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第二章

第一王子の訪問(ミュラー伯爵令嬢問題)

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 エリージェ・ソードルの膝の上に顎を置いていた愛猫エンカが、静かに立ち上がった。
 そして、第一王子ルードリッヒ・ハイセルの元までのそのそと行くと、長椅子に座る彼の王子の、その横に上半身をのせ、王子をじっと見上げた。
 猫と称しているが第一王子ルードリッヒ・ハイセルよりも遙かに巨躯な魔獣である。
 それは端から見れば、獲物と見なし、飛びかからんとしてる様にも見えなくない。
 実際、そばに控える王子付きの騎士が顔を強ばらせた。

 だが、第一王子ルードリッヒ・ハイセルは破顔する。

 そして、愛猫エンカの頭を撫でながら、
「なんだ、エンカ。
 慰めてくれるのかい?」
などといっている。
 大きくなったと顔をヒキツらせていたものの、小さな頃から見ていたのだ。
 第一王子ルードリッヒ・ハイセルにとっても可愛いエンカなのだ。
 愛猫エンカは「がうぅぅ」と気持ちよさそうに撫でられながら、第一王子ルードリッヒ・ハイセルの太股に頬ずりをした。
 そんな様子に、第一王子ルードリッヒ・ハイセルはさらに笑みを深くしながら、「エンカの毛はさわり心地が良いなぁ」なんて言っている。
 エリージェ・ソードルは「令嬢が殿方にそんな風に……」などと言っているが、穏やかな顔でその様子を眺めた。

 そこで、ふと思い出したように第一王子ルードリッヒ・ハイセルが顔を上げた。

「そういえばエリー、ミュラー伯爵令嬢と面識があるかい?」
 エリージェ・ソードルは顔をしかめる。
「ミュラー伯爵令嬢、ですか?
 あのうるさい女がどうかされましたか?」
「あ、いや」と第一王子ルードリッヒ・ハイセルが少し困った顔をする。
「エリーが言っているのは、多分長女のウルズラ嬢の事だろう。
 そうじゃなく、次女のハンナ嬢のことなんだけど」
「ああ、そちらですか?
 一応あります。
 とはいえ挨拶程度で、ろくに話したことはありませんが……。
 いかがしましたか?」
「うん」と第一王子ルードリッヒ・ハイセルが少し深刻そうな顔をしながら言う。
「ミュラー伯爵が言うには、どうやらハンナ嬢はどこかの令嬢に虐められているらしいんだ」
 第一王子ルードリッヒ・ハイセルのげんに、この女をして驚きに目を見開く。
「虐め!?
 ミュラー伯爵令嬢を?
 いったい誰が!」
 第一王子ルードリッヒ・ハイセルは首を横に振る。
「誰がやっているのか分からないらしい。
 ハンナ嬢は頑なに否定しているらしいから。
 でも、ミュラー伯爵は間違いないと断言していた」
 それに対して、エリージェ・ソードルは胡乱げな顔になる。
「殿下、それはミュラー伯爵の勘違いじゃないですか?
 あそこの一族は身内の件になると、盲目になる所がありますから」

 この女がそのようなことを言うのには、訳があった。

――

 ”前回”の事だ。

 エリージェ・ソードルはオールマ学院の二学年生になっていた。
 その年の新入生には弟マヌエル・ソードルや発明令嬢イルゼ・アロフス、聖女クリスティーナ・ルルシエなど目立つ生徒達に隠れがちであったが、他にも注目すべき生徒がいた。

 その中の一人が、ハンナ・ミュラー伯爵令嬢である。

 ミュラー伯爵家は北方の海に接する領を持つ五大伯爵貴族の”筆頭”で、北の海については必ず話を通さなくてはならない一族であった。
 この大貴族の中の大貴族であるエリージェ・ソードルといえども、”それなりに”気を使わなくてはならなかった。
 そんな、家の令嬢が入学してくる。
 その時期は、たまたま公爵領が落ち着いている時期だったこともあり、この女にしては珍しく、学園内で茶話会を開き、ハンナ・ミュラー伯爵令嬢をもてなそうと思いついた。

 茶話会はかなり大がかりなものになった。

 カルリーヌ・トレー伯爵令嬢とその取り巻きはもちろん、ソードル公爵家、トレー伯爵家、ミュラー伯爵家との関係を作りたいと望む令嬢達が、学年を問わず集まった。
 学院内の人員だけでは足りず、公爵家の使用人が給仕を行うこととなった。

 当日は雲のひとかけらも見あたらない、茶話会日和であった。

 晴天の学院庭園は、華やかな令嬢達の笑い声で満ちた。
 そのもっとも上座席を、ハンナ・ミュラー伯爵令嬢に用意した。
 その両脇にエリージェ・ソードルとカルリーヌ・トレー伯爵令嬢が座っていた。
 席にはお茶だけではなく、カルリーヌ・トレー伯爵令嬢が用意した外国の珍しいお菓子が並び、選ばれた高位貴族の令嬢達がそれを摘みながら、話に花を咲かせていた。
 だが、肝心のハンナ・ミュラー伯爵令嬢は緊張しているのか、強ばった顔のまま、なかなか話に入ってこない。
 時折、カルリーヌ・トレー伯爵令嬢から海の話などを振られていても「はい」「いいえ」「そうですね」程度をボソボソと呟くだけだった。

 元来、こういう煮え切らない態度の令嬢のことをエリージェ・ソードルは嫌う。

 嫌うと言うよりも、相手をするのが面倒くさくなるというのが正しいか。
 特に何の感慨もなく、無視をしたことだろう。

 だが、この時、珍しいことにこの女、気にした。

 その茶話会がハンナ・ミュラー伯爵令嬢の為に開いたものということもあるし、ミュラー伯爵家にはこの女をして、そうするだけの家格と”利益もの”があった。
 故に、この女、令嬢相手には非常に珍しいことに、自身から話を振った。
「ミュラー伯爵令嬢、あなたって、何か趣味とかはあるのかしら?」
 エリージェ・ソードルの中では――そして、恐らく世間一般でいえば、ごく当たり障りの無い質問だっただろう。
 周りにいる令嬢達もニコニコしつつ、読書や編み物等の良くある答えに対して、どう盛り上げるべきかと考えていた。

 ところがである。

 ハンナ・ミュラー伯爵令嬢、「ヒィ!」と体を振るわせた。
 そして、何故か崩れるように椅子から落ちていったのである。

 突然、理由も分からず失神した令嬢を目の前に、エリージェ・ソードルもカルリーヌ・トレー伯爵令嬢も、その席にいる令嬢達も「え?」「え、え?」と漏らしながら呆然とそれを見つめるしかなかった。

 話はそれだけにとどまらなかった。

 ミュラー伯爵家の一族にまとわりつかれる様になったのだ。

 ミュラー伯爵、前ミュラー伯爵、前ミュラー伯爵夫人、ミュラー伯爵夫人、ミュラー伯爵の叔父、ミュラー伯爵の叔母、ミュラー伯爵の弟、ミュラー伯爵の妹、ミュラー伯爵令嬢の兄姉四人などなどだ。

 共通して言えるのは、人の話を一切聞かないという所だ。

 公爵邸に押し掛けては、あの子に何をした? 何故苛めた? あの子が何をしたというのだ? そんなことをして恥ずかしくないのか?
 ということから、ハンナ・ミュラー伯爵令嬢がいかに可愛いのかを長々と話し続けた。

 エリージェ・ソードルが茶話会を開いて趣味の話を聞いただけと、何度言ってもまるで耳に入っていないのか、ギャアギャアとわめき散らした。

 初めの内は、名門ミュラー伯爵家ということで、いちいち相手にしていたのだが、らちがあかず、もう来るなと突っぱねるようになったのだが……。
 外出時に待ち伏せや、貴族院で取り囲み等をし始めた。

 特に酷いのはウルズラ・ミュラー伯爵令嬢で、毎日のように公爵家やオールマ学院に乗り込んできて、がなり続けた。
 長身のエリージェ・ソードルをさらに上回る大柄な女性で、頭越しに怒鳴られて、耳鳴りがするほどであった。

 最終的には、我慢できなくなったエリージェ・ソードルが、ミュラー伯爵邸に乗り込み、一族をボコボコあれこれした上で、大貴族として屈辱的な事であったが、”真偽の魔術石”による正否の証明を行った。
 その動かぬ証拠の為か、『今度絡んできたら、一族全員北オールマ海の海底まで沈めてやる』という令嬢にあるまじき”狂ったアレな”発言の為か、顔を腫らした一族一同、涙目でコクコクと頷いていた。

――

「ミュラー伯爵家は併呑時のいきさつから伯爵となっていますが、その家格も領の規模も辺境伯であってもおかしくない家――そんなこと、国内の貴族であれば幼子でも知ってる事だと思いますが……」
「まあ、僕もそう思うんだけどね。
 ミュラー伯爵は絶対そうだと言い張っててね」
「はあ?
 本当にいるのであれば、なんと言いますか、命知らずな愚か者という事になりますが……」
 大貴族筆頭のソードル公爵家、さらに言えば、その膨大な魔力量と恐るべき”黒い霧”でその名を轟かせていた時期のエリージェ・ソードルですら、一時ながらも頭を悩ませた一族である。
 普通の令嬢であれば、どんな目に遭わされるか分かったものでは無かった。
「少なくとも、オールマ王国の貴族の中には、居ないと思いますわ」
「ま、そうだよね」
「がぅ!」
 余りにも良い頃合いに愛猫エンカが吠えたものだから、エリージェ・ソードルも第一王子ルードリッヒ・ハイセルも目を丸くして顔を見合わせた。

 そして、二人して吹き出し、和やかに笑った。
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