老兄、林太郎の恋

人紀

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その8

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 あのような場所に行くのはお互いに最初で、わたくしにとっては、最後のことでございました。
 多くの若者がごった返す中、拡声器が陽気な歌声を広げる踊り場に、既に卒業した女学校の同窓生らと先生とで、なぜだか入ることになってしまったのでございます。
 そして、友人らのいたずらによって、わたくしと先生は踊り場の中央に押しやられてしまったのでございます。

 わたくし達は大いに焦りました。

 このようなところとは全く無縁の生活をしてきた二人でございます。
 それでも、素朴でおしゃれっ気のない先生が、わたくしのために必死に踊ってくださいました。
 何とか形にしようと、がちがちに固まった体で必死になってくだったのでございますよ。
 それが本当に嬉しかったのでございます。
 格好のよい絵ではございませんでした。
 周りにいる人たちからも、くすくす笑われた有様でした。
 それでも、むしろその不格好さが、愛しく思えたのでございます。

 その時、兄と真美先生ほどではないですが、十ほど年離れたその方に恋をしてしまいました。

 あれも、今の兄と同じでございました。
 わたくしが勝手に抱いていただけの、ちっぽけな恋でございました。
 そして、許されない恋でもございました。
 家のことを考えると、家柄のことを考えると、わたくしは諦めざる得なかったのでございます。
 兄は「本当に良いのか? 桜子はそれで本当によいのか?」と何度も訊ねてきました。

 その時のわたくしは、ただただ、頷くだけでした。

 あの時、兄の何分の一かでも無茶をする勇気があったのならば、あの恋はどういう結末を迎えたのでしょうか?
 今は亡き夫に悪いと思いつつも、わたくしはそう思わずにはいられませんでした。
 少なくとも兄ならば、あのような選択はしなかったことでしょう。
 そうでなくても、あの時、わたくしが兄に秘めていた恋心を明かしたとしたらと、考えてしまいました。

 詮無きことと思いつつもです。

 レッスンが終わり、質問をする生徒のみなさんに交じり、兄は必死で真美先生に話しかけておりました。
 恐らくは元気なおじいちゃんとしか思われていない我が兄ではあります。

 ただ、それも愛おしく感じました。
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