室で、二人で台本とにらめっこをしていたときに芝崎が言った。その時期は特に、両方とも演じ方に苦戦していた。
「あのね、気持ち悪いと思われたくないから言ってなかったんだけど」
「いきなり何」
「僕が芝居を始めたのは、文化祭で佐野くんが演じてるのを見たからなんだ」
 果たして、そのとき僕が感じたのは優越感だっただろうか? 否。紛れもなく絶望感と焦燥感だった。あのとき芝崎と放課後で出会ったのは、文化祭の僅か数か月後である。芝崎の上達や呑み込みの速度、そして才能に気付いてしまって、絶句した。
「だからさ」
 と、芝崎が言いかけたのを妨げ、自分の荷物を取り上げた。
「今日は帰る」
 おそらく、うまく進まず漂っていた重い空気を入れ替えようとして出た言葉だったのだと思う。だが僕はそれを遮り、芝崎を置いていくことを選んだ。芝崎と同じ空間にいるのがどうしても耐えられなかった。帰り道も何度も吐き気に襲われた。もたつく足を必死に動かした。
 日に日に僕の体調は優れなくなり、毎日承諾していた芝崎の誘いも断ることが多くなった。参加しても、文字一つすら頭の中に入って来ずすぐに帰った。やがて演劇部にも行かなくなった。芝居をすると、フラフラして、視界にあるもの全部が傾き始めてしまう。ちぐはぐな世界に脳味噌は混乱し、何も考えられなくなってしまうのだった。
 一か月ほど経ったあと、僕は、芝居をやめた。やっと自分が才能というものを持ち合わせていないことに気付いたのである。もともと放課後以外で関わることのなかった芝崎とは、もう話さなくなっていた。

 顔を上げると、芝崎がまだ僕の返答を待っていた。
「……僕の家に来るか?」
 目の前にいる男は、瞳を揺らしつつもはっきりと頷いた。

 たぶん、ほとんど意味を成さない鍵を回し、木製の扉を開き、見えるのは極めて汚い一室である。中央に敷かれている布団の表面は見えるが、その周りには、袋に入ってもない空き缶とか、菓子パンの包装とか、脱ぎ捨てたままの衣類とか、そんなものばかりが散らかっている。僕は芝崎を振り返る。丁度扉からばたんと音がして、差していた光が消えた。
「もうさ、芝居なんかやってないし、やらないよ。見てみろよこの部屋。毎日毎日最悪な生活を送ってるんだ。バイトのある日は夜中に起きて、何時間か仕事をするけど、それ以外はずっと寝転がってぼーっとしてる。ゴミを捨てに行く気力も、飯を食う気力もない。若手俳優のお前とはえらい違いだろ?」
 そう、芝崎と僕は全く違うのである。優しい芝崎。見下してばかりだった僕。数多のファンに囲まれる芝崎。ずっと一人の僕。何もかも正反対だ。芝居をする目的だって――
「お前はいいよな、才能があって」
 突然そんなことを口走った。わかっている。ただの八つ当たりである。目を逸らした。
「僕とは全然違う」
 ああ、まずい、窓も閉め切っているから風が入ってこない。暑い。全身からぽつりぽつりと汗が噴き出てくるようだった。顔を上げてみると、芝崎が僕を、憐れむように見ていた。悪意などまるっきりないのだろう。きっと、ただひたすら純粋に僕のことが心配なのだ。しかし今の僕にとってそれも不愉快でしかなかった。芝崎は言った。
「僕はあのとき佐野くんのことを天才だと思ったんだけどな。佐野くんのおかげで芝居をやってみたいと思えたんだよ」
「嘘つけ、嘘つけよ」
 嘘に決まっている。と、芝崎に疑心を抱いた瞬間、ぼろぼろ、涙が溢れた。目に映る景色がぐちゃぐちゃに壊れていくように見えた。涙を拭う手で顔すらも崩れてしまうのではないかと思った。壊されてしまうのは嫌だと、訳もわからぬまま僕は喚いた。口から何が放たれているかさえ把握できなかった。
 白く細い腕が見えたかと思うと、僕は芝崎に抱擁されていた。ぴた。自分の声が止まったのを感じた。
「佐野くんがもう芝居をやりたくないんだって言うのならそれでいいよ。僕がここまでこれたのは間違いなく佐野くんのおかげだし、僕は佐野くんが存在してくれればそれで嬉しい」
 違う。僕はそうやって肯定されることを望んでいたんじゃない。背中をさすられている自分がひどく惨めで、また世界がぐちゃぐちゃになっていく。
「だからさ、少しでもサポートさせてくれないかな。佐野くんのこと。佐野くんが生きていくために」
「……いやだ」
「え?」
「出てって、くれ。出て行って」
 芝崎との距離は〇センチメートルである。芝崎の呼吸が明瞭に聞き取れた。こいつが至って冷静であることがわかって嫌だった。でも、と芝崎が話しだそうとするのを遮る。僕の声は、芝崎のとは対照的な乱れた呼吸のせいで震えている。
「聞こえないか? 出て行ってくれって、言ってるんだ」
「でも」
「わかんねえのかよ、お前のせいで僕が壊れたのが、壊れていってるのが。お前と話すのをやめて、演技をやめて、それでも脳内にお前がちらつくんだ。それで、なぁんにも手につかなくなっちまってさ、大学にも行った、一回就職もした、けど駄目だった。お前を思い出すと、柴崎詩の名前を見ると、頭痛がして、フラフラになって、吐き気が止まらなくなって、何もする気がなくなって、それで……。なあ、俺はさ。もうお前になんか会いたくなかったんだよ」
 ぐ、と芝崎を突き放す。僕が呼んだくせに、あまりにも理不尽なことを言っているのはわかっていた。もう八つ当たりでも何でもよかった。今彼と同じ空間にいることがどうしても耐えられなかったのだ。それでも、芝崎は哀しげにこちらを見つめている。そんな仕草も嫌味に見えてしまう、おかしいのは自分だとわかっているのに、苛立つ気持ちが抑えられなかった。どくどくどく、と拍動の速度が上がっていく。
「頼むから、出て行ってくれよ、頼むから、頼むよ」
 また溢れ始める涙をごしごしと拭うと、芝崎は黙って扉の方を向いた。数秒後、扉が開いて閉まった音がした。一瞬だけ、冷たくて尖った空気が流れた気がした。一人ぼっちの部屋で、安心と、虚無が僕の体を包んだ。

 一度だけ、芝崎の舞台を観に行ったことがある。芝崎は心から芝居を楽しんで、愛しているのだと知ったことだけ記憶に残っている。芝崎が芝居をするのはそれが楽しいからだ。では、僕は楽しんでいたのだろうか。周りの人間から讃えられる快感を得るために、演じていたのではなかろうか。芝居を始めたのも、幼稚園の発表会で大人からこぞって褒められたのが嬉しかったからである。だから僕は芝居をやめた。自分の地位が落ちてしまうことを恐れ、芝崎へ注目が移ってしまう前に終わらせたのだ。今は、「主役」である芝崎に近づくことさえままならない。子供の頃「主役」だった僕は、舞台から引き摺り落されただけでなく観客席に座ることさえできなくなっていた。
 芝崎を追い出した部屋は、先程の喧騒などなかったかのように静寂を保っていた。泣き喚いたせいで頭が痛む。カーテンの隙間から街灯の光が差し込んでいることに気付いた。堪らなく鬱陶しく感じて、真夏だというのに掛布団を被った。ずっと前から出しっぱなしにしている埃だらけの布団だ。体中が熱くなって、水分を欲しているけれど、何かを口に含んだ途端に吐き出してしまいそうな気がした。このまま死んでしまいそうだと思ったが、それもいいかもしれないと働かない脳味噌で考える。
 讃えられたいだなんて、よくもまあそんなことが望めたものだ。僕が有しているのは褒められるほどの価値ではない。そもそも、今の僕自体の価値はゼロに等しいだろう。けれど、何も初めからこんな人間ではなかったのではないかとは思う。純粋に芝居を愛していた時期も、少なからずあった筈なのだ。それなのに、どこで踏み間違えてしまったのだろうか、どこで舞台から落ちてしまったのだろうか。無駄な思考だろう、と自分に言い聞かせるように、息とともにその疑問を吐き出した。しかし本当は自分でもよくわかっていたのだった。僕が夢を実現できなかったのは、決して才能がなかったからではない。才能がないことを言い訳に全てを諦めてしまったからだ。結局は、逃げてしまっただけなのだ。そして、これからも逃げ続けるのであろう。
 カァ、と烏が鳴く声がした。日が昇るまであと少し。明るくなってしまう前に意識を消してしまいたくて、僕は暗闇の中で必死に目を瞑った。
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