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第1話 知ってしまった真実
しおりを挟むーーまるで純白の花嫁じゃないの。
この物語の主人公であるネル・グリフィスは、眩しさすら感じる煌びやかな寝室で、鏡に映った自分を見てそう思った。
だがその数時間後、純白だった筈のネグリジェを埃まみれにしながら、彼女は狭いボイラー室の中で息を押し殺すことになるのだった。
事の発端は煌びやかな寝室内にて。
獣人の国“ラスカ”は高く聳える崖の上にある神聖な国で、人間と変わらぬ知能を持ちながらも動物の特色を持つ獣人は、あらゆる面で人間よりも優れた立場に立っていた。
ネルがそんなラスカにある大きな屋敷の寝室内でネグリジェ姿になっている理由はただひとつ。
この屋敷のアリスターという名の狼の獣人が、自身がネルの番であると手紙を寄越した為だった。
番という文化は人間には存在しないが、獣人にとっては運命的なものらしい。理性が飛んでしまうほど、相手を求めて恋焦がれてしまうものなのだとか。
その番を広い世界の中から見つけ出すのは簡単な話ではない筈なのだが、ラスカにある大きな神殿にて“お告げ”があり、見事アリスターの番は人間のネル・グリフィスだと判明したらしい。
獣人はこの世界のヒエラルキーのトップであり、アリスターはラスカの富豪だということもあってネルの家族は悲しむどころか泣いて喜んだ。アリスターが寄越した多額の支度金は、ネルの家族が一生遊んで暮らせるほどの額だったのもネルの家族を大いに沸かせた要因だった。
波打った茶色の髪に、頬の上に散らばったそばかす。特に美人でもなんでもない、ただの田舎の町娘。
ネルは自分を卑下しているわけではなかったが、冷静に自己分析ができる少女だった。
ーー貴族でもないのにこんな上質なネグリジェを着れるなんて。もう家族に会えないのは悲しいけど‥。家族みんながまともな暮らしができるなら‥番に選ばれて良かったのかもしれない。
ネルは何度も何度も自分にそう言い聞かせた。人生を賭けて家族孝行ができたのだと、嬉しくも思い始めていた。歳の離れた幼い弟だけがネルとの別れを寂しがる中、ネルは送迎役のコンドルの獣人によってラスカに送り届けられたのだった。
3羽の巨大なコンドルの獣人は、ネルを籠に乗せて3日ほど空を駆けた。ネルが籠の中でコンドル酔いに襲われたのは言うまでもない。
高い崖の上にあるラスカに辿り着く為には、こうして獣人の力を借りるしかない。ラスカに嫁いだ人間が二度と自身の国に帰れないと言われるのは、こうした理由があってこそのことだ。
その為、ラスカに嫁いだ人間がどんな生活を送っているかも分からないまま、ネルは神話の世界に足を踏み入れるような気分でラスカに来たのだった。
ラスカについてからもコンドル酔いでグッタリと正気を無くしていたネルだったが、今度は犬の獣人達がネルが入った籠ごとソリに乗せてアリスターの屋敷に運んだのだった。
アリスターの屋敷に到着してからのネルは、肝心のアリスターに出迎えられることもなく、乗り物酔いで気分が優れないまま粛々と初夜に向けての準備をされていたのである。
数時間もするとネルの具合も治ってきて、豪華な寝室から窓の外を眺めてみては「私、本当にラスカに来たんだ‥」とひとり呟いていた。
真っ白く滑らかな布は、ネルの肌を大いに露出させていた。田舎の町娘だったネルにも、ある程度の知識はある。自分が今から家主とどんなことをするのかも理解はできていた。もちろん心の準備はいつまで経っても出来るはずなど無かったのだが、どうしようもないことなのだと諦めはできていた。
ただ‥いくらネルが乗り物酔いに苦しんでいたという経緯があったとしても、夜が更ける前に顔を見せてくれてもよかったのではないか、とネルが不信感を抱くのも無理はなかった。
猫の獣人のメイド達に強制的にネグリジェ姿にされてしまったネルは、自ら廊下に出てアリスターの部屋に挨拶に行く勇気などない。待つしかない。
だが、番というものが運命的で情熱的なものなのだとしたら、こんな初対面じゃなくてもいいじゃないかと思ってしまうものである。
ーー嫁ぎに来たのではなく、体を捧げにきたみたい‥。
時計の針が進んでいくたびにネルの気持ちは更に沈んでいった。ベッド脇に置かれたガラスの水差しがすっかりぬるくなった頃、やっと扉がノックされた。
ベッドに座ってボーッとしていたネルは、咄嗟に立ち上がる。手のひらは一瞬で汗に濡れ、鼓動は耳にまで響いていた。
「ーーー失礼するよ」
狼の獣人だと聞いていたアリスターの声は、ネルが想像していたよりもずっと優しく柔らかいものだった。その声に少しホッとしながら、扉の方を見つめる。
「ど、どうぞ‥」
ネルはそう言いながら扉に向かって真っ直ぐに向き直った。ゆっくりと開かれた扉から出てきたのは、人間よりも遥かにガタイがいい黒毛の狼男だった。コンドルや犬の獣人もそうだが、獣人といってもやはり見た目は獣そのもの。だが知能があり、喋り、社会生活がある。それが獣と獣人の違いだろう。
人間社会には普通に動物が生息しており、生きる為に動物を食べるし、動物を飼うことも一般的だ。
だがやはり、獣人と動物とではわけが違う。
ネルはアリスターの姿を見た瞬間すぐに挨拶をする筈だったのだが、その姿のあまりの迫力に咄嗟に声が出なかった。
「はは、驚かせてしまったかな。僕がアリスターだよ。どうぞ宜しく」
アリスターはそう言って目を細めた。アリスターから握手を求められ、戸惑いながらもネルも自身の手を差し出す。
「ネ、ネルです。よろしくお願いしま‥‥‥‥す‥‥?」
アリスターの手に触れた瞬間だった。突如ネルの脳内に何かが入り込んできたのだ。
『地味だなー。それに胸が小さいな。はぁ‥後回しにするか。今日は初見が他にもいるし。昨日暴れたアイツの部屋に行ってみるのもいいな。‥‥なんだ?この女、急に固まったぞ』
「‥ネルさん?」
「え、あっ、はい」
「大丈夫かい?どうかしたかな?」
『ボケーっとした子なんだな。まぁ今日は適当に放置しておくか。それにしても番と言って金渡すだけで簡単に釣れるんだから、人間は本当都合が良いな』
「‥‥‥っ、‥え‥‥」
「ネルさん、気分が優れないようだから今日はこのままゆっくり休むといい。ね?」
アリスターがそう言って握手を解くと、ネルの脳内に入り込んできた何かも綺麗さっぱり消え去った。
にっこりと笑いながらスマートに部屋を出ていくアリスターを見送った後、ネルはようやく事態を飲み込んだのだ。
「‥‥なんかよく分からないけど、いまのはアリスターさんの心の声‥‥?‥‥もしかしてだけど‥‥これは‥‥番詐欺‥?他にも私のようにアリスターさんに嫁がされた番たちがいる‥‥‥?」
確かに運命的だという割にアリスターの態度は非常に冷静だった。世界に一人しかいない番と巡り会えたというような態度ではなかった。
神聖な国ラスカの獣人から番だと言われれば、人間は無条件にラスカに嫁いできた。それを逆手にとって、アリスターは人間を騙していたということらしい。
ラスカから人の国に戻る術はない。この事態に気付いたとしてもそれを周知できないのだから、被害は知らされずに続いていく。
ネルは震え上がる体を自分自身で抱きしめた。恐怖や絶望からではない。これは、彼女の腹がぐつぐつと煮えたぎったせいだ。ネルはこの時、間違いなく人生で一番の怒りを抱いたのだった。
「あのクソ狼‥。絶対去勢してやる‥!!!」
こうしてネルの逃走劇が幕を開けたのである。
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