絶食系男子の作り方

yoshieeesan

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中高男子校出身の絶食系男子

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 小森大輔(こもり・だいすけ)は幼い頃から本が好きな子どもだった。物語の中の冒険や登場人物の心情に想像をめぐらせるのが楽しく、本を開けばそこに安らぎを見いだしていた。そんな彼が生まれ育ったのは都内の住宅地で、共働きの両親はいつも忙しそうにしていたが、それでも大輔に対しては「自分の興味あることをやりなさい」と口うるさくは言わなかった。

 ところが、小学校中学年になると、周囲の“中学受験”ムードに半ば流されるようにして、大輔も進学塾に通い始める。本人としては強い意志があったわけではなかったが、塾の模試を受けるうちに「どうせなら上位校を目指してみようか」という気持ちがわいてきた。両親も特に反対はせず、むしろ「やりたいならサポートはするよ」という姿勢。そうして小学六年生の頃には朝から晩まで塾で勉強漬けの日々を送り、見事、都内有数の男子校の中高一貫校に合格する。

 その中高一貫校は歴史が長く、校則も厳しい部類に入るが、進学実績は高く、周囲からは「名門お坊ちゃん学校」とも揶揄される場所だった。実際、中に入ってみると生徒は裕福な家の子や勉強好きな子が多く、独特の空気が漂う。大輔は「ここで六年間も過ごすのか」と最初は身がすくむ思いをしたが、同時に「男子しかいないのなら逆に気楽かもしれない」とも感じていた。女子の目を気にしなくて済むからだ。大輔自身、小学校時代に女子とつるむことはほとんどなく、休み時間は男子同士でゲームの話をするのが常だった。ある種、自然と“男子オンリー”の空間に慣れ親しんでいたのだ。

 入学してからの生活は、部活と勉強に追われながらも、男子校ならではの奔放さがそこかしこにあった。授業中にふざける者もいるし、部活動では汗臭い青春が渦巻いている。大輔は文化系の部活──科学部に所属し、ロボットの製作やプログラミングに没頭する。クラスの仲間も似たような趣味嗜好が多いので、「ロボコンに出てみたい」「最新のガジェットが欲しい」などと話し合うだけで盛り上がった。

 一方、思春期にさしかかったころ、世の中の同年代の男子が「彼女がほしい」「隣の共学校の学園祭で出会いがあるかも」などと色めき立っているのを耳にしても、大輔はどこか他人事のように感じていた。もちろん、漫画やアニメの中で描かれる恋愛要素は嫌いではないし、女性への漠然とした憧れもあった。けれど現実の女子と接する機会はほぼ皆無で、イメージだけが一人歩きしてしまう。彼にとって女子はまるで「異世界の住人」のような存在で、そのまま高校卒業の年まで大きな接点のないまま過ぎ去った。

 それでも大輔は「不満や不安がまったくなかった」と言えば嘘になるが、あまりそれを表面化させなかった。というより、日常生活は男子だけで十分に楽しかったのだ。いじめもほとんどなく、クラスメイト同士で馬鹿騒ぎをしたり、部活に熱中したりして過ごす六年間は、それなりに居心地がよかったと言える。女子校ならば男子との交流がないことに寂しさを覚える生徒もいるだろうが、男子校で育った大輔は「これが普通の青春なのだろう」と思うばかりだった。

 そして迎えた大学受験。彼は理系科目が得意だったこともあり、都内の理工系大学に入学を果たす。だが、そこでも男子の比率は非常に高く、講義室を見渡しても女子学生はわずかしかいない。サークル活動で出会う女子もいるにはいたが、大輔は根っからの“男子校ノリ”が身についてしまっており、何となく女性と話すときにぎこちなくなってしまう。それでも大学で少しは場数を踏めば、自然とコミュニケーションに慣れていくかもしれない。そんな期待を抱いていたものの、研究や実験レポートに忙殺されるうちにあっという間に就職活動の時期を迎えた。

 就職先は電子部品のメーカー。中堅ながらも安定した業績を持ち、技術職としての専門性を発揮できそうな企業だった。大輔はそこに内定をもらい、大学の研究室の先輩からも「いい選択だと思うよ」と背中を押され、卒業を迎える。社会人になることで環境が一変し、男女が入り混じる職場で働くことになるのだろう──そんな漠然とした不安はあったが、正直、実感を伴うものではなかった。

 しかし、それが大輔の人生の大きな転機になるとは、そのときはまだ考えてもいなかったのだ。


 四月。桜の花が咲き乱れる中、大輔は初々しいスーツ姿で入社式に臨んだ。新入社員は総勢六十名ほどで、そのうち技術職は四十名近く。男女比を見ると、案の定、男性が圧倒的に多い。とはいえ総合職や事務系の女性社員もそこそこいるため、男子校や理系大学ほどの“男ばかり”というわけではなさそうだった。

 最初の研修はビジネスマナーや会社の歴史、配属先の部署概要などがメイン。同期の仲間と名刺交換の練習をしたり、軽い懇親会で談笑したりと、社会人としてのウォーミングアップとも言える期間がしばらく続く。大輔はそこで、何人かの同期女性社員と言葉を交わす機会を得る。ところが、案の定「どう話していいのかわからない」と強く感じてしまうのだ。

 まったく無視するわけではない。仕事の話なら問題ないし、雑談程度なら一応できる。だが、自分がどんな表情をしているか、目をどう向ければいいのか、あるいはどんな声のトーンで返事をするべきか──細かいことがいちいち気になり、体に力が入ってしまう。相手から「大学の専攻は何だったんですか?」など当たり障りのない質問を受けても、どこかよそよそしい口調で答えてしまい、ぎくしゃくした空気を作ってしまうこともあった。

 しかし、この段階では大輔自身、「社会人だから、これから慣れていけばいいか」と楽観的に構えていた。実際、仕事は男女問わずチームで動くこともあるし、いずれにせよ人間関係は一筋縄ではいかないもの。焦らずゆっくりやっていこう──そんな意識で、最初の一週間ほどを乗り切った。

 ところが、やがて始まった“コンプライアンス研修”が、大輔の心に大きな波紋を広げるきっかけとなる。


 コンプライアンス研修では、法務部門の担当マネージャーがスライドを使いながら、様々な法律や社内規定を説明していく。下請法や労働基準法、情報管理、知的財産──知らないことばかりで、大輔はメモを取りながら新鮮な気持ちで聞き入った。最初のうちは「へえ、社会に出るとこういう知識が必要なのか」と好奇心をそそられる内容だった。

 しかし後半に入ると、テーマは「ハラスメント防止」となり、空気が少し張り詰める。担当マネージャーはパワハラやマタハラ、セクハラの定義を示しつつ、それらが違法行為や懲戒処分の対象になる場合があることを強調した。特にセクハラに関しては「受け手が不快と感じれば成立する」という“受け手の主観”が大きく関わる点を丁寧に説明していた。

「たとえば、女性の身体的特徴をジロジロ見たり、性的な話を繰り返してしまうことがセクハラになる場合が多いです。あるいは、恋愛感情を押しつけてしつこく誘う行為なども相手を苦しめる結果になれば、当然アウトです。万が一そういった被害を受けた社員が会社に訴え出れば、加害者は厳正に処分されます。みなさん、くれぐれも気をつけてください」

 まるで背筋に冷たいものを当てられたような気分になりながら、大輔は視線を落とした。別に自分が誰かをジロジロ見たつもりはないし、しつこく誘うような行為もしようとは思わない。だが、この研修を聞いていると、どこからがセクハラになるのかの線引きがどうにもわからなくなる。「もし女性と談笑しただけで、相手が不快だと思ったら?」「もし何気なく視線を向けたのに、相手が『性的に見られた』と解釈したら?」──そんな疑心暗鬼が頭をもたげてくる。

 実際、大輔は女性との接し方に慣れていない。気をつけているつもりでも、相手のリアクションひとつで「もしかして失礼だった?」「嫌われてないだろうか」と不安になってしまうことが多々あった。そうした小さな不安が、今回の研修によって一気に増幅されていく。考えれば考えるほど「下手なことをしてトラブルになったら人生終わりだ」という恐怖が募るのだ。

「――これはまずい。どうすればいいんだ?」

 研修の最後に「何か質問は?」と問われても、大輔は声を出せない。なにしろ「女性との接し方がわからず怖い」という内面を、大勢の前でさらけ出すわけにはいかないし、セクハラについても具体的に質問しようとすればするほど「逆にこいつ怪しいんじゃないか」と思われそうで気が引ける。結局、黙ってその場をやり過ごすしかなく、「注意しすぎるくらいがちょうどいいのかもしれない」と自分に言い聞かせるのだった。


 コンプライアンス研修の内容が社内のイントラネットに掲載され、さらにハラスメント防止の啓発ポスターがあちこちに貼り出されるようになると、大輔はますます“女性との接点そのものが危険”だと感じるようになってしまった。もちろん理屈では「何もやましいことをしなければ大丈夫」と分かっている。だが、そんな単純な話ではないのだ。

 研修でも繰り返し言われたように、「ハラスメントかどうかは相手の受け取り次第」。自分では好意的に接したつもりでも、相手が少しでも不快に思ったら問題行為とされる可能性がある──この一文が、大輔の心に重くのしかかる。正直、どんな言葉や態度が相手を不快にさせるか、彼には見当がつかない。何しろ、これまでほとんど女性と深く関わった経験がないからだ。

 そこで大輔は、極端な防衛策を取るようになる。要するに「なるべく女性と関わらないようにしよう」というものだ。声をかけられたら丁寧に答えるが、自分から話を振ることはしない。どうしても仕事で会話が必要な場合は、簡潔に要点だけ伝えて、さっさと切り上げる。雑談などに発展させると地雷を踏むかもしれないし、不用意に目を合わせるのも良くないのではないか、と疑心暗鬼に陥る。

 すると当然、女性社員からすれば大輔は「壁のある人」「ちょっと冷たい人」という印象を持たれてしまう。同期の女性の中には、最初の懇親会でちょっと会話しただけでも「優しそうな人だな」と感じていた者もいたが、その後の態度があまりにも素っ気ないので、「嫌われちゃったのかな」と思い始める。一方、大輔のほうは「嫌うつもりはないけど、セクハラになるくらいなら嫌われたほうがマシだ」と自分を納得させていた。

 こんな状態が続けば当然、女性のいる空間に対して居心地の悪さを感じるようになる。昼休みに同期数人で社内カフェテリアへ行く際も、女性社員が一緒だとわかると「ちょっと先に行ってて」と理由をつけて回避し、男性同期だけで行くようになる。飲み会などでも同様に、女性が参加するテーブルには座らず、気の合う男性のほうへと流れていく。

 ところが男性同士で飲むときは不思議なくらい気が楽で、学生時代と同じようなノリが出せる。「男子校育ちの本能」とでもいうのだろうか。男だけで集まるときの空気感には何の抵抗もなく、むしろ心から笑っていられるのだ。こうなると、女性がいる場に無理に行きたくもない。自分の中で「ああ、男同士って楽でいいな」という感覚がどんどん強まっていった。


 同期の中には数少ない女性技術者が何人かいたが、その中で前田佳奈(まえだ・かな)は研修中に一度だけ大輔と昼食をともにしたことがあった。明るいショートカットで人あたりが柔らかく、男性社員に対しても物怖じせず話しかけるタイプだ。最初の印象は「気さくで優しい人」。しかし大輔は、研修後に彼女と顔を合わせるとき、なぜかぎこちない表情を浮かべてしまう。

 佳奈は「大輔くん、また今度、一緒に昼ごはん行かない?」と声をかけるが、大輔は「ごめん、ちょっと先輩と打ち合わせがあって」と言って断る。彼女が「あ、そうなの? 残念……」と寂しそうに微笑むのを見ても、彼は「すみません」と会釈をして足早に立ち去ってしまう。自分でもわかるほど、不自然でそっけない態度だった。

 佳奈からすれば、やはり「自分、何か悪いことしちゃったかな?」という疑問がわく。そこで同期の男性に「あの……小森くんって、私を避けてる感じがするんだけど、何か聞いてる?」と相談することもあった。しかし同じ同期の男性たちも「いや、別に悪い噂は聞かないけど……」「彼はたぶん女子慣れしてないんだよ」と当てにならない返事で終わってしまう。

 大輔はそれを知る由もないが、万が一佳奈が自分に恋愛感情を持っていたら、どう対応すればいいのかわからないし、セクハラの危険性があるのではと被害妄想を膨らませる。結局、社内でばったり顔を合わせても挨拶程度で済ませ、余計な会話を避ける行動を徹底する。佳奈は最初こそ気にかけていたものの、ある時点から「これ以上無理に近づいて嫌な思いをさせても……」と諦め気味になっていった。


 新人配属がほぼ決まった段階で、大輔は設計部門に席を置くことになった。そこでも技術職の男性比率はかなり高いが、隣の部署には女性も数人在籍していた。上司が「せっかく隣同士の部署だし、親睦を深めよう」と合同の飲み会を計画し、同期の佳奈もそのメンバーに含まれることがわかる。

 大輔は本当は行きたくなかった。だが上司から「新人は全員参加」と強く言われ、渋々足を運ぶ。居酒屋の個室で総勢十名ほどが集まって開かれた会は、序盤こそ和気あいあいとした雰囲気だった。ところが、酒が進むうちに酔った先輩が「で、大輔は彼女いないの?」「佳奈ちゃんはどうなんだ?」といった、恋愛関連の話題を振ってくる。これ自体は、職場の飲み会でありがちな他愛のない話かもしれない。

 しかし、大輔からすればこれこそ最悪の地雷トーク。いわゆる「セクハラまがい」の質問が行き交う現場で、どこでどう返せばいいのかわからない。佳奈もその場にいて、「えー、やめてくださいよー」と笑いながら返す程度だが、大輔は心中穏やかではない。下手なことを言ったら自分が“加害者”になるのではないか……そんな恐れが頭をもたげる。

 先輩が冗談めかして「おまえら同期同士で付き合えば?」などと言い出したときには、大輔は完全に居場所をなくし、無言でうつむいてしまう。周囲の社員が「あはは」と流してくれるが、「いやいや、先輩、ちょっときわどいですよ」と軽く止めようとする者もいる。その空気感が余計に大輔を萎縮させ、「やはり男女が混ざるとリスクしかない」と考えてしまう。

 結果的に、飲み会では大輔はほとんど会話を交わさず、早々に帰宅してしまった。佳奈は「大丈夫だった?」と声をかけたが、「あ、はい……」とだけ応じて逃げるように立ち去る。その背中を見た佳奈の表情は沈んでおり、他の同期や先輩たちも「ちょっと可哀想だったかな」と気を回したが、打つ手はなく、その夜の飲み会は尻すぼみに終わった。



 それ以降、大輔はさらに女性から距離を取るようになる。飲み会に女性が参加するとわかったら欠席し、ランチも男性だけのグループで行くことを徹底する。たとえ業務で必要な連絡があっても、できるだけメールやチャットで済ませ、直接会って話す場面を避ける。

 こうした行動は周囲にも徐々に伝わり、「大輔はとにかく女性嫌いらしい」という噂が広まってしまう。もちろん本人としては「嫌っているわけではなく、トラブルを避けたいだけ」だが、部外者から見れば同じことに映るだろう。同期の男性の中にも「お前、なんかあったのか?」と軽く聞いてくる者がいるが、大輔は「うーん、別に……」としか言わない。

 誰にも言えない悩みがあるからこそ、余計に孤立していく。実際、大輔は不安やストレスを溜め込んでいたが、それを言葉にできず、ひたすら「女性と関わらなければ安全だ」と考えて自分を納得させるしかなかった。自分がコンプライアンス違反で糾弾されるのを避けるには、それが最良の方法だと信じ込んでしまったのだ。

 一方、男性同期や先輩との関係は良好だった。特に気の合う連中と飲みに行くときは、くだらない話で笑い合えるし、同じ技術職としての話題や趣味の話で盛り上がる。女性がいない空間ならば、心の底からリラックスできる──大輔はそんな自分に気づき、「男同士が一番気楽でいいな」と思うようになっていった。

 そうなると、どんどん職場でも“男子だけでつるむ”選択肢を取りがちになる。昼の休憩時間に男性数人でお菓子を食べながら雑談したり、休日には男同士でサバイバルゲームに行ったり。かつて男子校で育ったときと同じような空気感が、社会人になっても再現される。むしろ、その安堵感こそが大輔を救っていたと言っていい。



 仕事の場だけでなく、プライベートでも女性との接点は激減した。大学時代の知り合いのSNSグループに女性が入っているとわかると参加を遠慮し、同級生の男女混合の飲み会などにも一切顔を出さなくなる。するとやがて誘い自体も減っていき、彼はますます男性のみと気楽に遊ぶスタイルを確立してしまう。

 親や親戚から「そろそろ彼女とかいないの?」と聞かれても、「仕事が忙しいんだ」「そういうの興味ないから」と取り繕い、深く詮索されないようにする。両親もさすがに「まずは仕事に慣れればいいし、今は時代が変わってるしね」とそれ以上踏み込まない。こうして大輔は、社会的にはまだ新人の立場ながら、恋愛や結婚といったものから徐々に遠ざかっていった。

 ときには「こんな生活でいいのか?」という疑問が湧くこともある。ドラマや映画の恋愛シーンを見て、青春真っただ中の大学生カップルや社会人同士のロマンスに少しだけ憧れる気持ちもゼロではない。だが、それはあくまで物語の中だけの話。自分がそういうリスクを負ってまで誰かと付き合うメリットがあるのか、と考えると、やはり「女性は怖い」というイメージが先行してしまうのだ。

「ハラスメントで訴えられたり、下手に誤解を受けて社内で噂が立ったりしたら、取り返しがつかない。それなら最初から何も起こらないようにしておくほうがいい……」

 そんな理屈を振りかざして、心の安定を保とうとしている節があった。だからこそ、男性同士の気楽な交友関係がいっそう大輔を安心させ、「別に女なんていなくても、俺は困らない」と自分に言い聞かせるようになる。いわゆる「草食系」というよりは、もっと“徹底的に女性との関係を拒否する”という意味合いでの「絶食系男子」への道を歩み始めているかのようだった。


 一方、同期の佳奈はというと、配属された部署で忙しく働きながら、大輔をときどき見かけるたびに複雑な気持ちを抱えていた。最初に出会ったころは「物静かな人だけど、優しそう。もっと話してみたいな」と思っていたが、今ではほぼ会話がない。すれ違いざまに「お疲れさまです」と挨拶をしても、彼は「はい、お疲れさま」程度で会釈をして去っていくだけだ。

 あれほど徹底的に距離を置かれると、さすがに佳奈も「嫌われているんだろうな」と思うしかない。初めは「私が何か失礼をしたのでは」と気にしていたが、周囲の男性社員から「小森は女子慣れしてないんだよ」「変なやつじゃないんだけど、女性と話すのが苦手なんだ」と聞かされて、仕方なく納得するしかなかった。かといって、こちらから積極的に踏み込んだら余計に嫌がられるかもしれない──そんな思いが、佳奈の足を止めていた。

 実際、仕事上の情報共有などでどうしても大輔とやり取りが必要なときは、佳奈も最低限のメッセージだけを送るにとどめるようにしている。すると大輔も定型文のような返信しか寄越さない。お互いにビジネスライクな関係を装ううちに、やがては心の距離まで開いていく。

「まあ、仕事さえうまくいけば、余計なことは考えなくていいか……」

 佳奈はそう自分に言い聞かせて、忙しさにかまけるように時間を過ごしていた。同期の女性社員たちとお昼を食べたり、気の合う男性先輩と雑談をしたりして過ごすうちに、大輔のことを気にする頻度も減っていく。ただ、ふとした拍子に彼の姿を廊下で見かけると、胸の奥に針が刺さるような痛みを覚えるのも事実だった。

 そして季節が巡り、入社から半年ほど経った頃、社内では再びコンプライアンスのフォロー研修が行われた。大輔は最初こそ緊張しながら座っていたが、途中から「もう聞きたくない」と言わんばかりに感情を遮断してしまう。ハラスメントを避ける方法が「女性と関わらないこと」だという結論に、彼の中ではすでに固まっていたからだ。

 研修が終わったあと、同期数名が「またきつい内容だったなあ」「でも大事なことだよな」と感想を交わしているのを、大輔は遠巻きに聞いていた。自分はもう、この世界とは関わらない。そうやって心の中で壁を作るようにして、会社の廊下をひとり足早に歩く。そこへ佳奈がちょうど通りかかり、彼に気づいたようだった。視線が交わるかと思いきや、彼はわざと目を逸らし、素通りしていく。佳奈も「……あ」と小さな声を出しかけたが、そのまま諦めた。

 大輔はその夜、同期の男性仲間たちと居酒屋へ行き、気の置けない会話に花を咲かせた。恋愛の話になると、誰かが「いやあ、俺は彼女欲しいわ。クリスマスまでにはなんとかしたいよ」と言うが、大輔は「俺はいいや。そっち頑張れよ」と笑って済ませる。実際、彼の心にはもう女性と付き合いたいという願望はほとんど残っていなかった。それよりも仕事で成果を出し、男同士で気楽に過ごす時間のほうがはるかに大輔を満足させていたのである。

 酔いが回った仲間のひとりが、大輔に酔いぶれた勢いで問いかけた。「お前、本当にそれでいいのかよ? 青春というか、若いころしかできない経験だってあるだろうに……」と。大輔は笑いながら「いや、別に恋愛とか興味ないから。下手にめんどくさいことになるより、男同士で遊んでるほうが楽しいしさ」と答える。その答えは自嘲気味だったが、どこか真剣さを帯びていた。

 男たちはそれを聞いて「まあ、そういう生き方もあるよな」「最近はそういう人も多いらしいし」とうなずき合う。誰もそれ以上は深く追及しない。大輔にしてみれば、「絶食系男子」「女に興味がない男」と思われることに、もはや抵抗はなかった。むしろ、そのほうが楽だとさえ感じていた。

 会社でも、自然と男性社員ばかりが集まるサークル的なグループができていた。昼食を共にし、休日にはバドミントンやフットサルを楽しみ、たまに旅行にも行く。女性の存在がないからこそ、気遣いもいらず、気を張ることもない。その無重力のような楽な空間が、大輔の心をすっぽりと包み込んでくれるのだ。「ここなら何も失敗しないし、ハラスメントの心配もゼロだ」と思うと、下手に女性と話す必要をまったく感じなくなる。

 それはある意味で、大輔が長年慣れ親しんできた“男子校の延長”とも言えた。中高一貫で男子校、大学も男性多数、そして社会人になっても男だらけの部署や仲間。気づけば「女性と絡まない人生」が当たり前のように続いている。それでもごく一部には、「このまま年齢を重ねて、俺はどうなるんだろう」という不安もあった。だが、その不安を打ち消すように、「今が楽ならいい」「余計なリスクを負わないほうが賢い」と考える日々が続いていく。

 結果的に、大輔は社内でも“極度の絶食系”として通るようになった。恋愛話には乗らず、雑談でも女性への言及を避け、ひたすら男仲間とだけ盛り上がる。周囲も「ああ、そういう人なんだな」と受け止め、誰も無理強いしない。佳奈をはじめ数名の女性同期も、すでに大輔から完全に距離を置くようになり、近況すらほとんど知らない状態だ。

 そんな大輔だが、仕事の評価は悪くない。設計業務で着実に成果を出し、上司からも「お前、もっとチームプレーを意識してくれればいいんだが……」と言われながらも、技術力を認められていた。大輔にとっても、仕事と仲間内の男同士のコミュニケーションさえあれば充分だった。もはや女性との接触を断つことに、さほど抵抗も悲壮感もない。むしろ「このほうがストレスなく快適だ」と感じるまでになっていた。

 やがて、大輔の中で“女性に対する漠然とした恐怖”は、形を変えて“彼女たちがいない生活のほうが心地いい”という確信に変わっていく。それはかつての「セクハラが怖い」「嫌われたくない」という葛藤を飛び越え、もはや「女性はいなくていい」という究極の結論に到達したかのようだった。

 ――そうして大輔は、男子校育ちから理系大学、そして男の多いメーカー就職と、一貫して男だらけの環境に守られ続けながら、ついには「絶食系男子」としての道を歩み始める。恋愛や女性との親密な関係を望むどころか、それらを“不要なもの”として切り捨て、男たちとだけつるむ時間が彼にとっての安住の地となっていた。

 周囲からすれば、彼はまだ若いし、そのうち考えが変わるかもしれないと見守る者もいた。佳奈も「いつか彼が私に心を開いてくれる日が来るのかな」とかすかに思うことはあっても、自分から動く意欲はもう失われている。大輔本人にしてみれば、これが「自分らしい生き方」だと信じて疑わないのだから、誰もそれを止めることはできない。

 コンプライアンス研修で学んだハラスメントの恐怖は、彼の人生観を根底から変えてしまった。だが、その変化はけっして前向きとは言えない形で結実していたのかもしれない。いつの間にか男性同士の安心感だけを求めて生きるようになった大輔は、そう遠くない将来、ふとしたときに「本当にこれでよかったのか?」と疑問を抱くかもしれない。けれど今は、閉ざされた世界で心地良く過ごすことを最優先に選び、一歩も外に出ようとはしないのである。
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