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前編
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「なぁーにが、おまえとの婚約は破棄する! よ……」
庭園で一人ぽつんと噴水を眺めながら、エルゼ・ヴァイデンライヒはため息交じりにそう独りごちた。
豊かな金の髪が月の光を反射して煌めき、紺色の瞳は憂い意を帯びて伏せられている。年齢の割に発育の良い身体を包む空色のドレスは、婚約者である王子ヘルムート・クラウゼヴィッツの瞳の色に合わせ準備したものだ。
婚約してから、彼がドレスを贈ってくれたことなどなく——それでも、仮にも王子の婚約者として、不仲であると噂されれば、それは全てエルゼの、ひいてはヴァイデンライヒ公爵家の責となる。それを避けるため、エルゼは毎回自分でいろいろと趣向を凝らし、ドレスを準備していたのだ。
だが、そんなささやかなエルゼの努力は、今日無に還された。
ふと視線をあげると、その先にはきらびやかな光に包まれた王宮の大広間が見える。さわやかな初夏の風に乗って、楽の音がここまで聞こえてきた。
だが、そこに集う人々は、果たして宴を楽しめているだろうか。
なにしろ、つい先ほどそのヘルムートが、公衆の面前でエルゼとの婚約破棄を宣言したばかり。しかも、ヘルムートの傍には「真実の愛」とやらに目覚めさせてくれたという子爵令嬢ジモーネ・リッシェルがぴったりと寄り添っていたのだから。
もちろん、エルゼは彼女の存在を知っていた。ピンクの髪に若草の瞳をした、愛らしい少女だ。しかし、知ってはいたが、どうしようもないことなので無視していた。
だって、この婚約は——。
「失礼……ご令嬢」
物思いにふけっていたところに突然声をかけられ、エルゼは小さくため息をついた。
ここにいるということは、きっと宴に出ていた貴族の誰かだろう。であれば、先ほどの婚約破棄を見ていたはずだ。
——私を、エルゼ・ヴァイデンライヒと知って声をかけているの……?
なんだか、無性にいらいらする。
ずいぶんと安く見られたものだ。王子に婚約破棄されたとはいえ、エルゼはヴァイデンライヒ公爵家の娘である。その辺の男が気安く声をかけていいような、そんな身分ではない。
世の貴族達の間では、こういった夜会で令嬢に声をかける、いわゆる一夜の遊びが流行していると言うが——ああ、そういうことか。
王子に婚約破棄されたような娘ならば、遊び相手にちょうどいいと言うことなのか。
——本当に、むしゃくしゃする……!
エルゼは立ち上がると、おもむろに背後の男の方へと振り返った。薄暗くて顔はよく見えないが、着ているものは上等だ。だが、それがかえって婚約者——いや、今はもう「元婚約者」と呼ぶべきヘルムートとダブって見えて、余計に神経を逆なでする。
「あの、」
「無礼者……!」
声が先だったか、足が先だったか——既にエルゼの記憶にはない。
ただ、振り上げた足の先に確実に獲物を捉えたという感触と、それからもんどりうって倒れる青年と——足元に転がった彼の、その顔と。
「ひ、ひえっ……!」
見間違いようもなかった。夜目にも眩しいプラチナブロンド、すっと通った鼻筋と形の良い唇。今は閉じられているが、ちょっとつり目がちの瞳は綺麗なすみれ色のはず。それは、これまでに何度も会ったことのある顔だった。
そう、何度も、この城で——婚約者の弟として。
「な、なんで……なんでこんなところにいらっしゃるの……!」
完全に混乱したエルゼの叫びが、夜空にこだまする。
何しろ、エルゼの蹴りを股間に受け、完全に伸びてしまっているその青年の名は、アレクシス・クラウゼヴィッツ。
第一王子ヘルムートの弟——つまり、第二王子殿下その人だったのである。
「や、やばいですわ……これはかなりまずいですわよ……!」
とりあえず、素知らぬふりで人を呼び、アレクシスを託したエルゼは、大慌てでヴァイデンライヒ公爵邸へと帰り、自室に飛び込んだ。
今更ながらにカタカタと身体が震え、どっと汗が噴き出てくる。鏡に映る自身の顔色は蒼白で、唇も真っ青だ。
——なんで、あんな所にアレクシス殿下がいらっしゃるの……!?
いや、そんなことはどうだっていい。どうでも良くはないけど、問題はそこではない。
エルゼは自身の足を見おろして、震える吐息をはきだした。
——まさか、王子殿下の股間を、蹴り上げてしまうだなんて……。
ヴァイデンライヒ公爵家は、武門の家柄である。外見こそたおやかな貴婦人に見えるエルゼも、幼い頃から厳しい訓練を受けてきた。
その中には、当然のことながらドレス姿で戦う方法も含まれている。そんじょそこらの男性には、たとえフル正装していても負けたりしない、という自負があった。
それだけに。
——私、思いっきり蹴り上げてしまったわ……お父様に聞いたことがあるけれど、あそこは男性の急所であると同時に、大切なところでもあるのよね……?
そんな部分を、思いっきり蹴り上げてしまったことに、エルゼは慄いた。
これは、まずいのではないだろうか。果たして、今後きちんと機能するだろうか。
万が一、王子殿下の男性機能を奪ってしまったなんてことになったら——エルゼ本人どころか、ヴァイデンライヒ公爵家がどうなるか。
「ほ……本当に……どうしましょう……」
エルゼはぶるぶると震えながら、まんじりともせず次の朝を迎えた。
そして、迎えた翌日。エルゼは恐怖と戸惑いに頭を占領されながら、馬車に揺られていた。
早朝、ヴァイデンライヒ公爵家に届けられたのは、王家からの召喚状。しかも、エルゼ個人を名指しするものだ。
——どうか、ヘルムート殿下との婚約破棄についてのお話だけでありますように……!
そう心の中で念じて見たものの、現実は非情である。着いた先で待ち構えていたのは、昨夜エルゼが股間を蹴り上げた王子アレクシスその人であった。
「あ、アレクシス殿下には、ご機嫌麗しゅう……」
「ご機嫌、ねぇ……」
エルゼは必死で王族に対する最上級礼をとり、定型の挨拶を口にする。だが、そんなエルゼの姿に、アレクシスはくすりと笑って首を振った。
「いやぁ……エルゼ嬢。昨夜のアレはさすがに効いたよ」
「そ、その……大変、申し訳ございません……」
背中にじっとりと不快な汗をかいている。できれば今すぐ逃げ帰りたいが、そんなことをしたら今度はどんなお咎めを上乗せされるか分からない。
いや、そもそも昨夜の分のお咎めだって、どうなるか分からないのに。
不安でドキドキが止まらない。
そんなエルゼに向かって、ゆったりとアレクシスが口を開いた。
「まず、兄上との婚約の件だけれど——正式に破棄することが決まった。これについては、既に国王陛下並びに王妃殿下が認めておられる」
「は、はい……」
アレクシスの言葉に、エルゼが頷く。追って正式な文書がヴァイデンライヒ公爵家に届けられるというが、正直なところ、もうそんなものはどうでもよかった。宴などという、貴族達がたくさん集まる場所で破棄を宣言した以上、覆せばヘルムートの立場が危うくなる。だから、これに関しては既に諦めてもいた。
いや、危ういと言えば、エルゼとの婚約を破棄すること自体が既に彼の立場的に危ういのだ。
ヘルムートは第一王子だが、側室の子だ。エルゼを妃に迎えることで、ヴァイデンライヒ公爵家の後ろ盾を得て王太子になれる可能性が出てきた、という立ち位置だったはず。
今度はどこの家の後ろ盾を得るつもりなのか。子爵家ではその荷は重いのではないだろうか。
——まあ、もう関係ありませんけれど……。
どちらにせよ、ヴァイデンライヒ公爵——つまりエルゼの父は、宮廷内の権力だとか地位だとか、そういったものにはとんと興味を示さない
エルゼの婚約も、ヘルムートを王太子にしたい側室にせがまれた王が「どうしても」と頼むので整えたものなのだ。
それを破棄するからには、おそらく勝算があるのだろう……ある、のだろう、うん。
微妙な顔つきになったところで、アレクシスが再び口を開いた。
「何を考えているのかな? ま、こんなどうでもいい話はさておき、次の話題に移るけど……」
「は、はいっ……」
笑顔で第一王子の婚約破棄を「どうでもいいこと」と言い捨てたアレクシスが、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「実はね、僕……エルゼ嬢にお願いしたいことがあるんだ」
「わ、わたくしに……でございますか?」
ごくん、とつばを飲み込んで、エルゼは顔を上げた。すると視線の先、ほんの数センチほど向こうにアレクシスの顔があって、思わずのけぞってしまう。
だが、なぜかアレクシスが再びにゅっと顔を近づけてきて、エルゼは困惑気味に叫んだ。
「で、殿下……お顔が、お顔が近いですわ……!」
「近づけてるんだ」
「ど、どうして……!」
「近づきたいから。ねえ、エルゼ嬢……頼む、僕を……下僕にしてくれないか」
「は、はあ……は? はぁぁぁぁ!?」
エルゼの叫び声が、広い室内にこだました。
「いやあ、僕、昨日の蹴りですっかり目覚めてしまって」
「目覚めて……」
「そう。あの力強さ、蹴り上げる行為に対する迷いのなさ……ああ、なんて素晴らしいんだ……」
じわじわとエルゼの背中に汗が滲む。口の端をひきつらせ、青ざめる彼女の前で、アレクシスはうっとりとあの時のことを思い返すように目を閉じた。
これはまずいことになった。
——まさか王子殿下を危ない趣味に目覚めさせてしまうなんて……!
どうしよう、とエルゼが脳みそをフル回転させている間に、アレクシスはすっと彼女の手をぎゅっと握りしめた。はっとしたエルゼが顔を上げると、そこにはまた至近距離に彼の顔がある。
——ち、近いですわ……!
婚約者がいたとはいえ、がっちりしっかり政略で結ばれた間柄であるヘルムートは、エルゼにあまり興味を示さなかった。昨夜傍に侍らせていた子爵令嬢のことを考えるに、おそらく彼はエルゼのようなちょっと発育のいいタイプよりも、かわいらしく未発達なタイプが好きなのだろう。
とにかく、そういうわけでエルゼは男性とこれほどまでに接近した経験はほとんどなかった。恥ずかしさで顔が熱くなり、思わず手を振り払おうとする。
だが、公爵家で鍛錬を受けたエルゼの動きをもってして、その手が外れることはなかった。
え、と驚いたのもつかの間。思わず合わせた視線の先で、すみれ色の瞳が熱を帯びてこちらを見つめている。
——な、なんですの……?
どっくんどっくん、と心臓が大きく跳ねる。いつの間にか口の中がカラカラに乾いていて、エルゼは必死になってつばを飲み込んだ。
——目力が強い……っ!
視線を逸らすこともできずに彼の瞳を見つめながら、それでもエルゼは首を横に振ろうとした。だが、それよりもアレクシスのたたみかけるような言葉のほうが早い。
「エルゼ嬢……僕のお願いを聞いてくれるなら、昨夜のことはなかったことにしてもいい」
「な、なかったことに……」
「……仮にも王子の股間を蹴り上げたんだ、相応の処罰は……」
その言葉に、エルゼはびくりと肩を震わせた。そうだった、と顔から血の気がざっと引く。
そもそも、昨夜から自分はそれを心配していたのだった。アレクシスの衝撃発言で、そこのところが頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。
青ざめたエルゼを見て、アレクシスが口の端をつり上げる。おそらく、彼は勝利を確信していることだろう。
そしてエルゼも、また——自らの敗北を悟っていた。
「わかり……ました……」
がっくりと項垂れて、了承の言葉を述べる。だがエルゼは思った。
下僕って……具体的には、私はどうしたらいいのだろうか、と。
庭園で一人ぽつんと噴水を眺めながら、エルゼ・ヴァイデンライヒはため息交じりにそう独りごちた。
豊かな金の髪が月の光を反射して煌めき、紺色の瞳は憂い意を帯びて伏せられている。年齢の割に発育の良い身体を包む空色のドレスは、婚約者である王子ヘルムート・クラウゼヴィッツの瞳の色に合わせ準備したものだ。
婚約してから、彼がドレスを贈ってくれたことなどなく——それでも、仮にも王子の婚約者として、不仲であると噂されれば、それは全てエルゼの、ひいてはヴァイデンライヒ公爵家の責となる。それを避けるため、エルゼは毎回自分でいろいろと趣向を凝らし、ドレスを準備していたのだ。
だが、そんなささやかなエルゼの努力は、今日無に還された。
ふと視線をあげると、その先にはきらびやかな光に包まれた王宮の大広間が見える。さわやかな初夏の風に乗って、楽の音がここまで聞こえてきた。
だが、そこに集う人々は、果たして宴を楽しめているだろうか。
なにしろ、つい先ほどそのヘルムートが、公衆の面前でエルゼとの婚約破棄を宣言したばかり。しかも、ヘルムートの傍には「真実の愛」とやらに目覚めさせてくれたという子爵令嬢ジモーネ・リッシェルがぴったりと寄り添っていたのだから。
もちろん、エルゼは彼女の存在を知っていた。ピンクの髪に若草の瞳をした、愛らしい少女だ。しかし、知ってはいたが、どうしようもないことなので無視していた。
だって、この婚約は——。
「失礼……ご令嬢」
物思いにふけっていたところに突然声をかけられ、エルゼは小さくため息をついた。
ここにいるということは、きっと宴に出ていた貴族の誰かだろう。であれば、先ほどの婚約破棄を見ていたはずだ。
——私を、エルゼ・ヴァイデンライヒと知って声をかけているの……?
なんだか、無性にいらいらする。
ずいぶんと安く見られたものだ。王子に婚約破棄されたとはいえ、エルゼはヴァイデンライヒ公爵家の娘である。その辺の男が気安く声をかけていいような、そんな身分ではない。
世の貴族達の間では、こういった夜会で令嬢に声をかける、いわゆる一夜の遊びが流行していると言うが——ああ、そういうことか。
王子に婚約破棄されたような娘ならば、遊び相手にちょうどいいと言うことなのか。
——本当に、むしゃくしゃする……!
エルゼは立ち上がると、おもむろに背後の男の方へと振り返った。薄暗くて顔はよく見えないが、着ているものは上等だ。だが、それがかえって婚約者——いや、今はもう「元婚約者」と呼ぶべきヘルムートとダブって見えて、余計に神経を逆なでする。
「あの、」
「無礼者……!」
声が先だったか、足が先だったか——既にエルゼの記憶にはない。
ただ、振り上げた足の先に確実に獲物を捉えたという感触と、それからもんどりうって倒れる青年と——足元に転がった彼の、その顔と。
「ひ、ひえっ……!」
見間違いようもなかった。夜目にも眩しいプラチナブロンド、すっと通った鼻筋と形の良い唇。今は閉じられているが、ちょっとつり目がちの瞳は綺麗なすみれ色のはず。それは、これまでに何度も会ったことのある顔だった。
そう、何度も、この城で——婚約者の弟として。
「な、なんで……なんでこんなところにいらっしゃるの……!」
完全に混乱したエルゼの叫びが、夜空にこだまする。
何しろ、エルゼの蹴りを股間に受け、完全に伸びてしまっているその青年の名は、アレクシス・クラウゼヴィッツ。
第一王子ヘルムートの弟——つまり、第二王子殿下その人だったのである。
「や、やばいですわ……これはかなりまずいですわよ……!」
とりあえず、素知らぬふりで人を呼び、アレクシスを託したエルゼは、大慌てでヴァイデンライヒ公爵邸へと帰り、自室に飛び込んだ。
今更ながらにカタカタと身体が震え、どっと汗が噴き出てくる。鏡に映る自身の顔色は蒼白で、唇も真っ青だ。
——なんで、あんな所にアレクシス殿下がいらっしゃるの……!?
いや、そんなことはどうだっていい。どうでも良くはないけど、問題はそこではない。
エルゼは自身の足を見おろして、震える吐息をはきだした。
——まさか、王子殿下の股間を、蹴り上げてしまうだなんて……。
ヴァイデンライヒ公爵家は、武門の家柄である。外見こそたおやかな貴婦人に見えるエルゼも、幼い頃から厳しい訓練を受けてきた。
その中には、当然のことながらドレス姿で戦う方法も含まれている。そんじょそこらの男性には、たとえフル正装していても負けたりしない、という自負があった。
それだけに。
——私、思いっきり蹴り上げてしまったわ……お父様に聞いたことがあるけれど、あそこは男性の急所であると同時に、大切なところでもあるのよね……?
そんな部分を、思いっきり蹴り上げてしまったことに、エルゼは慄いた。
これは、まずいのではないだろうか。果たして、今後きちんと機能するだろうか。
万が一、王子殿下の男性機能を奪ってしまったなんてことになったら——エルゼ本人どころか、ヴァイデンライヒ公爵家がどうなるか。
「ほ……本当に……どうしましょう……」
エルゼはぶるぶると震えながら、まんじりともせず次の朝を迎えた。
そして、迎えた翌日。エルゼは恐怖と戸惑いに頭を占領されながら、馬車に揺られていた。
早朝、ヴァイデンライヒ公爵家に届けられたのは、王家からの召喚状。しかも、エルゼ個人を名指しするものだ。
——どうか、ヘルムート殿下との婚約破棄についてのお話だけでありますように……!
そう心の中で念じて見たものの、現実は非情である。着いた先で待ち構えていたのは、昨夜エルゼが股間を蹴り上げた王子アレクシスその人であった。
「あ、アレクシス殿下には、ご機嫌麗しゅう……」
「ご機嫌、ねぇ……」
エルゼは必死で王族に対する最上級礼をとり、定型の挨拶を口にする。だが、そんなエルゼの姿に、アレクシスはくすりと笑って首を振った。
「いやぁ……エルゼ嬢。昨夜のアレはさすがに効いたよ」
「そ、その……大変、申し訳ございません……」
背中にじっとりと不快な汗をかいている。できれば今すぐ逃げ帰りたいが、そんなことをしたら今度はどんなお咎めを上乗せされるか分からない。
いや、そもそも昨夜の分のお咎めだって、どうなるか分からないのに。
不安でドキドキが止まらない。
そんなエルゼに向かって、ゆったりとアレクシスが口を開いた。
「まず、兄上との婚約の件だけれど——正式に破棄することが決まった。これについては、既に国王陛下並びに王妃殿下が認めておられる」
「は、はい……」
アレクシスの言葉に、エルゼが頷く。追って正式な文書がヴァイデンライヒ公爵家に届けられるというが、正直なところ、もうそんなものはどうでもよかった。宴などという、貴族達がたくさん集まる場所で破棄を宣言した以上、覆せばヘルムートの立場が危うくなる。だから、これに関しては既に諦めてもいた。
いや、危ういと言えば、エルゼとの婚約を破棄すること自体が既に彼の立場的に危ういのだ。
ヘルムートは第一王子だが、側室の子だ。エルゼを妃に迎えることで、ヴァイデンライヒ公爵家の後ろ盾を得て王太子になれる可能性が出てきた、という立ち位置だったはず。
今度はどこの家の後ろ盾を得るつもりなのか。子爵家ではその荷は重いのではないだろうか。
——まあ、もう関係ありませんけれど……。
どちらにせよ、ヴァイデンライヒ公爵——つまりエルゼの父は、宮廷内の権力だとか地位だとか、そういったものにはとんと興味を示さない
エルゼの婚約も、ヘルムートを王太子にしたい側室にせがまれた王が「どうしても」と頼むので整えたものなのだ。
それを破棄するからには、おそらく勝算があるのだろう……ある、のだろう、うん。
微妙な顔つきになったところで、アレクシスが再び口を開いた。
「何を考えているのかな? ま、こんなどうでもいい話はさておき、次の話題に移るけど……」
「は、はいっ……」
笑顔で第一王子の婚約破棄を「どうでもいいこと」と言い捨てたアレクシスが、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「実はね、僕……エルゼ嬢にお願いしたいことがあるんだ」
「わ、わたくしに……でございますか?」
ごくん、とつばを飲み込んで、エルゼは顔を上げた。すると視線の先、ほんの数センチほど向こうにアレクシスの顔があって、思わずのけぞってしまう。
だが、なぜかアレクシスが再びにゅっと顔を近づけてきて、エルゼは困惑気味に叫んだ。
「で、殿下……お顔が、お顔が近いですわ……!」
「近づけてるんだ」
「ど、どうして……!」
「近づきたいから。ねえ、エルゼ嬢……頼む、僕を……下僕にしてくれないか」
「は、はあ……は? はぁぁぁぁ!?」
エルゼの叫び声が、広い室内にこだました。
「いやあ、僕、昨日の蹴りですっかり目覚めてしまって」
「目覚めて……」
「そう。あの力強さ、蹴り上げる行為に対する迷いのなさ……ああ、なんて素晴らしいんだ……」
じわじわとエルゼの背中に汗が滲む。口の端をひきつらせ、青ざめる彼女の前で、アレクシスはうっとりとあの時のことを思い返すように目を閉じた。
これはまずいことになった。
——まさか王子殿下を危ない趣味に目覚めさせてしまうなんて……!
どうしよう、とエルゼが脳みそをフル回転させている間に、アレクシスはすっと彼女の手をぎゅっと握りしめた。はっとしたエルゼが顔を上げると、そこにはまた至近距離に彼の顔がある。
——ち、近いですわ……!
婚約者がいたとはいえ、がっちりしっかり政略で結ばれた間柄であるヘルムートは、エルゼにあまり興味を示さなかった。昨夜傍に侍らせていた子爵令嬢のことを考えるに、おそらく彼はエルゼのようなちょっと発育のいいタイプよりも、かわいらしく未発達なタイプが好きなのだろう。
とにかく、そういうわけでエルゼは男性とこれほどまでに接近した経験はほとんどなかった。恥ずかしさで顔が熱くなり、思わず手を振り払おうとする。
だが、公爵家で鍛錬を受けたエルゼの動きをもってして、その手が外れることはなかった。
え、と驚いたのもつかの間。思わず合わせた視線の先で、すみれ色の瞳が熱を帯びてこちらを見つめている。
——な、なんですの……?
どっくんどっくん、と心臓が大きく跳ねる。いつの間にか口の中がカラカラに乾いていて、エルゼは必死になってつばを飲み込んだ。
——目力が強い……っ!
視線を逸らすこともできずに彼の瞳を見つめながら、それでもエルゼは首を横に振ろうとした。だが、それよりもアレクシスのたたみかけるような言葉のほうが早い。
「エルゼ嬢……僕のお願いを聞いてくれるなら、昨夜のことはなかったことにしてもいい」
「な、なかったことに……」
「……仮にも王子の股間を蹴り上げたんだ、相応の処罰は……」
その言葉に、エルゼはびくりと肩を震わせた。そうだった、と顔から血の気がざっと引く。
そもそも、昨夜から自分はそれを心配していたのだった。アレクシスの衝撃発言で、そこのところが頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。
青ざめたエルゼを見て、アレクシスが口の端をつり上げる。おそらく、彼は勝利を確信していることだろう。
そしてエルゼも、また——自らの敗北を悟っていた。
「わかり……ました……」
がっくりと項垂れて、了承の言葉を述べる。だがエルゼは思った。
下僕って……具体的には、私はどうしたらいいのだろうか、と。
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