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後編

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「さすがに、殿下を踏んだり蹴ったりはできませんわ」
「そう? 僕が頼んでも?」

 苦笑して、エルゼは目の前で微笑む麗しい王子様を見つめた。改めて落ち着いて見てみると、アレクシスは本当に顔がいい。何度会っても顔がいい。これは絶世の美女と名高い王妃の血のなせる技だろう。
 だというのに——この美貌の青年に、自分はなんということをしてしまったのだろう。

 エルゼが股間を蹴り上げたりしなければ、被虐趣味に目覚めたりしなかったのに。

 アレクシスは、エルゼより一歳年上の十九歳。王妃の息子で、王位に最も近いと言われている人物だ。
 側室の横やりさえなければ、既に立太子されていてもおかしくなかっただろう。
 エルゼはこうしてアレクシスと親しく接するようになって、改めてそのことを認識した。
 そうすると、エルゼは、というよりはヴァイデンライヒ公爵家は彼の邪魔をしていたということになる。だが、そのことについて、アレクシスは特になんとも思っていないようだった。
 むしろ、「大変だったね」と慰められたまである。
 おそらく、国王の思惑も、父ヴァイデンライヒ公爵が断り切れなかったことも、彼はお見通しなのだろう。
 はあ、とため息をついて、エルゼはカップに口をつけた。この時期に採れる、一番摘みの茶葉の良い香りが鼻を抜けていく。
 実際彼の「下僕にしてくれ」という願いを聞き入れた形にはなったが、エルゼはあれ以来彼を蹴ったり殴ったりはしていなかった。

 もちろん、踏んだりも、だ。

 ただ、アレクシスがヴァイデンライヒ公爵家を訪れてお茶を飲んだり、もしくはエルゼが王宮に呼び出されてお茶を飲んだり——と、とにかく現在の二人の間柄は、下僕と主人というよりは、ただのお茶のみ友達といったところだ。
 彼と話をするのは、思いのほか楽しかった。会話の端々に垣間見える知性、そして思いやり。人間として、素晴らしい人物だと改めて実感する。
 まあ時折、先ほどのようなことを言いはするが、アレクシスがエルゼにそういった行為を強要することもない。
 ただ、エルゼが呆れたような視線を向けると、喜びはするのだけれど。

「ああ、それなら今度は……エルゼに稽古をつけてもらうのはどうかなぁ」
「そうですね……機会がありましたら」

 それくらいならいいかもしれない。くすっと笑うと、アレクシスも笑う。
 少し前までは想像もしなかった穏やかな時間が二人の間を流れていた。



 だが、やはり——いいことがあれば悪いこともあるものである。
 エルゼがアレクシスの元を辞し、家に帰ろうと王宮内を歩いていると、背後から声をかけられた。振り返れば、どこかで見た覚えのあるピンクの髪に新緑の瞳、かわいらしい容姿をした令嬢が腕組みしてこちらを睨み付けている。

「あら、ええと……」
「ジモーネよ、ジモーネ・リッシェル」

 一瞬名前が出てこずに答えに詰まったエルゼを睨み付けて、ジモーネは険のある視線を彼女に向けた。
 確か、エルゼとの婚約を破棄したヘルムートは、彼女との婚約を強行したはずだ。だから、彼女がここにいるのは特におかしなことではない。けれど、こんな風にあからさまな敵意を向けられることは、どうにも解せない話である。
 なにしろ、ヘルムートから婚約破棄されたエルゼは、それを黙って受け入れているし、二人の婚約に異を唱えたりもしていない。
 そう、特に何の接点もない身なのだ、今となっては。

「……あなた、最近アレクシス殿下と親しくなさってるんですってね」
「え? ええ、まあ……?」

 最初のきっかけが何であれ、確かに今の自分たちは親しい茶飲み友達と言えるだろう。否定する意味もないので頷くと、彼女はますます眦をつり上げた。

「いいご身分ねぇ……! あんたなんて、ヘルムート殿下に婚約破棄された女のくせに……次はアレクシス殿下ってわけ?」
「え、いえ」
「本当になんなのよ、あんた……婚約破棄されたんだから、おとなしく家にこもって泣いてればいいのに。それが、今度はアレクシス殿下の婚約者候補だなんて……っ! あんたのせいで、ヘルムート殿下は王太子になれないかも知れないのよ!」

 どん、と胸を押されて、エルゼはたたらを踏んだ。か弱い令嬢だと思ってすっかり油断しきっていたが、相手は思ったよりも力が強いようだ。
 いや、それよりも彼女の言っている意味がよく理解できない。何を言っているのだ。

 ——私が、アレクシス殿下の婚約者候補……?

 そんな話は一切聞いていない。自分と彼の関係は、あくまで茶飲み友達のはずだ。
 いや、ご主人様と下僕かも知れない……けれど。
 エルゼの戸惑いになど気づきもせず、ジモーネは自らの手に視線をやると、ふうんと呟いていびつな笑みを浮かべた。

「まあ、いやらしい胸……! ははぁ……このはしたなくも大きい胸で、アレクシス殿下を誘惑したってわけ? ヘルムート殿下はこういう大きいだけの胸はお嫌いでしたけど、アレクシス殿下はちが……」
「なんですって……?」

 聞き捨てならないことを聞いたエルゼの口から、地の底を這うような低い声が漏れた。決して大きくもない声だったが、それは奇妙なほどの迫力を持って、ジモーネの言葉を遮る。
 怒りで真っ赤に染まって見える視界の端で、ジモーネが一歩後退るのが見えた。

 ——よりにもよって、アレクシス殿下を……!

 エルゼ個人だけのことであれば、まだ許せた。大きいだけの胸には自分でも辟易していたし、これでも小さく見せる努力はしているのだ。
 いや、そこは今問題ではない。問題は、ジモーネがアレクシスのことをよく知りもしないのに、勝手な決めつけで侮辱したことだ。

 ——こんな、脂肪の塊ごときに、アレクシス殿下が誘惑されると……?

 いいや、エルゼがこれまで見てきた彼は、そんな人ではない。人の体型云々で騙されるような、頭の空っぽな男では、断じてない。

「……つまり、裏を返せば」
「なっ……なによ」

 エルゼはぱっぱとドレスのほこりを払うと、ジモーネに微笑みかけた。だが、その紺色の瞳は全く笑っておらず——それどころか、恐ろしいほどの迫力でジモーネを見据えている。
 気圧されたジモーネが一歩下がると、カツンと音を立ててエルゼもまた一歩近づいた。

「……あなたは、ヘルムート殿下を身体で誘惑した、と仰るの?」

 その言葉を聞いた瞬間、ジモーネの顔色が真っ赤に染まる。目をつり上げ、わなわなと唇を震わせた彼女は、エルゼを睨み付けると大きく手を振りかぶった。
 あ、とエルゼはその手を見つめる。この距離では、おそらく避けきれない。構えて防御を——
 だが、振り下ろされた腕の早さは火事場の馬鹿力とでも言うべきか、エルゼの予想を超えていた。このままでは、打たれてしまう。
 覚悟を決め、ぎゅっと目を閉じるのと——それから、ばちんと大きな音が聞こえるのとは同時で。
 エルゼは、自分の頬が痛まないことに驚いて目をそっと開いた。
 飛び込んできたのは、目映いプラチナブロンド。それから、思ったよりも肩幅の広い大きな背中。

「あ、アレクシス殿下……っ」

 その向こうで、自分の手を握りしめてわなわなと震えているのは、ジモーネだ。
 ということは——。

 ——私の代わりに、アレクシス殿下が……?

 とっさにエルゼの頭をよぎったのは、アレクシスの性癖だ。
 彼はエルゼに蹴られて、被虐趣味に目覚めてしまった。
 再び蹴られる快感を味わいたくて、エルゼの下僕に志願したというのに、実際にはそれを強要もせず、きっと物足りない毎日を過ごしていたはずだ。
 もしかしたら、とエルゼは思った。
 もしかしたら——殴ってくれたジモーネに、自分にしたのと同じように下僕志願してしまうのではないか、と。

 ——嫌だ!

 その考えが脳裏をよぎった瞬間、エルゼの頭の中に浮かんだのは、シンプルにそれだけだった。
 彼が、エルゼ以外にあの視線を向けるのは嫌だったし、殴って欲しいと懇願するのも嫌だ。それくらいなら、自分がいくらでもやる。

 ——だから、私以外見ないで。

 殴られたアレクシスが、ゆっくりと顔を上げる。緊張に震えるエルゼの前で、アレクシスはうっとりするほど綺麗な笑みを浮かべ、こう言った。

「こんな平手打ちじゃあ……エルゼの蹴りには到底叶わないな」
「……は、あ……?」

 殴られて笑みを浮かべるアレクシスに、ジモーネは頬を引きつらせ、ドン引きしている。
 だが、エルゼはそんな彼にむかって満面の笑みを浮かべ、その胸の中に飛び込んだ。

「アレクシス殿下……! 私、私……っ」
「うん……」

 ぎゅっと抱きしめ返してくれたアレクシスに、きっと、とエルゼは思う。
 彼も同じ気持ちでいてくれる。

「私、アレクシス殿下のことが……好きです!」
「エルゼ……!」

 ゆっくりと抱擁が解かれ、アレクシスが真っ赤になったエルゼの顔をのぞき込む。そのすみれ色の瞳は、蕩けるほどに甘い色。
 それがゆっくり近づいてきて——そして、二人の距離がゼロになって。

「ようやく言ってくれたね……僕も……きみのことを愛してる」

 耳元でそう囁かれて、エルゼは幸せを噛みしめた。



 いつの間にか集まっていたギャラリーに気がついて、エルゼが正気に返り——恥ずかしさのあまり、アレクシスを投げ飛ばすまで、あと二十秒。
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