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1巻
1-2
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――それにしても、いったいどういう風の吹きまわしかしら。
突然の誘いの理由が見当たらず、ローズマリーは首を傾げる。だが、別に断る理由もない。
「そうだわ、悪いけれど、頼まれてくれるかしら」
ふと思い立って、ローズマリーは傍らの侍女を見上げ、自宅への言伝を頼んだ。帰りは兄に送ってもらうことにしようと、そちらにも寄るようにお願いをする。オズワルドはいい顔をしないだろうが、たまには兄ともゆっくり話をしたいのだ。それくらいは、クラレンスも認めてくれるだろう。
あとになって思えば、この判断がまずかった。
「おい、ローズマリー、行くぞ」
「あ、オズワルド……思ったより早かったわね」
湯を使ったあと急いで来たのだろう、髪が少し濡れている。もともと艶々としている黒髪が、首筋に張り付いているのが艶めかしい。
暑さのせいか、シャツのボタンを二つほど外しているのが目に入って、ローズマリーは思わず視線を逸らした。こんな姿は、兄のものでさえ見たことがない。
思わず赤くなったローズマリーに構わず、オズワルドはさっさと歩きだした。
「あれ、いつもの……侍従はどうしたのよ」
「先に戻らせた」
ほら、何してるんだ、と伸びてきた手に腕を掴まれ、ローズマリーは唇を尖らせた。同じ年だから十九になるというのに、淑女の扱いのわかっていない男である。
――これだから、モテないんだわ。顔はめったにないほどの美男子に育ったっていうのに……惜しいこと。
肩をすくめると、ローズマリーはおとなしくオズワルドに腕を引かれるままに歩いていく。
王族の生活する棟は、鍛錬所から少し遠い。衛兵に挨拶をして、王族専用の門をくぐり、渡り廊下を歩く。初夏の爽やかな風が木立の間を抜けて大変心地良い。しかし、歩いているあいだ珍しく無言のオズワルドが気になって、ローズマリーはそれをゆっくりと感じる暇もなく彼の部屋へと引っ張り込まれた。
オズワルドの部屋を訪れるのは、いつぶりだろう。幼い頃はよく来ていた、というか連れてこられていたのだが、いつの頃からかオズワルドと会うのは王城の中庭の四阿だとか、庭園のテラス席だとかになっていた。けれど、最近はそれもごく稀だ。
久しぶりに見る部屋は、ローズマリーの記憶にあるものとはだいぶ印象が違う。深い青を基調としてまとめられた室内は、品があって落ち着いていた。
「なんというか……だいぶ男らしい部屋になったわね……」
「いつの頃と比べてるんだ」
手に持っていた上着を椅子の背もたれに放り投げると、オズワルドは呆れたようにため息をついた。
勧められるままに向かいにあった長椅子に腰かけると、幼い頃からの顔なじみの侍女がお茶の支度をしてくれる。ありがとう、と声をかけると、老齢の侍女は微笑んで頭を下げた。
「悪いが、ちょっと席を外してくれ。内々に話したいことがある」
「かしこまりました」
最後に皿に盛りつけられたクッキーを置くと、老侍女はさっくりと退出していった。先に戻っているはずの侍従の姿もなく、ローズマリーは首をかしげる。
ここまで人払いをして、自分にしたい話とはいったいなんなのだろう。そんなに人には聞かせられない話なのだろうか。
――あ、もしかして。
ピンときて、ローズマリーは少しだけ姿勢を正した。もしかしたら、話というのはエイブラムのことではないだろうか。
つまり――その、恋敵宣言をされるのではないか、とローズマリーは考えたのである。
いや、もしかしたら、エイブラムとはすでに恋仲であるから諦めろ、と宣告されるのかもしれない。
どちらにせよ、確かに誰にも聞かれたくない話ではあるだろう。
セーヴェル王国は同性愛には割合寛容な国ではある。だが、同性同士の結婚は認められていないし、寛容であっても歓迎されるものではない。特に、貴族の間ではどちらかといえば忌避されている。
理由は簡単だ。同性同士では子を成せない。あとを継ぐ者がいなくなるからである。
だが、妙に神妙な顔つきになったローズマリーを見て、オズワルドは怪訝そうな顔をした。
「なんだお前、今日は妙にしおらしいな。なんだか調子が狂う」
「どういう意味よ」
「そのまんまの意味だよ。……なんかあったか?」
逆にそう問いかけられて、ローズマリーはぶんぶんと首を振った。特に何も変わったことはない。いや、あったといえばあったのだけれど、本人が話をする前に口に出すのはさすがに憚られる。
とにかく、いつそれを告白されてもいいように、心の中で準備をする。さあ、いつでも来い、と覚悟を決めて、ローズマリーは正面からオズワルドの顔を見た。
「その、ショックを受けずに聞いてほしい」
ローズマリーの視線を受けて覚悟を決めたのか、オズワルドは神妙な口ぶりで話し始めた。いつの間に飲んだのか、ティーカップの中身はすでに空になっている。
老侍女が置いていってくれたポットを手に取ろうとすると、オズワルドは首を振って押しとどめた。
「いや、いい。先に話をしてしまおう。実はな――結婚が決まった」
「え、ええ? 早くない……?」
目を瞬かせて、ローズマリーは危うく出そうになった素っ頓狂な声を引っ込め、なんとか普通の声音で問いかけた。
オズワルドは十九歳。男性の結婚適齢期はまだ先だ。そもそも、オズワルドの兄であるクラレンスでさえ、婚約すらしていない。
「……早くはないだろう、遅すぎたくらいだ」
「遅いって……そんなことないでしょう……」
困惑して、ローズマリーは視線をさまよわせた。女性の適齢期が近いローズマリーでさえ婚約者が決まっていないというのに、それよりも先にオズワルドが結婚するなんて。
――ん? でも、なんでそれが「ショックを受けず」になるの?
いや、確かにショックといえばショックかもしれない。ローズマリーは侯爵令嬢のくせにいまだに婚約者もなく結婚の予定がない。だというのに、適齢期前のオズワルドの方が結婚するというのだ。
だが、その話をわざわざローズマリーにする意味もわからなかった。どうせ王子の婚約ともなれば、近日中に国中に通達が出る。前もって言ってくれたのは、幼馴染ゆえの気遣いか、それとも自慢か。
問題はもう一つあった。もちろん、オズワルドの想い人、エイブラムだ。彼はこのことを知っているのだろうか。
「……団長はご存じなの?」
「は? ご存じも何も、そりゃいの一番に知ってるだろうよ」
ふん、と鼻を鳴らしてカップを手に取ったオズワルドは、中身が空なことを思い出したらしくそれをソーサーへと戻した。代わりにクッキーを一つ手に取ると、大きく口を開けて放り込む。それからちらり、とローズマリーの様子を窺った。
だが、自分の考え事に没頭していたローズマリーは、そんなオズワルドにまったく気付いていない。
「その……オルガレン団長は納得されているの?」
「納得も何も……言ってきたのはエイブラムだぞ? なんだ、さっきから……お前、ショックじゃないのか?」
もう一度カップを手に取って、オズワルドは諦めたように自分でポットからお茶を注いだ。一口飲みこむと、ローズマリーに視線を戻す。
「別に、ショックではないけど……」
「なんだ、その程度か」
面白くなさそうな顔になったオズワルドだったが、口の端が微妙に上がっている。ひとつ肩をすくめると、もう一枚クッキーを手に取り、今度は半分ほど齧った。もぐもぐと咀嚼しながら、うまいな、などと呟いている。
だが、ローズマリーの頭の中は別のことでいっぱいだった。エイブラムから言い出した、ということは、つまりこういうことか。
『オズワルド殿下、どうか私のことにはかまわず……』
『何を言う、エイブラム』
『所詮は報われぬ想いなのです。殿下は子を残さねばならぬ御身。どうか』
――泣ける話じゃないの!
ローズマリーは握りこぶしを握って立ち上がった。
「オズワルド、あなた本当にそれでいいの?」
「は、はあ……? 俺ぇ……?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、オズワルドは突如立ち上がったローズマリーを見上げた。深い青色をしたオズワルドの瞳が、困惑に揺れている。
「だって、あなた……オルガレン団長と、その……恋仲なんでしょう?」
「は……?」
今度こそ、オズワルドは絶句した。だが、ローズマリーの攻撃は止まらない。
「ああ……自分から身を引くなんて、オルガレン団長……さすが忠義の方だわ」
「いや、待て。何か誤解が……いや、なんかわからんがすべて誤解のような気がしてきたぞ」
「隠さなくてもいいのよ!」
もはやローズマリーにはオズワルドの話などまったく耳に入っていなかった。すっかり自分の世界に入り込み、こぶしを握ってまくし立てている。その勢いに唖然としていたオズワルドだったが、ようやく我に返るとローズマリーの暴走を止めにかかった。
「ちょ、ちょっと待てローズマリー! お前、勘違いしていないか? 結婚するのは俺じゃないぞ!」
「えっ」
「結婚するのは、エイブラムの方だ」
「え、えええ⁉」
目をぱちくりさせて、ローズマリーはやっとそこでオズワルドの顔を見た。彼は、苦虫を百匹くらいまとめて噛み潰したような、そんな顔をしている。
あれ、と首をかしげたローズマリーの耳に、地を這うような低い声の呟きが聞こえた。
「そもそも、なんなんだ……俺とエイブラムが……?」
まったく、たまには気を遣ってやろうと思ったのに、と吐き捨てると、オズワルドはつかつかとテーブルを回り込み、ローズマリーの隣まで移動してくる。
落ち着け、とでもいうように両肩を押すと、彼はローズマリーを長椅子に座らせた。その隣に、オズワルドもどっかりと座り込む。
「つまり、あれか……お前、俺が結婚すると思ったのか?」
「あ……その、私、勘違いを……してたみたい……?」
「それで、なんだって? 俺がエイブラムと……?」
「だ、だって……」
あんなに熱い瞳でエイブラムを見つめていたではないか。それに、噂にだってなっている。混乱して、ローズマリーはあわあわとひじ掛けを掴んだ。すぐ隣に座ったオズワルドから何か危険な香りがして、必死に距離を取ろうとする。
これは、未婚の男女に許される距離ではない。たとえオズワルドが男色で、女性に興味がないとしても、だ。もっと、適切な距離を、と言いたいが、オズワルドの瞳に見つめられると、声が出ない。
「つまりお前は、俺が女とはこういうことができない、と思っているわけだな」
ふ、と耳元に息を吹きかけられて、背筋にぞわっと痺れが走った。その正体がわからずに、ローズマリーはますます混乱する。
「か、隠したいなら、誰にも言わないからっ」
「いいから、もう黙れ」
その言葉と同時に、ローズマリーの顎を掴むと、オズワルドは顔の向きを変えさせた。正面の、すぐ間近にオズワルドの顔がある。
その表情は、これまでローズマリーが見たこともないほど真剣で、そして深い青の瞳には激情が宿っていた。
「それで、二人きりになっても安心しきってたわけか……」
くそ、と吐き捨てると、オズワルドはおもむろにローズマリーの唇に、自分のそれを重ねた。一度離れたかと思えば、二度、三度と繰り返し啄むような口付けを繰り返す。
やがてそれは、だんだんと長くなり、唇を甘噛みしたり、舌先でちろちろと舐めたりし始める。ふる、と身体を震わせたローズマリーを抱きかかえるようにして、オズワルドはふっと甘い息を漏らした。
「ほら、少し、口を開けて」
「あ、なんっ、んっ……」
なんで、と問いかけようとして開いた唇の間から、オズワルドの舌が侵入してくる。味わうかのように、歯列をなぞる舌先の感触が熱い。上顎をくすぐられると、まるで頭に靄でもかかったかのように何も考えられなくなってゆく。いつの間にか背後に回っていた手が背筋を撫でる感触に、甘い疼きが沸き起こった。
「ん、はっ……」
息が苦しい。どうにかして空気を取り込もうと開いた口の端から、飲み込み切れない唾液が伝う。それを指先で拭ったオズワルドが、いったん唇を解放すると、にやりと笑って舐めとった。その姿が、壮絶に色っぽく見える。
「へたくそ。こういうときは、鼻で息をするんだ」
言うが早いか、再びオズワルドの舌がローズマリーの口の中を蹂躙する。くちゅくちゅと唾液をかき混ぜる淫靡な音が響き、中で縮こまっていた舌がつかまった。オズワルドの舌が器用にそれを引き出すと、舌同士を擦り合わせ、吸い上げてくる。
――なんか、変になりそう……
こうして、舌を擦り合わせると、どんどん気持ち良くなってしまう。こんなこと、ローズマリーは知らなかった。でも、オズワルドは手馴れていて、巧みな舌遣いでローズマリーを翻弄してゆく。それが、どこか悔しい。
「ん、ローズマリー……」
合間に囁くオズワルドの声は、今まで聞いたこともないほどに甘ったるくて優しく、そして危険な響きに満ちている。ぞくぞくと沸き上がる甘い痺れに、ローズマリーはもはや抗うこともできずに身を任せた。
ずる、と力の抜けたローズマリーの身体が長椅子の上に倒されて、オズワルドの手が胸元へ伸びたとき――
「やあ、オズワルド。ローズマリーが来ているんだって?」
扉の開く音とともに、そんな声が室内に響いた。同時に、ぴしり、とオズワルドの身体が固まる。そのまま、油のささっていないからくり人形のようにぎこちない動きで、彼は扉の方に目を向けた。
「……あ、あにうえ……」
「おやおや……これはこれは……」
「き、貴様……ローズマリーに何を……ッ」
のんびりとしたクラレンスの声に続いて、ブラッドリーの震え声がする。さすがに呑気なローズマリーでも、この状況がまずいことは理解できた。
しかも、この現場をクラレンスとブラッドリーだけではなく、部屋の外に控えていた侍女や、王太子の護衛騎士にまで見られていたことが、二人にとっては更なる不幸だったと言える。
さすがにこの状況では、どんな言い逃れも通用しない。ましてや、ローズマリーの口から「オズワルドは同性愛者だから」などと言えるわけもない。
こうして、醜聞が広まる前に、と、二人の婚約が決まったのであった。
第二話 婚約披露
「まさか、このような形で……」
自邸の書斎で、当主であるアルフォード侯爵は頭を抱えていた。その手には、一通の手紙が握られている。白地に金のつた模様が入ったそれは、王家からの正式な文書であることを示していた。
その中身にもう一度目を通して、深くため息をつく。すでに両家の間で話し合いが持たれ、同意したことではあった。しかし、正式な文書で通達されれば、新たな感慨が胸のうちに沸き起こってくる。
そうなればいい、と思ったことがなかったわけではない。だが、こんな形で、というのは予想もしていなかった。
それに、と紙面に書かれた内容を思い出して、もう一度ため息をつく。
「仕方がない、仕方がないが……」
かわいい娘の姿を思い浮かべて、アルフォード侯爵は手元の呼び鈴を鳴らす。姿を現した執事にローズマリーを呼ぶように指示すると、椅子に深く腰かけ天を仰いだ。
「お父様、お呼びと伺いましたが」
「来たか」
ローズマリーは、少しだけ申し訳なさそうな顔で父を見た。その手元にある手紙を見て、さらに身体を縮こまらせる。アルフォード侯爵はため息を呑み込んで、冷静な口調で告げた。
「オズワルド殿下と、お前の婚約の通達だ。……式は、三か月後」
「さっ……三か月ぅ⁉」
あまりにも早い。目を剥いたローズマリーに、アルフォード侯爵は淡々と告げる。
「すでに、城にはお針子が呼び集められているそうだ。近いうちに城へ行って、採寸と……それから、打ち合わせをすることになっている」
「は、はい……」
「それから、婚約披露は二週間後だ」
精一杯何気ない様子を装って、アルフォード侯爵は娘に向かって爆弾を落とした。ローズマリーの顔が、蒼白になる。
「に、二週間……」
もはや、何かありました、と言わんばかりの日程だ。きっとこれからローズマリーは友人たちに、根掘り葉掘り何があったか聞かれるだろう。
「それから、明日オズワルド殿下がこちらにいらっしゃる。準備しておくように」
父にそう言われ、ローズマリーはしおしおと頷くと、書斎をあとにした。
ローズマリーは、自分の部屋に戻ると、窓際に置いた椅子にへたり込んで外を眺めた。生憎、今日の天気は曇天で、外はうっすらと暗い。まるで今の自分の気持ちのようだ、と思う。
――残念ね、どうやら私は「そちら側」には入れないみたい。
ほう、とため息をついて、ローズマリーは目を閉じた。瞼の裏に、激情を宿した深い青の瞳が浮かんで、身体の奥に得体の知れない熱がともる。
「なんで、あんなことを……」
唇に手を当てて、あのときの感触を思い出す。彼の唇は、柔らかくて熱かった。それが、まるでローズマリーの唇を食べるかのように覆いつくして――
そこまで思い出して、ローズマリーは慌てて首を振った。
「ああまでして、隠したかったのかしら。……そうよね、だって、オルガレン団長は結婚されるのだし……もしもあんなことがバレでもしたら、きっとお困りになるのよね」
そう独り言ちて、ローズマリーは頷いた。つまりはそういうことだろう。
「オズワルドだって、本当のことを知っている私の方が、やりやすいでしょうね……」
もう一度大きくうん、と頷いて、ローズマリーは勢い良く立ち上がった。とにかく、明日の用意はせねばならない。
幼馴染とはいえ、王族が邸を訪問するとなれば、それなりの恰好で出迎えなければ。
「……少なくとも、相手はオズワルドだもの。なんでも言い合える相手に嫁げるだけ、マシだと思わなきゃだめよね」
仲睦まじい結婚生活、とはいかないだろうが、抑圧された結婚生活よりはいくらかマシだろう。たとえそれが、夫の秘めたる恋の隠れ蓑になるとしても。
問題はオズワルドだ。感情に任せた行動の末にこんなことになってしまって、彼はいったい今どんな気持ちでいるのだろう。そして自分もどんな気持ちで準備に臨めばいいのか。
オズワルドがあんなことをしでかさなければ、結婚する羽目になどならなくて済んだ。だが、非はオズワルドばかりにあるわけではない。自分だって二人きりになってしまうことになんの異も唱えなかったし、彼の隠し事を暴こうとしてしまったのだから。
そう思い直してベルを鳴らし、侍女を呼びながらも、ローズマリーはどこかもやもやした気持ちを捨てきれずにいた。
オズワルドがアルフォード邸を訪問したのは、翌日の午前中のことである。事前に連絡をもらっていたアルフォード家の面々は、玄関ホールに揃って彼を出迎えた。
だが、ローズマリーはそのオズワルドのいでたちを見て目を丸くする。
正式な場でしか着用を許されない濃紺の魔術騎士の正装に、真っ赤な薔薇の花束。きっちりと撫でつけられた髪は一筋の乱れもなく、凛々しい顔のラインがすっきりと見えている。その黒い髪を結んでいるのは、薄い青色のリボンだ。
「オ、オズ……」
――これは、まさか……?
絶句したアルフォード家の面々に向かって、オズワルドは深く一礼した。彼の名を呼ぼうとしていたローズマリーも、そのまなざしの真剣さに口を閉ざす。
「……この度は、順番が狂ってしまったことを深くお詫びいたします。改めて、皆様の前で」
そのまま、オズワルドはすっと膝を折ると、ローズマリーの前に跪いた。
「ローズマリー・アルフォード嬢。どうか、私と結婚してください」
まっすぐに向けられた視線は、痛いほどに強い。気圧されて一歩後退りそうになったローズマリーの背中を、ブラッドリーが優しく支えてくれる。
ローズマリーは、オズワルドの瞳から視線を逸らすことができなかった。まるで縫い留められたかのように、身体がそれ以上動かない。
まさか、こんな正式なプロポーズを受けるとは思ってもみなかった。もはや、二人の結婚は決定事項なのだから。しかも、あのオズワルドが、こんなに真剣な表情で、ローズマリーに跪くことなど考えてもみなかった。
「ローズマリー」
なかなか口を開かないローズマリーに焦れたのか、オズワルドがしっかりと視線を絡ませたまま名前を呼ぶ。それはどこか、懇願するような響きを持っていた。
「あ……」
なんとか言葉を返そうと思うものの、唇が震えて声が出ない。その背中を、ブラッドリーが優しく押した。
「ローズマリー、お返事を」
耳元でそう囁かれて、やっと呪縛が解ける。世界が感覚を取り戻し、差し出された薔薇の花束からは、芳醇な香りが漂っているのがわかった。
――これ、オズワルドの庭の薔薇だわ。
そっと手を伸ばして、その花弁に触れる。薔薇の花は、朝摘んだばかりなのだろう。少しだけ湿っていて、瑞々しい。
その薔薇は、オズワルドが手ずから世話をしている特別なものだと教えられたことがあった。意外なことに、オズワルドは園芸が趣味なのだ。中でも薔薇の花を育てるのはなかなか難しく、何度も失敗をしたと恥ずかしそうに話してくれたのを覚えている。
「――お受けいたします」
きっと、オズワルドは自分を大切にしてくれるだろう。仲睦まじい、とまではいかなくても、不幸な結婚生活にはならないはずだ。
秘めたる恋の隠れ蓑、良いではないか。
立派にその勤め、果たしてやろうではないか。
花束を受け取って、ローズマリーは微笑む。柔らかく花束を抱きしめるその姿を、オズワルドが眩しそうに見つめていたことには、ローズマリーは気が付かなかった。
その後、アルフォード侯爵と話をしたいというオズワルドが、父と連れ立って書斎に消えていくのを見送る。妙な緊張感から解放されて、ローズマリーは、ふうっと大きなため息を漏らした。
なんだかわからないが、とても緊張してしまった。薔薇を自分の部屋に活けてくれるよう侍女に頼むと、応接室で温かいお茶を淹れてもらう。
添えられたクッキーを一つ摘んで、ローズマリーはふと先日のことを思い出した。オズワルドの部屋で出されたのも、これと同じクッキーだ。
実を言えば、ローズマリーはクッキーに目がない。特にこの店のものが好きで、常にアルフォード邸には常備されている。それとまったく同じものが、オズワルドの部屋でも準備されていたのだ。
突然の誘いの理由が見当たらず、ローズマリーは首を傾げる。だが、別に断る理由もない。
「そうだわ、悪いけれど、頼まれてくれるかしら」
ふと思い立って、ローズマリーは傍らの侍女を見上げ、自宅への言伝を頼んだ。帰りは兄に送ってもらうことにしようと、そちらにも寄るようにお願いをする。オズワルドはいい顔をしないだろうが、たまには兄ともゆっくり話をしたいのだ。それくらいは、クラレンスも認めてくれるだろう。
あとになって思えば、この判断がまずかった。
「おい、ローズマリー、行くぞ」
「あ、オズワルド……思ったより早かったわね」
湯を使ったあと急いで来たのだろう、髪が少し濡れている。もともと艶々としている黒髪が、首筋に張り付いているのが艶めかしい。
暑さのせいか、シャツのボタンを二つほど外しているのが目に入って、ローズマリーは思わず視線を逸らした。こんな姿は、兄のものでさえ見たことがない。
思わず赤くなったローズマリーに構わず、オズワルドはさっさと歩きだした。
「あれ、いつもの……侍従はどうしたのよ」
「先に戻らせた」
ほら、何してるんだ、と伸びてきた手に腕を掴まれ、ローズマリーは唇を尖らせた。同じ年だから十九になるというのに、淑女の扱いのわかっていない男である。
――これだから、モテないんだわ。顔はめったにないほどの美男子に育ったっていうのに……惜しいこと。
肩をすくめると、ローズマリーはおとなしくオズワルドに腕を引かれるままに歩いていく。
王族の生活する棟は、鍛錬所から少し遠い。衛兵に挨拶をして、王族専用の門をくぐり、渡り廊下を歩く。初夏の爽やかな風が木立の間を抜けて大変心地良い。しかし、歩いているあいだ珍しく無言のオズワルドが気になって、ローズマリーはそれをゆっくりと感じる暇もなく彼の部屋へと引っ張り込まれた。
オズワルドの部屋を訪れるのは、いつぶりだろう。幼い頃はよく来ていた、というか連れてこられていたのだが、いつの頃からかオズワルドと会うのは王城の中庭の四阿だとか、庭園のテラス席だとかになっていた。けれど、最近はそれもごく稀だ。
久しぶりに見る部屋は、ローズマリーの記憶にあるものとはだいぶ印象が違う。深い青を基調としてまとめられた室内は、品があって落ち着いていた。
「なんというか……だいぶ男らしい部屋になったわね……」
「いつの頃と比べてるんだ」
手に持っていた上着を椅子の背もたれに放り投げると、オズワルドは呆れたようにため息をついた。
勧められるままに向かいにあった長椅子に腰かけると、幼い頃からの顔なじみの侍女がお茶の支度をしてくれる。ありがとう、と声をかけると、老齢の侍女は微笑んで頭を下げた。
「悪いが、ちょっと席を外してくれ。内々に話したいことがある」
「かしこまりました」
最後に皿に盛りつけられたクッキーを置くと、老侍女はさっくりと退出していった。先に戻っているはずの侍従の姿もなく、ローズマリーは首をかしげる。
ここまで人払いをして、自分にしたい話とはいったいなんなのだろう。そんなに人には聞かせられない話なのだろうか。
――あ、もしかして。
ピンときて、ローズマリーは少しだけ姿勢を正した。もしかしたら、話というのはエイブラムのことではないだろうか。
つまり――その、恋敵宣言をされるのではないか、とローズマリーは考えたのである。
いや、もしかしたら、エイブラムとはすでに恋仲であるから諦めろ、と宣告されるのかもしれない。
どちらにせよ、確かに誰にも聞かれたくない話ではあるだろう。
セーヴェル王国は同性愛には割合寛容な国ではある。だが、同性同士の結婚は認められていないし、寛容であっても歓迎されるものではない。特に、貴族の間ではどちらかといえば忌避されている。
理由は簡単だ。同性同士では子を成せない。あとを継ぐ者がいなくなるからである。
だが、妙に神妙な顔つきになったローズマリーを見て、オズワルドは怪訝そうな顔をした。
「なんだお前、今日は妙にしおらしいな。なんだか調子が狂う」
「どういう意味よ」
「そのまんまの意味だよ。……なんかあったか?」
逆にそう問いかけられて、ローズマリーはぶんぶんと首を振った。特に何も変わったことはない。いや、あったといえばあったのだけれど、本人が話をする前に口に出すのはさすがに憚られる。
とにかく、いつそれを告白されてもいいように、心の中で準備をする。さあ、いつでも来い、と覚悟を決めて、ローズマリーは正面からオズワルドの顔を見た。
「その、ショックを受けずに聞いてほしい」
ローズマリーの視線を受けて覚悟を決めたのか、オズワルドは神妙な口ぶりで話し始めた。いつの間に飲んだのか、ティーカップの中身はすでに空になっている。
老侍女が置いていってくれたポットを手に取ろうとすると、オズワルドは首を振って押しとどめた。
「いや、いい。先に話をしてしまおう。実はな――結婚が決まった」
「え、ええ? 早くない……?」
目を瞬かせて、ローズマリーは危うく出そうになった素っ頓狂な声を引っ込め、なんとか普通の声音で問いかけた。
オズワルドは十九歳。男性の結婚適齢期はまだ先だ。そもそも、オズワルドの兄であるクラレンスでさえ、婚約すらしていない。
「……早くはないだろう、遅すぎたくらいだ」
「遅いって……そんなことないでしょう……」
困惑して、ローズマリーは視線をさまよわせた。女性の適齢期が近いローズマリーでさえ婚約者が決まっていないというのに、それよりも先にオズワルドが結婚するなんて。
――ん? でも、なんでそれが「ショックを受けず」になるの?
いや、確かにショックといえばショックかもしれない。ローズマリーは侯爵令嬢のくせにいまだに婚約者もなく結婚の予定がない。だというのに、適齢期前のオズワルドの方が結婚するというのだ。
だが、その話をわざわざローズマリーにする意味もわからなかった。どうせ王子の婚約ともなれば、近日中に国中に通達が出る。前もって言ってくれたのは、幼馴染ゆえの気遣いか、それとも自慢か。
問題はもう一つあった。もちろん、オズワルドの想い人、エイブラムだ。彼はこのことを知っているのだろうか。
「……団長はご存じなの?」
「は? ご存じも何も、そりゃいの一番に知ってるだろうよ」
ふん、と鼻を鳴らしてカップを手に取ったオズワルドは、中身が空なことを思い出したらしくそれをソーサーへと戻した。代わりにクッキーを一つ手に取ると、大きく口を開けて放り込む。それからちらり、とローズマリーの様子を窺った。
だが、自分の考え事に没頭していたローズマリーは、そんなオズワルドにまったく気付いていない。
「その……オルガレン団長は納得されているの?」
「納得も何も……言ってきたのはエイブラムだぞ? なんだ、さっきから……お前、ショックじゃないのか?」
もう一度カップを手に取って、オズワルドは諦めたように自分でポットからお茶を注いだ。一口飲みこむと、ローズマリーに視線を戻す。
「別に、ショックではないけど……」
「なんだ、その程度か」
面白くなさそうな顔になったオズワルドだったが、口の端が微妙に上がっている。ひとつ肩をすくめると、もう一枚クッキーを手に取り、今度は半分ほど齧った。もぐもぐと咀嚼しながら、うまいな、などと呟いている。
だが、ローズマリーの頭の中は別のことでいっぱいだった。エイブラムから言い出した、ということは、つまりこういうことか。
『オズワルド殿下、どうか私のことにはかまわず……』
『何を言う、エイブラム』
『所詮は報われぬ想いなのです。殿下は子を残さねばならぬ御身。どうか』
――泣ける話じゃないの!
ローズマリーは握りこぶしを握って立ち上がった。
「オズワルド、あなた本当にそれでいいの?」
「は、はあ……? 俺ぇ……?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、オズワルドは突如立ち上がったローズマリーを見上げた。深い青色をしたオズワルドの瞳が、困惑に揺れている。
「だって、あなた……オルガレン団長と、その……恋仲なんでしょう?」
「は……?」
今度こそ、オズワルドは絶句した。だが、ローズマリーの攻撃は止まらない。
「ああ……自分から身を引くなんて、オルガレン団長……さすが忠義の方だわ」
「いや、待て。何か誤解が……いや、なんかわからんがすべて誤解のような気がしてきたぞ」
「隠さなくてもいいのよ!」
もはやローズマリーにはオズワルドの話などまったく耳に入っていなかった。すっかり自分の世界に入り込み、こぶしを握ってまくし立てている。その勢いに唖然としていたオズワルドだったが、ようやく我に返るとローズマリーの暴走を止めにかかった。
「ちょ、ちょっと待てローズマリー! お前、勘違いしていないか? 結婚するのは俺じゃないぞ!」
「えっ」
「結婚するのは、エイブラムの方だ」
「え、えええ⁉」
目をぱちくりさせて、ローズマリーはやっとそこでオズワルドの顔を見た。彼は、苦虫を百匹くらいまとめて噛み潰したような、そんな顔をしている。
あれ、と首をかしげたローズマリーの耳に、地を這うような低い声の呟きが聞こえた。
「そもそも、なんなんだ……俺とエイブラムが……?」
まったく、たまには気を遣ってやろうと思ったのに、と吐き捨てると、オズワルドはつかつかとテーブルを回り込み、ローズマリーの隣まで移動してくる。
落ち着け、とでもいうように両肩を押すと、彼はローズマリーを長椅子に座らせた。その隣に、オズワルドもどっかりと座り込む。
「つまり、あれか……お前、俺が結婚すると思ったのか?」
「あ……その、私、勘違いを……してたみたい……?」
「それで、なんだって? 俺がエイブラムと……?」
「だ、だって……」
あんなに熱い瞳でエイブラムを見つめていたではないか。それに、噂にだってなっている。混乱して、ローズマリーはあわあわとひじ掛けを掴んだ。すぐ隣に座ったオズワルドから何か危険な香りがして、必死に距離を取ろうとする。
これは、未婚の男女に許される距離ではない。たとえオズワルドが男色で、女性に興味がないとしても、だ。もっと、適切な距離を、と言いたいが、オズワルドの瞳に見つめられると、声が出ない。
「つまりお前は、俺が女とはこういうことができない、と思っているわけだな」
ふ、と耳元に息を吹きかけられて、背筋にぞわっと痺れが走った。その正体がわからずに、ローズマリーはますます混乱する。
「か、隠したいなら、誰にも言わないからっ」
「いいから、もう黙れ」
その言葉と同時に、ローズマリーの顎を掴むと、オズワルドは顔の向きを変えさせた。正面の、すぐ間近にオズワルドの顔がある。
その表情は、これまでローズマリーが見たこともないほど真剣で、そして深い青の瞳には激情が宿っていた。
「それで、二人きりになっても安心しきってたわけか……」
くそ、と吐き捨てると、オズワルドはおもむろにローズマリーの唇に、自分のそれを重ねた。一度離れたかと思えば、二度、三度と繰り返し啄むような口付けを繰り返す。
やがてそれは、だんだんと長くなり、唇を甘噛みしたり、舌先でちろちろと舐めたりし始める。ふる、と身体を震わせたローズマリーを抱きかかえるようにして、オズワルドはふっと甘い息を漏らした。
「ほら、少し、口を開けて」
「あ、なんっ、んっ……」
なんで、と問いかけようとして開いた唇の間から、オズワルドの舌が侵入してくる。味わうかのように、歯列をなぞる舌先の感触が熱い。上顎をくすぐられると、まるで頭に靄でもかかったかのように何も考えられなくなってゆく。いつの間にか背後に回っていた手が背筋を撫でる感触に、甘い疼きが沸き起こった。
「ん、はっ……」
息が苦しい。どうにかして空気を取り込もうと開いた口の端から、飲み込み切れない唾液が伝う。それを指先で拭ったオズワルドが、いったん唇を解放すると、にやりと笑って舐めとった。その姿が、壮絶に色っぽく見える。
「へたくそ。こういうときは、鼻で息をするんだ」
言うが早いか、再びオズワルドの舌がローズマリーの口の中を蹂躙する。くちゅくちゅと唾液をかき混ぜる淫靡な音が響き、中で縮こまっていた舌がつかまった。オズワルドの舌が器用にそれを引き出すと、舌同士を擦り合わせ、吸い上げてくる。
――なんか、変になりそう……
こうして、舌を擦り合わせると、どんどん気持ち良くなってしまう。こんなこと、ローズマリーは知らなかった。でも、オズワルドは手馴れていて、巧みな舌遣いでローズマリーを翻弄してゆく。それが、どこか悔しい。
「ん、ローズマリー……」
合間に囁くオズワルドの声は、今まで聞いたこともないほどに甘ったるくて優しく、そして危険な響きに満ちている。ぞくぞくと沸き上がる甘い痺れに、ローズマリーはもはや抗うこともできずに身を任せた。
ずる、と力の抜けたローズマリーの身体が長椅子の上に倒されて、オズワルドの手が胸元へ伸びたとき――
「やあ、オズワルド。ローズマリーが来ているんだって?」
扉の開く音とともに、そんな声が室内に響いた。同時に、ぴしり、とオズワルドの身体が固まる。そのまま、油のささっていないからくり人形のようにぎこちない動きで、彼は扉の方に目を向けた。
「……あ、あにうえ……」
「おやおや……これはこれは……」
「き、貴様……ローズマリーに何を……ッ」
のんびりとしたクラレンスの声に続いて、ブラッドリーの震え声がする。さすがに呑気なローズマリーでも、この状況がまずいことは理解できた。
しかも、この現場をクラレンスとブラッドリーだけではなく、部屋の外に控えていた侍女や、王太子の護衛騎士にまで見られていたことが、二人にとっては更なる不幸だったと言える。
さすがにこの状況では、どんな言い逃れも通用しない。ましてや、ローズマリーの口から「オズワルドは同性愛者だから」などと言えるわけもない。
こうして、醜聞が広まる前に、と、二人の婚約が決まったのであった。
第二話 婚約披露
「まさか、このような形で……」
自邸の書斎で、当主であるアルフォード侯爵は頭を抱えていた。その手には、一通の手紙が握られている。白地に金のつた模様が入ったそれは、王家からの正式な文書であることを示していた。
その中身にもう一度目を通して、深くため息をつく。すでに両家の間で話し合いが持たれ、同意したことではあった。しかし、正式な文書で通達されれば、新たな感慨が胸のうちに沸き起こってくる。
そうなればいい、と思ったことがなかったわけではない。だが、こんな形で、というのは予想もしていなかった。
それに、と紙面に書かれた内容を思い出して、もう一度ため息をつく。
「仕方がない、仕方がないが……」
かわいい娘の姿を思い浮かべて、アルフォード侯爵は手元の呼び鈴を鳴らす。姿を現した執事にローズマリーを呼ぶように指示すると、椅子に深く腰かけ天を仰いだ。
「お父様、お呼びと伺いましたが」
「来たか」
ローズマリーは、少しだけ申し訳なさそうな顔で父を見た。その手元にある手紙を見て、さらに身体を縮こまらせる。アルフォード侯爵はため息を呑み込んで、冷静な口調で告げた。
「オズワルド殿下と、お前の婚約の通達だ。……式は、三か月後」
「さっ……三か月ぅ⁉」
あまりにも早い。目を剥いたローズマリーに、アルフォード侯爵は淡々と告げる。
「すでに、城にはお針子が呼び集められているそうだ。近いうちに城へ行って、採寸と……それから、打ち合わせをすることになっている」
「は、はい……」
「それから、婚約披露は二週間後だ」
精一杯何気ない様子を装って、アルフォード侯爵は娘に向かって爆弾を落とした。ローズマリーの顔が、蒼白になる。
「に、二週間……」
もはや、何かありました、と言わんばかりの日程だ。きっとこれからローズマリーは友人たちに、根掘り葉掘り何があったか聞かれるだろう。
「それから、明日オズワルド殿下がこちらにいらっしゃる。準備しておくように」
父にそう言われ、ローズマリーはしおしおと頷くと、書斎をあとにした。
ローズマリーは、自分の部屋に戻ると、窓際に置いた椅子にへたり込んで外を眺めた。生憎、今日の天気は曇天で、外はうっすらと暗い。まるで今の自分の気持ちのようだ、と思う。
――残念ね、どうやら私は「そちら側」には入れないみたい。
ほう、とため息をついて、ローズマリーは目を閉じた。瞼の裏に、激情を宿した深い青の瞳が浮かんで、身体の奥に得体の知れない熱がともる。
「なんで、あんなことを……」
唇に手を当てて、あのときの感触を思い出す。彼の唇は、柔らかくて熱かった。それが、まるでローズマリーの唇を食べるかのように覆いつくして――
そこまで思い出して、ローズマリーは慌てて首を振った。
「ああまでして、隠したかったのかしら。……そうよね、だって、オルガレン団長は結婚されるのだし……もしもあんなことがバレでもしたら、きっとお困りになるのよね」
そう独り言ちて、ローズマリーは頷いた。つまりはそういうことだろう。
「オズワルドだって、本当のことを知っている私の方が、やりやすいでしょうね……」
もう一度大きくうん、と頷いて、ローズマリーは勢い良く立ち上がった。とにかく、明日の用意はせねばならない。
幼馴染とはいえ、王族が邸を訪問するとなれば、それなりの恰好で出迎えなければ。
「……少なくとも、相手はオズワルドだもの。なんでも言い合える相手に嫁げるだけ、マシだと思わなきゃだめよね」
仲睦まじい結婚生活、とはいかないだろうが、抑圧された結婚生活よりはいくらかマシだろう。たとえそれが、夫の秘めたる恋の隠れ蓑になるとしても。
問題はオズワルドだ。感情に任せた行動の末にこんなことになってしまって、彼はいったい今どんな気持ちでいるのだろう。そして自分もどんな気持ちで準備に臨めばいいのか。
オズワルドがあんなことをしでかさなければ、結婚する羽目になどならなくて済んだ。だが、非はオズワルドばかりにあるわけではない。自分だって二人きりになってしまうことになんの異も唱えなかったし、彼の隠し事を暴こうとしてしまったのだから。
そう思い直してベルを鳴らし、侍女を呼びながらも、ローズマリーはどこかもやもやした気持ちを捨てきれずにいた。
オズワルドがアルフォード邸を訪問したのは、翌日の午前中のことである。事前に連絡をもらっていたアルフォード家の面々は、玄関ホールに揃って彼を出迎えた。
だが、ローズマリーはそのオズワルドのいでたちを見て目を丸くする。
正式な場でしか着用を許されない濃紺の魔術騎士の正装に、真っ赤な薔薇の花束。きっちりと撫でつけられた髪は一筋の乱れもなく、凛々しい顔のラインがすっきりと見えている。その黒い髪を結んでいるのは、薄い青色のリボンだ。
「オ、オズ……」
――これは、まさか……?
絶句したアルフォード家の面々に向かって、オズワルドは深く一礼した。彼の名を呼ぼうとしていたローズマリーも、そのまなざしの真剣さに口を閉ざす。
「……この度は、順番が狂ってしまったことを深くお詫びいたします。改めて、皆様の前で」
そのまま、オズワルドはすっと膝を折ると、ローズマリーの前に跪いた。
「ローズマリー・アルフォード嬢。どうか、私と結婚してください」
まっすぐに向けられた視線は、痛いほどに強い。気圧されて一歩後退りそうになったローズマリーの背中を、ブラッドリーが優しく支えてくれる。
ローズマリーは、オズワルドの瞳から視線を逸らすことができなかった。まるで縫い留められたかのように、身体がそれ以上動かない。
まさか、こんな正式なプロポーズを受けるとは思ってもみなかった。もはや、二人の結婚は決定事項なのだから。しかも、あのオズワルドが、こんなに真剣な表情で、ローズマリーに跪くことなど考えてもみなかった。
「ローズマリー」
なかなか口を開かないローズマリーに焦れたのか、オズワルドがしっかりと視線を絡ませたまま名前を呼ぶ。それはどこか、懇願するような響きを持っていた。
「あ……」
なんとか言葉を返そうと思うものの、唇が震えて声が出ない。その背中を、ブラッドリーが優しく押した。
「ローズマリー、お返事を」
耳元でそう囁かれて、やっと呪縛が解ける。世界が感覚を取り戻し、差し出された薔薇の花束からは、芳醇な香りが漂っているのがわかった。
――これ、オズワルドの庭の薔薇だわ。
そっと手を伸ばして、その花弁に触れる。薔薇の花は、朝摘んだばかりなのだろう。少しだけ湿っていて、瑞々しい。
その薔薇は、オズワルドが手ずから世話をしている特別なものだと教えられたことがあった。意外なことに、オズワルドは園芸が趣味なのだ。中でも薔薇の花を育てるのはなかなか難しく、何度も失敗をしたと恥ずかしそうに話してくれたのを覚えている。
「――お受けいたします」
きっと、オズワルドは自分を大切にしてくれるだろう。仲睦まじい、とまではいかなくても、不幸な結婚生活にはならないはずだ。
秘めたる恋の隠れ蓑、良いではないか。
立派にその勤め、果たしてやろうではないか。
花束を受け取って、ローズマリーは微笑む。柔らかく花束を抱きしめるその姿を、オズワルドが眩しそうに見つめていたことには、ローズマリーは気が付かなかった。
その後、アルフォード侯爵と話をしたいというオズワルドが、父と連れ立って書斎に消えていくのを見送る。妙な緊張感から解放されて、ローズマリーは、ふうっと大きなため息を漏らした。
なんだかわからないが、とても緊張してしまった。薔薇を自分の部屋に活けてくれるよう侍女に頼むと、応接室で温かいお茶を淹れてもらう。
添えられたクッキーを一つ摘んで、ローズマリーはふと先日のことを思い出した。オズワルドの部屋で出されたのも、これと同じクッキーだ。
実を言えば、ローズマリーはクッキーに目がない。特にこの店のものが好きで、常にアルフォード邸には常備されている。それとまったく同じものが、オズワルドの部屋でも準備されていたのだ。
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