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1巻
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プロローグ
「――わたくし、妊娠しておりますの」
そう聞かされて、グラファーテ帝国皇帝であるエーレンフリートは、まじまじと目の前の妻を見つめた。
皇妃アドリーヌ。九年前、政略結婚で娶ったエーレンフリートの妻である。しかし、これまでに子ができるような交渉は二人の間には存在していない。
それもそのはず。結婚した当時、エーレンフリートは十八歳だったが、アドリーヌはまだ八歳の幼子であった。加えてアドリーヌの母国ロシェンナ王国の風習に合わせ、成人となる十八までは白い婚姻を前提とした輿入れであったからだ。
そして、現在アドリーヌは十七歳。あと一年経てば、契りを結んで正式な夫婦となる、はずであった。
「……そうか、その……体調は大丈夫なのか?」
「え? え、ええ……」
何を言えばいいのかわからない。ありていに言えば、虚を突かれて頭の中が真っ白になったエーレンフリートの口から出たのは、あまりにもこの場にそぐわない一言だった。常日頃から英明にして冷静、と謳われる彼にしては間抜けすぎる一言だったと言ってもいい。
だが、言われた方のアドリーヌは早々に戸惑いから立ち直ると、口の端に苦笑めいた笑みを浮かべた。そんな、これまでに見たことのないような表情の方が、エーレンフリートにとっては衝撃が大きい。
何せ、この九年――お互いに、言ってみれば兄と妹のように過ごしてきた仲である。その間、アドリーヌのこんな表情をエーレンフリートは見たことがなかった。
「……お怒りには、ならないのですね。まあ、そうだろうとは思っていましたけれど」
「は……?」
ため息をついたアドリーヌが、背後を振り返る。控えていた騎士がそれを合図に、アドリーヌの方へと歩み寄ってくるのが見えた。
「陛下、わたくしにとってあなたは――夫というよりも兄でした。あなたにとっても、わたくしは妹でしたでしょう?」
「否定はしないが……」
それでも、十八を、成人を迎えればきちんと妻として遇するつもりであった。幼かった妻がだんだんと女性らしく花開いていくのを、一番近くで見守っていたのは夫である自分だったはずだ。それが妻に対して、というよりも年の離れた妹を見守るような気持ちであったことは確かであるが。
「誰と、ともお尋ねにならないのね」
「あ……ああ、いや……」
そうだ、妊娠したというからには、この幼げな妻を――エーレンフリートがそれなりに大切に慈しんできた無垢な花を手折った男がいるということだ。
アドリーヌが振り返った先には、先程歩み寄ってきた騎士が膝をついている。その視線に含まれた甘い色。それを見た瞬間、エーレンフリートはすべてを察した。
シャルル・ラクロワ。アドリーヌが母国から連れてきた騎士で、このグラファーテ帝国内でも皇妃付きとして長く側にいた男である。
金の髪に緑色の瞳をした優男だ。そのくせ、剣の腕は確かである。エーレンフリートもそれなりに信用し、アドリーヌに関するすべてをほとんどこの男に任せていた。
「そうか、お前が……」
「……申し開きのしようもなく」
膝をついたまま頭を下げ、シャルルはたった一言そう述べただけである。だが、彼の立場では確かにそれ以上の言葉は言えないだろう。
それを見ていたアドリーヌが素早く立ち上がり、シャルルの傍に膝を落とす。
「いいえ、あなたは悪くないわ……わたくしを、女として見てくれたのは、あなただけだもの……」
「アドリーヌさま……」
そっと背中に手を添えて、アドリーヌがシャルルの顔を覗き込む。それに応えて、シャルルも顔を上げた。その瞳には、甘ったるい色がふんだんに含まれている。
何を見せられているのだろう――とエーレンフリートがげんなりしたとしても、今は誰も責められないだろう。それほど、二人の間に漂うのは甘く、他者を寄せ付けない空気だ。
ふう、と知らず知らずのうちに、エーレンフリートの唇からはため息がもれた。
すでに妊娠している、というのであれば、もうこれはどうしようもない。
まさかこのまま婚姻関係を続けるわけにもいかないが、事を公にするのもまずい。
これから先のことを考えねばならないというのに、二人は自分たちの世界に入ったまま出てこないし、そもそも二人にはこの先のプランなどないのだろうな、と思う。
――一体どうするつもりだったのやら。
呆れに似た気持ちで、エーレンフリートはシャルルの端整な顔を侮蔑の気持ちを込めて見やる。
このままでは、この先、二人の未来はそう明るいものにはならないだろう。
もう一度ため息をついて、エーレンフリートは虚空を見上げた。とはいっても、九年も側で妹同然に過ごしてきた相手だ。このまま不貞の罪で放逐して、後は野となれ山となれ――という気には、さすがになれない。
――国元へ、帰すよりほかにないだろうな。
白い結婚を理由に、婚姻不成立を申し立てることは可能だろう。皇妃として遇してはいたが、アドリーヌは未成年だ。公務の類には一切かかわっていないし、皇妃として皇帝のパートナーを務めたこともない。
この九年で、グラファーテ帝国とロシェンナ王国の同盟関係もゆるぎないものになっている。
問題は、身重であるアドリーヌをロシェンナ王国側がどう遇するかだ。
シャルルと添わせてくれれば一番だろうが、果たして政略結婚の果てに不貞を犯し、未成年の身で妊娠した娘を――そして孕ませた男を、ロシェンナ国王は果たして許すだろうか。
そもそも――その先の考えに行きついて、エーレンフリートはさらに気が重くなるのを感じた。
白い婚姻であった、というのはエーレンフリートとアドリーヌにしてみれば明白な事実だ。婚姻時の取り決めでもそうなっている。しかし、すでに子を成している以上、アドリーヌの処女は失われているのだ。それがシャルルによるものだ、というのは身に覚えのないエーレンフリートにしてみれば明らかなのだが、果たしてロシェンナ王国側がそれで納得するかどうか。
――そのあたりは、こちらが力で押し切るしかあるまい。
幸い、グラファーテ帝国は九年前とは比較にならぬほど国力を増大させた。その礎となったのは、ロシェンナ王国との結びつきにより諸外国を抑えられたことにある。そこをつかれると弱いが、そもそもアドリーヌに非のあることなのだから、こちらの言い分を呑んでもらうしかあるまい。
未だ自分たちの世界に浸っている二人を見ながら、エーレンフリートはこの日三度目になるため息をついた。
――あの日から、一年。まだ、たった一年だ、というのに。
当時のことを思い返しながら、エーレンフリートはため息混じりに疑問を投げかけた。
「なあ……俺は、この国で一番偉いんだよな……?」
「もちろんです、陛下」
その問いに答えたのは、皇太子時代から側近として仕えてくれているバルトルト・アイヒホルンである。公爵位を持つアイヒホルン内務大臣の息子で、焦げ茶色の髪に濃緑の目をした、少しばかり軽薄な雰囲気のする男だ。
だが、その軽薄さでもってあちこちに顔が利き、情報を集めるのに役立つ男でもある。エーレンフリートにとっては、幼少期から共に過ごした気安い相手でもあった。
そのバルトルトの軽い返答に、エーレンフリートは琥珀色の瞳をすがめて彼の手にある小さな肖像画を一瞥した。
ずい、と差し出されたそれを、一応手に取る。だが、描かれた肖像を見ることもなく、それでべしべしと机をたたいた。
「それが、自分の妻さえ自由に決められんとは、どういうことだ」
「どういうもこういうも、陛下が一向にお決めにならないからでしょう」
エーレンフリートは唸り声をあげると、黒い髪をぐしゃりとかき混ぜてその肖像画をぽいと投げ捨てた。
「決定なのか」
「決定ですね。ほら、顔くらい見ておいてください。割と美人ですよ」
「顔なんかどうでもいい」
「それじゃ身体ですか? それもほら……」
「それもどうでもいい」
エーレンフリートは吐き捨てるように口にした。肩をすくめたバルトルトが、肖像画を拾い上げ、ぽんぽんとほこりを払うような仕草をしてから机の上に置く。エーレンフリートの琥珀色の瞳がそれをちらりと見てから、またバルトルトに視線を戻した。
「女なんてみんな嘘つきだ」
「ほら、また始まった……」
前妻――と言っていいのだろうか。アドリーヌとは婚姻不成立の申し立てがあっさりと受理されて他人に戻った。あれから一年が過ぎたが、アドリーヌが子を産んだという話は聞こえてこない。
つまり、エーレンフリートは二重に騙されたのだ。
これを仕組んだのは、おそらくあのシャルルとかいう騎士だろう。アドリーヌは年齢のわりに幼く、そういったはかりごとには向かない女だった。
――道理で、ロシェンナ王国側も何も言わないわけだ。
そもそも、ロシェンナ国王は娘には甘い。ことに、幼くして他国に嫁ぐことになったアドリーヌには負い目もあったことだろう。
虚仮にされた、と怒りに任せてロシェンナ王国に多大な賠償を請求しても良かった。だがそれでも、エーレンフリートには九年間を兄妹のように過ごしたアドリーヌへの情がある。
その一方で、騙されたという思いは、エーレンフリートに女性への強い不信感を抱かせるに十分なものだ。
十八から九年の間、エーレンフリートは幼い妻であるアドリーヌに配慮して、他の女性と一切遊ぶことなく身を慎んで生きてきた。それを裏切られたのだから、当然ともいえる。
なんにせよ、アドリーヌがエーレンフリートに残した傷は大きかった。帝位にあって皇妃不在はよろしくない、と持ち込まれる縁談の数々を断る日々を続けるほどに。
それにしびれを切らした議会が、とうとうエーレンフリートに最後通牒を突き付けたのである。
「ルイーゼ・クラッセン、か」
「クラッセン侯爵の娘ですね。今年二十になります」
「……二十?」
エーレンフリートは眉をひそめた。二十、といえばすでに貴族の子女ならば結婚していておかしくない年齢だ。最近は結婚が遅いことも多いと聞くが、それでも十六までには婚約者が決まっているのが相場である。
侯爵家の娘であれば、なおさら早く婚約者が決まっていてもおかしくはない。
それに加え、八つも年下だということも気にはなった。
「あー……その、ちょっとワケありでして……でも、侯爵令嬢としてはなんら瑕瑾のない、素晴らしい方ですよ」
「そんなに素晴らしい令嬢なら、お前が嫁にもらったらどうだ」
バルトルトとエーレンフリートの年齢は同じだ。揶揄するようにエーレンフリートが言うと、バルトルトはまた大げさに肩をすくめた。
「私の結婚は、陛下が皇妃を迎えられてからですね」
「……逃げるのがうまいな」
「それに、私はすでに婚約者がおりますしね。陛下ももう二十八におなりですよ。さすがにこれ以上は引き伸ばせませんって」
はあ、と大きなため息をついて、エーレンフリートは明らかに劣勢なこの話を打ち切ることにした。なんにせよ議会が承認したからには、このルイーゼという娘がエーレンフリートの婚約者に決まったということだ。
ワケありだろうがなんだろうが、決まってしまったからには仕方がない。議会の決定をはねのけることは、いかに皇帝といえどもできないのだ。
こうして、グラファーテ帝国皇帝の縁談はまとまったのである。
第一章 皇帝の結婚
さて、縁談のもう一方の主であるルイーゼ・クラッセンは、その話を父から聞かされていた。
「――というわけで、お前と陛下の婚姻が決まった」
「まあ」
大きな紫の瞳を瞬かせ、ルイーゼは父親の顔を見る。そんな娘の様子を見て、父であるクラッセン侯爵は大きく息をついた。
「できればお断りしたかったんだがなあ……他に婚約者も夫もいない適齢の娘は、お前くらいのものだからな……」
はは、と力なく笑った父に、ルイーゼが苦笑をもらす。
「まあ、その……申し訳ありません……」
「お前に非のあることではないからな」
「ま、そうなんですけれど」
悪びれないルイーゼの言葉に、クラッセン侯爵はくすりと笑った。
この国では珍しい銀糸の髪に、紫水晶のような瞳。ルイーゼは、外国から嫁いできた祖母の血を見事に受け継いだ容姿をしている。さらには美女と名高かった祖母に似て、ルイーゼもまた美しい娘であった。
貴族の子女らしくきちんと学問も修め、淑女としての嗜みも一通りこなす。
だが、その性格が現在のクラッセン侯爵夫人である母に似てしまったのが良くなかったのだろう。
おっとり、といえば聞こえはいいが、ルイーゼはだいぶぼんやりした感じのする娘であった。そして、そのぼんやりとした性格のわりに物言いがだいぶ率直なのである。いや、むしろ辛辣と言ってもいいかもしれない。
おっとりとした顔つきのルイーゼから放たれる一言は、時に思わぬ一撃を相手にかましてしまうことがあった。
家族は慣れていたが、婚約者に選ばれた男はどうやらそれが気に入らなかったらしい。ぼんやりしているくせにきつい言葉を吐く――とルイーゼを毛嫌いし、他の女性に鞍替えしてしまったのだ。
当然、怒り狂ったクラッセン侯爵が相応の賠償金をもぎ取ったのだが、それが更にルイーゼを縁談から遠ざけてしまった。
そんなわけで、ルイーゼは侯爵令嬢であるにもかかわらず、二十になっても婚約者もおらず、結婚もしていない、という状態だったのである。
幸いなことに、弟で嫡子であるアルフォンスはちゃっかりと意中の女性と婚約している。クラッセン侯爵家としてはルイーゼひとりが結婚していなくても、まあいいかという空気ではあった。何せ、アルフォンスの婚約者であるクリスティーネ嬢は、ルイーゼにとって親友でもある。なんなら結婚せず、ずっと侯爵家で一緒にいてくれたら嬉しいわ、と言うような女性なのだ。
こうして、ルイーゼは結婚せず、すっかりクラッセン侯爵家で生きていく気満々だったのだが――そこへ突然降ってわいたように、皇帝エーレンフリートとの縁談がまとまってしまったのである。
「ところで、お父様」
「ん? なんだい、ルイーゼ」
おっとりとルイーゼに呼びかけられて、クラッセン侯爵は顔を上げた。榛色の瞳が優しく娘を見たが、続いた言葉に凍り付く。
「陛下は、だいぶ女性不信を拗らせている、とお伺いしたことがありますが」
「……お前、それを誰から聞いたんだい?」
あら、とルイーゼは微笑んだ。
「いやだわ、そんなの……夜会に出れば噂になっていますもの。この一年、陛下にいろんな縁談がおありだったけれど、どれもこれもお断り、女なんぞ信用ならん、と仰っていると」
クラッセン侯爵は頭を抱えた。それが真実であることを知っていたからだ。
「だから本当は嫌なんだよなあ……」
「まあ」
肩を落とした父の姿に、ルイーゼはまたくすくすと笑い声をあげた。
「まあ、決まってしまったものは仕方がありません。私に務まるかどうかはわかりませんが、精いっぱい頑張ってまいります」
「すまないな」
でも、離縁されて戻ってきても怒らないで迎えてくださいね、というルイーゼの言葉に、クラッセン侯爵はなんとも言えない顔になるのであった。
なるべく早くに皇妃を迎えたい、という意向に添い、ルイーゼはそこからしばらく忙しい日々を送った。準備のために費やされた期間は、たったの半年だ。
そんな短い準備期間ではあったが、それなりの体裁を整え、よき期日を占ったうえで、この日、婚姻式典が厳かに執り行われた。
聖シャトゥール大教会の頂上にある大きな鐘が、澄んだ音を帝都に響かせている。
「病める時も、健やかなる時も……」
お決まりの誓いの言葉を述べる司祭を前に、ルイーゼは少しばかり緊張していた。夫となるエーレンフリートにとっては二度目のことだが、自分にとっては初めてのことだ。
ヴェール越しにそっと隣のエーレンフリートを透かし見る。すると、彼は少しばかり不機嫌そうな顔で前を見ていた。
その姿に、なんだかため息をつきたくなる。
女性不信を拗らせている、とは聞いていたが、聞きしに勝る拗らせぶりだ。何せ、自分の婚姻式典であるというのに、仏頂面を隠しもしない花婿なのだから。
――うまくやっていけるかしら。
少しだけ、不安が胸をよぎる。
それでも、遠目にしか見たことのなかった皇帝エーレンフリートは、近くで見ると目を瞠るほど美しい男性であった。
実を言えば、お互いの忙しさに紛れ、実際に顔を合わせるのは、今日この時が初めてである。
ヴェールを被っているので、ルイーゼの視線には誰も気付いていないようだった。それをいいことに、ルイーゼは今度は大胆にエーレンフリートの顔をじろじろと眺めまわす。
黒髪を後ろへ流すようにセットし、すっきりと額を出したことで、意志の強そうな形のいい眉が見えている。その下の琥珀色の瞳は、やや吊り目がち。鼻が高く、唇は少し薄めだ。それらがバランス良く配置されたその顔は、男性ながら美しい、という言葉がしっくりくる。
身近なところでは、弟であるアルフォンスも充分に美しい男であった。だが彼の場合は、どちらかというとやはり祖母の血が濃く出たのか中性的な美貌である。男性的な美しさ、というものを、ルイーゼはこの日初めて実感したのであった。
考え事をしている間にも、式は厳かに進行していく。お互いに「誓います」と結婚の宣誓を行うと、司祭はにっこりと微笑んで黒い皮表紙の教本を置き、腕を開いた。
「では、二人誓いの口付けを」
司祭の言葉に促されて、お互いに向き合う。エーレンフリートの手で、ルイーゼの被っていたヴェールがゆっくりと引き上げられた。
この日初めて、何に遮られることもなく二人の視線が交差する。
真っ直ぐにエーレンフリートの顔を見上げると、彼は一瞬はっとしたように息を呑んだ。頬に添えようとした右手が迷ったように揺れ、そのくせ視線は不躾なほどじっとこちらを見つめている。きりりと結んだ唇からは、ぎり、と奥歯を噛み締める音が聞こえた、ような気がした。
――どうしたのかしら。
怪訝に思ったのも、ほんのわずかな時間だった。気を取り直したかのようにエーレンフリートの手がルイーゼの頬に触れ、顔が近づいてくる。手順通りの動きにほっとして目を閉じると、ルイーゼの唇に柔らかなものが触れた。
――人の唇って、柔らかいのね……
初めての経験に、思わず小さく吐息がもれた。だが、すぐに離れていくと思った唇は、なかなか遠のいていかない。それどころか、何か湿ったものが自分の唇を突いてきて、思わず「んっ」と息がもれた。さらにその湿ったもの――途中で気付いたが、これはエーレンフリートの舌だ――が唇を舐めていく。
息苦しさに喘ぐと、それはまるで待っていたかのように口の中へと侵入してきた。舌先が歯を辿り、驚きに身をこわばらせる。思わず逃げようとしたが、いつのまにか頭の後ろをエーレンフリートの大きな手に抱えられ、身動きできない。んんっ、と鼻にかかった、まるで甘えるような声が小さくもれてしまい、恥ずかしさに頭がくらくらする。思わず彼の上着をぎゅっと握りしめると、腰を支えた腕がルイーゼを抱き込み、口付けがより深くなった。
逃げる舌を追いかけられ、絡め取られる。小さく水音が立ち、溢れそうになった唾液をエーレンフリートが啜って飲み込む。
それに気付いて、ルイーゼの体はカッと火がついたように熱くなった。
――うそ、今……!
思わず彼の体を押し返そうとしたところで、司祭の咳払いの声が聞こえた。その声で我に返ったのか、エーレンフリートがはっとしたように顔を上げる。
――なに、今の……?
困惑したルイーゼはそんな彼の琥珀色の瞳を、ぼんやりと見つめた。その先で、エーレンフリートが妙に満足げに微笑むのが見えて、どきりと心臓が跳ねる。
周囲から見れば情熱的な口付けを披露した二人は、参列した貴族たちに笑顔で見送られ、聖シャトゥール大教会を後にした。
ここからは予定されていた通りに皇城までの道のりを、馬車に乗って移動していく。途中、道なりに皇帝と新たな皇妃を祝福する人々が詰めかけていて、それに応えて手を振ったりもした。
だが、その間二人の間には会話はない。
エーレンフリートはもともと無口な方であったし、対するルイーゼは少しばかり頭が混乱していたからだ。
何せ、女性不信を拗らせた女嫌いのはずの皇帝が、神聖な婚姻式典であれほどに情熱的な口付けをしてきたのである。そして、口付けを終えた後の満足そうな笑み。
男性的な魅力にあふれたその微笑みは、ルイーゼの鼓動を一気に加速させるのに十分な威力を発揮した。
――ほんと、なんなの、これ……
ルイーゼはこれまで、短い期間いた婚約者以外に男性と親しく接したことがない。その婚約者だって、ルイーゼのことを毛嫌いしていたため、口づけどころか手を握ったことすらない。
噂に聞いていたとおり女性不信の皇帝ならば、必要以上の接触はしてこないのではないか、とも思っていた。
だというのに、エーレンフリートは手馴れた様子でルイーゼに口付けたのみならず、その口の中にまで舌を挿し込み蹂躙してきた。
ルイーゼだって、もう二十だ。それなりに友人たちのそういった話も聞いていたし、口づけには色々種類があることだって知っている。だけど、話に聞いて想像していたものと、エーレンフリートにされた口づけは全く違っていた。
舌が歯をなぞるだけで身体が震えることも、絡められる舌が熱いことも、唾液がほんのり甘く感じることも――そして、あんな、変な声がもれてしまうことも、想像したことはなかった。それに、口付けだけで腰が抜けそうになってしまうことも、だ。
正面ではなく、隣に座っているエーレンフリートの横顔を思わず盗み見る。式典の間の仏頂面とは違い、今のエーレンフリートはどこか機嫌がよく、窓の向こうの声に応えて手を振っていた。それをじっと見ていたルイーゼの視線に気付いたのか、エーレンフリートが振り返る。
「ほら、ルイーゼ、きみも手を振ってやれ」
促されて、ルイーゼもおずおずと手を振った。窓の外で歓声が上がり、祝福の言葉が降り注ぐ。
眩暈がしそうなほどの青空と、民衆の歓声。そして、自分に向かって微笑むエーレンフリート。
ルイーゼはだんだん訳がわからなくなって、曖昧な笑みを浮かべたまま、早く城に着くことを祈って手を振り続けた。
しかし、念願かなってようやく城に着いた後も、ルイーゼの受難は続いた。当然だが、一国の皇帝の婚姻である。式典は城に戻った後が本番と言ってもいい。
今度は皇城の中で皇妃の冠をかぶせられる戴冠の儀式が行われ、次にその姿をお披露目するという名目でバルコニーに引っ張り出される。
そこへ集まった人々に笑顔で手を振るよう、促され、あろうことか、その場でもエーレンフリートはごく軽くではあるが、ルイーゼの唇に口付けをした。それを見て集まった人々が「今度こそは陛下もお幸せになるだろう」と口々に噂し合ったことは、さすがにルイーゼのあずかり知らぬことである。
「――わたくし、妊娠しておりますの」
そう聞かされて、グラファーテ帝国皇帝であるエーレンフリートは、まじまじと目の前の妻を見つめた。
皇妃アドリーヌ。九年前、政略結婚で娶ったエーレンフリートの妻である。しかし、これまでに子ができるような交渉は二人の間には存在していない。
それもそのはず。結婚した当時、エーレンフリートは十八歳だったが、アドリーヌはまだ八歳の幼子であった。加えてアドリーヌの母国ロシェンナ王国の風習に合わせ、成人となる十八までは白い婚姻を前提とした輿入れであったからだ。
そして、現在アドリーヌは十七歳。あと一年経てば、契りを結んで正式な夫婦となる、はずであった。
「……そうか、その……体調は大丈夫なのか?」
「え? え、ええ……」
何を言えばいいのかわからない。ありていに言えば、虚を突かれて頭の中が真っ白になったエーレンフリートの口から出たのは、あまりにもこの場にそぐわない一言だった。常日頃から英明にして冷静、と謳われる彼にしては間抜けすぎる一言だったと言ってもいい。
だが、言われた方のアドリーヌは早々に戸惑いから立ち直ると、口の端に苦笑めいた笑みを浮かべた。そんな、これまでに見たことのないような表情の方が、エーレンフリートにとっては衝撃が大きい。
何せ、この九年――お互いに、言ってみれば兄と妹のように過ごしてきた仲である。その間、アドリーヌのこんな表情をエーレンフリートは見たことがなかった。
「……お怒りには、ならないのですね。まあ、そうだろうとは思っていましたけれど」
「は……?」
ため息をついたアドリーヌが、背後を振り返る。控えていた騎士がそれを合図に、アドリーヌの方へと歩み寄ってくるのが見えた。
「陛下、わたくしにとってあなたは――夫というよりも兄でした。あなたにとっても、わたくしは妹でしたでしょう?」
「否定はしないが……」
それでも、十八を、成人を迎えればきちんと妻として遇するつもりであった。幼かった妻がだんだんと女性らしく花開いていくのを、一番近くで見守っていたのは夫である自分だったはずだ。それが妻に対して、というよりも年の離れた妹を見守るような気持ちであったことは確かであるが。
「誰と、ともお尋ねにならないのね」
「あ……ああ、いや……」
そうだ、妊娠したというからには、この幼げな妻を――エーレンフリートがそれなりに大切に慈しんできた無垢な花を手折った男がいるということだ。
アドリーヌが振り返った先には、先程歩み寄ってきた騎士が膝をついている。その視線に含まれた甘い色。それを見た瞬間、エーレンフリートはすべてを察した。
シャルル・ラクロワ。アドリーヌが母国から連れてきた騎士で、このグラファーテ帝国内でも皇妃付きとして長く側にいた男である。
金の髪に緑色の瞳をした優男だ。そのくせ、剣の腕は確かである。エーレンフリートもそれなりに信用し、アドリーヌに関するすべてをほとんどこの男に任せていた。
「そうか、お前が……」
「……申し開きのしようもなく」
膝をついたまま頭を下げ、シャルルはたった一言そう述べただけである。だが、彼の立場では確かにそれ以上の言葉は言えないだろう。
それを見ていたアドリーヌが素早く立ち上がり、シャルルの傍に膝を落とす。
「いいえ、あなたは悪くないわ……わたくしを、女として見てくれたのは、あなただけだもの……」
「アドリーヌさま……」
そっと背中に手を添えて、アドリーヌがシャルルの顔を覗き込む。それに応えて、シャルルも顔を上げた。その瞳には、甘ったるい色がふんだんに含まれている。
何を見せられているのだろう――とエーレンフリートがげんなりしたとしても、今は誰も責められないだろう。それほど、二人の間に漂うのは甘く、他者を寄せ付けない空気だ。
ふう、と知らず知らずのうちに、エーレンフリートの唇からはため息がもれた。
すでに妊娠している、というのであれば、もうこれはどうしようもない。
まさかこのまま婚姻関係を続けるわけにもいかないが、事を公にするのもまずい。
これから先のことを考えねばならないというのに、二人は自分たちの世界に入ったまま出てこないし、そもそも二人にはこの先のプランなどないのだろうな、と思う。
――一体どうするつもりだったのやら。
呆れに似た気持ちで、エーレンフリートはシャルルの端整な顔を侮蔑の気持ちを込めて見やる。
このままでは、この先、二人の未来はそう明るいものにはならないだろう。
もう一度ため息をついて、エーレンフリートは虚空を見上げた。とはいっても、九年も側で妹同然に過ごしてきた相手だ。このまま不貞の罪で放逐して、後は野となれ山となれ――という気には、さすがになれない。
――国元へ、帰すよりほかにないだろうな。
白い結婚を理由に、婚姻不成立を申し立てることは可能だろう。皇妃として遇してはいたが、アドリーヌは未成年だ。公務の類には一切かかわっていないし、皇妃として皇帝のパートナーを務めたこともない。
この九年で、グラファーテ帝国とロシェンナ王国の同盟関係もゆるぎないものになっている。
問題は、身重であるアドリーヌをロシェンナ王国側がどう遇するかだ。
シャルルと添わせてくれれば一番だろうが、果たして政略結婚の果てに不貞を犯し、未成年の身で妊娠した娘を――そして孕ませた男を、ロシェンナ国王は果たして許すだろうか。
そもそも――その先の考えに行きついて、エーレンフリートはさらに気が重くなるのを感じた。
白い婚姻であった、というのはエーレンフリートとアドリーヌにしてみれば明白な事実だ。婚姻時の取り決めでもそうなっている。しかし、すでに子を成している以上、アドリーヌの処女は失われているのだ。それがシャルルによるものだ、というのは身に覚えのないエーレンフリートにしてみれば明らかなのだが、果たしてロシェンナ王国側がそれで納得するかどうか。
――そのあたりは、こちらが力で押し切るしかあるまい。
幸い、グラファーテ帝国は九年前とは比較にならぬほど国力を増大させた。その礎となったのは、ロシェンナ王国との結びつきにより諸外国を抑えられたことにある。そこをつかれると弱いが、そもそもアドリーヌに非のあることなのだから、こちらの言い分を呑んでもらうしかあるまい。
未だ自分たちの世界に浸っている二人を見ながら、エーレンフリートはこの日三度目になるため息をついた。
――あの日から、一年。まだ、たった一年だ、というのに。
当時のことを思い返しながら、エーレンフリートはため息混じりに疑問を投げかけた。
「なあ……俺は、この国で一番偉いんだよな……?」
「もちろんです、陛下」
その問いに答えたのは、皇太子時代から側近として仕えてくれているバルトルト・アイヒホルンである。公爵位を持つアイヒホルン内務大臣の息子で、焦げ茶色の髪に濃緑の目をした、少しばかり軽薄な雰囲気のする男だ。
だが、その軽薄さでもってあちこちに顔が利き、情報を集めるのに役立つ男でもある。エーレンフリートにとっては、幼少期から共に過ごした気安い相手でもあった。
そのバルトルトの軽い返答に、エーレンフリートは琥珀色の瞳をすがめて彼の手にある小さな肖像画を一瞥した。
ずい、と差し出されたそれを、一応手に取る。だが、描かれた肖像を見ることもなく、それでべしべしと机をたたいた。
「それが、自分の妻さえ自由に決められんとは、どういうことだ」
「どういうもこういうも、陛下が一向にお決めにならないからでしょう」
エーレンフリートは唸り声をあげると、黒い髪をぐしゃりとかき混ぜてその肖像画をぽいと投げ捨てた。
「決定なのか」
「決定ですね。ほら、顔くらい見ておいてください。割と美人ですよ」
「顔なんかどうでもいい」
「それじゃ身体ですか? それもほら……」
「それもどうでもいい」
エーレンフリートは吐き捨てるように口にした。肩をすくめたバルトルトが、肖像画を拾い上げ、ぽんぽんとほこりを払うような仕草をしてから机の上に置く。エーレンフリートの琥珀色の瞳がそれをちらりと見てから、またバルトルトに視線を戻した。
「女なんてみんな嘘つきだ」
「ほら、また始まった……」
前妻――と言っていいのだろうか。アドリーヌとは婚姻不成立の申し立てがあっさりと受理されて他人に戻った。あれから一年が過ぎたが、アドリーヌが子を産んだという話は聞こえてこない。
つまり、エーレンフリートは二重に騙されたのだ。
これを仕組んだのは、おそらくあのシャルルとかいう騎士だろう。アドリーヌは年齢のわりに幼く、そういったはかりごとには向かない女だった。
――道理で、ロシェンナ王国側も何も言わないわけだ。
そもそも、ロシェンナ国王は娘には甘い。ことに、幼くして他国に嫁ぐことになったアドリーヌには負い目もあったことだろう。
虚仮にされた、と怒りに任せてロシェンナ王国に多大な賠償を請求しても良かった。だがそれでも、エーレンフリートには九年間を兄妹のように過ごしたアドリーヌへの情がある。
その一方で、騙されたという思いは、エーレンフリートに女性への強い不信感を抱かせるに十分なものだ。
十八から九年の間、エーレンフリートは幼い妻であるアドリーヌに配慮して、他の女性と一切遊ぶことなく身を慎んで生きてきた。それを裏切られたのだから、当然ともいえる。
なんにせよ、アドリーヌがエーレンフリートに残した傷は大きかった。帝位にあって皇妃不在はよろしくない、と持ち込まれる縁談の数々を断る日々を続けるほどに。
それにしびれを切らした議会が、とうとうエーレンフリートに最後通牒を突き付けたのである。
「ルイーゼ・クラッセン、か」
「クラッセン侯爵の娘ですね。今年二十になります」
「……二十?」
エーレンフリートは眉をひそめた。二十、といえばすでに貴族の子女ならば結婚していておかしくない年齢だ。最近は結婚が遅いことも多いと聞くが、それでも十六までには婚約者が決まっているのが相場である。
侯爵家の娘であれば、なおさら早く婚約者が決まっていてもおかしくはない。
それに加え、八つも年下だということも気にはなった。
「あー……その、ちょっとワケありでして……でも、侯爵令嬢としてはなんら瑕瑾のない、素晴らしい方ですよ」
「そんなに素晴らしい令嬢なら、お前が嫁にもらったらどうだ」
バルトルトとエーレンフリートの年齢は同じだ。揶揄するようにエーレンフリートが言うと、バルトルトはまた大げさに肩をすくめた。
「私の結婚は、陛下が皇妃を迎えられてからですね」
「……逃げるのがうまいな」
「それに、私はすでに婚約者がおりますしね。陛下ももう二十八におなりですよ。さすがにこれ以上は引き伸ばせませんって」
はあ、と大きなため息をついて、エーレンフリートは明らかに劣勢なこの話を打ち切ることにした。なんにせよ議会が承認したからには、このルイーゼという娘がエーレンフリートの婚約者に決まったということだ。
ワケありだろうがなんだろうが、決まってしまったからには仕方がない。議会の決定をはねのけることは、いかに皇帝といえどもできないのだ。
こうして、グラファーテ帝国皇帝の縁談はまとまったのである。
第一章 皇帝の結婚
さて、縁談のもう一方の主であるルイーゼ・クラッセンは、その話を父から聞かされていた。
「――というわけで、お前と陛下の婚姻が決まった」
「まあ」
大きな紫の瞳を瞬かせ、ルイーゼは父親の顔を見る。そんな娘の様子を見て、父であるクラッセン侯爵は大きく息をついた。
「できればお断りしたかったんだがなあ……他に婚約者も夫もいない適齢の娘は、お前くらいのものだからな……」
はは、と力なく笑った父に、ルイーゼが苦笑をもらす。
「まあ、その……申し訳ありません……」
「お前に非のあることではないからな」
「ま、そうなんですけれど」
悪びれないルイーゼの言葉に、クラッセン侯爵はくすりと笑った。
この国では珍しい銀糸の髪に、紫水晶のような瞳。ルイーゼは、外国から嫁いできた祖母の血を見事に受け継いだ容姿をしている。さらには美女と名高かった祖母に似て、ルイーゼもまた美しい娘であった。
貴族の子女らしくきちんと学問も修め、淑女としての嗜みも一通りこなす。
だが、その性格が現在のクラッセン侯爵夫人である母に似てしまったのが良くなかったのだろう。
おっとり、といえば聞こえはいいが、ルイーゼはだいぶぼんやりした感じのする娘であった。そして、そのぼんやりとした性格のわりに物言いがだいぶ率直なのである。いや、むしろ辛辣と言ってもいいかもしれない。
おっとりとした顔つきのルイーゼから放たれる一言は、時に思わぬ一撃を相手にかましてしまうことがあった。
家族は慣れていたが、婚約者に選ばれた男はどうやらそれが気に入らなかったらしい。ぼんやりしているくせにきつい言葉を吐く――とルイーゼを毛嫌いし、他の女性に鞍替えしてしまったのだ。
当然、怒り狂ったクラッセン侯爵が相応の賠償金をもぎ取ったのだが、それが更にルイーゼを縁談から遠ざけてしまった。
そんなわけで、ルイーゼは侯爵令嬢であるにもかかわらず、二十になっても婚約者もおらず、結婚もしていない、という状態だったのである。
幸いなことに、弟で嫡子であるアルフォンスはちゃっかりと意中の女性と婚約している。クラッセン侯爵家としてはルイーゼひとりが結婚していなくても、まあいいかという空気ではあった。何せ、アルフォンスの婚約者であるクリスティーネ嬢は、ルイーゼにとって親友でもある。なんなら結婚せず、ずっと侯爵家で一緒にいてくれたら嬉しいわ、と言うような女性なのだ。
こうして、ルイーゼは結婚せず、すっかりクラッセン侯爵家で生きていく気満々だったのだが――そこへ突然降ってわいたように、皇帝エーレンフリートとの縁談がまとまってしまったのである。
「ところで、お父様」
「ん? なんだい、ルイーゼ」
おっとりとルイーゼに呼びかけられて、クラッセン侯爵は顔を上げた。榛色の瞳が優しく娘を見たが、続いた言葉に凍り付く。
「陛下は、だいぶ女性不信を拗らせている、とお伺いしたことがありますが」
「……お前、それを誰から聞いたんだい?」
あら、とルイーゼは微笑んだ。
「いやだわ、そんなの……夜会に出れば噂になっていますもの。この一年、陛下にいろんな縁談がおありだったけれど、どれもこれもお断り、女なんぞ信用ならん、と仰っていると」
クラッセン侯爵は頭を抱えた。それが真実であることを知っていたからだ。
「だから本当は嫌なんだよなあ……」
「まあ」
肩を落とした父の姿に、ルイーゼはまたくすくすと笑い声をあげた。
「まあ、決まってしまったものは仕方がありません。私に務まるかどうかはわかりませんが、精いっぱい頑張ってまいります」
「すまないな」
でも、離縁されて戻ってきても怒らないで迎えてくださいね、というルイーゼの言葉に、クラッセン侯爵はなんとも言えない顔になるのであった。
なるべく早くに皇妃を迎えたい、という意向に添い、ルイーゼはそこからしばらく忙しい日々を送った。準備のために費やされた期間は、たったの半年だ。
そんな短い準備期間ではあったが、それなりの体裁を整え、よき期日を占ったうえで、この日、婚姻式典が厳かに執り行われた。
聖シャトゥール大教会の頂上にある大きな鐘が、澄んだ音を帝都に響かせている。
「病める時も、健やかなる時も……」
お決まりの誓いの言葉を述べる司祭を前に、ルイーゼは少しばかり緊張していた。夫となるエーレンフリートにとっては二度目のことだが、自分にとっては初めてのことだ。
ヴェール越しにそっと隣のエーレンフリートを透かし見る。すると、彼は少しばかり不機嫌そうな顔で前を見ていた。
その姿に、なんだかため息をつきたくなる。
女性不信を拗らせている、とは聞いていたが、聞きしに勝る拗らせぶりだ。何せ、自分の婚姻式典であるというのに、仏頂面を隠しもしない花婿なのだから。
――うまくやっていけるかしら。
少しだけ、不安が胸をよぎる。
それでも、遠目にしか見たことのなかった皇帝エーレンフリートは、近くで見ると目を瞠るほど美しい男性であった。
実を言えば、お互いの忙しさに紛れ、実際に顔を合わせるのは、今日この時が初めてである。
ヴェールを被っているので、ルイーゼの視線には誰も気付いていないようだった。それをいいことに、ルイーゼは今度は大胆にエーレンフリートの顔をじろじろと眺めまわす。
黒髪を後ろへ流すようにセットし、すっきりと額を出したことで、意志の強そうな形のいい眉が見えている。その下の琥珀色の瞳は、やや吊り目がち。鼻が高く、唇は少し薄めだ。それらがバランス良く配置されたその顔は、男性ながら美しい、という言葉がしっくりくる。
身近なところでは、弟であるアルフォンスも充分に美しい男であった。だが彼の場合は、どちらかというとやはり祖母の血が濃く出たのか中性的な美貌である。男性的な美しさ、というものを、ルイーゼはこの日初めて実感したのであった。
考え事をしている間にも、式は厳かに進行していく。お互いに「誓います」と結婚の宣誓を行うと、司祭はにっこりと微笑んで黒い皮表紙の教本を置き、腕を開いた。
「では、二人誓いの口付けを」
司祭の言葉に促されて、お互いに向き合う。エーレンフリートの手で、ルイーゼの被っていたヴェールがゆっくりと引き上げられた。
この日初めて、何に遮られることもなく二人の視線が交差する。
真っ直ぐにエーレンフリートの顔を見上げると、彼は一瞬はっとしたように息を呑んだ。頬に添えようとした右手が迷ったように揺れ、そのくせ視線は不躾なほどじっとこちらを見つめている。きりりと結んだ唇からは、ぎり、と奥歯を噛み締める音が聞こえた、ような気がした。
――どうしたのかしら。
怪訝に思ったのも、ほんのわずかな時間だった。気を取り直したかのようにエーレンフリートの手がルイーゼの頬に触れ、顔が近づいてくる。手順通りの動きにほっとして目を閉じると、ルイーゼの唇に柔らかなものが触れた。
――人の唇って、柔らかいのね……
初めての経験に、思わず小さく吐息がもれた。だが、すぐに離れていくと思った唇は、なかなか遠のいていかない。それどころか、何か湿ったものが自分の唇を突いてきて、思わず「んっ」と息がもれた。さらにその湿ったもの――途中で気付いたが、これはエーレンフリートの舌だ――が唇を舐めていく。
息苦しさに喘ぐと、それはまるで待っていたかのように口の中へと侵入してきた。舌先が歯を辿り、驚きに身をこわばらせる。思わず逃げようとしたが、いつのまにか頭の後ろをエーレンフリートの大きな手に抱えられ、身動きできない。んんっ、と鼻にかかった、まるで甘えるような声が小さくもれてしまい、恥ずかしさに頭がくらくらする。思わず彼の上着をぎゅっと握りしめると、腰を支えた腕がルイーゼを抱き込み、口付けがより深くなった。
逃げる舌を追いかけられ、絡め取られる。小さく水音が立ち、溢れそうになった唾液をエーレンフリートが啜って飲み込む。
それに気付いて、ルイーゼの体はカッと火がついたように熱くなった。
――うそ、今……!
思わず彼の体を押し返そうとしたところで、司祭の咳払いの声が聞こえた。その声で我に返ったのか、エーレンフリートがはっとしたように顔を上げる。
――なに、今の……?
困惑したルイーゼはそんな彼の琥珀色の瞳を、ぼんやりと見つめた。その先で、エーレンフリートが妙に満足げに微笑むのが見えて、どきりと心臓が跳ねる。
周囲から見れば情熱的な口付けを披露した二人は、参列した貴族たちに笑顔で見送られ、聖シャトゥール大教会を後にした。
ここからは予定されていた通りに皇城までの道のりを、馬車に乗って移動していく。途中、道なりに皇帝と新たな皇妃を祝福する人々が詰めかけていて、それに応えて手を振ったりもした。
だが、その間二人の間には会話はない。
エーレンフリートはもともと無口な方であったし、対するルイーゼは少しばかり頭が混乱していたからだ。
何せ、女性不信を拗らせた女嫌いのはずの皇帝が、神聖な婚姻式典であれほどに情熱的な口付けをしてきたのである。そして、口付けを終えた後の満足そうな笑み。
男性的な魅力にあふれたその微笑みは、ルイーゼの鼓動を一気に加速させるのに十分な威力を発揮した。
――ほんと、なんなの、これ……
ルイーゼはこれまで、短い期間いた婚約者以外に男性と親しく接したことがない。その婚約者だって、ルイーゼのことを毛嫌いしていたため、口づけどころか手を握ったことすらない。
噂に聞いていたとおり女性不信の皇帝ならば、必要以上の接触はしてこないのではないか、とも思っていた。
だというのに、エーレンフリートは手馴れた様子でルイーゼに口付けたのみならず、その口の中にまで舌を挿し込み蹂躙してきた。
ルイーゼだって、もう二十だ。それなりに友人たちのそういった話も聞いていたし、口づけには色々種類があることだって知っている。だけど、話に聞いて想像していたものと、エーレンフリートにされた口づけは全く違っていた。
舌が歯をなぞるだけで身体が震えることも、絡められる舌が熱いことも、唾液がほんのり甘く感じることも――そして、あんな、変な声がもれてしまうことも、想像したことはなかった。それに、口付けだけで腰が抜けそうになってしまうことも、だ。
正面ではなく、隣に座っているエーレンフリートの横顔を思わず盗み見る。式典の間の仏頂面とは違い、今のエーレンフリートはどこか機嫌がよく、窓の向こうの声に応えて手を振っていた。それをじっと見ていたルイーゼの視線に気付いたのか、エーレンフリートが振り返る。
「ほら、ルイーゼ、きみも手を振ってやれ」
促されて、ルイーゼもおずおずと手を振った。窓の外で歓声が上がり、祝福の言葉が降り注ぐ。
眩暈がしそうなほどの青空と、民衆の歓声。そして、自分に向かって微笑むエーレンフリート。
ルイーゼはだんだん訳がわからなくなって、曖昧な笑みを浮かべたまま、早く城に着くことを祈って手を振り続けた。
しかし、念願かなってようやく城に着いた後も、ルイーゼの受難は続いた。当然だが、一国の皇帝の婚姻である。式典は城に戻った後が本番と言ってもいい。
今度は皇城の中で皇妃の冠をかぶせられる戴冠の儀式が行われ、次にその姿をお披露目するという名目でバルコニーに引っ張り出される。
そこへ集まった人々に笑顔で手を振るよう、促され、あろうことか、その場でもエーレンフリートはごく軽くではあるが、ルイーゼの唇に口付けをした。それを見て集まった人々が「今度こそは陛下もお幸せになるだろう」と口々に噂し合ったことは、さすがにルイーゼのあずかり知らぬことである。
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