陰陽師の溺愛花嫁

綾瀬ありる

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第六話 暗雲

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 明隆あきたかは、自分の寝室で一人うなりながら天井を見上げていた。夜更けの室内は暗く、本来であれば何も目に映るはずもない。
 だが、至極残念――もちろん、明隆にとって――なことに、彼の瞳には、人ならざるものの姿が映っている。何も言わず、ただしくしくと泣く女性の後ろ姿が。
 言わずもがな、くだんの怨霊である。
 ――いや、これは実際に明隆の目に映っているわけではない。夢の中の出来事である。
 だが、室内の調度も様子も、慣れ親しんだ自分の室だ。

(くそ……!)

 最近、怨霊の活動が活発になってきていた。その理由に、明隆は心当たりがある。
 沙映さえの存在だ。
 ただ婚姻しただけならば、きっとこうはならなかっただろう。すべては自分の甘い見通しのせいだ。
 ぎり、と歯ぎしりをして、明隆は必死に怨霊の姿を見ようと目をこらした。長い黒髪に唐衣からころも。だが、明隆がわかるのはそれだけで、実際にどのような目鼻立ちをしているのか、表情はどんなものなのかまでを見たことはない。
 だが、代わりに声がする。しくしくと泣く声が。恨みのこもった呪詛の声が。
 近くに控えているはずのいちの名を呼ぼうとするが、口がうまく動かない。動いたとしても夢の中、効果がないことは過去にも経験済みだが、今回こそはと期待してしまう。
 沙映は大丈夫だろうか。もちろん、女房たちの中に式神を紛れ込ませてあるから――。
 う、と一瞬息が詰まる。間違いなく、沙映のことを考えていたせいだろう。
 そう。
 沙映だ。
 脳裏には、甘い菓子を抱えて微笑む彼女の姿を容易に描き出すことができた。思い出すと、胸がほっこりと温かくなって、幸せな気持ちになる。
 そう、認めよう。
 自分が、沙映に惹かれていることを。
 結婚をするときは、こんなことになるとは思っていなかった。だが、甘味を持ち帰ればうれしそうに笑い、身を飾らせればはにかんでみせる沙映のいじらしさに、すっかり心を射貫かれてしまったのだ。

(う、うぅ……っ)

 はっきりと胸の内でそう思った瞬間、締め付けはさらに強くなる。じんわりと脂汗が額に浮いて、明隆は耐えるようにぎゅっと目を閉じた。
 夜明け前まで我慢すれば、この怨霊はどうせ姿を消してしまう。また夜が更けるまで現れることはない。だから、それまで我慢すればいい。

『おのれ、いまいましや……どうして……どうして……』

 どうして、と問いかける相手はもはや明隆ではあるまい。自分の祖父ながら、罪作りな男であることよ。

「ふ、う……」

 とりあえず、朝まで耐えればいい。怨霊の囁きは呪いだが、呪いの成就には条件がある。それさえ守っていれば、大丈夫なのだ。――そのはずだ。
 しかし、こうして怨霊が日を置かず明隆を苦しめるので、彼は日に日に目に見えてやつれ始めていた。


 そんなある日のこと。
 雪が降ったと女房たちが騒ぐので、沙映は珍しく簀子縁すのこべりまで降りて庭の様子を眺めていた。ちらちらと降る雪は儚い風情で目を楽しませてくれる。
 舞い散る雪に手を伸ばすと、手のひらの上であっという間に溶けてしまった。
「冷たい」
「沙映姫さま、ささ……そろそろ中へ。ここは冷えますから」
 あいに促されて「ええ」と答えた沙映は、最後にもう一度、と灰色をした空を見上げる。まるで、今の自分の心持ちのようだと感じてしまって、沙映は小さく息を吐いた。

(最近、明隆さま、おいでにならないわ……)

 手すさびにと縫い上げた直衣のうしを差し上げたいし、出来れば羽織っていただいてお姿を見てみたい。
 はあ、と檜扇ひおうぎの陰でため息をつくと、目ざとくそれを見た藍がくすりと笑った。

「沙映姫さま、夫君のいらっしゃらないのが寂しくていらっしゃるのでしょう」
「……わかってしまう?」

 沙映がはにかむと、うんうんとほかの女房たちも頷く。

「まったく、うちの殿様はなにをしているんでしょうねぇ」
「本当に、こんなかわいらしい姫君が待っておいでだというのに」

 口々にそう言い合っているところに、庭の方から水干姿の少年がひょこりと顔を出した。

「まあ、壱」

 藍がそう言って、簀子縁まで降りて話しかける。壱は、明隆が近くにおいて使っている少年だ。利発で身軽そうな少年で、くりっとした瞳が印象的である。

「明隆さまから伝言を預かってきた。今日は帰りが遅いので、先に休んでいてだってさ」
「そう」

 その言葉は、内にいた沙映の耳にもしっかりと届いた。残念な気持ちを押し殺し、そう、とか細い声で呟く。

(今日も、お姿も見ることができないのね……)

 共寝はせずとも、明隆は日に一度は顔を見せてくれていたのに、ここのところそれさえもない。
 沈み込む沙映の姿に、壱と藍は顔を見合わせ小さくため息をこぼした。

 その日の夜。
 皆が寝静まった頃、とうとう眠れなかった沙映は単衣ひとえの衣を被り、渡殿わたどのを歩いていた。昼に降っていた雪がうっすらと積もっているのに、夜になってからすっかり晴れて丸くて大きな月がぽっかりと浮かんでいる。

(明隆さま、もう私のところには来てくださらないのかしら)

 空にかかる月を見ながら思うのは、明隆のこと。手を伸ばしても届かないそれは、まるで今の自分と彼の距離のようだ。
 見えるのに、届かない。届きそうなのに、絶対に。

(もう、充分に付き合ったと――そういうことなのかも……)

 婚姻して約半年、まめまめしく世話してくれた明隆のことを思い返して、沙映はまたふらふらと歩き出した。
 ぼんやりと、あてどもなく足を進める。

(そうよね……帝から直々のお声掛かりということで結婚したけど……もしかしたら……)

 以前にも考えたことがある。明隆には、もしかしたら身分違いの恋人がいるのかも知れない。その方との間に子が出来れば、沙映のいる意味などなくなるのだ。

(嫌……)

 きつく唇をかみしめたとき、どこからか男の声と、か細い女の声が聞こえた――ような、気がした。

「え……?」

 今の男の声を、沙映が聞き違えるはずもない。間違いなく、これは明隆の声だ。
 はっと振り仰げば、いつの間にか寝殿しんでんまでやってきてしまっていたらしい。ということは、この奥には明隆の御帳台みちょうだいがあるはずだ。そこから、女の声もするということは。

(う、うそ……)

 再び、女の声と明隆が何か答える声がする。だが、それ以上そこにいることもできず、沙映は身を翻して元来た方角へできる限り早足で立ち去った。
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